【震災5年・あの時】(06) 自衛隊「消火より救助だ」

20160315 01

眼下の街が水没し、白煙が立ち込めていた。「まるで空爆後の街だ」。東日本大震災から一夜明けた2011年3月12日朝、岩手県沿岸部の上空で航空自衛隊の大型輸送ヘリ『CH47』を操縦していた浜砂洋充3佐(48)は、直には見たことがない戦場の光景を重ねた。「手を振ってる!」。乗組員が声を上げた。大槌町内のビルの屋上に、複数の人影が見える。この時の任務は、付近の山林に延焼した火災の鎮圧。だが、雪の舞う中を一晩生き抜いた人たちが、余震の津波に襲われたらどうするのか。「急を要する。消火を止めて救助を実施したい」。へッドセットに呼びかけると、青森・三沢基地の指揮所から「その通りにせよ」と指示が返ってきた。同じ頃、海自のイージス艦は福島沖に到着。陸自の各部隊は陸路で被災地入りした。自衛隊史上最大、10万人超の隊員に依る救出作戦が本格化しようとしていた。

①12日午前 航空自衛隊
航空自衛隊では、物資等を運ぶ輸送へリコプターも救出活動に加わり、水没した街で孤立した人々を運んだ。2011年3月11日、大槌町にある4階建ての植田医院は海のような濁流に囲まれた。スタッフや近所の住民ら18人が、3階を突き抜けた津波を間一髪逃れ、屋上等に取り残された。院長の植田俊郎さん(61)は、登山用のザイルを屋上のフェンスに張った。「次の津波が来たら、皆でこれに掴まるしかない」。夕方から雪になり、山火事も見えた。眠れぬまま朝を迎えると、へリの音が聞こえた。傍には80歳を超えた母親。空へ向けて赤い布を振った。空自三沢ヘリコプター空輸隊の浜砂洋充3佐(48)が、植田医院の上空でホバリングを開始したのは、午前10時20分頃だった。11日は三沢基地で現場のへリとの連絡役を務めていた為、搭乗しなかった。12日は早朝から出動し、山林火災を消す為に海水の汲み上げと投下を繰り返した。市街地の惨状に「恐ろしい…」と思わず声が出た。途中で、乗組員がビルの屋上の人影に気付いた。ただ、浜砂さんのCH47は輸送ヘリだ。空輸隊のへリが吊り上げ救助を実施したことは、震災まで前例が無かった。この日は、乗組員の機転で救助器具を積み込んでいた。吊り上げ救助の訓練も、万が一を考えて2年ほど前から始めていた。「救助を実施したい」。迷わず指揮所に伝えた。別のビル等から計43人を安全な場所に運んだ後、植田医院へ。ホバリングしながら、吊り上げを繰り返した。50人以上が搭乗できる機内に植田さんの母親ら6人を収容したところで、基地へ戻る分の燃料しかない“ビンゴフューエル”の状態となった。救助を打ち切り、三沢に戻った。植田医院の残りの避難者は、続けて到着した別の空輸隊へリが救出した。翌13日、浜砂さんは100人以上の犠牲者を出した釜石市の鵜住居地区防災センターでも救助を行った。それでも、「もっと効率的に救助できたのではないか」という思いが消えたことはない。2014年秋、センターの跡地を車で訪れ、献花台に花を手向けた。「常に不測の事態を想定した訓練が必要だ」。自分に言い聞かせ続けている。




②13日午前 海上自衛隊
震災直後、海上自衛隊は航行可能な全艦船を東北地方に急派。ミサイル迎撃システムを持つイージス艦も生存者の捜索に当たった。「人がいます!」。福島県沖で捜索を行っていたイージス艦『ちょうかい』の艦橋がざわめいた。震災2日後の13日午前11時12分。見張り台に立つ吉田季文3曹(25)が覗く20倍の双眼鏡は、洋上を漂う板の上の人影を捉えた。ちょうかいは地震発生の1時間40分後、東京湾の橫須賀基地を緊急出港し、12日未明には福島沖に到着した。波間には建材やコンテナ等が見渡す限り浮かんでいた。吉田さんの一報を聞き、航海指揮官だった大峰昇一郎3佐(38)は艦内放送で告げた。「救助に向かう!」。自ら小型ボートに乗り込む為、艦橋から急傾斜の階段を駆け降りた。ボートでは滝石信幸1曹(44)が操舵手を務め、瓦礫を避けながら慎重に進んだ。メガホンを持った大峰さんは「落ち着いて下さい」と呼びかけ続けた。男性(65)が乗っていたトタン張りの屋根は沈みかけていた。「もう大丈夫ですよ」。ボートに移すと、乗組員が男性の背中に毛布をかけ、艦内の自動販売機で買ったスポーツ飲料を渡した。南相馬市の自宅が津波に襲われてから43時間。男性は、持っていた栄養ドリンク2本を少しずつ飲んで命を繋いだ。大峰さんは、「耐え抜いてくれたことに勇気を貰い、艦の士気は上がった」と語る。ちょうかいはその後、沿岸の島への物資輸送や損壊した港の調査に当たった。が、そこでもボートに乗り込んだ滝石さんは、漂流物が密集する海での操船に苦労した。「多数の漂流物を想定した準備が必要だった」と感じ、日頃の訓練で後輩たちに経験と教訓を語っているという。

③14日午前 陸上自衛隊
取り残された人の生存率が急激に下がる“72時間”が迫った。陸上自衛隊の隊員たちは、至るところに遺体がある街で瓦礫を掻き分け、捜索を続けた。瓦礫の下、屋根の上…。水浸しの街を歩くと、遺体が次々に目に入った。宮城県大和町から駆け付けた陸自第6戦車大隊。千葉宏文准尉(52)や島田篤史1曹(39)ら約30人が13日朝、石巻工業港の近くで捜索を始めた。“72時間”は、翌14日午後。千葉さんたちは焦った。10人1組で、ひっくり返った車を押し除けて進んだ。「自衛隊です! 誰かいませんか?」。雪がちらつく中、胸まで水に浸かりながら声を振り絞った。多くの生存者は自宅等の2階以上に逃れ、救助を待った。石川貴俊さん(46)一家もそうだった。妻のユキさん(46)が、生後4ヵ月の長女・彩花ちゃんを寝かしつけていた時、激しく揺れた。心配してくれた隣の夫婦の家に移り、勤め先から貴俊さんが戻ったところで津波が来た。「やばい!」。隣家の2階に全員で駆け上がった。窓から黒い水が見えて家が揺れ、ユキさんは彩花ちゃんに窓のほうを見せまいと懸命だった。階段を上がってきた海水が、床に達する直前で止まった。夜が明けても、深さ1mほどの水が家を取り巻いている。ユキさんは空腹も忘れ、ペットボトルの水で粉ミルクを溶いた。哺乳瓶は手で擦って温めた。4日目、水が引いた家の外に自衛隊員が集まってきた。「やっと出られる」。1階に下りた貴俊さんは、ピンクのおくるみに包まれた彩花ちゃんを窓から差し出した。「よく生きていてくれた」。一家の救出に加わった島田さんは嬉しかった。ただ、過酷な現場も多かった。島田さんが助けた寝たきりの高齢男性は、同じ家の中で妻が力尽きており、男性に見せないように遺体を外へ出した。千葉さんは、小さな子供を抱き締めた格好で見つかった女性の遺体を運んだ。「若い隊員はかなり動揺していた」。自衛隊全体で計9505人の遺体を収容。隊員がこれだけ多くの死と向き合うのは初めてのことだった。石川彩花ちゃんは5歳になった。避難所ではよく熱を出し、貴俊さんとユキさんは気を揉んだが、ぶかぶかだった園児服が今はぴったりに。家でも幼稚園でも元気に走り回っている。ただ、地震があれば「地震怖い」「津波来るの?」と心配そうにユキさんに聞いてくる。震災で閉じ込められた経験は伝えていないが、ユキさんは「もう少し大人になったら、色々な人に助けられたことをきちんと伝えたい。人に感謝できる大人になってほしいから」と話す。来春、小学校に入学する。

■隊員の精神的ケアが課題に
東日本大震災における自衛隊の活動では、隊員の精神的ケアや輸送力の不足等、有事対応とも共通する課題が浮かんだ。津波の被災地は、嘗てなく多くの遺体に接する現場となった。当時、陸自トップの陸上幕僚長だった火箱芳支さん(64)は、「心の問題は気がかりだった。活動を継続する為にも、直ぐに専門家を派遣し、休息施設を設置した」と振り返る。被災地への派遣後に防衛省が実施した調査では、陸自隊員(回答数約5万8000人)の3.3%がトラウマ(心的外傷)になる恐れのある“高リスク”とされた。同省が2012年に纏めた教訓集も、「精神的ケアの実施態勢が不足」等と課題を挙げた。震災直後、各地の部隊が迅速な被災地入りを目指したが、輸送艦を確保できなかった北海道の陸自部隊は急遽、民間のフェリーを借り上げ、被災地入りした。ただ、フェリー会社には警察や消防からの輸送依頼も殺到。当時、陸上幕僚監部で船舶輸送の担当だった吉岡充2佐(45)は、「民間の協力は大きかったが、どの順番で、何をどの程度運ぶのか、事前に調整することが今後の課題」と指摘する。自衛隊施設の脆弱性も問題となった。空自松島基地(宮城県東松島市)は、津波の直撃で震災から数日間、滑走路等が使えず、救助や物資輸送に当たる自衛隊機の離着陸に影響が出た。元空自航空支援集団司令官の永岩俊道さん(67)は、「施設の防災力や、隊員が臨機応変に対処する力を高めることは有事対応でも欠かせない。松島基地の経験は、最悪の事態を見据えた教訓になる」と話す。火箱さんは震災直後、防衛大臣の開令前に、部隊を運用する権限が無いにも拘らず、独断で各方面隊に東北への派遣を指示した。「規則に触れるとの自覚はあったが、1秒でも早く被災地に行かせることが重要と思った」と語る。陸自の部隊は、福島第1原発での放水作戦にも参加した。「依頼があれば可能な限り対応したが、能力にも限界がある。災害時に省庁・自治体が負う役割を予め明確化しておく必要がある」。火箱さんはそう強調している。

■大川小学校で68日間捜索に従事
児童・教職員計84人が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の周辺では、陸自隊員が子供らを捜索し、遺体の収容にも当たった。高知県香南市の駐屯地から派遣された第50普通科連隊の85人が、不明者の捜索を本格化させたのは3月19日から。中隊長だった宇郷武昌3佐(51)は、「雪が降る被災地で、沼地に入っての作業は体が震えた」と話す。22日には少女の遺体を見つけた。名札を見ると、小学4年生だった。遺体を大川小学校の傍へ運ぶと、我が子を捜す父母が大勢待っていた。「○○ちゃんだ!」。残酷な再会の場面は、隊員たちにとって見ていられないほど辛かった。4月中旬、宇郷さんは大川小学校の校舎内を片付けるよう命じた。「思い出を掘り起こせ」。教室を掃き、教科書の砂を叩き落として本棚に入れた。68日間の活動で宇郷さんの部隊が収容した遺体は60人以上。精神の変調を窺わせる隊員は捜索から外し、毎日、最後に黙祷をした。隊員の気持ちを静める意味もあった。宇郷さんは、「ストレスを溜めさせないことが大切。毎日、車座になってその日あった出来事を話し合うようにした」と振り返る。

■“トモダチ作戦”、連絡調整担う
アメリカ軍も自衛隊と連携した“トモダチ作戦”を展開し、不明者の捜索や被災者の生活支援に当たった。海自第5護衛隊司令だった岩崎英俊海将補(51)は震災の2日後、三陸沖に急派されたアメリカ軍空母『ロナルド・レーガン』に移り、約20日間、連絡調整役を担った。アメリカ軍はへリコプターの乗員に日英の対訳表を持たせ、避難所等で人数や必要な物資を聞き取っており、「今後、海外で活動する上での参考になった」と話す。ロナルド・レーガンの約5000人の乗組員は、艦内で私物の防寒着や自分の子供の玩具を集め、被災地で配る活動もしていた。練習艦隊司令官として今春、幹部候補生学校の卒業生と航海に出る岩崎さんは、被災地への寄港を考えているという。岩崎さんは、「5年が過ぎた被災地を見て、自分が何をすべきか考えるきっかけにしてほしい」と語っている。


≡読売新聞 2016年2月21日付掲載≡


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テーマ : 東日本大震災
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