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【若者50年の足跡】(12) “何を着る”が“どう着る”へ――ファッション…強烈な個性、影潜め

戦時中に節約・質素が主軸だった日本の若者ファッションは戦後、進駐軍がもたらしたアメリカ文化の模倣によって“復興”をはたした。その後、個性的なデザインを日本から世界へ発信する異才がキラ星のごとく登場。これらデザイナーの服に、多くの若者が“なりたい自分”を仮託した。今、若者たちは特定の記号=ブランドにとらわれずごく自然体で服を、雑貨を選ぶ。商業の大きなうねりが日本のファッションシーンを洗うなかで、かつての強烈な個性は影を潜めつつある。

1960~1980年代の東京・原宿に、若手デザイナーがたむろする伝説の店があった。喫茶店『レオン』。後のDC(デザイナーズ&キャラクター)ブランドブームの発火点となる。場所は明治通りと表参道の交差点。文化人やカメラマンの事務所が入居する原宿セントラルアパートの1階だ。「川久保玲や山本寛斎がお茶する横でファッションショーの演出家、四方義朗が仕事の話をしている。独特の空気が支配していて、わくわくした」。当時、原宿でアルバイトをしていた、ラフォーレ原宿社長の荒川信雄(50)は回想する。モデルやデザイナーらが集う店内を眺めれば先端ファッションが一目で把握できた。店内の客は大きな窓ガラスを通して思い思いのスタイルで闊歩する若者を観察した。見る・見られる――。視線が交錯する中で磨かれるのがファッション。象徴的な場所がレオンだった。進駐軍の住宅『ワシントンハイツ』からほど近い原宿は1960年代にアメリカ文化の洗礼を受け、“おしゃれな街”の下地が形成された。大小さまざまなマンションにデザイナーが集まり、原宿特有のファッションビジネスが誕生。1室に事務所を構える小規模アパレル『マンションメーカー』だ。服づくりも経営も宣伝も1人でこなし、事務所がアトリエと倉庫を兼ねた。店を構えるだけの資金はないが、デザインは豊富で個性的。そんな気鋭のデザイナーたちの才能を開花させる拠点がレオンの向かいに登場する。1978年開業のファッションビル・ラフォーレ原宿だ。1~2年は富裕なミセス向けのテナント構成が苦戦。運営する森ビルは新館長の佐藤勝久(72)にてこ入れを託した。




佐藤が目をつけたのは、レオンに出入りするマンションメーカーだった。資金に乏しい面々を次々と誘致。ビバユー・アトリエサブ・コムサデモード。国産ブランドの新顔に若者が飛びついた。これらマンションメーカーや三宅一生・川久保玲・山本耀司らの服は、デザイナーの個性やブランドイメージ(キャラクター)が色濃く出た服=DCブランドと総称された。『アンアン』『ポパイ』といったファッション誌が一斉にとりあげ、1980年代半ばにかけて一大ブームが起こった。男性に熱烈に支持されたジュン(東京・港)ではロゴTシャツが500万枚も売れ、赤や青のカラースーツがすぐ品切れになったという。「人と違う装いが自己表現だった。変わったデザインの服で各社はこれでもかと競った」と社長の佐々木進(49)。1ブランドで上から下までそろえたいとカードローンで服を手に入れる若者も多かった。セールは過熱し、ラフォーレ原宿には6000人が行列した。学校を休む生徒が続出し、開始時間を朝7時に繰り上げたほど。「カリスマ的なデザイナーや、服をかっこよく着こなすハウスマヌカンにあこがれ、まねをしたかった」。当時の若者がファッションに夢中になった理由をパルコのシンクタンクである『アクロス』の編集長・高野公三子はこう語る。それはエルビス・プレスリーのリーゼントや、ツイッギーのミニスカートにあこがれた1950~1960年代の若者たちと同じ心理だ。スタイルをまねることで、あこがれの存在に一歩近づく。ただしファッションは「見る・見られるという行動がなければ成り立たない」(高野)。“見せびらかす”舞台は飲食店やディスコ、ストリート。竹の子族は街中でダンスをしながらファッションも披露した。

だが、1980年代末から「同じブランドで全身を固めるのはかっこ悪い」という価値観が台頭する。“何を着るか”から“どう着るか”への意識の転換だ。発端が“渋カジ”で主役は渋谷で遊ぶ私立高校の男子生徒。ルイ・ヴィトンのバッグにリーバイスのジーンズを合わせて“はずす”。“ブランドじゃないと安心できない”世代から進化した。さらにバブル崩壊後は『リアルクローズ(現実的な服)』という言葉が浸透した。発表される服が芸術的領域に達していたパリ・コレでは、モデルが着用する服はすぐに街中で着られるデザインへと変化した。ある種の“変身願望”をかなえる力を服が失うなかで、若者は身体の改造に目覚める。ガングロといった特異な化粧をしたり、ランニングで体を鍛えたりした。バッグや靴が自己表現のアイテムとなった。近年の日本のファッションの主役はユニクロやしまむらなど和製ファストファッションとインターネットだ。どこでも安くて好みの服が買える。ただ、売れ筋が追求され、服の個性は見えにくくなった。「着る服が何であっても主役は自分、というのが若者の気分」と高野は言う。今、ファッションを吟味する“他人の目”は、バーチャル空間に増殖中だ。自分のコーディネートを撮影して投稿すれば、ネットで絶賛されてスターになれる。自作のアクセサリーを販売する“売り場”を持つのだって簡単だ。かつての原宿とマンションメーカーが発散した熱気はネットの世界に潜行する。 《敬称略》

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■“わくわく感”が見られない ファッションデザイナー・稲葉賀恵氏
デザイナー・稲葉賀恵氏は1970年に『BIGI』を立ち上げ、個性を放つ婦人服でDCブランドブームをけん引した。今なお現役で活躍する服の送り手に、若者のファッション観はどう映るのだろうか。

1970年に大楠祐二さん(現ビギグループ代表)、夫であったデザイナーの菊池武夫さんらとビギを設立しました。倉庫を兼ねた一室で好きなものを作るマンションメーカー。ビギの婦人服のテイストはロック・ロンドンでした。その頃ヨーロッパではイギリスが断然、かっこよかった。ブランド名もロンドンの人気店『BIBA』にあやかって付けました。原宿に店を出し、たっぷりとした袖のブラウスなどのアイテムは飛ぶように売れました。幅広のベルボトムのジーンズは1万5000円くらいして、どれも高かったですよ。着こなすのが難しかった服なので、多くのお客さんがついていたわけではありません。外国帰りの安井かずみさん(作詞家)をはじめ感度の高い人から火が付いていきました。当時、個性的なブティックといえば六本木にあった『ベビードール』とうちくらい。ほしいけど買えない、あこがれの対象として周りから見られていましたね。

若者のファッション観が変わってきたのは1970年代後半からです。それまでは選択肢がなくて、デートの時は学生でも“正装”でした。そこに学生運動・ヒッピー・ウーマンリブなどが登場して、少しはずれたものを求めるようになりました。ビギは雑誌で取り上げられ、渋谷西武などに売り場ができ、ビジネスは急成長。運が良かったです。バブルもあった1980年代はDCブランドの黄金期で、都市開発が進み、ファッションが地方へと広がっていきました。輸入生地を手ごろな価格で分けてくれたり、百貨店の一等地に商品を置かせてくれたりと、若手デザイナーに寛容なファッション関係者もいた。日本のファッションを育てていこうというムードがありました。ただ、ボリュームゾーンの人たちに売れるデザインを意識するようになると、とんがったデザインを控えめにせざるを得ません。幅を狭くしたベルボトムジーンズはどんどん売れましたが、それがDCブランドの個性をなくすことにつながったことは否定できません。

1970~1980年代に多くの若者は、デザイナーが発信する強烈な個性、哲学を共有しようとファッションに熱狂しました。フリフリのお人形さんのような服、真っ黒なモード系。アイビーリーガーに憧れる。若者はファッションに「ああなりたい」というイメージを投影した。今の似たり寄ったりの商品では、なりたいイメージも憧れも生まれないのでは。若い人を見るとスタイルがいいし、何を着ても似合う。一見みな、おしゃれになったとは感じています。ただ、ネットで服を探し、人と触れ合わずに購入する。好きな服を手に入れたり、おしゃれを楽しむという“わくわく感”が、失われているような気がしてなりません。


いなば・よしえ 1939年東京生まれ。1964年オートクチュールのアトリエを開く。1970年に菊池武夫氏らとビギを設立。1972年にブランド『モガ』を立ち上げる。1981年『ヨシエ イナバ』のデザイナーに就任した。著書に『マイ・フェイヴァリット きものに託して』。75歳。


キャプチャ  2014年12月21日付掲載


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