文春的なものと朝日的なもの――なぜ“2つの吉田問題”で文春の朝日叩きがあれほど燃え上がったのか

朝日新聞の“2つの吉田問題”が雑誌ジャーナリズムを賑わしていた時、私は私の新刊(10月末刊行の)『続・酒中日記』のゲラに目を通していって、ある思いにとらわれた。それは、「みんなみんな逝ってしまった」という思いだ。「みんなみんな行ってしまった」というのはイギリスのエッセイストで詩人でもあったチャールズ・ラムの詩の一説だ(オール、オール、ゴーン)。大学2年の時に必修の英語の授業で、ケンブリッジ大学出身のイギリス人・F先生から教えてもらった。私は大学を1年留年した。5年生の時、たまたまその教室の前を通りがかった時、心の中で、「オール、オール、ゴーン」とつぶやいてしまった。同級生の多くがもう大学を卒業してしまっていたから。

しかし今回の“オール、オール、ゴーン”の“ゴーン”は“行って”ではなく“逝って”だ。例えば2011年12月1日の書き出し。

6時半から帝国ホテルで『丸谷さんの受章をお祝いする会』。少し早めに着いてしまったので地下の『虎屋菓寮』でお茶でも飲もうかと思っていたら、偶然(いや必然?)粕谷一希さんと会う。

“丸谷さん”というのはもちろん丸谷才一さんのことで、この年の秋、丸谷さんは文化勲章を受章し、それを祝う会が帝国ホテルで開かれたのだ(その時最初にスピーチしたのは吉田秀和だった)。そして粕谷一希さんは私の『東京人』時代の編集長。2人共この世にもういない。この日記には山口昌男先生・常盤新平さん・小沢昭一さん・松山俊太郎さん、それから赤瀬川原平さんも登場する。まさに、“みんなみんな逝ってしまった”だ。




先に私は、朝日新聞の“2つの吉田問題”が雑誌ジャーナリズムを賑わしていた時、と書いた。雑誌ジャーナリズムと言っても、『WiLL』や『正論』といった雑誌が大騒ぎするのは不思議ない。そもそもそれらの雑誌は朝日叩きが売りなのだから。私が意外に思ったのは(と言うより、オビエさせたのは)『週刊文春』だ。もちろん文春と朝日は対立構造にあり、文春はしばしば朝日を批判して来た(その文春ジャーナリズムに私は育てられたと言っても過言ではない)。しかし今回の朝日叩きは度が過ぎたと思う。何しろ7週に渡って(8月28日号から10月9日号まで)朝日新聞への“追及キャンペーン”を続けたのだから。その第1弾は頁数的にも(4ページ)、内容的にも納得行くものだった。しかし第2弾(10ページ)・第3弾(16ページ)・第4弾(15ページ)・第5弾(15ページ)・第6弾(17ページ)と進んで、第7弾に至っては“保存版”と題して有識者たち34人の「“朝日新聞”問題 私の結論!」が載っていた。これがまた私の気持ちを萎えさせたのだが、そんな中で私が一番納得出来たのが文春OBの半藤一利の言葉だったのは皮肉だ。「朝日バッシングに感じる“戦争前夜”」と題するその一文で半藤さんは、朝日新聞社の“謝り方”の問題点を指摘しつつ、こう述べていた。

ただ、いまの過度な朝日バッシングについては違和感を覚えます。週刊文春を筆頭に、読売・産経などあらゆるメディアが一つになって、ワッショイワッショイと朝日批判を繰り広げている。私は昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにあると思っています。これがいちばん大事です。昭和6年の満州事変から、日本の言論は一つになってしまい、政府の肩車に乗って、ワッショイワッショイと戦争へ向かってしまった。

そして半藤氏はこの一文を「今の朝日バッシングには、破局前夜のような空気を感じますね。好ましくないと思っています」と結んでいる。丸谷才一が生きていたら、あるいは粕谷一希が生きていたら、この問題をどう論じていただろう。

文春的ジャーナリズムと朝日的ジャーナリズムがある(あった)。しかし以前は、その2つは今ほど離れていなかった。その2つのジャーナリズムの双方に活躍する文筆家もいた。丸谷さんはその1人だった(今は亡き井上ひさしさんも同様だ)。そういう文筆家が殆どいなくなって私は寂しい。文春的ジャーナリズムと朝日的ジャーナリズムの他に新潮社的ジャーナリズムもある。さらに絞って述べれば『週刊新潮』的ジャーナリズムだ(もちろん本誌もそのラインにある)。『週刊新潮』は『週刊文春』以上に反朝日的だ(これは創刊以来の伝統だ)。しかしそこで連載されていたコラムはただの反朝日ではなかった。私はあの人のこと、そしてその何年か前に亡くなったあの人のことを考えている。

最初の“あの人”とは山本夏彦だ。平成14(2002)年に87歳で亡くなった山本夏彦は長く、『週刊新潮』で『夏彦の写真コラム』の連載を続けていた。その平成4年2月13日号の回で山本夏彦は、「“豆朝日新聞”始末」と題してこう書いた。

私の第1コラム集『日常茶飯事』(いま中公文庫)は昭和37年に出た。本になる前に福田恆存氏がその何篇かを世に推してくれたので大磯まで礼に参上した。初対面である。そのとき何の土産もないので私は『豆朝日新聞』の創刊から終焉までの1年間を語って笑ってもらった。“作り話”である。けれどもこの話だけは残念な気がして、ずうっとあとで『“豆朝日新聞”始末』を書いた。それがこの2月下旬文藝春秋から本になって出る。いま校正している最中である。大朝日新聞昨今の朝鮮人慰安婦問題の報道ぶりを見ると相変らずである。本欄にそのダイジェストをさせてもらうゆえんである。ご寛恕を請う。

なぜ山本夏彦が『豆朝日新聞』の創刊を思いついたのかと言えば、朝日の売り物である“良心”や“正義”に“だまされてはいけない”と思ったからだ。

朝日新聞はながく共産主義国の第五列に似た存在だった。第五列というのは国内にありながら敵勢力の見方をするものである。それなら朝日新聞はわが国の社会主義化を望むかというとそんなことは全くない。資本主義の権化である。朝日は昭和天皇を常には天皇と呼び捨てにしていたのに、逝去の日が近づくと陛下と書き出した。ついには崩御と書いた。最大級の敬語である。読売が崩御と書いてひとり朝日が書かないと読者を失うかと恐れたいきさつはいつぞや書いた。朝日の売り物は昔から良心(的)と正義である。こんなことでだまされてはいけないとむかし私は『豆朝日新聞』の創刊を思いたった。

かつて(今から7~8年ぐらい前まで)地下鉄の駅々にタダでもらえる葉書大のPR紙『ことばの豆辞典』というやつがあって、『豆朝日新聞』はそれをまねて「乗客のとり去るにまかせている」のだ(“駅々”と書いたが、私がそれを目にしたのは銀座線の表参道駅や銀座駅つまり銀座線のホームばかりだったからたぶん山本夏彦はオフィスのあった虎ノ門駅のホームで見かけたのだろう)。

題字は本物の朝日新聞の桜吹雪をそっくり模写して上に“豆”の字を冠したからオヤと皆々手にとってくれる。葉書大の上質紙には裏表5枚書ける。この世に5枚で書けないことはない。大朝日はこう言うが豆朝日はそうは思わぬと私は反駁する。紅衛兵の目は澄んでいたと書いてあれば、わが軍国少年の目も澄んでいた、毎日同じことを言って聞かせれば信じて子供の目は澄む。林彪は健在だというが死んでいる。大朝日がソ連のハンガリー侵攻の非をかばえばわが豆朝日は「春秋に義戦なし」と嗤う。

朝日新聞を批判するに当っても山本夏彦の文章には芸がある。ユーモアがある。もちろん山本夏彦ほどの芸を持つ文筆家は稀だ(最近はますます少くなっている――そういう中でその芸風を継いでいる1人が呉智英さんだ――『週刊文春』10月9日号の特集に載った「言論の世界に地殻変動が起きた」も良かった)。ユーモア、と書いたが、かつての保守派(と呼ばれる人)の文章にはユーモアがあった。それに対して進歩派の人たちの(時に極左の人たちの)それにはユーモア(すなわち自己省察能力)が欠けていた。であったのに、最近の保守派(と私は認めたくないのだが)の人たちの文章にはユーモアがない。だからそれらの人たちの文章が集められると、声(トーン)が重なり、そのトーンが私をオビエさせるのだ。

ところで山本夏彦の『週刊新潮』のこの連載コラムは次の号(平成4年2月20日号)で従軍慰安婦問題を話題にしている。当時、従軍慰安婦問題に関して、韓国政府が日本政府に対して補償金を要求し、それを朝日新聞が支持したのだ(ちなみにいわゆる『河野談話』が発表されるのはその翌年だ)。

ちょっと待ってくれ、韓国とのことは何もかも解決済みだったじゃないか。盧泰愚大統領は「過去の束縛にいつまでも縛られていることはできない」「日韓両国は、これから未来に向かって手を携えて進もう」と天皇と約束したばかりじゃないかと言うのは、『諸君!』平成4年3月号巻頭の『紳士と淑女』である。日韓会談は昭和26年李承晩大統領が巨額の請求権をふっかけ、朴正煕の第7次までもみにもんで14年もかかって昭和40年『日韓基本条約』で妥結した。政府無償贈与3億ドル・政府借款2億ドル・民間借款3億ドル…計8億ドルで韓国はいっさいの対日請求権を放棄したのだ。元従軍慰安婦問題で『産経抄』もヤン・デンマンの『東京情報』も同じ主旨を言っているがまだ足りない。慰安婦問題のキャンペーンに日本人の過半は不満なのにその声は新聞に反映しない。誠意を示せと朝日新聞は言うが誠意とは何か、金か。韓国人が言うなら分からないではないが日本人が言うのである。





では『週刊新潮』にコラムを連載していたもう1人の“あの人”について語ろう。いやその前に私の読書(新聞や雑誌読み)の来歴を語りたい。朝日・読売・日経・サンケイ・サンスポの5紙だ(何故毎日は取っていなかったのだろうか)。それらの各紙(除く日経)を私は小学校低学年の頃から毎日読んでいた。つまりサンケイも読んでいた。当時のサンケイは不思議な新聞で共産党のシンパで知られた手塚治虫のベトナム反戦マンガ『アトム今昔物語』が週一で連載されていた。しかしやはり保守派の新聞だ。私が大学に入った頃、他紙ではまだまったく扱われなかった北朝鮮の拉致問題についての連載記事が載り、その問題をめぐって同級生(彼はのちに信濃毎日新聞の記者となる)と論争したこともあるし、カンボジア(クメール・ルージュ)の平和とは程遠い姿もほぼリアルタイムで知っていた。つまり私はかなり保守的な学生だった(同級生やコミコミ誌の先輩は私のことを右翼と呼んでいた)。福田恆存に出会ったのもその頃のことだ。最初は作品(『人間・この劇的なるもの』)を知り、やがて生身の福田さんとも出会えたのだ。

そんな私ではあったけれども、しかも文春小僧であったのに、『諸君!』を愛読した記憶はない。文春本誌は父が毎月購読していたから、普通に目を通していた(中で一番楽しみにしていたのは昭和52年11月号から始まった丸谷才一と木村尚三郎と山崎正和の『鼎読書評』だ――谷沢永一の存在もその連載で知った)。『週刊文春』と『週刊新潮』は毎週、実家で購入していたので、小学校3年生ぐらいの時から目を通していた。ただしさほど夢中だったわけではない。私が『週刊文春』に夢中になって行ったのは、同誌がリニューアルした昭和52(1977)年5月頃からだ(つまり昭和52年が私と文春との関係の中でエポックとなる年だった)。当時の『週刊文春』はサラリーマン(つまりおっさん)向けの雑誌で10代の私にはあまりなじめなかったのだ。むしろ私は『週刊朝日』の方が好きだった。しかし実家では購読していなかったから、高校・予備校時代の私は月1回か2回購入するだけにとどまった。

今私の手元に同誌の1977年4月1日号が残されている。その目次を開くと連載陣は司馬遼太郎(『街道を行く』)・結城昌治(『志ん生一代』)・野坂昭如(『オフサイド77』)・五木寛之(『深夜草紙』)・瀬戸内寂聴(『嵯峨野日記』)・池波正太郎(『真田太平記』)と超強力だ。そうだ、朝日と文春をクロスオーバーする論客と言えば司馬遼太郎と野坂昭如がいたのだ(先に名を挙げた丸谷才一と井上ひさし、そして司馬遼太郎亡きあと、残るは野坂昭如だけだがその野坂氏の連載が読めるのが本誌と毎日新聞だけというのが2014年のジャーナリズム風景だ)。何故この号が私の手元に残されているのかと言えば、それが東大の合格発表を特集した号だからだ(ちなみに私はこの年東大を受験したが1次試験で落ちた)。興味深いのは“新東大生100人即日調査”というアンケートだ。「将来の進路は」という質問に野崎歓という人は「仏文科に進み、学者か創作者に」と、熊野純彦という人は「なるべく学問を続けたい。ドイツ哲学、とくにカント」と答えていて、さすがだが(まったく何も考えていなかった私は1次試験で落ちるわけだ)、山口二郎という人が、「朝日新聞希望」と答えている(もし彼が朝日新聞に入社していたらどのようになっていただろうか)。

先にも述べたように私は『諸君!』を愛読していなかった。しかし大学に入学したら、私に『人間・この劇的なるもの』を勧めてくれたH君(現在読売新聞)の影響もあって、時々同誌にも目を通すようになった。そして例えば谷沢永一の『本の立ち話』や百目鬼恭三郎の『解体新著』といった書評コラムを愛読した。百目鬼恭三郎と言えば朝日新聞の記者でありながらサンケイ新聞の記者以上に右派的な人物だったが、当時活躍していた作家や評論家たちを震え上がらせていたのは彼が“風”という匿名で『週刊文春』に連載していた新刊書評コラムだった。“風”は『週刊文春』の大名物コラムでありながら、その連載は文春からまとめられることなく、ダイヤモンド社から刊行された(当時のダイヤモンド社の社長は私の父親だったけれど、それは父親の度量ではなく、当時の同社に何人かの名物編集者がいて、そのうちの1人は渡部昇一や小室直樹の最初の一般書を担当した人物で『風の書評』も彼の手になる――彼はその前に百目鬼氏が本名で刊行した『たった1人の世論』という評論集も担当していた)。

文春から刊行できなかったのは、“風”が井上ひさしを激怒させたからだと言われていた(井上ひさしが朝日新聞の文芸時評で絶讃した川崎長太郎の『淡雪』に対して“風”が、ディテールがデタラメでこんな人物の“反原爆”にだまされているようではしょせん進歩的文化人に過ぎないと述べたことに対して、井上ひさしは昭和22年当時の『科学朝日』を古本屋で買い求めて“風”に対して徹底的な反論を行なった)。そのことを気に病んだのが丸谷才一さんだった。丸谷さんと百目鬼氏は旧制新潟高校及び東大英文科の同級生で、つまり親友だった(だから編集委員となった百目鬼氏が朝日新聞の一面で丸谷さんの“新作”――刊行僅か1週間後の――『裏声で歌へ君が代』を取り上げた時、江藤淳から「あの朝日新聞が丸谷才一の小説を一面で取り上げるとは、しかもこの記事を書いた百目鬼恭三郎という記者は丸谷才一の旧制高校以来の同級生だというではないか」と強烈に批判された)。丸谷さんは井上さんとも親しかったから、“風”と井上さんのぶつかりを気にし、いつか“手打ち”をと思っていたのだ。その機会は1991年1月27日にやって来た。当時『東京人』で丸谷さんを中心とした『東京ジャーナリズム大批判』という座談会が隔月連載され、その「“広辞苑”“大辞林”“日本語大辞典”を引きくらべる」の回(1991年5月号)の出席者が丸谷さんと井上さんと百目鬼さんだった。その座談会が単行本(『丸谷才一と17人の1990年代ジャーナリズム大批判』青土社・1993年)に収録された時、丸谷さんはその本の巻頭で、「百目鬼恭三郎さんは亡くなるちょっと前、病院から抜け出して出席し、歯に衣きせぬ直言で国語辞典を批判してくれました」と述べている。それは私が『東京人』をやめて間もなくのことだったが、私はその連載の担当者でもあったから、やはり担当者だったデスクのMさんから、その時の丸谷さんのほっとした様子を耳にした。

ところで江藤淳の名前を出したが、もともと江藤淳は丸谷才一の小説に批判的だった(フォニー・いんちきと呼んだ)けれど、江藤淳がそこまで過剰に反応したのは、その媒体が朝日新聞だったからかもしれない。1970年代・1980年代の江藤淳は『文藝春秋』や『諸君!』の、そして毎日新聞(9年間も文芸時評をつとめた)の人だと思われていたけれど、それ以前はむしろ朝日と特別な関係にあった。代表作の1つである『アメリカと私』は『朝日ジャーナル』に連載されたものであるし、アメリカ留学(及び教員)時代をはさむ昭和36(1961)年からの2年間と昭和40(1965)年からの2年間は朝日新聞の文芸時評を担当している。まだ20代の若さだった江藤淳をその大役に“抜擢”したのは、かつて『週刊朝日』の花形編集長だった扇谷正造だ。扇谷正造には『現代ジャーナリズム入門』(角川文庫)という名著があって大学時代に私はそれを繰り返し読んだが、例えばその第2部『現代ジャーナリズム8講』の第1講は「新聞は真実を伝えているか」で、その中で扇谷は幾つもの名言をはいている。「確認はより多く頭を使え」「真実は、精確な事実の断片が集まったとき、形成されるといったが、正確な事実よりも、若干のウソがはいったほうが、いっそう、大衆には真実とうけとられがちな場合もある」「すぐれた直感は、乾いた事実より、はるかに真実を射とめることがある。しかし、それは危険なことだ。何よりも、悪用されるおそれがあるからだ」

扇谷正造が朝日新聞の文芸時評者に指名したのは江藤淳だけではなかった。もっと大物がいた。それは林房雄だ。戦前にプロレタリア作家として活躍した彼は早い段階で転向し、戦後は保守反動の人として知られた。戦後の彼の代表作に『大東亜戦争肯定論』がある。その林房雄が扇谷正造の指名により昭和38~39年、江藤淳がアメリカ在住の間、朝日新聞の文芸時評を担当する。昭和39(1964)年といえばまさに『大東亜戦争肯定論』が刊行された年だが林房雄のきわめて公平な文芸時評は評判を呼んだ。のちにベ平連に入り、全共闘運動の活動家となる作家の亀和田武さんも高校時代、林房雄の文芸時評を愛読したという。林房雄で思い出したことがある。大学3年生の時、朝日新聞でアルバイトをしていた先輩(現在朝日新聞に勤務)に頼まれて、移転したばかりの築地の朝日新聞本社を訪ねたことがある。最近の大学生の“思想”を尋ねて、それを記事にするというのだ(その先輩は私のことを右翼とみなしていた)。通された部屋に入ったら、記者が3人、大学生が(私を含めて)5人、相対して机に向かう。記者が私に「どういう作家や思想家が好きなの?」と尋ね、私が「ジョージ・オーウェルと林達夫」と答えたら、私の声が聞き取りにくかったので「林?」と尋ね返した。私が「林達夫です」と答えたら、その記者は「ああ、達夫さんの方ね」と言ったので、イヤミな学生だった私は、笑みを浮かべながら「房雄さんだと思ったんでしょ。でも林房雄が朝日新聞に連載していた文芸時評(単行本版を早稲田の古本屋で見つけ読んだばかりだったのだ)、素晴らしいと思いますよ」と答えた。扇谷正造というジャーナリストのことは(テレビに時々出演していたから)小学生の頃から知っていたけれど、彼の本を読んだのは高校を卒業してからだ。




ここでいよいよ『週刊新潮』にコラムを連載していたもう1人の“あの人”の登場だ。その“あの人”とはもちろん山口瞳。連載コラムは『男性自身』だ。先にも述べたように私は小学校3年生の時から『週刊新潮』に目を通していたから、5年生ぐらいの時には『男性自身』の愛読者になっていた(その連載コラムで山口瞳は、内田百閒を愛読する小生意気な小学生のことを書いたが、私もまたその種の小学生だった)。『暮しの手帖』の花森安治が亡くなったのは私が大学に入る年(1978年)の1月半ば、つまり私が予備校生だった時だ。山口瞳は『男性自身』をこう書き出していた。

私は、出先きにいて、花森安治さんの亡くなったのを知った。私は、夕刊の、急死という記事を見て、思わず「エエーッ!」と叫んでしまった。

山口瞳は花森安治の突然の死に大きなショックを受けていた。その驚きが読者にダイレクトに伝わってくる。しかしこの追悼文で19歳の私に一番印象に残ったのはこういう一節だ。

『暮しの手帖』の花森安治さん、『文藝春秋』の池島信平さん、『週刊朝日』の扇谷正造さんは、若い編集者である私にとって、仰ぎみるような存在であり、そこにひとつの目標があったといっていいと思う。キラキラする人たちだった。

大学に入学した私は池島信平の『雑誌記者』(中公文庫)を読んだ。大名著だった。この本は私のバイブルになり、何度繰り返し読んだかわからない。私の文春志望は決定的なものになった。それに続けて扇谷正造の『現代ジャーナリズム入門』を読んだのだ。これも名著だったと思ったけれど、私は、新聞記者になりたいとは思わなかった。右翼と呼ばれた学生でありながら、『諸君!』は愛読していなかった、と先に述べた。しかしもちろん、特に購入することはあった。例えば清水幾太郎の『核の選択――日本よ国家たれ』が大きな話題となった(この長編論考によってこの号は「忽ち売り切れた」という)昭和55(1980)年7月号。この号を購入し、清水幾太郎の論文をじっくり読んだものの、思想的には、その批判論である福田恆存の『近代日本知識人の典型・清水幾太郎を論ず』(『中央公論』同年10月号)の方に納得がいった。だが思想的にでなく心情的に私の心にピタリとはまったのは『男性自身』の『卑怯者の弁』だった(“ピタリ”と書いたが、当時22歳の私は“ヌルイ”とも思ったりしたのだ)。『卑怯者の弁』だけで5週も続けた。つまり山口瞳はこの連載コラムで、身辺雑記だけでなく、時事的なことも発言したのだ。だからこそ、今この連載が続いていたら、“2つの吉田問題”(特に従軍慰安婦問題)について山口瞳はどのようなことを述べただろう。

文春青年でありながら、文藝春秋の試験に1次で落ち(本当に私は試験が苦手だ――殆ど受かったことがない)、大学院に進み、しかし大学教師に向いていないことを悟り、粕谷一希さんに拾われて『東京人』の編集者となった(雑司ヶ谷在住の先輩ジャーナリストとして粕谷さんは池島信平のことをとても尊敬し――粕谷さんのいた“社長コーナー”の壁には池島信平の書が飾ってあった。「三浦和義の例の事件の報道以来文春はすっかり変ってしまった。池島イズムはむしろ我々“東京人”編集部がついでいる」と口にした)。だが、そんな粕谷さんと衝突し、僅3年で編集部を飛び出した。そんな私を拾ってくれたのは朝日新聞社の出版部だった。当時の朝日新聞の出版部は、もちろん、いわゆる朝日的な人たちもいたが、むしろそういう人たちは目立たず、一種の梁山泊、朝日新聞の中の解放区だった。中でも私が一番親しかったNさんは谷沢永一や山本夏彦らの愛読者で、実際、谷沢永一と加地伸行と山野博史の鼎談書評を月刊誌で企画した(ある意味『諸君!』より右派な企画だと思う)。もう1人のNさん(私と同世代)が『朝日ジャーナル』の廃刊と共に『週刊朝日』に異動し、丸谷(才一)グループが引き上げたあとの書評欄の担当となって、そのリニューアル第1弾の号で書評をまかされた時は緊張した(当時の『週刊朝日』の書評欄『週刊図書館』はそれぐらい檜舞台だったのだ――それにしても最近の特に女性編集長に代ってからの質の低下はすさまじいものがある――“2つの吉田問題”よりもこちらの方が私は問題だと思う――林真理子さんの連載対談よりも編集長の女性実業家との隔週連載{?}対談の方が目次での扱いが大きいのを目にするといよいよこの雑誌も終わったと思う)。

かつて私の銀行振り込みは(編集料と原稿料も含めて)朝日新聞社からのものが圧倒的に多かったのだが、ここ数年殆どない(ゼロの年もある)し、献本リストからもはずされてしまった(『週刊朝日』の献本リストからはずされたことを『本の雑誌』の日記連載で書いたら親切な人――たぶんフリーの人――から手書きで送られてくるようになったが)。今の私が収入的に一番お世話になっているのは文藝春秋だ。今はなき『諸君!』で私は代表作(『1972』と『同時代も歴史である』)を連載し、30枚ぐらいの論考を何本も寄稿したけれど、私は『諸君!』の休刊を悲しんでいない。最後の何年か私は『諸君!』に1本も原稿を発表していない。同誌の中で私の居場所がなかったからだ。ある時期から『諸君!』は『正論』や『WiLL』と変らぬ雑誌になってしまったのだ(以前はもっと大人っぽかった、つまりふくらみがあったのに)。ある時期から、と書いたが、それはSという人が編集長になってからだ。もし私のかなりコアな読者がいたら、私が『三茶日記』(本の雑誌社)の122ページでこのSという人物について言及しているのを憶えているかもしれない。つまり、里縞政彦という人が『20世紀の嘘――書評で綴る新しい時代史』(自由社)で先に私が紹介した(谷沢さんや加地さんの愛読者である)朝日新聞のNさんが編集したムックの編集後記を取り上げて、いかにも朝日的な“機械主義的編集人”と批判していたのに対し、注の形で、「たぶんこの里縞という人は、別の名前で徳間書店から読書日記を刊行している人で、文春のSという編集者だと思う」と書いていたことを。

私は私と同世代のこのS氏と因縁を持っていた。大学院時代の私の指導教授は松原正先生だった。松原先生は右派というか極右で(先生の師である福田恆存さんが先生の第1評論集の推薦帯に「私は追ひ抜かれた」と書いていた)、『諸君!』や『Voice』といった論壇誌で活躍した時期もあった(ただしすぐ編集長と喧嘩し決裂してしまう)先生は防衛庁(当時)に人脈があった。そこで先生が出会った若者がS氏だった。ある時先生は私に言った。「オイ坪内君。防衛庁で知り合った若者がいて、彼が今度文春に途中入社した。キミと年が同じぐらいだから、いずれ紹介するよ」。そのSという名前に私は聞憶え(見憶え)があった。S氏は投書魔で、『諸君!』や『正論』・サンケイ新聞といった雑誌や新聞でよくその名前を目にしていたのだ。しかも……。たしか1980年だったと思う。ウズベキスタンだったかカザフスタンだったか、要するに中央アジアを視察する、財界人を中心とするツアーが組まれ、そのツアーは一般人も参加可能で、ツアー終了後、それに参加したS氏から、団長だった私の父のもとに私家版(ただし定価1200円とある)の『日本に明日はない!』(サブタイトルは「“左翼的気まぐれ”への挑戦」)が送られて来たのだ。活字中毒者だった私はその評論集を通読してしまった。私も右翼と言われている若者なのに、しかもジョージ・オーウェル好きは共通しているのに、ずいぶんと物の見方が違うなと思った。それから30数年経ってS氏はまだ文春にいるだろうと思うし、私は『週刊新潮』と同じく斎藤十一が創刊した本誌で、こういう原稿を書いた。


坪内祐三(つぼうち・ゆうぞう) 評論家・エッセイスト。1958年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒。『東京人』編集部を経て、コラム・評論などの執筆活動を始める。著書に『慶応3年生まれ7人の旋毛曲り』『酒中日記』『昭和の子供だ君たちも』等。


キャプチャ  2014年12月号掲載


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