【震災5年・あの時】(04) 放水「一滴も無駄にしない」

20160308 08

暗闇に浮かぶ巨大な原子炉建屋は、異様な静寂に包まれていた。2011年3月18日深夜、東京消防庁のハイパーレスキュー隊に所属していた三縞圭(42)は、東京電力福島第1原子力発電所3号機の前に立った。4日前の水素爆発で、骨組みが剥き出しになっている。足が竦んだ。建屋上部の使用済み核燃料プールは、水位低下で大量の放射性物質が撒き散らされる懸念があった。水位を回復できるかは、“屈折放水塔車”を操る三縞の腕にかかっていた。仲間たちが瓦礫を掻き分け、ホースで海水を引いた。右胸のポケットの線量計が鳴り続けている。空間放射線量は毎時60mSv。一般人の1年間の被曝許容量に1分で達する。左胸には、1歳半の娘を待ち受け画面にした携帯電話。防火衣の上から握り締めた。「皆が繋いだ魂の水。一滴も無駄にしない」。不安を振り払い、操作盤のスティックに手をかけた。

■自衛隊 17日午前
第1原発3・4号機は、爆発で建屋上部が吹き飛んだことで、燃料プールへの放水が可能になった。先ず、3号機への放水を空から行うことになり、陸上自衛隊のへリコプター部隊が第1原発へ向かった。「原発への対応の為、出動する司能性がある」。陸自第1へリコプター団(千葉県・木更津駐屯地)に所属していた加藤憲司2佐(44)が、上官からそう告げられたのは14日夜。同日午前に3号機が爆発していた。危険な任務だった。大型輸送ヘリ『CH47』を使って福島県沖で海水を汲み上げ、3号機に投下して燃料プールの水位を上げる――。別の部隊が16日に向かったが、3号機から30m上空で強い放射線を計測し、放水を断念して引き返した。翌17日は被曝を分散する為、加藤が率いる部隊が指名された。午前8時56分に仙台市の霞目駐屯地を飛び立った機内には、放射線を防ぐタングステンシートを敷き、隊員は鉛の入ったベストを着込んだ。1時間ほどで建屋が見えた。操縦室の中央に座った加藤は、「屋根の無い家のようだ」と思った。前日の3倍の90m上空だったが、それでも空間線量は毎時87.7mSv。不安はあった。それでも、「やらなきゃいけない」と自分に言い聞かせた。任務が告げられた時、「行きたい」と手を挙げた隊員は多い。貴重なタングステンシートは、仲間が各地から掻き集めた。「予定通り放水を実施!」。へッドセットに叫んだ。約7トンの海水が3号機めがけ落下したのは午前9時48分。4回で計約30トンを放水した。ただ、高い位置からでは風に流され易く、プールの水位維持に役立ったかわからなかった。「原発が危機的状況を脱した訳ではない」。夕方、霞目駐屯地に戻った加藤は仲間たちに感謝したが、達成感は無かった。




■警視庁 17日午後
陸から最初に第1原発の放水作業に着手したのは、警視庁の機動隊だった。暴徒の鎮圧に使う放水車と隊員11人が、想定外の任務を担った。17日午後3時40分、午前中に飛来した自衛隊へリと入れ替わるように、警視庁警備2課管理官だった大井川典次(61)が率いる部隊が、第1原発に入った。免震重要棟で、所長だった吉田昌郎(当時56歳・2013年に死去)と顔を合わせた。「水が届いても霧になるが、それでもいいのか」。大井川は率直に聞いた。同庁の車両は、下から吹き付けるように放水するしかないからだ。「霧になっても構わない」。吉田は答えた。気がかりは放射線量だった。「若し隊員がその場で倒れたら、責任を取って警察を辞める」。覚悟を決め、6時40分、第1陣の4人と放水車に乗り込んだ。3号機を正面に見据える位置に車を停めた。空間線量は車内でも一時、50mSvを超えた。「撃て!」。7時5分、放水塔から勢いよく水が噴き出た。水量は10分間で44トン。この作業を更に2回繰り返す予定だった。だが、隊員から「被曝の上限を80mSvに設定した線量計が鳴った」と報告があり、撤退を余儀無くされた。自衛隊が放水車を投入したこともあり、警視庁の放水はこの一度だけだった。隊員の勇気は称賛を浴びたが、大井川は納得していない。「避難した人たちに元の生活に戻ってもらうことが目的だったが、今も達成できていない。『もっと放水できていれば』という思いは消えない」

■消防 18日
自衛隊・警察に依る放水の効果が見えない中、長いアームを持つ特殊車両が投入された。東京消防庁が3月18日に送り出したハイパーレスキュー隊で、屈折放水塔車の操作を任されたのは三縞圭(42)だった。「二度と家に帰れないかもしれない」。東京都立川市内の消防本部に勤務していた三縞は、第1原発への出動を命じられ、不安が頭を過った。妻は次女を妊娠していた。18日午後、冨岡豊彦(52)ら5人が先ず、偵察の為に第1原発に入った。爆発した建屋周辺の路面は綺麗に片付けられている。放水の邪魔にならないよう、原発所員が瓦礫等を除去したのだろう。「国の為に体を張ってやっている」。冨岡は頭が下がる思いがした。午後11時30分、46人の本隊が構内に入った。3号機がライトで照らされている。放水塔車を降りた三縞は「でかいな」と思った。建屋は高さ約45m。アームが届くのは22m。燃料プールから蒸気が上がっているように見え、どこを狙って放水するか考え始めた。19日午前0時前。三縞は3号機から約2mの位置でアームを垂直に伸ばし、先端を建屋に向けた。被曝線量を迎える為、車両を離れて50m先のバスの陰に隠れ、海水が届くのを待った。無線機から、ホースの設置を担当する隊員たちの声が聞こえてくる。「そっちは100mSvあるぞ!」「気をつけろ!」。暗闇の中でホースを繋ぐ姿を想像すると、仲間が心配で泣きそうになった。0時30分頃、ホースが繋がり、アームの先から水が噴き出した。50mを一気に走り、放水塔車の操作台に駆け上がった。「もう少し右! 右!」。隊長から無線で指示が飛び、スティックを動かす。「水しぶきを浴びないように」との声も聞こえたが、剥き出しの操作台では避けようもなく、マスクが水滴で曇っていく。「OK、OK。届いているよ」。それを聞いてバスへと走った。狙い通りの場所に届いているのが見えた。思わず仲間と握手した。これに依り、3号機には継続的に放水できるようになった。大阪や川崎の消防隊も駆けつけ、放水作戦は総力戦となった。原発を出て被曝線量のチェックを終えると、三縞は眠気に襲われた。東京に戻ったのは19日夜。携帯には、消防の仲間から激励のメールが沢山届いていた。家に帰ると、長女が玄関で飛び付いてきた。小さい体を抱き締め、泣いた。

■民間 22日
3号機の放水が総力戦となった頃、4号機でも燃料プールの水位が危機に陥った。投入されたのは、高さ58mに届くアームを持ち、“キリン”と呼ばれたドイツ製の生コン圧送車だった。「日本の未来を左右する大事な機械。届けるまでに何かあっては取り返しがつかない」。ドイツの『プツマイスター』日本法人で働く上之耕作(46)は、重圧を感じながら、横浜港から福島県いわき市まで“キリン”のハンドルを握った。50mを超す圧送車は当時、国内に数台しかなく、この車両は輸出用に保管されていたものを放水作業の為に急遽確保していた。20日に到着し、上之は翌日まで第1原発側の担当者に操作方法を手解きした。「頑張ってくれ。必ず水を出してくれよ」。口には出さず、そう願った。22日午後5時17分、放水開始。テレビで見て、漸く肩の荷が下りた気がした。圧送車に依る放水は、その後、1・3号機でも開始。6月までに計7台が投入され、“ゾウ”や“シマウマ”等の呼び名が付いた。「最終的に圧送車を投入できたことで、水位の維持に成功し、使用済み核燃料が露出して放射性物質が広範囲に拡散する事態は避けることができた」。東電関係者は、そう評価する。

■隊員に“日本の将来”託す  警視総監・池田克彦氏(前原子力規制庁長官)
1996年から2年間、岩手県警本部長を務めており、テレビで見た津波の映像はショックだった。16日になって、警察庁長官から「原発への放水の為の部隊を出せるか」と相談があった。警視庁の放水車は暴徒を鎮圧する為のものだ。それでも打診があるということは、余程の事情だと察した。機動隊員たちは、危険を顧みずに「行く」と言うに決まっている。東電社員が「道案内をする」とまで言っているのに、「警察官が逃げる訳にはいかない」という気持ちもあった。庁舎玄関で、「日本の将来は君たちにかかっている」と声をかけ、送り出した。現地の無線が途切れがちで、放水の状況がわからず、待っている時間が長く感じられたが、隊員の無事を確認した時は「やれるだけのことはやった」とホッとした。被災地で応援部隊を効率的に展開する為にも、民間とも連携し、被害が大きい地域を逸早く把握する体制整備が必要だ。原子力規制庁長官も務めたが、“安全神話”に捉われ過ぎていたことが事故の遠因に挙げられる。「100%の安全は無い」という前提で、対策が考えられてこなかったことが残念だ。

■装備と準備あっての決断  東京消防庁消防総監・新井雄治(東京防災救急協会理事長)
放水自体は簡単な作業だった。問題は、被曝線量を抑える為にどれだけ短時間で作業を終えられるか。そして、いつまた原子炉に異常事態が起きてもおかしくない中で、恐怖心をどう克服するかだった。当初は、爆発があっても直ぐに現場を離れられるヘリコプターでの放水を考えた。しかし、最初にヘリを使用した自衛隊からの情報で、上空の放射線量が高いことがわかり、屈折放水塔車の投入しかないという結論に至った。1999年に茨城県東海村で起きた『JCO臨界事故』を受け、東京消防庁では放射線を遮る特殊災害対策車を1台導入していた。これを放水作業時に傍に置くことで、原子炉で再臨界等が起きても逃げられる可能性がある。放水を決断できたのは、こうした装備や準備のおかげだ。威勢よく“特攻”したのでは決してない。第1原発での活動が単に「良かった」と評価されるのは危険だ。今後、想定外の事故が起きた時に、安易に出動を迫られかねない。反省点を検証し、様々な事故に万全の備えをする必要性を痛感している。

■一連の放水で「冷却回復に成功」…東電の最終報告書
東京電力の社内事故調査委員会が纏めた最終報告書は、一連の放水について、「燃料プールへの対応に失敗すれば破局的な影響が懸念されたが、冷却の回復に成功した。災害のさらなる拡大を防止した点で極めて重要な分岐点だった」と総括した。ただ、個々の効果については厳しい見方もある。政府の事故調査・検証委員会の中間報告書は、自衛隊のヘリコプターに依る上空からの放水は「ほとんど着水しなかった」とし、警視庁の高圧放水車についても「着水は限定的だった」と言及。一方、生コン圧送車は「消防車よりも確実に水を補給できた」とした。ただ、東京消防庁幹部は「圧送車も消防が引いたホースで放水しており、各機関の活動の積み重ねが結果に結び付いた」と話す。大阪大学の宮崎慶次名誉教授(原子力工学)も、「其々の効果は限定的でも、最終的に最悪の危機が回避されたことは評価すべきだ」と指摘。「東電等の事業者や国は、自衛隊・警察・消防を再び危険に晒さないよう、遠隔放水等の仕組みを整備しなければならない」と話している。

■原発事故での被曝限度
人は、日常生活でも大地や宇宙等の自然界から放射線を浴びており、そうした自然被曝や医療行為を除いた被曝の上限は、年間1mSvとされる。累積の被曝線量が100mSvを超えると、癌に依る死亡率が上昇する等の影響が出るという調査結果もある。ただ、今回のような原子力災害では、例外的な基準が適用されることも。『国際放射線防護委員会(ICRP)』は、緊急時の目安を年間20~100mSvから累積250mSvに引き上げた。放水に当たった警察や消防は、活動の限度を100mSvとしていた。 《敬称略》


≡読売新聞 2016年2月19日付掲載≡
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