フィリピン人女性1万2000人を買った元中学校長の人生――26年間に亘り売春窟に通い続けた教育者が残した凡そ15万枚の写真、何が“コレクター”を駆り立てたのか?

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広さ6畳ほどの書庫に並ぶ本棚には、アインシュタイン全集・科学分野の専門書籍・SFシリーズ・源氏物語等の古典・推理小説・漫画が隙間なく詰め込まれている。その数、2万冊に上るという。「これらの本は、週1回は通った神保町の古本屋で購入しました。今はAmazonに注文しますけどね」。昨年4月、児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で神奈川県警に逮捕された横浜市立中学校の元校長・高島雄平(65)は、私にそう語った。逮捕容疑は、2013年12月下旬から2014年1月上旬にかけ、フィリピンの首都・マニラ等で推定年齢12~14歳の少女3人と性交し、その裸体をデジタルカメラで撮影してSDカードに保存したというもの。書庫に入った途端、好きな本に囲まれた為か、高島は少し緊張が緩んだようだ。「私は物が捨てられない質で、収集癖と記録癖があります。拘りが強いからかと。自閉症的な傾向も感じています」。ここは、横浜市金沢区の閑静な高級住宅街にある高島の家。3階建ての瀟洒な邸宅で、私たちがいる書庫は2階部分である。1階の駐車場には、高級外国車の『BMW』と軽自動車の2台が並ぶ。横浜地方裁判所で昨年12月17日に開かれる初公判を目前にした初冬の夕暮れ時だった。白髪の高島は、深緑色のトレーナーに黒いジャージパンツを穿き、袖無しのジャンパーを羽織っていた。奥の棚を指差して続けた。「あそこの棚は全部、フィリピン関係です。タガログ語の辞典も持っています。但し、集めて持っているだけで安心してしまうところがありますね。書庫全体の未だ1割か2割しか読んでいませんから」。案内されたダイニングで先ず目に付いたのは、そこら中に雑然と積み上げられたDVDの山だ。『WOWOW』で放送された映画を録画し続けたものだという。収集癖は、小学校高学年時代に夢中になった昆虫採集が発端らしい。フィリピンで買春した少女や女性たちの写真も集めて、自宅に保管していた。県警に押収された写真は約14万7600枚で、アルバム410冊分に上る。高島は「全て女性という訳ではない。街や人々の様子も含まれている」と言うが、買った女性の数は延べで1万2000人を超えていた。その収集癖が顕わになった書庫で、高島は言葉を継いだ。「SFというか、科学的な分野に興味があるんです。兎に角、未知との遭遇が好き。人間は皆、『我々はどこから来たのか? そしてどこへ行くのか?』と思いますよね。その問いには、哲学でも一生懸命謎を解いて答えを出そうとしているし、文学も愛情とかそういう物を中に織り込みながら答えを探していますよね。方法論が違うだけで、結局は宗教も科学も同じです。人はどこへ行くのか。その答えはあるのか無いのか。だから、宗教系の本も沢山持っています」。こんな尤もらしいことを私に向かって真顔で語る。恐らくは、この姿が中学校長として生徒や部下の教師たちに見せていた“表の顔”なのだろう。「教員時代は人の3倍働き、仕事人間でした。土日の出勤も厭わなかった。教員って皆そうです。過労死しないのが不思議なぐらい働いていました」。しかし、一度南国に足を踏み入れると、獣のような性癖を剥き出しにし、少女たちの裸体をカネの力で意のままにした。それは、二重人格と言うにはあまりにも乖離し過ぎた“裏の顔”であった。

この約1週間後に開かれた初公判で、紺のスーツに身を包んだ高島は証言台に立ち、大森直子裁判官から「最後に一言を」と尋ねられると、こう心境を吐露した。「逮捕されてから10ヵ月近く、自分を信頼して頂いた方にショックを与え、裏切ってしまったことに対して申し訳ない。今後は少しずつ体力・気力を回復して、社会に、そして家族の役に立ちたい。今は恥ずかしさのあまり、友人・知人とは話をすることもできない。これまでは飲酒癖は無かったのですが、今は酒を飲まないと眠れない。これらの習慣から立ち直って、自分自身の為、家族の為に生きたい」。その声は弱々しく、家宅捜索後の失意の日々が滲んでいるようだった。高島は、2014年2月に神奈川県警から家宅捜索を受けて以来、自ら命を絶つことを考えたといい、自殺の名所とされる山梨県青木ヶ原の樹海へバイクで下見に行っている。しかし、死に切れなかった。在宅のまま起訴されたこともあり、マスコミの張り込みは厳しかった。外出の際は隣近所の目を気にして、サングラス・帽子・マスクを着用。そんな高島を庇う妻は、静岡の生家に帰省していることも多かったが、横浜に戻るとインターフォン越しに報道陣への対応に追われた。高島には子供が3人いる。30代の長男・長女、20代後半の次男の順だ。このうち、横浜にある高島の自宅で暮らしているのは次男だけ。事件について特に非難されることもないが、会話も殆ど無かった。「次男は元々口数が少なく、外出時に声を掛け合うだけ。妻は、『フィリピンで起きた事件なのに、何故日本で逮捕されなきゃいけないの?』と怒ってくれます」というのは私の取材に対する高島の受け答えだが、初公判では「妻は勿論、呆れている」とも証言した。私が高島宅を訪れた時に偶々夕刊の配達に来た男性は、「集金に行くと、夫婦どちらも出てきます。特に変わった様子はないですよ」と言っていた。ただ、独立した長男・長女とは「事件後に連絡を取っていない」と高島は明かす。「娘とは、これまで連絡を取っていたし、偶に家に帰ってきましたが、事件以降は音信不通。私も合わせる顔が無い」。子供の話題になると、私の前で酷く落胆した表情を浮かべた。「3人とも独身です。若し好きな人ができても、結婚には確実に差し障りが出るでしょう。それは非常に申し訳ない」。5年前に中学校を定年退職した高島は現在、年金暮らし。家のローンが未だ500万円ほど残っている為、毎月8万円を払い続けている。「日々の生活は?」と問うと、「次男の夕食を準備したりする他、過去に録画したVHSのビデオテープをDVDに落とし込む作業を只管に続けている」との答えが返ってきた。




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高島の人生が狂い始めたのは、1988年、マニラ日本人学校中学部に理科の教員として赴任したのがきっかけだ。「『繁華街に近いマニラ湾のほうへ行きたい』と思って自分で車を運転し、偶々通り掛かった道がデルピラール通りでした。怖さ半分で進んでみると、欧米的な雰囲気が漂うバーを見つけたんです。客は白人だけで、東洋人は私1人。そういう雰囲気の中にいるとストレスが解消できた」。マニラ中心部のデルピラール通りは現在、フィリピンクラブや日本料理店が軒を連ねる観光スポットだ。高島の赴任時は、今は無き“ゴーゴーバー”(ビキニ姿の売春婦がステージで踊る)が犇く赤線地帯であった。未だ40前の彼は間もなく、ゴーゴーバーにも入り浸るようになる。下戸の為、いつもコーラを注文していたという。「ある時にママさんが私に近付いてきて、こんなポーズをしたんです」と高島は言って右手を広げ、ずらりと並ぶ女の子を紹介する仕草をした。「好奇心もありました。『誰でもいいから…』と正面に見える子を呼んで、隣に座らせたんです。暫くしたら、またママさんが現れて『連れ出さないの?』って。『それは何なの?』と聞き返したところ、『バーファインだ』と説明されました」。“バーファイン”とは、売春婦を連れ出す際に店側に払う料金のことを指し、当時の為替レートで1500円ほど。「連れて行って何をするのか尋ねると、ママさんは指でその動作を示す訳ですよ。なるほど、そういうシステムなのかと。『誰でも大丈夫なの?』って聞いたら、『誰でも平気よ! 貴方のことを嫌う女の子はいないわよ』と」。このママさんの誘惑に、高島は天にも昇る気持ちになったのだろうか。軈て、泥沼に嵌まって抜け出せなくなった。「それから、本格的に行動に移すようになりました。行くのは平日です。休日は家族で車を使いますので。私は酒を飲む訳でもありませんが、兎に角面白かった。ウェイトレスがバニーガールの格好をしているお店もありました。そこには、綺麗なお姉ちゃんの写真が沢山貼ってあるんだけど、殆どがへアヌード。当時の日本だったらあり得ない。そういう場所へ通う中で、徐々に慣れてしまったんです」。高島は、妻と幼い子供を伴って家族でマニラに赴任していたが、深夜になると1人、繁華街へ繰り出した。しかも、週に3~4日のペースだ。「何も言わずに出掛けていました。妻は、『どこかで何かしている』と思っていたんでしょう」と高島は平然と言うが、よくも口論にならなかったものだ。或いは全くバレなかったのか。

更に、当時の教え子だったマニラ日本人学校卒業生の男性(38)も、こう証言する。「僕は化学が苦手だったので、先生に何度か質問に行きましたが、凄く親身になって教えてくれました」。事件発覚後、マニラでの高島の“遊びっぷり”を知って絶句したという。「先生は学校のフィリピン人スタッフとのスポーツ交流会に積極的に参加し、夜は彼らとよく食事に行っていました。だから平日夜は、とても女性と遊ぶ時間は無かったのでは…」。写真を撮り始めるようになったのも、その頃だ。現在ではゴーゴーバーの店内撮影は禁止されているが、当時は未だ規制が緩かった。高島は淡々と回想する。「店の中で1人ずつ撮ったり、皆を集めての撮影もしましたね。そのフィルムを持って、自宅近くの写真屋で焼き増しする。女の子たちに配ると喜ぶんです」。高島は3年間の赴任を終えて日本に帰国し、その12年後には中学副校長に、更に5年後には校長に就任した。学校では相変わらずの仕事人間ぶりを発揮し、副業として財団法人『横浜市教育文化研究所』が発行する教育雑誌の編集長を長年務めた。巻頭のコラム『提言』を毎回担当し、『子供の権利』『教育は教師という“人”を通してなされる』『今こそ必要な、心の教育』『どうする、これからのモラル』等のタイトルで執筆を続けた。しかし、ゴールデンウィーク・夏休み・冬休みになる度にフィリピンへ飛んだ。周囲には「マンゴーの植林だ」と渡航目的を伝えていた“買春ツアー”は2014年1月まで、26年間にも亘り続いた。その間に、今回の事件で参考人となったポン引きのフィリピン人女性に出会うことになる。その女性、ジーン(43)とマニラの繁華街で私が会ったのは、高島が日本で逮捕された5日後のことだった。水煙草の煙が立ち込める中東料理店に現れた彼女は、ピンクのTシャツという派手な出で立ち。薬物中毒者かと疑ってしまうほどガリガリに痩せていた。因みに、彼女はその近くで路上生活をしており、小学校も卒業できない貧困家庭の出身だ。そんなジーンが高島と出会ったのは1990年代半ば。高島がマニラから帰任して以降のことだ。「私は14歳から売春婦として働き始めたの。タカシマは元々、私の客よ。その時は先生とは知らず、彼は職業を『歌手だ』と説明していたわ。何年か経って、タカシマに売春婦を幹旋するようになったの。でも、児童は1度も紹介しなかったわ」。ジーンは、児童の紹介を強く否定した。その根拠を尋ねると、「タカシマは、児童の出入りが禁止されているホテルに泊まっていたからよ」と説明した。

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児童の疑いをかけられた場合、ホテル側はID(身分証明書)を提示するよう求める。が、マニラでは偽造IDを数百ペソ(1ペソ=約2.6円)で入手することが可能な為、IDの信憑性は疑わしい。「タカシマから『児童を呼んでくれ』と言われたことはあったけど、ホテルでIDを見せないといけないから断った。1度だけ、成人だけど童顔の子を紹介したの。その時にホテルでストップされたから、それ以降は紹介していない。でも、この界隈で他のポン引きから『タカシマが児童を買った』という噂は聞いたことがあるよ」。高島が常宿にしていたホテルはチェックが厳しかった。この為、別の安宿に児童を連れ込んでいたことが、私の取材したフィリピン捜査当局の調べで判明している。つまりは、児童と成人でホテルを使い分けて買春していたということだ。ジーンが高島に幹旋していたのは1日に4~5人で、紹介するのは毎回、大体午後の時間帯。集まった売春婦たちと一緒にホテルへ向かうと、高島が部屋から出てきて、気に入った子がいたらその場で連れて行くのだという。「彼が女の子とセックスしているところを、私が撮影したこともあるわ」。女性への支払い額は一律1000ペソ(約2600円)。これに、買った人数の1万2660人を掛け算すると、高島が26年間の買春に注ぎ込んだ総額は約3300万円になる。フィリピンで実施されている政府開発援助(ODA)の小規模事業に相当する額である。高島の買春事情は兎も角として、私が気になったのは、ジーンが高島を一切中傷しなかったことだ。逆に、「タカシマは今、日本にいるのか?」「刑務所にいるのか?」等と頻りに心配していた。しかも、高島の顔写真を見せると、「この写真を下さい」と両手で大事そうに持ってジーンは言葉に詰まり、涙を流し始めたのだ。「私が貴方に紹介する売春婦に聞いてもらえばわかるけど、彼のことを誰一人として悪く言う人はいないわ。彼は刑務所に入るような人ではない。マニアックかもしれないけど、それ以外悪いところは無いの。若しフィリピンに戻って来ることができたら、またタカシマに会いたい。是非、無罪になってほしい」。この後にジーンから紹介してもらった、高島が常連だった元売春婦のジェニー(22)も同じようなことを口にした。彼女は童顔で華奢な体型だ。「タカシマには、早く自由の身になってほしい。私たちの証言が役に立つのであれば、警察で事情聴取を受けてもいいよ。自分を含め、周りの女の子たちは背が低いの。だから児童に間違われるかもしれないけど、皆成人よ」。暴力を振るうでもなく、金払いもよい。写真もくれる。つまり、彼女たちにとって“上客”だから好かれているに過ぎない――。そう思っていた私の取材にも高島は、こう胸を張るのだ。「私は、向こうでは100%いい人。誰かを傷付けたこともない。ですから皆、好いてくれる。嫌われたことは全く無いと思います」。1人当たりの国民総所得が3270ドル(約39万円)と、日本の約12分の1しかないフィリピンでは、経済的な事情から親が子供を売春婦として売り飛ばすという、止むに止まれぬ貧困の現実がある。検察は初公判で、「日本とフィリピンの経済格差に着目し、渡航を繰り返した常習的犯行」と断じた。

事件発覚時のメディアの関心は、「高島が買春した1万2660人が実現可能な数字か否か」ということだった。フィリピン捜査当局に依ると、高島がマニラでの赴任を終えて日本に帰国後、家宅捜索される直前の2014年1月までに渡航した回数は64回に上る。滞在期間は1週間から2週間程度が多く、最長で37日、最短で4日だった。64回の総滞在日数は約850日。高島は「赴任1年目の終わり頃から週に3~4日、夜遊びをしていた」と私に語っているので、残りの赴任期間である2年間に週4日と仮定すると、赴任期間中は4日×4週間×24ヵ月=384日となる。これに渡航64回の総滞在日数を加えると、買春に費やしたのは約1200日と推計される。つまり、1日平均10人以上を買わなければ、1万2660人という数字には到達しない。しかも、彼がマニラで買春に手を染めたのは40前である。仮に20代だったとしても異常な性欲だ。バイアグラを使い続けていたのか尋ねると、高島は否定してからこう言った。「“接して漏らさず”っていうんですかね。いつの日からか、私はコントロールが利くような体になりました。射精の脈動感はありますが、射精しないでも十分に快感を得ることができる。その体質というかテクニックを身に付けてからは、何回でも挿入できます」。家に入れてくれた当初は、私の取材にかなり警戒感を示していたが、“マニラの繁華街”という共通項を織り込みながら話を続けると、高島は段々と饒舌になり、校長だった過去を忘れさせるかのような発言の数々が飛び出した。「そういうことが実際に他にもあるのかなって思ったら、加藤鷹っていうAV男優がいますよね? 彼の著書にそのことが出てきます。つまり、射精はしませんがオルガスムスはあるということです。コンドーム無しで相手の女の子とヤることもありました。付けると、私に病気があると疑う子もいるんです。『私は清潔だから大丈夫だよ』って。それで、相手が私の子供を産んだという話は聞いたことがありません」。高島が一度にホテルの部屋へ持ち帰った女性の最多人数は“14人”。因みに、“1度”というのは“1日”という意味ではない。女性を部屋に呼ぶのが午前の部・午後の部・夜間の部等、毎日3~5部に分かれており、毎回数人~10人以上の女性を同時に相手するのだ。「部屋にいる女の子全員に挿入することもありました」。1日で30人ぐらいに挿入したことがあるのか尋ねると、高島は「それは当たり前の話ですね。50人もありますよ」とまるで自慢げに話す。「射精していなければ何人とでもできます。『その能力は神様からのプレゼントだ』って女の子から言われました」。取材の中で唯一、高島が笑みを浮かべた瞬間だった。

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1日に50人も買っていれば、1万2660人という数字も現実味を帯びてくる。しかも、買春の対象は少女や20代といった若者に限らず、60代~70代も含まれていたという。「だから、私はロリコンでもペドファイル(小児性愛者)でもありません。上は何歳でも大丈夫です。皆、同じ扱いです。太っていようが痩せていようが、美女だろうがパンギット(タガログ語で“醜い”の意)だろうが」。こうなると、収集癖と記録癖を自認する高島にとって、“人数を熟す”ことがいつの間にか渡航目的になってしまったのではないか。「買った女性の写真は4カット撮影していた」と高島は言う。縦の全身・横のバストアップ、そして事が終わってから退室時に押さえの2カット。特に、押さえのカットは「帰る時のほうが自然な笑顔をしていますよね」という彼なりの拘りがあった。フィリピンで悦楽の日々を送っていた高島であるが、一度日本に帰国すると“真面目な校長”の顔に戻る。中学校では、買春したフィリピン人少女たちと同世代の女子生徒を目の前にしていたが、「全く欲情することは無かった」と断言する。日本では、風俗やキャバクラにすら行ったこともないという。であれば何故、フィリピン人限定で買春行為に走ってしまったのか。日本人にとっては安く遊べるし、況してや教員という立場でなら、日本ではあり得ない10代女子でも買春可能。それが偶々26年間続き、誰にも告発されなかっただけではないか――。私はそんな思いで問い掛けたが、高島はじっと聞いているだけで一言も発しない。間を置いてもう一度、同じ質問をぶつけると、「日本人学校へ赴任したことがきっかけで、言葉が話せるようになったからじゃないでしょうか。それで流れができたのだと思います」。そんな高島の回答は要領を得ない。ただ、取材をする中で私が引っかかったのは、次のような発言である。「何もしないでお金をあげたら、女の子が怒ったんです。『私は乞食じゃない』って。だから、『その対価としてサービスを提供してもらおう』と。そうすると、フィフティーフィフティーの関係になるでしょ? 『こちらが何も得ることなくお金を恵んじゃいけないんだ』と。それじゃあ、こっちが下に見ていることになる」。しかし、「下に見ている」という言葉が本人の口から出てくること自体、上から目線を暗示してはいまいか。また、こんなことも口走った。「自分から女の子に声を掛けたことは1度も無い。相手にするのは、ママさんが紹介してくれるか、本人が『連れ出してほしい』と言った場合だけ」。飽く迄も受動的であることを強調したいのだろうが、何の釈明にも聞こえない。

法廷では只管、「女性たちに申し訳ない」と反省の弁を繰り返した高島。教員という立場のまま痴態を演じ続けた26年間について「止めようと思わなかったのか?」と遠回しに聞くと、後悔の色を浮かべながらこう語った。「後ろめたさはずっと持っていました。ですから、日本では友達をなるべく作りませんでした。お酒を誰かと一緒に飲みに行ったこともありません。飲めば話してしまう可能性があるからです。付き合いも全て拒否し、防御線を張って生きてきました。だから、色んな物事をその為に我慢したというか、勝手な言い方ですけど失ってきた」。罪の意識を持ちながらも自分の欲望を抑えることができない弱さと理性の無さ。「少女買春の為に犠牲にしたものがある」とも主張しているようで、被害者意識さえうっすら透けて見える。判決言い渡しの昨年クリスマス当日、初公判と同じく紺のスーツに身を包んだ高島は、口を真一文字に結び、厳しい表情で証言台に立った。大森裁判官は「フィリピンの児童の経済的苦境に乗じて、未だ10代前半の児童に対価を払って児童ポルノを製造した。その犯行態様は卑劣であり、児童の心身に有害な影響を及ぼした悪質な犯行」と断罪し、懲役2年・執行猶予4年(求刑=懲役2年)の有罪判決を言い渡した。判決を聞いている間、高島は背筋をピンと伸ばしたまま微動だにしない。そして、大森裁判官は次のように説諭した。「長年、貴方が児童に繰り返してきたことに依って生じた危害は深刻である。そのことでフィリピンの日本人、そして教師に対する信頼を損ねた。日本でもフィリピンでも、子供たちが守られるべき存在だということは当然。教師という立場にあったのであれば、尚のことわかっていなければならない」。高島は何も言えず、頷くだけだった。閉廷後、横浜地裁を出た高島は報道陣に取り囲まれ、「教育者として一言お願いします!」「裁判官の説論を重く受け止めていますか?」「反省されていますか?」等と矢継ぎ早に質問を浴びせられたが、終始、無言を貫いた。この約1週間後の大晦日未明。マニラに戻った私は、暗がりの路上でそろそろ眠りに就こうとしていたジーンの元を訪れた。高島が入所を免れたことを伝えると、彼女は突然、「キャー!」と歓喜の声を上げ出した。「やっぱり、彼は刑務所に入るような人間ではない! 彼と会った時の写真を下さい。但し、奥さんと一緒のカットは駄目よ!」。そう言って、彼女は何度も飛び上がり、体全身で喜びを表現した。 《敬称略》


水谷竹秀(みずたに・たけひで) ノンフィクションライター。1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒。ウェディング専門のカメラマンや新聞記者を経てフリーに。現在はフィリピンを拠点に活動している。著書に『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる“困窮邦人”』(集英社文庫)・『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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