【思想としての朝鮮籍】第3部・李実根(下) いまだ果たせぬ約束

20160307 01
放火・銃刀法違反・火薬類取締法違反――。当時の新聞に記された李実根の主な容疑である。発端の占領政策違反は既に失効していた。にも拘らず、当局は李を連続火炎瓶事件の被疑者とした上、捜索で発見した拳銃の持ち主としても勾留した。「全部でっち上げですよ!」。当時の怒りが蘇ったのだろう、李は声を荒らげた。取り調べでも全面対決だった。タチが悪かったのは、体制の護持者を気取り、“反共”の使命感に燃える検事だった。ある日の運動時間、目の鋭い、痩身だが威圧感のある男に声をかけられた。男は網野光三郎と名乗った。映画『仁義なき戦い』シリーズで成田三樹夫が演じた松永弘のモデル、広島ヤクザの大物である。網野は言った。「あんたには何の恨みも無いし、こんなことを言う義理も無いのだが…」。頑固な李に手を焼いた検事は、「極道も共産主義根絶に協力してほしい」と網野に“脅し”を頼んだのだ。「日本の法では李を処刑できないから、韓国に強制送還して銃殺してもらう」。こんな検事の“伝言”を伝えた後、網野は言った。「その思想を持っておれば、あんた、刑が終わっても長崎の大村収容所に連れて行かれての、韓国に送られるらしいじゃないか。若い時分に死ぬことはないけん、思想転向せえや」。主義者としての真価が問われていると李は思った。「腹に力を込めてね、『あんた、若し“ヤクザ辞めろ、親分辞めろ”言うたら辞めるか?』と訊いたんです。網野さんは『そら、共産党と極道とは違う』と反論したけど、『いや、違やせんよ。男としてそういうことは言うもんじゃないで』とね。網野さんは笑ってね、『あんたも流石に堅い信念持っとるのう、検事が言うだけある』って」。“主義者”の本領発揮である。この話を李は少し誇らしげに結んだが、これには続きがある。「自慢する話じゃないから…」と渋ったが、続きはこうだ。「『検事がそんな汚い真似をするんか』って腸が煮えくり返ってね、網野さんに『次は私の伝言を伝えてくれますか?』って頼んで、こう言うたんです。『お前は最低のクズだ。ワシを殺すと言うたらしいが、それは何年もだいぶ先のことになりそうだのう。ワシは同志と連絡取り合うとるから用心しとれや。そのうち、火炎瓶で家もろとも焼き殺されるかもしれんからのう』」。どちらが筋者かわからない。“ヤクザ活動家”の本領発揮である。数日後、網野が笑みを浮かべて近付いてきた。「あんたの伝言を伝えたら、あいつ、真っ青になって、『冗談じゃけえ、取り消すけえ、気を悪うせんといてくれ』と言うてのう。見とっても可哀そうなほどじゃったけえ、こりゃあ堪えてあげんさいや」。先に出所した網野は、李の“生還”を我が事のように喜び、祝宴を設けてくれた。臨席者の中には、『仁義なき戦い 完結篇』で北大路欣也が演じた松村保のモデルで、後の『3代目共政会』会長・山田久もいた。

扨て、李ら4人の勾留理由開示公判が開かれた。大法廷は同志で一杯だった。「裁判所は運動側と内々で話し合い、釈放で話が決まっていたようでした」(李)。だが、裁判長は尋問を終えると閉廷を宣言し、廷内は一瞬で怒号の海となった。「愛国者を釈放しろ!」「約束が違う!」。活動家たちが押し寄せ、棚が決壊した。看守は自らの手錠を嵌められ、検事や裁判官も制圧された。「いつの間にか私たちは抱え上げられていて、そのまま後ろに送られて廊下に出ていた。見回したら誰もいない。今更牢獄に戻るのも変なので逃げました」。前代未聞の法廷奪取事件だった。約1ヵ月後、李は三度逮捕された。罪名には“逃走罪”が加わり、3ヵ月後に懲役15年が求刑された。判決期日はその1ヵ月後。異常なスピード審理だ。「碌な証拠が無いから急いだんですよ」。李の言葉を裏付けるように、裁判所の判断は懲役5年だった。求刑の半分でも検察的には“完敗”なのに、3分の1である。検察に配慮して“無罪”だけは避けたのだろうが、抑々無理筋の逮捕・起訴、そして求刑だったのだ。そして、ここでまた李はやらかした。騒然となった法廷で、ある活動家が李に何かを叫んでいた。

「『李ぃ君! ここで万歳やっ!』って。一体、何が万歳なのかよくわからなかったですよ」

――それでどうしたんですか?
「いや、ついやっちゃったんですよ。『日本共産党、ばんざーい!』って」

繰り返すが、検察的には赤っ恥の量刑だ。加えて、公安事件の被告が法廷で“万歳三唱”である。“短い”量刑で李にも配慮したつもりの裁判官にとっても、これは許せない行為だった筈だ。検察は控訴し、広島高裁では懲役7年を言い渡された。訳もわからずやった万歳三唱で、2年の“オマケ”である。それでも求刑の半分以下だったが、最高裁で実刑判決が確定した。収監先は山口刑務所だった。ここでも李は主義者を貫いた。看守が年配受刑者を打擲した事件を巡って“刑務所内の民主化”を訴え、刑事告発を宣言した。「大人しくすれば早く仮釈放になる」との“囁き”も撥ね付けた。「自分のことはどうでもいいし、生きて帰ろうとも思っていない。共産主義者とはそういうもんだ!」。猛々しい言葉で折れそうな心を護ったのだろう。一方で、李は当時の苦悩も述懐した。「私は1人息子でしょ。親のことを思うとね…。それに新婚の妻もいる。『可哀そうなことしてるな』と。でも、『負けちゃいけない』という思いがあって、常に自分の中で内部争いがあったですね」。煩型の李は、広島刑務所に移送された。そこでも、常に“転向”の2文字が大きな口を開けていた。この頃の彼は、文学を貪り読んだ。「マルクスやレーニンの理論書はそれまでも読んでいたけど、遥かに感銘を受けましたね。印象深いのは、ゴーリキーの“母”、オストロフスキーの“鋼鉄はいかに鍛えられたか”、小林多喜二の“蟹工船”や石川啄木の詩とか…」。国家を背景にした看守との絶対的な力関係を受け入れ、敗北を食らって港きることを迫られる日々の中で、李が縁にしたのは文学だった。




20160307 02
1959年1月、8年の獄中生活が終わった。事務所に戻ると生還を実感したが、一方で李は浦島太郎だった。情報としてのみ知る路線転換に直面したのだ。自伝『プライド』(汐文社)で李は、こう記している。「かつては共産党と朝鮮人組織がごっちゃになって、わけの分からない中央からの方針が流れていたが、今では朝鮮人は朝鮮人組織、日本人は日本人組織になっていた」「民族対策部もなくなって、日本の政治に干渉するなということになっていた」「お互いが平等互恵の立場で、兄弟として仲良くやっていこうという世の中に変わっていた」。とは言え、スイッチを切り替えるようには順応できない。解放後に似た困惑だったのだろう。『朝鮮総連』広島県本部の組織部副部長として迎えられた李は、“揺れ”を振り払うかのように活動に没頭していく。その1つが、程無く始まった朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)への帰国事業だった。李は、広島から新潟に“帰国者”を送る役割を担った。「やっぱりね、困ってるモンを助けると主席が言ってくれる訳ですよ。そこまで民族のことを考えてくれてるんだと嬉しかったですよ」。同行だけではない。貧困と差別に喘ぐ同胞たちにDPRKという展望を説き、“帰国”を勧めた。「『祖国が助けてくれるなら、困った人を1日でも早く、1人でも多く帰国させよう』と思ってやりました。結果的に、受け入れる力が無いのに受け入れてしまった。私たちも未熟だったんだと思います…。でもね、港で見送ったら二度と会えないなんて思いは当時、無かったですよ。一抹の寂しさはあるけど、普通に遊びに行ったら会えると思っていた」。だが、帰国者との連絡はままならない。「『一体どうなっているんだ』と」。そんな折、ある同胞から言われた。「お前がいらんこと言うから親戚が帰ったけど、飯も食えんで苦労しとるらしいぞ…」。再会を約束しながら見送った何人もの同胞たちの顔が目に浮かび、胸がざわついた。被曝者の存在も気になっていた。所謂“帰国事業”で広島を後にした人は計2055人。被曝者も含まれている筈だった。訪朝する議員らに頼み、当局に問い合わせてもらっても、「日本から来た人に原爆被害者は存在しない」との答えが返ってきた。「何か、嫌な感じがしましたね」。自分で確かめるしかなかった。

1964年に広島の朝鮮商工会へ移り、直ぐ理事長に就いた。組織の財政を担う要職だが、李の中では在日朝鮮人被爆者の“救済”、そして在朝被爆者の実態解明への思いが膨らんでいく。同じ頃、中国新聞に在韓被爆者に取材した初の連載が始まった。筆者は後の広島市長・平岡敬である。2年後の1967年には、韓国で被爆者団体が誕生した。「では朝鮮人は? 共和国は?」。胸を掻きむしられた。1975年、在日朝鮮人被爆者の団体結成を総連に提案したが、「『今は祖国統一が最優先』と言われました。『それも大事だけど、同胞被爆者の救援運動も必要でしょ』と言うたんですが…」。ここで断念しないのが李である。「同胞の被爆者たちに相談すると『私たちで作ればいい』と。それで、この年の8月2日、広島県朝鮮人被爆者協議会を結成しました」。130人で発足、李が会長になった。4年後の1979年には長崎でも団体を立ち上げ、翌年には全国組織へと展開させた。商工会の理事長は1975年末に自ら辞した。李は多くを語らないが、“枝葉の活動”にのめり込む理事長は、組織と軋轢を起こしていたようだ。在広島朝鮮人被爆者の実態調査から始めた。徐々に注目を集め、1979年には聴き取り集『白いチョゴリの被爆者』(労働旬報社)を出版する。その前年の1978年には、アメリカで第1回国連軍縮特別総会が開かれることになった。前科や経歴、加えて国籍である。入国は困難と思われたが、署名や嘆願書を駐日大使に送る等した結果、ビザが出た。朝鮮籍で、しかもDPRK国籍を公言し、初めてアメリカに入国したのが李である。立場は、“日本国民代表団”500人のオブザーバーである。そこで、代表団の“国民主義”を痛感した。「自分たちの行動計画ありきで、私たちは意中になかった」。当時、被爆者は日本国民だった。前述の平岡も語る。「1回目に韓国取材して書いた後、被爆者団体から随分非難されましたよ。植民地支配の責任を書いたら、『我々は被害者である』と言う訳です。アジアで日本が『被害者だ』と言っても通じません。欧米に訴えるばかりでアジアに目が向いていない。2年後に韓国に行った時は被爆者団体が結成されたので、帰ってきて原水禁に『連携すべきだ』と訴えると、『援護費が減る』とか言う。パイが少ないなら、運動で増やせばいいだけじゃないですか! 朝鮮の被害者を排除する。差別意識があるんですよ」。問題に運動圏の目が向き始めたのは1970年代、治療を求めて密航・逮捕されていた孫振斗が、被爆者健康手帳交付等を求めて裁判を起こしたのだ。「とは言え、意識が変わり始めたのは、孫さんの裁判が最高裁で確定した1978年以降だと思う」(平岡)。それも運動家レベルである。8月6日の“平和宣言”で加害責任・謝罪・植民地支配等が明示されたのは、平岡が市長だった1991年以降の数年間だけ。原爆忌の式典に在外被爆者が初めて招待されたのは、実に被爆から半世紀を経た1995年である。原爆投下は飽く迄も“日本国民の悲劇”だった。そして、2013年の原爆忌で「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民」と臆面も無く口にした安倍晋三は、2014年、そして昨年の式典で尚もこう言った。「唯一の戦争被爆国」と。

2011年に李と話した時、彼が打ち明けた事がある。平和記念公園で韓国語が聞こえたので見ると、少年少女の一団がいた。大邱から来たという。感想を訊くと、生徒たちはこう言った。「あと何発か原爆を落として、日本を滅亡させればよかった」。韓国人慰霊碑が公園の片隅に置かれていることを差別と感じて、その怒り故に発せられた言葉だった。李は原爆の恐ろしさを語り聞かせ、“行き過ぎた言葉”を撤回させた。李は朝鮮民族の一員として、慰霊の地で発せられた同胞の“暴言”にある種の責任を感じたのだが、私がその時に思い起こしたのは、栗原貞子の詩『ヒロシマというとき』だった。

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

汚れた手は清められていない。そればかりか、この国は“捨てた筈の武器”を堂々と手に掲げ、アメリカの戦争に付き従おうとしている。

扨て、李は持ち前の馬力で道無き道を切り開いていった。1982年以降はヨーロッパ各国を訪れ、精力的に講演や交流を進めた。1985年にはゴルバチョフ政権が誕生。2年後には米ソ間で『中距離核戦力(LNF)全廃条約』が結ばれ、具体的な核廃絶の歩みが始まった。この年、李は自らの縁だったDPRKを初訪問した。

「被団協からソ連に派遣された帰りです。モスクワの共和国の大使館に行って、『私は在日なんですけど平壌に行きたい』と言ったら二つ返事で『寄って下さい』って。モスクワからの飛行機代を訊いたら『1万5000円じゃ』と。安いんで、『よっしゃよっしゃ、手続き取ってくれ』と。それで平壌に入った訳」。だが初訪問は、ほろ苦い思い出である。「飛行場降りたら案内人というのが付いて、ホテルでも根掘り葉掘り調べるんです。私は軽く『我が国に寄って帰ろう』と思っても、向こうは違う。『モスクワに行ったから共和国に寄ろう』なんて在日はいなかったから、『怪しい奴だ』と思ったんでしょうね。被爆者団体と言っても通じないし、まるで取り調べです。まあ、尋問は日本で慣れていると言えば慣れているけど、『自分が思っていた祖国はこんなんなのか』と。燃えるような思いでいたのが、不信感や憤懣に変わっていく。あんまりしつこく尋問するから、仕舞いには…」

――どうしたんですか?
「黙秘権を行使しましたよ。日本で経験しているから(笑)」

今でも笑いで包まねば語れない体験だったのだろう。「もう帰りたいと思って『便は無いのか?』と訊くと、『万景峰号が出る』と。『じゃあ、明日帰るから手続きしてくれ』と言ったら安心したみたいでね、帰りの船では、なけなしの金を叩いて飲めるだけ飲みました。『何故、祖国は民族にこうなのか。プライド持って人の為に頑張ってるのに、何で理解してくれんのか、何で…』って。『もう二度と来んわ!』って思いながらね」。だが、再訪の機会は直ぐに巡ってきた。2年後の1989年、平壌で開かれる『第13回世界青年学生祭典』への招待が来た。「『社会主義圏の青年たちが集まるので、そこで演説してほしい』とのことでした。平和公園の灯をランプに入れて持って行ってね、演説したら平壌放送で全国隅々にまで流れたんです」。それが思わぬ結果を齎した。翌日早朝、10人ほどが李のホテルを訪ねてきた。これまで「いない」と聞いていた被曝者だった。「『生きとるやないか』『おるやないか』って」。国内の医療水準では十分な対応ができず、働くのもままならない…。口を衝く苦境の数々を耳にしながら、李は在朝被爆者の援護を決意した。在朝被爆者の存在を国内外に訴えて歩いた。1992年にはアンケート用紙1万枚をDPRKに送り、実態調査を開始。生存被爆者928人が掘り起こされた。1995年、『反核平和のための朝鮮被爆者協会』が結成され、1999年、同協会主催に依る平壌で初めての原爆写真展が開催された。平壌市民の反響は大きく、当初6日の会期は2週間近く延長された。「朝鮮戦争時、原爆で脅された経験でしょうね。『原爆など張り子の虎だ』的感覚が根強い。実際の被害を写真で見てもらう意味は大きかった」。翌年には、在朝被爆者代表団が初めて公式に来日。小渕恵三首相・野中広務幹事長代理等が面談した。画期的な成果だった。何人もの議員や弁護士をDPRKに案内し、兎に角実情を訴えた。

目まぐるしく状況が変わっていったこの時期、李は、韓国の市民団体からの招聘で、父母の故郷に足を踏み入れた。在韓被爆者と交流し、在朝被爆者との異同を感じた。「この前年、日本政府は在韓被爆者に人道的措置として40億円の拠出を表明していたし、在韓被爆者については渡日治療もされていました。一方で、在朝被爆者に対して日本政府は『国交が無く実態がわからない』と放置ですよ。『この態度の違いは何なのか』と」。在韓被爆者に対する日本政府の拠出は1991年と1993年に実行されたが、DPRKの被爆者には何も為されぬままだ。一方で、南北両国における被爆者の立場には共通点を感じたという。「やはり、どちらでも、戦争被害とは“朝鮮戦争の被害”を指す訳です。国が奪われた時期に日本に渡って働いて、朝鮮戦争で大変な時は祖国にいなかった。『それで何が被害か!』的な社会的空気はあったと聞きました。“被害”を語り難かった部分は、南北どちらも共通していましたね」。父の故郷にも行った。印象を訊くと厳しい表情が緩んだ。

「父親の許可も受けずに行きました(笑)。『父や母がどういう場所で、どういう生活をしていたのか』と。平和で静かないいところでした。納得したし、先祖の郷里を確認して、新しい“誇り”を持つことができました。でも、そこは父の郷里であって、私の故郷ではないですよ。私が何故日本で生まれ、育ったか。その経緯に引っかかりはあるけど、だからこそ山口が私の故郷です。山口で生まれたことは忘れてはいけないし、大事にせねばと思っています」

――では、祖国とは?
「今は分断していますし、私は共和国の国籍ですけど、“祖国”と言われれば統一朝鮮ですよ。私が講演とかで“朝鮮人”と呼称するのも統一祖国のイメージであり、民族の名称です」

その後、計4度訪韓し、2005年には国会で演説をした。「私は貧しい、つまらん人間ですけど、朝鮮人としてのプライドを持って、曲げず、阿らずに生きてきたつもり。朝鮮人として生まれ、民族と祖国を取り返して生きてきた。韓国にだってアメリカにだって、堂々と朝鮮籍で、共和国の国籍で入りました…。それに、やはりね、私は共和国に人を送った訳です。日本で貧しいながらも不自由無く暮らしている私は、絶対に生き方を変える訳にはいかない」。居間には、現段階で最後の訪米となる2011年、国連本部で潘基文と握手する写真が掛けてある。「やることはやりましたよ」。李が伏し目がちに言うと、傍らの妻・朴玉順が語れぬ胸の内を汲み取って、言った。「40年やっても、本質的にはなーんも変わらんかったね」――。1990年代に動き始めた事態は膠着した。一方で拉致問題が発覚し、又しても“国民の悲劇”が“他者に与えた痛み”を駆逐していった。そして、対北強硬一辺倒で権力の階段を駆け上がった安倍晋三が再登板して3年となる現在、“歴史的責任”はおろか“人道”の言葉にすら事態打開の力は無い。「生きている間に助けてほしい」「最期の私の願いを聞き届けて下さい」――。在朝被爆者からの言葉の数々は、今も宙に浮いたままである。暫しの沈黙の後、李が顔を上げて呟いた。「怒りや無念を解いてほしいんですよ。貴方も、この問題を歴史的背景も含めてしっかりと書いてほしい。そうすれば、先立った同胞たちも笑いながら手を振ってくれると思うんですよ」――。李の“朝鮮籍”には、未だ果たせていない彼・彼女らとの約束が込められている。


中村一成(なかむら・いるそん) フリージャーナリスト・元毎日新聞記者・在日コリアン3世。1969年、大阪府生まれ。立命館大学文学部卒業後、1995年に毎日新聞社入社。高松支局・京都支局・大阪本社を経て現職。著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)等。共著として『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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