【中外時評】 1986年の革命と刷新――そして変わった南シナ海

『“Lサイン” 歓喜の無血入城』――。現地のムードを、本紙はこんな見出しで伝えた。1986年2月25日。フィリピンで長く独裁体制を敷いていたマルコス大統領が、民主化運動に依って国外脱出へ追い込まれた時のことだ。“闘い”を意味するタガログ語“ラバン”の頭文字を親指と人差し指で示したのがLサインだ。輝くような表情の市民たちがLサインを掲げてマラカニアン宮殿(大統領官邸)に押し寄せた光景は、30年後の今も記憶に残る。“ピープルパワー革命”と呼ばれるこの政変は、フィリピンの外にも波紋を広げた。権威主義的な体制の国・地域が多い東アジアに、漸く民主主義の時代が来たのでは――。そんな思いを抱いた人は少なくなかった。

実際、その熱気が各地に飛び火した印象は強い。1988年、韓国が軍政から民政へ移行した。ビルマ(現在のミャンマー)では、四半世紀に及んでいたネウィン政権が退陣に追い込まれた。翌年、中国で民主化運動が高まり、国民党が統治していた台湾では野党の民主進歩党が合法政党として正式に認められた。1990年には、60年に及ぶモンゴルの一党独裁体制が幕を閉じた。周知の通り、ミャンマーや中国では民主化運動が曲折や挫折を余儀なくされた。北朝鮮のように、民主化の機運さえ窺えなかった国もある。それでも、東アジアの政治の潮流が1986年に大きく転換したのは否めない。この年にはもう1つ、東アジアの針路に深い影響を齎すことになる出来事が起きた。ベトナムが“ドイモイ(刷新)”と呼ばれる政策を打ち出したのである。最大の柱は、計画経済から市場原理を生かした経済運営への大転換だった。ソビエト連邦に傾いていた外交・安全保障政策の調整も、ここから本格化していった。共産党の一党独裁体制が揺らいだ訳ではない。寧ろ、共産党政権が生き延びようとした取り組みだった。けれど、1991年のカンボジアの内戦の終結や、1995年のベトナムの『東南アジア諸国連合(ASEAN)』への加盟は、ドイモイを抜きにしては考えられない。10ヵ国からなる今のASEANは、ドイモイの延長線上に生まれたとも言える。




フィリピンとベトナムに挟まれた南シナ海は、冷戦の最前線だった。フィリピンにはアジア最大のアメリカ軍基地があり、ベトナムのカムラン湾にはソ連軍が駐留していた。両国で同じ年に大きな変化があったのは歴史の偶然ではあるが、共通する背景があったのは間違いない。冷戦が終わろうとしていたことだ。とりわけ、ソ連の力が衰えたことが決定的だった。フィリピンの国民から見れば、マルコス体制を倒しても共産化する恐れは薄らいでいた。反共の指導者としてマルコス大統領を支えていたアメリカにとって、その必要性は小さくなっていた。ベトナムは経済の面でも安全保障の面でも、ソ連に頼らないで生き残っていく道を探らざるを得なくなっていた。そして、東南アジアは経済発展に向けて疾走していった。その頃のムードを鮮やかに伝えるのは、タイのチャチャイ首相(当時)が唱えたスローガンだろう。「インドシナを戦場から市場に」――。地域を長らく揺さぶってきた紛争や対立をもう止めて、豊かさの追求を最優先しようという訳だ。その先駆けとなったのが南シナ海だったと言えようか。その後、タイを震源地として通貨危機が起きる等、東南アジアの歩みには随分と起伏があった。とは言え、深刻な紛争が起きることは無く、“世界の成長センター”の一角を占めると言えるほどに力強い発展を遂げた。1986年の革命と刷新は、東南アジアの安定と繁栄の礎となったと評価できるだろう。

あれから30年。新たな針路の模索を迫る課題が今、くっきりと姿を現わしている。東南アジア諸国を上回る勢いで成長し、飛躍的に国力を高めた中国と、どう向き合うかだ。皮肉なことにそれは、1986年の革命と刷新の意図せざる結果という面がある。ピープルパワー革命はナショナリズムの高まりでもあった。その勢いに押されて、フィリピンのアメリカ軍基地は1991年に閉鎖に追い込まれた。同じ年、ソ連という国は地上から姿を消した。結果として、南シナ海では“力の真空”が生まれ、その隙を突いて進出したのが中国だった。南シナ海は何れ中国の内海になる――。こんな警告が現実味を持って語られるのが現状だ。東アジアの針路が、南シナ海で30年ぶりに問われているように見える。 (論説副委員長 飯野克彦)


≡日本経済新聞 2016年2月28日付掲載≡


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テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

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