【働きかたNext】第9部・老いに克つ(02) 起業家、3割が60歳以上――やりがい自ら作る

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「このシシャモは喜ばれるぞ」――。清水次朗(67)は築地の馴染みの店を回り、次々と食材を買い込んだ。自分の家族用ではない。脳裏に浮かぶのは100人近いお客の好み。清水は築地で旬の魚や野菜等を仕入れ、契約した家庭に届ける会社の経営者だ。食品会社の営業を3年前に退職。退職金や年金で生活できたが、「健康なのに働かないのはもったいない」と起業した。社員は自分1人。店舗や在庫は持たず、経費は共有オフィスの賃貸料やガソリン代等、月4万円弱と身軽だ。「毎月の小遣いくらいは稼げる」と笑う。清水は特殊な例ではない。『中小企業白書』に依ると、起業家で最も多いのは60歳以上のシニアで全体の32%と、30年前の4倍に増えた。上場を目指し、大企業に育てる野望は無い。背伸びせず、自分のやりたい仕事を追う、謂わば“プチ起業”だ。米糠からサプリメントを作る『ライステック』(東京都墨田区)を起業した飯沼一元(72)は、『NEC』の元半導体技術者。「食を通して健康の役に立ちたい」と、計画通り定年と同時に会社を作った。同僚も皆、企業を退職した友人だ。一時は苦労したが、夫人の口コミ等で売れ行きが伸び、何とか黒字になった。「利益を追い過ぎるとぎくしゃくする。定年後はロマンの共有が大事」と説く。

60歳を過ぎ、新たな働き方に挑むプチ起業家たち。背景には元気なシニアの増加がある。厚生労働省の調査では、65歳以上で「自分は健康」と考える人は78%。20~30代の71%を上回る。健康面だけではない。戦後復興期、身を粉にして会社の成長を支えた世代と違い、65歳前後の団塊の世代は会社人生の真ん中でバブルが弾けた。「会社も楽じゃない」と知る世代。定年延長や再雇用の道もあるが、社内で燻るならやりたい仕事をしたい。そんな意識がじわり広がる。勿論、皆が“新天地”で上手くいくとは限らない。大阪市に住む68歳の男性は、IT(情報技術)エンジニアとして55歳で独立したが、10年経って取引先の知人がいなくなり、仕事が激減した。会社を畳んだ後、65歳で選んだのが“シニア派遣”の道だ。「自分のスキルを生かしたい」。今ではソフトウエア販売会社で、派遣社員として若者に交じって働く。65歳までの雇用継続を義務付けたことで、60歳を過ぎても働くシニアの大半は、企業の再雇用に頼るのが現状だ。ただ、義務化に伴う企業の人件費負担は、2025年度で1兆~2兆円増えるとの試算もある。65歳以上の働きたい人まで仮に企業に雇用を義務付ければ、若手等の現役世代の雇用や賃金に皺寄せが出かねない。自ら職場を作るシニアの起業を後押しし、派遣の拡大でシニアと人手不足の中小を繋ぐ。そんな働き方の好循環が、現役世代の負担増を和らげる一助となる。 《敬称略》




少子高齢化や大都市への人口流出で、深刻な過疎化に悩む地域は多い。中でも、65歳以上の人口が半数を超える“限界集落”は、全国で1万を超える。そんな限界集落の1つ、長崎の離島に東京から移住し、地域再生に挑むシニアがいる。本紙取材班は、離島で“生涯現役”を掲げる人々の働き方に迫った。

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長崎県五島列島の中心部・福江島の五島市福江町から車で40分。細くくねった山道を延々と進んでやっと行き着く先に、海と山に囲まれた500m四方の小さな集落・半泊はある。住むのはたった5世帯9人。この小さな集落に近年、年間約1000人以上が訪れるようになった。その立役者は、7年前に東京から移住してきた浜口孝さん(62)だ。「こんな場所が五島にあるんだ」――。2015年10月10日、車から降り立った五島市の県立高校『五島海陽高校』の2年生6人が声を上げた。観光や地域おこし等を学ぶ専門コースの研修の一環で、半泊を訪問。高校は約3万6000人(2014年3月末時点)の人口を抱える福江島の中心部にあり、限界集落を訪れるのは初めてだった。「この教会の外の石垣は、何の為に作られたのでしょう?」「教会を隠す為?」「そういう意味もあるかもね」「風よけ?」「そう。海が直ぐ傍にあるからです。潮風や潮水が当たらないように」。浜口さんは先ず、集落の中心にある半泊教会の周辺や内部を案内。約100年前に信者らの尽力で木造の小さな教会が建てられた経緯や、高齢になっても仕事を続ける半泊の住民の生活を紹介した。その後、24年前に閉校し、現在はセミナーハウス兼簡易宿泊所として浜口さんが運営する小学校の“半泊分校”に移動し、皆で「限界集落とは何か?」を考えた。視察に参加した藤屋匠君(17)は、「五島に消滅しそうな集落があることを知らなかった」と驚いた様子。視察を終え、感想文には「大人になったら五島を出るが、帰ってくる頃には半泊や他の集落が活気溢れているように、これから僕も皆に五島の良さを伝える努力をしていきたい」と綴った。引率した一瀬理恵先生(33)も、「地域を守っていくには、先ずは地元のことを知ることが大事。参加させて良かった」と話す。

江戸時代、大村藩(現在の大村市)が採った人口抑制の為の移住政策に依り、五島藩(五島市)に潜伏キリシタンが移り住んできたのが半泊集落の始まりだ。住民らは小さな里で信仰を隠しながら、半農半漁の生活を営み、静かに暮らしてきた。それでも、大正時代には小学校もでき、ピーク時の昭和30年代には住民も16世帯100人以上に増えた。しかし、その後の人口は減り続け、現在の5世帯のうち浜口さんを含む2世帯は移住者だ。「廃校がある限界集落はチャンスがある。廃校を有効活用し、活性化していけば、過疎の集落も元気になっていく」。浜口さんは市から半泊分校を借り受け、2008年から泊まり込みで人の受け入れを始めた。大々的な宣伝はしていない。それでも口コミで評判が広がり、今では宿泊・昼食・体験学習・視察等を含め、年間1000人以上が半泊を訪れる。訪れるのも、一般の観光客から高校・大学の研修等、様々だ。「観光業が成り立つ村になれば、人口が増える可能性がある。半泊のモデルが全国の参考になればいい」と浜口さんは語る。限界集落は全国に数多くある。総務省過疎対策室に依る2010年時点の調査に依ると、限界集落は全国で少なくとも1万ヵ所以上。限界集落という概念を27年前に提唱した社会学者で旭川大学の大野晃教授は、「限界集落になってからでは活気を取り戻すのは難しい。集落の状況を客観的に分析し、限界集落になる前から対策を講ずる必要がある」と指摘する。実は、浜口さんは元々、限界集落の再生の為に移り住んだのではなかった。東京で生まれ育ち、慶應義塾大学を卒業。伊豆諸島の都立高校の英語教師を経て、教育や農業関連の事業に携わってきた。9年前に終の棲家を求めて移住先を探す内に、半泊と、再婚相手で五島市出身のよしのさん(61)に出会った。海・山・川・田畑…。「500m四方に、これだけのものが揃う場所は他に無い」。豊かな自然を一目見て、直ぐに移住を決意した。教育者としての経験を生かし、田舎暮らしの良さを伝える大人向けの“予備校”の開講準備に入ったものの、半泊に暮らし、半泊の歴史や文化について勉強する内に、限界集落問題について深く考えるようになった。更に、浜口さんの生き方に大きな影響を与えたのが、83歳の現役漁師・宮川喜一さんら半泊で暮らすシニアだ。

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祖父の代から半泊に暮らし、代々漁師を続ける宮川さんの朝は早い。午前3時台には起き、妻と共に自宅の和室にある祭壇でお祈りを始める。宮川さんの一家は敬虔なクリスチャンだ。半泊教会で月1回行われるミサにも欠かさず出席。毎朝、自宅の祭壇と教会前で豊漁を神に祈ってから、夫婦2人で船の準備をし、宮川さんは漁に出る。「おりゃもう漁が好きじゃけんから、漁師でよかと。いっちょん後悔もなんもなか」。男女9人の子供に恵まれたが、半泊で暮らすのは1人もいない。それでも、宮川さんは笑顔で語る。「身体ん続く限り漁師じゃ。そしてまた沖から帰ってからご飯ば食ぶっとが、おいしかっじゃもん」。宮川さんら地元のシニアをよく知るに連れ、「こんな骨太な生き方があるのか」と浜口さん(左写真左)は大きな刺激を受けたという。「東京にいる時に考えていた年金生活や定年後の暮らしとか、そういったものと全く違う“生涯現役”の生き方がここにはある。東京にいた時のような将来への漠然とした不安は無く、『自分は大丈夫だ』と思える」。浜口さんは今、長崎市や佐世保市と五島を結ぶ船を運航する『九州商船』(長崎市)と提携し、半泊の歴史や自然に加え、そこに暮らす人々と触れ合う滞在型の宿泊プランを新たに準備している。五島海陽高校や県内外の大学からも更に積極的に視察や研修を受け入れる考えだ。「ここに暮らす人の生き方を若い人から高齢者まで多くの人に見てもらい、都会には無い何かを感じてもらえれば」。半泊を訪れる人数は年々増加傾向にあり、取り組みの成果は着実に上がっていると言える。勿論、半泊の将来が薔薇色になった訳ではない。「少しずつでも半泊の人口を増やさないと。1人でも移住してくれればいいが、まだまだこれから」。そう話す浜口さんだが、決して悲観はしていない。「続けられるのは楽しいから、かな。退職とか定年とか関係なく、これからも半泊の魅力を伝え続け、生涯現役でいるつもりです」。限界集落の再生という難題に挑む浜口さん。“定年”の無い、新たな人生の挑戦はまだ始まったばかりだ。 (学頭貴子)

               ◇

白いニットと踝丈のパンツに、真っ赤なジャケット姿で森本早苗さんは現れた。手にはジャケットと同色の赤いバッグ。栗色のショートカットが艶を放つ。ハイヒールで颯爽と歩く姿からは想像できないが、実は84歳の現役ポーラ化粧品販売員だ。

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これまで売った化粧品は累計5億円。週に7日働き、全国約15万5000人いるポーラレディの中で、今でもトップ30位に入る売り上げを叩き出す“スゴ腕”の持ち主でもある。愛媛県今治市出身。28歳の時、「縁談を幾つも断っていたら親の顔を潰す」と上京した。チラシで見かけたポーラの事務所を覗くと、個人の売り上げ成績が棒グラフで張り出されている。「面白そうだ」と仕事を始め、直ぐに「天職だ」と気付いた。以来56年間、休むこと無く働いてきた。2人の子供が生まれた後は家政婦を雇い、子供のお弁当作り以外の家事は全て任せた。「本当のプロを目指したかった」からだ。森本さんは個人事業主としてポーラと契約しており、報酬は歩合制だ。その仕事ぶりは徹底している。今でも毎朝5時半に起床し、身支度をして8時過ぎには家を出る。千葉県内の自宅から愛車・プリウスのハンドルを握り、東京へ向かいながら1日のスケジュールを頭の中で確認する。顧客は都内なら「渋谷区以外、全ての区にいる」。ある日は品川から杉並へと、1日に彼方此方車で走り回る。買い物や食事は、顧客訪問の合間に手早く済ませる。これまで気力・体力の衰えを感じたことは無く、夜8時・9時まで働くことも珍しくない。「夜、最後に玄関を閉めて、自由な時間になるのは何時頃ですか?」。昼間訪問した際に顧客に尋ね、「8時頃かしら」と言われたら、「では、8時半には寛いでいらっしゃいますね」と確認し、その時間の再訪問を約束する。昼と夜、1日2回マッサージを施して、化粧品の効果を実感してもらうという。

顧客との会話はノートを作って、毎回メモを取る。その日にあった出来事・好きな食べ物・孫の名前まで書き込み、再訪問前に確認する。「『お孫さん元気ですか?』と尋ねるより、名前で呼んだほうがいいでしょ」。ジャケットは常に3枚持ち歩き、顧客に依って使い分ける。この日も、「『真っ赤なジャケットじゃ派手過ぎる』というお客様にはこれ」とクリーム色のジャケットを見せてくれた。トップセールスを誇るが、顧客の自宅では商品の話ばかりする訳ではない。どちらかと言えば、相手の話の聞き役に回ることが多い。販売手法は、最後に大事なことを言う「刑事コロンボと同じ」スタイルだ。40分ほど話して別れ際、「秋になりましたね。年末にかけて行事が多いですが、お出かけになることはありますか?」と尋ねる。「ある」と言われたら、「じゃあ、綺麗になってお出かけ下さいね」と話し、新製品を紹介する。家族からは「車の運転を止めてほしい」と心配されるが、引退は今のところ考えていない。「私からポーラと車を取り上げたら生きていけないわ。今が84歳。90歳まで働けば東京オリンピック。そこまで行ったら次は100歳ね」。疲れることはないか尋ねると、「ないですね。結果が出ていれば、人は疲れることはないんですよ」と微笑んだ。高齢化が進み、肌の手入れや化粧をしたくても、都心の百貨店に出るのは億劫。ドラッグストアでは商品が多過ぎてわからない。そんな高齢女性が増えている。「今こそ、私たち訪問販売のチャンスだと思っています」。積み上げた実績に頼ることなく、尚も先を見据える。その姿勢に、トップセールスに君臨し続けた理由を見たような気がした。 (松本史)

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「定年が無くなります」――。勤め先にこう言われたら、働き方や会社人生の引き際をどう考えるべきだろう。今年から定年制を実質的に廃止した精密バルブ製造の『フジキン』(大阪市)と、設立当初から定年を設けていないデータ入力の『エス・アイ』(姫路市)を訪ねた。

「生涯現役は時代の流れ。他社に遅れをとってはならない」――。フジキンの小川洋史会長(76)は2015年6月、70歳にしていた再雇用者の年齢制限を廃止した。同社では60歳6ヵ月で会社を退職し、再雇用に移ることができたが、今後は家族の同意や健康面の条件を満たす限り、年齢を問わず働き続けられる。以前から70歳を超えた社員の勤務も認めており、実態に合わせた。賃金は下がるが、事実上“定年”が無い形だ。松木基二さん(74)は遅咲きデビューの営業マン。再雇用までは総務畑が長く、60歳で営業に初挑戦した。今は出向先の会社で役所向けに営業するのが仕事だ。1日4件以上の外回りを熟し、担当の関西2府4県を飛び回る。平日の朝から夕方5時まで働くが、「人間関係ができると楽しい。若い頃より裁量が大きく、やりがいもある」とまだまだ現役を続けたいと顔を綻ばせる。60代社員も皆元気だ。近藤敦さん(63)はインド・中東・ロシア市場の新規開拓を担当。再雇用の前に担当した欧米や東アジアと比べても、言葉や文化の違いが大きく、一筋縄ではいかない仕事だ。近藤さんを突き動かすのは、「会社を発展させて恩返しがしたい」との思いだ。製品カタログの編集に携わる近池喜昭さん(61)も、「会社に足跡を残したい。辞め時は自分で決める」と言い切る。尤も、年齢制限を取り払ったのは中堅企業ならではの事情もある。小川会長は、「新卒の採用難も背景にある」と率直に認める。定年廃止でシニア社員が増えるが、「頑張れば企業は未だ伸びる。その為には人材が必要」と強調していた。

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JR姫路駅から電車で15分。タケノコ産地の姫路市太市地区にエス・アイはある。同社は、1991年の設立時から定年制を設けていない。60歳以上の社員は全体の約14%。働くシニアを支えるのは、独自の勤務制度だ。先ず、勤務時間を自由に決められる“自由出勤制”。フレックス制との違いは、出勤が必要な“コアタイム”も無いことだ。年齢に拘らず、仕事の中身で給与が決まる“同一労働同一賃金”制度も採用している。仕事内容・勤務時間・周囲の評価だけから給与を算定できるよう、独自の計算式に日々改良を重ねているという。今本茂男社長(70)は実は以前、同業他社の営業部長を務めていた。女性を中心に部下は約100人。深夜残業の多い職場で、家族関係を壊す部下が相次いだという。今本社長自身も、帰りの遅い部下を車で送り迎えする内に、家庭の時間が持てなくなっていた。「誰でも無理無く働ける仕組みを作りたい」。こんな思いが募り、自らエス・アイを立ち上げた。「働けなくなったら自分の体がわかる。定年制はいらない」と語る。同社で働く村上明美さん(74・左写真)は、2人いる経理担当の1人。やりがいは「社内の無駄を削減すること」という。「いらない電気は消す」「うろうろしない」――。今本社長は、「社長の私が言い難いことを言ってくれる存在」と太鼓判を押す。松永克子さん(66)は、40代から始めた漢字入力作業のスピードが社内でトップ。「ここに来れば同じ年代の人と話せる。今後も仕事を続けようと思う」。定年延長や再雇用でシニアが増えると、若手の雇用や賃金に皺寄せがいったり、世代間の軋轢が高まったりするケースも少なくない。だが、2社のように、年齢に拘らずやる気のある社員を処遇し、誰もが働き易い職場に変えれば、問題は起き難い。人手不足に喘ぐ日本企業の明日の姿を垣間見た気がした。 (龍元秀明)

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シニアの起業家は“マイペース型”――。『日本政策金融公庫』が融資先の起業家を対象に行った調査で、こんな実態が浮かび上がった。日本公庫は、女性・若者・シニアを中心に創業支援の融資を行っている。最近融資の伸びが目立つのは、55歳以上のシニア起業家。2014年度の融資件数は約3000件と、2年前の倍近くに増えた。世代に依りビジネスの考えは違う。融資先を対象にした調査で、収入について「できるだけ多く得たい」と答えた起業家の割合は、34歳以下が6割強なのに対し、55歳以上は約26%に留まった。住宅ローンを払い終えたり、子供が独立して身軽になったりしたシニアが多く、起業も金儲けより生きがいや社会貢献の為との意識が強い。兵庫県で開かれた『宝塚シニア起業塾』に参加した男性(57)も、起業の狙いを「地域で皆が集まり、活躍できる場を作りたい」。元気な内は生涯現役を目指すという。ただ、甘い計画には注意が必要だ。起業後に収益が“黒字基調”と答えた人は全体で64%いたが、55歳以上は54%と10ポイント低い。安易な起業で赤字が続けば、逆に老後の蓄えを取り崩すことになりかねない。十分に準備し、きちんとした収支計画を策定することが必要だ。


≡日本経済新聞 2015年12月13日付掲載≡


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