【震災5年・あの時】(01) 迫る波、被災者が撮影

5年前、巨大地震・津波・放射能汚染が日本を脅かした。恐怖と混乱の中で、人々は何を考え、どう行動したのか。今回のシリーズ『あの時』では、計400人以上への取材から被災の現場を再現し、“次”への備えを考える。

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迫る波は壁のようだった。会社員の小斎誠進さんは、宮城県名取市閖上の名取川河口で「自分は死ぬのだ」と覚悟した。2011年3月11日、単身赴任先から閖上の自宅に帰るバスで揺れに襲われた。大津波警報を知ったが、「潮位の変化が撮影できそうだ」と軽く考えた。趣味の力メラを携え、自宅から自転車で向かった河口近くの水門で、灰色の海が盛り上がるのを見た。逃げられるだけ逃げるしかない。水門操作員の男性に「おじさん、逃げましょう!」と叫び、沖へ向けてシャッターを切ると、必死でペダルを踏んだ。広大な仙台平野にある閖上では、頑丈な建物が頼りだ。過去の津波警報で避難したことがある閖上公民館を目指した。ところが、公民館は満杯なのか、人がぞろぞろと出てくる。内陸へ向かう道路は大渋滞だった。運転席の窓ガラスを叩きながら走り、「降りて逃げたほうがいい」と声を張り上げたが、ドアは1つも開かなかった。「煩い」という顔を幾つも見た。水門を離れて6分後、溢れる寸前の名取川が見えた。背後の街から土煙が上がり、津波に追いつかれそうになった。目の前にあった閖上小学校の非常階段を3階まで駆け上がった。目を疑う光景だった。学校は濁流に浮かぶ島のようだった。校庭に車や家が雪崩れ込み、遠くで火の手が上がる。校舎に流れ着いた何人かは、ずぶ濡れで助け上げられた。住民6000人余の閖上で、死者・行方不明者は790人。水が引いた翌朝、小斎さんが外に出ると、逃げてきた道は遺体だらけだった。とても力メラを向ける気にはなれなかった。閖上地区は、高い津波に屡々見舞われる三陸のような“リアス式”の地形ではないこともあり、「閖上に津波は来ない」と信じる住民も多かった。しかし、11日午後4時頃、最大約9mの津波が一帯を瞬く間に呑み込み、市消防本部には、閖上地区の出張所で難を逃れた消防士から耳を疑う報告が届いた。「閖上全地区、消滅」――。

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現場①…公民館前 15:52
名取川の水門で大津波を目撃した小斎誠進さん。自転車で先ず閖上公民館に向かったが、続々と中から人が出てきた為、逃げ込むのを諦めた。「2階建ての公民館では津波に耐えられない」と考え、3階建ての閖上中学校へ再避難しようとした人が多いと見られている。公民館は市の指定避難所。午後2時46分の地震の後、住民は車や徒歩で次々と集まってきた。ところが、3時30分頃から300m西の閖上中学校へ移動する人が相次いだ。きっかけの1つと考えられているのが、公民館長の恵美雅信さん(67)らが、消防団員と見られる男性から「閖上中学校へ避難させてほしい」と促されたことだ。消防の指示と受け止めた恵美さんらは、閖上中学校への再避難を呼びかけた。大津波警報の高さが6mから10m以上に変わったのを聞き、公民館から避難した桜井広行さん(61)も、「10mの津波が来るぞ。ここから逃げろ」と周囲に促した。この移動中に津波に巻き込まれた人もいた。恵美さんの姉と甥も、車で閖上中学校へ向かう途中に犠牲になったと見られる。体が不自由な人の搬送準備をしていた恵美さんは移動が遅れ、津波が来たところで2階へ駆け上がった。結果的には公民館2階なら助かった為、「再避難のせいで犠牲者が増えた」と批判する声も上がった。ただ、呼びかけを受けて直ぐに徒歩で移動し、午後4時頃に津波が到達する前に閖上中学校に着いた小斎正義さん(74)は、「公民館では外のグラウンドにいた。閖上中学校に行くよう言われたことで助かった」と話す。丹野祐子さん(47)は公民館2階で難を逃れたが、閖上中学校へ向かったと見られる長男の公太君(当時13)は亡くなった。「公民館に逃げれば助かったのかも」と悔やむが、「私も他の人に閖上中学校への移動を呼びかけており、あの時はあの判断が最善だったと思う。誰を責める話でもない」と話している。




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現場②…渋滞道路 15:54
停電で信号が消えた中、車を使う避難者が相次いだことで、閖上の各所で渋滞が起きた。特に、公民館から閖上中学校に向かう道路は、再避難の人も加わって激しい渋滞に。小斎誠進さんは車の窓ガラスを叩いて逃げるよう呼びかけたが、反応は一様に鈍かった。阿部利浩さん(53)は午後3時45分頃、公民館前まで延びた渋滞の最後尾にいた。家族は歩いて閖上中学校に向かったが、「避難すると寒いだろうから、毛布やコートを取っていこう」と考え、自宅に寄ってから車で閖上中学校を目指した。突然、左右の歩道の人たちが大声を上げて走り始めた。バックミラーを覗くと、家々が土煙を上げて次々と津波に薙ぎ倒されていく。「巻き込まれる!」。ハンドルを右に切り、対向車線を逆走した。約500m先の五差路付近で車を乗り捨て、閖上小学校へ走って難を逃れた。荒川美和子さん(42)は午後3時40分頃、幼稚園児だった双子の娘の手を引いて、公民館から閖上中学校へ徒歩で向かった。渋滞は「今まで見たことがないくらいの酷さ」だったという。更に、公民館を出ていこうとする車に「車を置いて逃げたほうがいいですよ」と声をかけたが、その通りにする人はいなかった。「ママ、お空が汚い」。閖上中学校の前で、娘に言われ振り返った。土埃の中で家屋が津波に押され、迫って来る。間一髪、校舎へ駆け込んだが、流された人の「助けて!」という叫びが耳に残る。「公民館に車を置き、並んで歩いて再避難することはできなかったのか」――。そんな思いが拭えない。

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現場③…五差路 15:56
小斎さんは、閖上大橋の袂に位置する五差路に着いた。普段は水面すら見えない名取川が溢れそうだった。公民館前とは対照的に、川を見た多くのドライバーが車を捨てて逃げた。「自分の目で異変を確認しないと、危険が迫っているのを理解し難い」という災害時の心理状態が浮き彫りになった。小斎さんが閖上小学校のほうに逃げて直ぐ、五差路の一帯を真っ黒な津波が襲った。高い建物への避難が間に合わなかった住民ら50人が、五差路にかかる高さ約5mの歩道橋に上がった。この日、漁師仲間2人と車で出かけた先で地震に遭い、閖上に戻ってきた菊地篤也さん(53)も車を乗り捨て、津波の到達の数秒前に歩道橋へ駆け上がった。逃げ遅れた仲間の1人の姿が無かった。悲鳴を上げながら、次々と人が流されて行く。女性1人を何とか助け出したが、「生き地獄だった」と言う。小畑啓子さん(65)は、閖上小学校で孫の無事を確認後、自転車で自宅へ戻る途中、「バリバリ」という破壊音を聞き、初めて津波に気付いた。自転車を置いて畑を突っ切り、視界に入った歩道橋に駆け寄った。2段目に足をかけたところで、膝まで水が来た。足が滑ったが、誰かが手を引いてくれて助かった。津波が来てから約2時間後、宮城県警のヘリコプターが歩道橋の人たちの救助に来た。だが、赤ちゃんも含めた5人を吊り上げたところで打ち切りに。多くの人が雪降る夜の寒さに凍えながら、救助を待った。「津波が来ても名取川を上るから、陸地までは来ないと思っていた」。菊地さんは、認識が甘かったことを悟った。小畑さんも、「結婚して以来、『閖上に津波は来ない』とずっと言われていた」という。「自分の目で見るまで、津波の“つ”の字も頭に無かった」

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現場④…閖上小学校 16:00
閖上小学校に小斎さんが避難してから1分も経たずに、津波が襲ってきた。寒さの中で救助を待っていた時、津波の前に防災無線が鳴らなかったことに気付いた。小平守夫さん(77)は、この日、外出先の市内のショッピングモールで地震に遭った。自宅に戻ったが、防災無線の音は聞かなかった。午後4時近くになって、近所の人から避難を勧められて漸く、自宅の近くの閖上小学校に向かった。歩いていると、五差路のほうから津波が押し寄せてきた。校庭に走り込んだが、波に追いつかれて30mほど流された。ヘドロ等で真っ黒になった水を何度も飲みながら覚悟した。「もう駄目だ」。校庭の桜の木にぶつかり、無我夢中で枝にしがみ付いた。約1時間後、校舎に避難していた人たちに救助された。「本能で体が動いたが、よく助かったと思う」と小平さんは語る。閖上小学校には約900人が避難。暖も取れず、身を寄せ合って一晩を過ごした人たちから疑問の声が上がった。「防災無線はどうしたんだ?」。元消防団員の相沢信幸さん(64)が、小斎さんらと一緒に校舎屋上の無線の様子を確認しに行った。ランプは点灯していたものの、いくらいじっても外部との通信はできなかった。「『これはもう鳴らないんだ』と諦めた」。相沢さんは、そう振り返る。

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■防災無線、親機故障に気付かず
震災の日、名取市や同市消防本部の職員たちは、大津波警報の発令を受け、防災無線で沿岸部の市民に避難を呼びかけようとした。「閖上・下増田地区に対し、避難指示を発令します。直ちに避難して下さい」。地震から11分後の午後2時57分、市役所の無線室で市職員が初めてこう呼びかけ、約1時間で計8回、繰り返した。ところが、市役所にある無線親機が地震直後に故障していた為、沿岸部のスピーカー9台には何れも音声は届いていなかった。約300m離れた消防本部の通信指令室でも、担当職員が避難の呼びかけを計6回行っていたが、両者とも異常に気付かなかった。市役所と消防本部が有線で繋がれている為、無線が故障してもお互いの放送が聞こえていたことが原因だった。消防次長として指揮を執った今野新一さん(63)は、「市役所の放送が聞こえるので、市民に放送が届いていないなんて、よもや思わなかった」と証言する。また、無線親機がある市役所7階では、故障を知らせる赤いランプや警告音が鳴動していたが、3階の無線室の操作卓には不具合が表示されなかった。市の防災安全課長として対応に当たっていた吉田清春さん(65)は、「無線室で親機の故障を把握できる仕組みになっていなかった」と悔やむ。この故障で、学校や福祉施設に置かれた戸別受信機や、沿岸部にあったサイレンも鳴らなかった。理容店主の丹野辰一さん(45)は、津波が来る直前に公民館へ駆け込んで無事だったが、逃げ遅れた父が犠牲になった。「避難前には消防車の広報も殆ど聞こえず、切迫した様子がなかった」と言い、「うちの近くでは、津波を知らずに亡くなった人も多いと思う。無線の呼びかけがあれば、避難はもっと早かったのでは」と話す。無線メーカーの調査に依ると、「地震の揺れで親機の装置内に異物が入ってショートを起こし、通電できなくなったことが故障の原因と見られる」という。異物は特定されておらず、混入の詳しい経緯も判明していないが、無線メーカーは「こうした事故は当社では初めて」とする。同市は、津波の死者・不明者の遺族が市に賠償を求めた訴訟で、防災無線の問題が争点になっているのを理由に、無線故障についての取材に応じていない。市の第三者検証委員会は、2014年4月に纏めた報告書で、「市側の無線機運用の研修が不足していた」等と指摘し、「安全や安心を軽視しがちな名取市の“体質”が投影されている」と批判した。

■「津波に用心」…石碑は知っていた
「津波は貞山堀を越えない」――。貞山堀とは、閖上の海岸近くを南北に走る運河。住民には、この言い伝えが広く伝わっており、「閖上には三陸のような津波は来ない」と考える理由の1つになったと見られる。だが、閖上の海岸傍には、1933年の昭和三陸津波を受けて造られた石碑が立っていた。一帯を10尺(約3m)の津波が襲ったことに触れ、「地震があったら津浪の用心」と大書されている。閖上で語り部活動を行う小斎正義さんは、若い頃から石碑を知っていたが、気に留めることはなかったという。祖父や父からも津波の話は聞いたことがなかった。「今度こそ、過去の教訓を生かさなければ」。日々の語り部活動では、今回の津波で横倒しになった石碑についても語るようにしている。

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■再避難、誤りではない  東京大学特任准教授・関谷直也氏
閖上地区の惨禍の教訓を、名取市の第三者検証委員会の委員を務めた東京大学特任准教授の関谷直也氏(災害情報論)に聞いた。

2階建ての閖上公民館には震災後に足を運んだが、2階の床まで津波で浸水しており、決して安全な避難場所ではなかった。より高い閖上中学校へ避難したこと自体は、避難行動としては誤っていない。再避難を呼びかけた公民館長らが責められる話ではない。車に依る避難も否定すべきではない。国土交通省の調査に依ると、「津波浸水域の居住者約60万人の半数が、車で避難して助かった」と推定され、少しでも内陸へ逃げる必要がある平野部では特に有用だ。普段から渋滞が起きる場所は災害時も渋滞し易いことを頭に入れ、車が適切かどうか判断することが大切だ。防災無線が鳴らなかったことが混乱を招いた要因であることは否めない。ただ、消防団の呼びかけやラジオのニュースを聞いても避難が間に合わなかった人はいる。無線が機能してさえいれば皆が避難できたかは疑問だ。名取市と岩手県釜石市の被災者へのアンケートに依れば、「津波が直ぐに来る」と思って地震直後に避難した人の割合は、釜石市では72%。名取市の57%より15ポイントも高かった。大津波に何度も襲われた三陸と比べ、平野部の名取市では津波への意識が高くなかったと考えられる。閖上の経験から学ぶべきことは、大地震があれば無線等の呼びかけが無くても、「自分の地域にも津波が来るのでは?」と考え、少しでも高い場所や内陸へ素早く避難することだ。

■声掛け大事、“伝承”が避難率を上げた
東日本大震災の津波被害を巡っては、名取市以外の被災地でも検証や調査が進んでいる。多くの犠牲者が出たのは、津波への危機意識が低かったからか。2011年7月に内閣府が被災地の870人を対象に行った調査に依ると、地震が起きて直ぐに避難行動に移った人(直接避難型)のうち、津波に巻き込まれたのは僅か5%だった。津波が迫ってきてから逃げた人(切迫避難型)の49%との差は歴然としていた。ただ、調査を担当した東京大学総合防災情報研究センターの田中淳センター長(災害情報論)が注目するのは、「切迫避難型の人でも、30%が津波の来襲を意識していた」という点だ。「直接避難型の49%より低いものの、多くの人が家や職場等に立ち寄っていた。寧ろ、防災意識が高い為、家族や他人を助けようとした人もいたのではないか」と指摘する。岩手大学の麦倉哲教授(社会学)も、「津波に関する知識が油断を招いたケースもある」と警告する。岩手県大槌町吉里吉里地区で犠牲になった93人の避難行動を、家族や住民の証言を基に調査したところ、自宅で津波に襲われた65人のうち31人は、安全な場所と思い込んで留まっていた可能性が浮上したという。1933年の昭和三陸津波の浸水地域外で造成された高台住民も多く含まれていたといい、「自宅にいたから防災意識が低いとは言えない。そうした意味でも、周りからの声掛け等が重要になる」と麦倉教授は結論付ける。2万人に迫る死者・行方不明者を出した東日本大震災。ただ、浸水した地域の人口約60万人のうち約96%が避難したのも事実だ。様々な要因が考えられる。過去の津波被害の伝承に加え、倒壊を免れた家屋が多く、避難行動に移り易かったとの見方もある。地域の力も無視できない。直接避難型の半数は津波の来襲を意識していなかったが、周囲の動き等をきっかけに行動を起こしていた。前出の田中センター長は、「津波の危険を感じさせるほどの強い揺れがあったことや、被災したのが東北地方だったという点は大きい。そうでなければ、もっと多くの犠牲者が出た可能性もある」と分析している。


≡読売新聞 2016年2月16日付掲載≡
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テーマ : 東日本大震災
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