【随筆】 ムラの欲望、ラムの夢

私たちは反復しているに過ぎない。「自分自身が特異な時空間を生きている特別な存在である」と思いながら、現実から目を逸らす作法を。「3.11を経て社会は変わった」等と言った人がいた。「9.11で全てが変わった」と言ってみたり、「フランスのIS(イスラミックステート)テロで世界が変わる」と言ってみたりする人もいる。近年の“民主主義の行き詰まりの中での議会外の民主主義”を求める社会運動を礼賛する議論の中でも度々、「これで政治が変わる」ことになっていた筈だ。其々が祝祭の出現に歓喜しているようにも見えるのは偶然ではない。言うまでもなく、個別の社会現象で社会全体が白から黒に転覆するような変革が起こることはあり得ない。3.11を経て何が変わったのか、省みればいい。そこにあった構造は変革するどころか、寧ろ、時間の経過の中、嘗て未熱に存在した社会システムをより強化する形で再生産されている。立ち現われた“忘却”の壁がそれを固定化する。当初から「そうなる」と指摘しても耳を貸さなかった者たちは、今や3.11を語ることは無い。語る言葉を持たないし、語ろうとしては、淡々と積み重なってきた現実を知る者から見れば、的外れな妄想を失言的に口走って炎上・バッシングや物笑いの種になるだけだ。例えば、放射線を巡るニセ科学の跋扈や、原発や復興を巡る“上から・外から目線”の教条主義的な物言い。彼らは“敵”“悲劇”を見つけては、そこに依存しながら群れようとする。ここに端的に現れるような「自分自身が特異な時空間を生きている特別な存在である」と思いながら現実から目を逸らす作法、それ自体は何ら新しいものではない。それは随分前から、ある種の欲望と夢を燃料として自動機械のように動き続けてきたものだ。それを“ムラの欲望”と“ラムの夢”と言うことができるだろう。

“ムラの欲望”とは、外部から切り離された自らのムラの論理を軸に、子や孫の幸福を願うことを指す。これは、拙著『“フクシマ”論』の中で指摘した、戦後社会と密接に癒着したメンタリティーだ。例えば、3.11以降“原子力ムラ”と批判された原子力行政・産業、或いは原子力発電所や関連施設の立地地域が抱えてきた欲望。外部への猜疑心と内に閉じた論理空間、再現性の無い科学の偽装と、際限の無い自己承認の希求に支えられた“ムラ社会の1つの側面”。これをべースに持つ小さなコミュニティーが、いつしか際限の無いムラの欲望の中で他者を傷付けかねないことも平気でするようになる。“ラムの夢”とは、「明日、祝祭があるかもしれない」という期待感の中で生まれる人々の絆と、幸福感の持続を望む高揚のことだ。しかし、この夢は夢であることに気付いた瞬間、絶望に変わる。1984年に公開された映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)では、主人公・ラムの突飛なようで多くの人が無意識的に共感可能な夢が提示される。ラムは学園祭の前日、こう口走る。「ダーリンとお父様やお母様やテンちゃんや終太郎やメガネさんたちとずうっとずうっと楽しく暮らしていきたいっちゃ。それが、うちの夢だっちゃ。だから今とっても幸せだっちゃ」。これが、夢を操る妖怪・夢邪鬼に依って現実化されてしまう。つまり、その夢とは「ある空虚な目標に向かい、仲間たちとドタバタを繰り広げる中にある強い幸福感と、それを齎す“学園祭前日”が永遠にループすること」だ。それは、ある種の躁状態の中で人々がのぼせつつ自家中毒的に疲弊し、自分自身の状況を客観視できなくなっていく依存症的な世界であり、そんな人々の生活の時空間からは認識できない深い位相において、独立したシステムとして静かに前進していく世界でもあった。日本社会における“ムラの欲望、ラムの夢”は共に、1970年代後半以降、それまでの高度経済成長が鈍化する中、「明日、必然的に世界が変化する」という実感の欠如を埋める形で生まれた幻想だ。既に様々な批評が指摘してきたように、その1970年代後半以降の時空間を生きるのはきつい。途上国的な“貧(貧困)・病(福祉)・争(戦争や紛争)の課題解決という絶対的な目標を求める欲望・夢”が消滅した中で、現実を生きようとすればするほど、「自分自身が特異な時空間を生きている特別な存在である」という感覚を得ることはできなくなる。そのきつい現実から目を逸らす夢はバブルやオウムを生み出し、その欲望は“オタク”“インターネット”“ソーシャル”といった概念に付帯する種々の文化の中で回収されてきた。




“ムラの欲望、ラムの夢”は、何らかの中空構造の周辺でこそ肥大化し、持続性を持つ。実態があるようでない、しかし、その時の時空間を確実に支配し、委ねざるを得ない対象。例えば、現政権であり“脱原発”であり“民主主義”であり。この中空構造を探しては“ムラの欲望、ラムの夢”を投影して、何れ飽き、また探しては飽きを繰り返しながら、「自分自身が特異な時空間を生きている特別な存在である」という感覚を得る。“変わる、変わった”言説が人々を魅了する理由は単純だ。そこに、祝祭前夜が即席的に出現するからだ。インターネット上には生々しく、その欲望が言葉として可視化される。例えば、3.11を巡る言葉であるならば、「甲状腺癌でバタバタ子供が死ぬ筈だ」とか「福島第1原発が実は再臨界していて東半球が崩壊する筈だ」とか。或いは、マスメディアにだって存在する。政治的動員を全て「戦争になる」という脅迫的で浅薄な概念で行おうとする傾向もそうだ。そこには、科学的実証性も文芸的想像力も存在しない。存在しているかのようにでっち上げようとする“ビューティフル・ドリーマー”の脳内を除いて。“変わる、変わった”言説が続く限り、批評の陳腐化は止まらない。当初、私は3.11を目撃する中で「ビューティフル・ドリーマーを夢から醒まそう」という戦略を取ろうとしたが、途中で諦めた。美しい夢を見続けようとする言葉は放置し、或いは有害なものが出てきた場合には、1つひとつ無害化するように対抗する。一方で、夢から醒める可能性を少しでも高める為に、中空構造に言葉を宛がっていく。ただ、1人でできる範囲は限られ、無力感を覚えるばかりだ。今、“福島第1原発廃炉”についての書籍を作ろうと、福島第1原発の構内も含めて取材を続けている。3.11以降、最大の中空構造にどれだけ言葉を宛がうことができるか、挑戦をしたいと思っている。


開沼博(かいぬま・ひろし) 社会学研究者・福島大学『うつくしまふくしま未来支援センター』地域復興支援担当・同センター特任研究員・経済産業省資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員。1984年、福島県生まれ。東京大学文学部卒。同大学大学院学際情報学府博士課程在籍。著書に『“フクシマ”論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)・『漂白される社会』(ダイヤモンド社)等。共著として『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(青土社)・『1984 フクシマに生まれて』(講談社)等。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 政治・経済

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