【昭和史大論争】(06) 日米関係を悪化させたグローバリゼーション

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1941年12月、日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地を攻撃した。真珠湾攻撃である。この日本のアメリカ領土への攻撃が、“大同盟”成立の最後の決め手となった。“大同盟”とは、第2次世界大戦におけるイギリス・ソビエト連邦・アメリカに依る“反ドイツ大連合”である。1939年に第2次世界大戦が勃発した際、ソ連はドイツと不可侵条約を締結していた。1941年6月にドイツがソ連を攻撃するに至って漸く、イギリスとソ連の間に軍事同盟が成立。真珠湾攻撃が、この間、イギリスへの支援を強化しつつ参戦はしていなかったアメリカを第2次世界大戦に引き入れる結果となり、連合国軍の中心的陣容が定まったのである。しかし、真珠湾攻撃はアメリカのみならず、アメリカの参戦を切望していたイギリスやオーストラリアにとっても想定外の事態であった。この時、日本海軍は同時にマレー半島のイギリス軍を攻撃したが、イギリスやオーストラリアが当時、最も可能性が高いと考えていたのはイギリス軍のみが攻撃を受けることであった。日本のアメリカ領土への攻撃が粗あらゆる勢力にとって想定外であったのは勿論、日米関係が良好であった為ではない。確かに、日米関係は緊張していた。そして、その最も直接的な原因は中国を巡る対立であった。日本は満洲を中心とする日本に有利な地域・勢力圏を残そうと努めていた。即ち、満蒙特殊権益の維持には積極的に取り組んだ。それに対し、アメリカの中国政策は特定の国に依る優越的な地位を否定した“門戸開放”を掲げ、中国を自由貿易秩序に組み込み、アメリカの輸出拡大を図ることを標榜していた。とは言え、第1次世界大戦後のアジアにおいては、アメリカの主導で“ワシントン体制”が形成され、日本政府もこれを受け入れていた。アメリカの共和党政権に依るワシントン体制は、中国の門戸開放を掲げつつも漸進的な政策を取り、条約の裏付けがある特殊権益の即時放棄を迫ることはなかった。また日本も、第1次世界大戦後は国際連盟規約や不戦条約のような新しい国際的な規範が台頭し、軍事力を行使して新たな領土・権益を獲得することは考え難くなったことを理解しており、できる限りこの新しい規範に抵触しない範囲で、満蒙権益の維持・発展に努めたのである。しかし、新しい国際的な規範の台頭を認識しつつも、日本は中国への強い関心を持ち続けた。何故、日本は満洲を含む中国にそれほど拘ったのだろうか?

日本が注目したのは資源であった。第1次世界大戦後、工業化は国家にとって、通商上の観点からも安全保障上の観点からもより重要な意味を持つようになり、その為に資源を確保することが必要であったのである。そして、それは“総力戦”の問題と深く関わっていた。第1次世界大戦は、嘗てない大規模の犠牲をヨーロッパ諸国に強いることになった。総力戦として戦われたからである。戦争がナショナリズム及び大衆化と密接に結び付いたことに依る戦争形態の変化であった。このような犠牲の大きさは、ヨーロッパを中心に国際的な平和主義運動を呼び起こした。戦場となったヨーロッパにおいて第1次世界大戦の衝撃は深く、「このような戦争が再び引き起こされれば、人類全体が滅亡するのではないか」という危機感が抱かれた。ナショナリズムが引き起こした戦争は、多くの人々に“人類”という国家・民族を越えた普遍的枠組みを想起させるほどに、衝撃的な経験となったのである。これが、新しい国際的な規範の台頭の背景であった。一方、総力戦時代の到来が安全保障の在り方を大きく変えたということも注目すべき問題であった。実は、このことに日本はかなり敏感に反応したのである。総力戦は、兵器の発達に依る被害の増大のみならず、経済・工業動員の比重増大や、思想・精神の動員の必要性を特徴とした。思想・精神の動員を効率的に行うには、近代国家としての機能が重要な意味を持つ。また、農業生産のサイクルを無視した長期戦を可能とする為に、工業化に依る富の蓄積と、食糧を含む資源確保を同時に行う必要があった。近代国民国家という国の在り方と資本主義経済体制は、ヨーロッパ諸国の世界進出に伴って世界大に広がった。即ち、現代に繋がるグローバル化である。第1次世界大戦は、世界大に広がった戦争という事実を通して、多くの人が初めてグローバル化を意識し、その問題点を認識する契機となった。それには、2つの方向性があった。1つは、既に触れたように、総力戦を通じて“人類”としての一体感を獲得する視点である。そしてもう1つは、総力戦の勝者となる為の国力が如何にして蓄積されたのかという視点である。その1つの形態は、イギリスのような海軍力を背景とした世界大の帝国ネットワーク形成であった。日本軍部にとって、総力戦体制構築は喫緊の課題と感じられたが、それは殆ど不可能なまでに困難な課題であった。資源に乏しい後発帝国主義国である日本が、イギリスのような世界大の帝国ネットワークを形成する前に国際的規範が変わり、最早領土を拡大することは不可能となったからである。一方で中国には、アメリカのような大陸国家としての発展の可能性が残されているように見えた。苦渋の末に得た結論は、日米不戦の決意を以て総力戦体制構築を断念することであった。その具体的な形がワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約である。これこそが、最も合理的な選択であった。




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この合理的な選択に不満を募らせ、総力戦体制構築を目指した一部の軍人が引き起こしたのが、1931年の満洲事変であった。満洲事変は、第1次世界大戦後の新しい国際的規範への明らかな挑戦であったが、短期的にはアメリカ及びイギリスとの正面戦争を回避するよう計算されていた。満洲の資源を元手に日本が総力戦体制構築を行うには、それなりの月日が必要とされたからである。満洲事変の首謀者は、「新しい国際的規範を守る為に、欧米諸国が中国の地で自らの血を流すことはない」と予想していた。問題を複雑にしたのは、この予想がある程度正しかったことである。イギリスはアメリカと並んで世界最大の海軍力を持つ世界帝国ではあったが、自らの力の限界を認識しつつあった。日本の軍事侵略に抗して、イギリス帝国としては周辺的な利益である中国権益を、単独で防衛する決断はし難かった。一方、アメリカには、中国における日本の新しい国際的規範への挑戦を封じ込める為に、自らの軍事力を用いる意思は無かった。その結果、国際連盟も有効に機能せず、満洲事変前の現状に復帰させるた為に、制裁が発動されることも無かった。満洲事変が新しい国際的規範に与えた破壊的な影響にも拘らず、この段階で日本の対英米関係が絶望的となった訳ではない。英米両国には、満洲事変後の状況を当面、黙認する用意があったからである。この黙認は、彼らの中国認識から生じていた。当時の英米は、「中国に日本の軍事侵攻に独力で対抗できる実力は無い」と見做していたし、「中国が、当面の間は軍事的な抵抗をしないことが合理的な選択だ」とさえ考えられていた。「中国が日本に抵抗する実力を手に入れるまで、日本の侵略の結果を黙認する」という英米の選択と、国際社会との関係を断ち切らずに満洲開発に依り総力戦体制を構築するという日本軍部の都合が上手く整合し、相対的な安定が続くという可能性は残っていた。

ところが、この可能性を消滅させたのが、1935年頃から現地陸軍に依って行われた華北分離工作(中国北部の5省を中国国民政府から分離しようとする活動)だった。満洲事変同様、華北分離工作においても、軍部でさえ必ずしも一枚岩でその作戦を支持していた訳ではないにも拘らず、現地軍独走の追認が繰り返された。その根底には、中国の資源を日本が必要としており、しかも友好的には入手し続けることができないという認識があった。先にも述べたように、第1次世界大戦までに進行したグローバル化は総力戦という戦争形態を齎し、これに適応する為に日本は安定的な資源供給を必要とした。しかし、グローバル化の中で世界に普及した国民国家を理想形態とする考え方は、中国においてもナショナリズムの台頭を促し、抗日運動の激化を招いた。それに依って、資源に対する日本のアクセスも不安定化が懸念されていた。とは言え、実際にアクセスが不安定化した訳ではない。平時においては、貿易バランスの為に諸国が輸入制限をすることはあっても、資源を売らない訳ではない。中国においても、「日本製品を買わない」という不買運動はあっても、「日本に資源を売らない」という不売運動があった訳ではない。抑々、日本に資源供給をしているのは中国だけではなかった。しかし、一度戦争となれば、安定的に入手できる保障は無かった。入手できたとしても、日本の海軍力は世界第3位とは言え、遠方からの輸送を確実に守ることができるかどうか不安なものであった。そのように考えると、隣接する中国の資源が餓然、重要な意味を持ってくるのであった。グローバル化への適応という呪縛が、日本を日中戦争の泥沼へ導いたのである。

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第1次世界大戦後のアメリカ社会では、平和運動が大きな力を持った。アメリカは国土が戦場となった訳ではなかったが、世界戦争からの衝撃は深く、「二度と戦争に巻き込まれたくない」という強い願望が社会に充満した。恰も、第2次世界大戦後の日本社会のようであった。けれども、アメリカ社会はウィルソン大統領(右写真)の示した平和への処方箋を必ずしも支持しなかった。アメリカ議会は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約を否決し、国際連盟への加入を拒否したのである。連盟の不人気には、“集団安全保障”という新しい概念に依って被る主権の制限への懸念等、立場に依って幾つかの要因があったが、今日から見ると意外なことに、その1つは連盟の持つ“力による平和”という側面が受け入れられなかったことにあった。国際連盟の主要な目的は戦争の抑止であり、その為に侵略国に対する経済制裁を行うことが想定されていた。しかしアメリカでは、主権を持つ各州が「連邦最高裁判所を頂点とする司法の媒介に依って平和裏に共生している」という自己認識に基づき、これに反対する平和運動が一定の力を持ったのである。アメリカ社会において、グローバル化が齎した総力戦時代の最大の問題点は、戦争が人類存亡の危機を齎すものとなった点であった。アメリカの立場に立って見れば、日本こそが当時のグローバル化状況における脅威であった。第1次世界大戦期の『対華21か条要求』に代表される好戦的な姿勢、パリ講和会議で見せた山東問題への固執は、人類の危機を正しく認識しているとは考え難いものであった。尤も、イギリスやフランスがパリ講和会議で見せた帝国主義的外交手腕も、アメリカを失望させるのには十分であったが、少なくとも彼らは、今や戦争が人類存亡の危機を学んでいるという認識は共有しているように見えた。その一方、世界に冠たる工業国であり、資源豊かなアメリカにとって、総力戦体制構築上の問題は少なかった為に、グローバル化への対応に苦しむ日本への理解を欠く一面もあった。例えば、アメリカは戦前の日本が自動車産業等に保護政策を採っていることにも否定的だったが、アメリカ自身が嘗ては自国の産業育成の為に保護主義を採っていたことを考えると、歴史的背景への配慮が欠落しているとも言える。このような態度は、アメリカの対外姿勢に屡々表れるものだった。ウィルソン退陣後、共和党政権に取って代わられたアメリカは、前述のように漸進的なアプローチを取り、日本政府もこれを受け入れ、日米対立が表面化することはなかった。しかし、グローバル化が齎した焦眉の問題への理解の違いは、満洲事変以降、中国を巡る対立に起因する日米関係悪化の触媒として機能することになる。

第1次世界大戦以降、アメリカを中心とする国際社会は“普遍的”原則の確立を掲げ、国家主権を絶対視したこれまでの国際法の原則を変革し、戦争を違法化しようとした。「“戦争を始める”という主権の行使には、“普遍的”な観点から、一定の制限を設けざるを得ない」と多くの人が考えたからである。しかし、日本の立場から見た時、“普遍的”原則が“普遍的”に適用されない事例が頻発しているように見えた。連盟規約自体が、アメリカにはモンロー・ドクトリンに依る例外を認める一方で、日本が提案した人種平等原則を採用せず、1924年にはアメリカ連邦議会で日本からの移民を禁止する『排日移民法』が成立した。このような原則からの多少の逸脱は、過渡期において止むを得ない側面を持つ。日本自身もそれ故に、アメリカから満蒙特殊権益の即時放棄を求められないという“お目零し”を得たが、グローバル化への適応にアメリカより格段に困難が多かった分、それは時に極めて理不尽なものと感じられたのである。日米対立の直接的な原因が中国問題であったにも拘らず、アメリカの対日姿勢は日本の侵略の深化に比例して硬化していった訳ではない。中国の領土保全よりアメリカ人の生命を尊重するのは、ある意味では当然のことであり、日本との戦争を回避することはアメリカにとって最大の課題であった。また、前にも触れたように、アメリカの中国に対する評価は、1930年代半ばまで大変低かった。しかし、アメリカの対中認識は1930年代半ばに大きく変わる。そのきっかけは、華北分離工作における中国の予想外の奮闘であった。更に、日中戦争勃発後、南京陥落にも拘らず屈服する様子を見せない中国を目にして、明確にその認識を改めるようになった。アメリカは、日本を刺激するほどの中国支援は慎重に避けており、日中戦争の初期を実質的に支えていたのはソ連であった。アメリカは、自らが大して支援していない中国を降伏させられない日本の姿を目にし、これまで日本を過大評価していたことに気付いたのである。

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中国が自ら戦う力を持ち、ソ連が主たる支援国として矢面に立っている状況において、日本がアメリカに向かってくることはないと考えられた。自らが巻き込まれることがなければ、中国が日本の侵略に抵抗することは、アメリカにとって望ましいことであった。これを側面から支援する為、それ以降、アメリカの対日姿勢は次第に硬化していったのである。それに対して、日本側は総じて対米関係を楽観視する嫌いがあった。満洲事変の首謀者が「アメリカの軍事介入は回避できる」と予測していたように、日中戦争に至っても、日本側は自らの中国政策に「最終的にはアメリカの理解が得られる」と考え、「アメリカの仲介を自らに有利な停戦への圧力とする」という発想を持ち続けていた。これは、日本側が“黙認”と“承認”の距離を過小評価していたことに依る。確かに、日本政府が現地陸軍の華北分離工作を封じ込めることができれば、“黙認”が“承認”に転化する可能性はゼロではなかった。しかし、それに失敗したばかりでなく、日中戦争期にアメリカの中国評価の変化を認識することができなかったことは、日中戦争の泥沼化を促進した。軍事的に勝ち切れない戦争をアメリカの圧力を借りて終わらせるというかなり身勝手な発想は、どこから生じたのであろうか? その一因は、「市場としての日本は、中国よりも重要であるに違いない」という思い込みであった。アメリカ政府が対日経済制裁発動に逡巡したことは、この思い込みに拍車をかけた。日本側は、1930年代末に至っても「アメリカが経済制裁を発動することはない」と楽観していたのである。この楽観が崩れた時、日本は一挙に絶望に向かった。1941年7月、アメリカは在米日本資産凍結を決定した。グローバル化への適応の呪縛から日中戦争の泥沼に嵌まり込んだ日本は、国際通商を失うことで「グローバル化への適応の望みを絶たれた」と感じ、激しく動揺した。

一方のアメリカ側は、「最早、態度を明確にしても、日本の矛先がアメリカに向かうことはない」と考えた。「日本は既に疲弊しており、日中戦争を終わらせる観点からすればソ連を、中国・東南アジアの資源を獲得するという観点からはイギリスを攻撃する筈で、更に自らを攻撃して交戦国を無駄に増やすほどには、日本も非合理的ではない」と考えたのである。しかし、それはアメリカの日本の合理性への過大評価であった。絶望から戦争を始める国は存在するのである。戦間期において、アメリカへの対応に苦悩したのは日本だけではない。最終的に連合国としてアメリカと共に第2次世界大戦を戦った諸国も、アメリカから支援を獲得するまでにかなりの辛酸を舐めている。アメリカの中国への評価が1930年代半ばまで極めて低かったことは先に述べたが、中国がアメリカから支援を獲得する為には、自国の工業化に不利な側面に目を瞑って、アメリカ的自由貿易を支持し、自らどんな犠牲を払っても戦い続けることを示し続けなければならなかった。イギリスさえ例外ではない。1941年3月にアメリカが『武器貸与法』を制定し、イギリスに武器貸与等の援助を与えるまでには、1940年6月のフランス降伏以降、孤立した戦況をイギリスが独力で乗り切る気概を示し、更にはイギリス帝国特恵関税の廃止に同意する必要があった。その上で尚イギリスは、日本がイギリス軍のみを攻撃し、アメリカがアジアにおいては参戦しない可能性を恐れ続けたのである。アメリカをパートナーとして国際政治の荒波を渡るには、それなりの覚悟と手腕が必要である。現在の日本に、その覚悟はあるのだろうか。


高光佳絵(たかみつ・よしえ) 千葉大学助教。1970年、福井県生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専攻はアメリカ外交史・東アジア国際政治史。著書に『アメリカと戦間期の東アジア アジア・太平洋国際秩序形成と“グローバリゼーション”』(青弓社)。共同翻訳として『総動員帝国 満洲と戦時帝国主義の文化』(岩波書店)等。


キャプチャ  2015年秋号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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