【昭和史大論争】(09) 侍従武官未発表日記が明かす“昭和天皇の戦争”

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昨年9月に公開された『昭和天皇実録』(以下『実録』)には、その記述の元となった多くの資料が列挙されている。そこには、昭和史を検証する者ならば誰もが知る有名なものから、一般には公開されていない日記・手記に至るまで様々だ。今回、紹介する『吉橋戒三日記』(以下『吉橋日記』)は、そうした未発表資料の1つである。吉橋戒三は、昭和天皇に仕えた最後の陸軍侍従武官の1人だった。陸海軍将校から選ばれた侍従武官は、大元帥である天皇に仕え、戦果や軍資料の報告等を行うのが、その主な役どころだった。私は昭和天皇崩御の折に吉橋を取材したが、その時、ノートに横書きで記された日記の写しの提供を受けた。侍従武官を拝命した昭和19年12月21日から、陸海軍省が廃止され、その任を解かれた昭和20年12月まで、吉橋自身の見聞や観察が簡潔に記されたもので、『実録』にも採用されたように、貴重な資料であることは間違いない。平成元年11月17日、吉橋は83歳で亡くなり、この日記は未刊のまま現在に至っている。『吉橋日記』の読みどころは、まさに敗戦を迎えようとする宮中にあって、その内部にいた人間が、偏りの少ない筆致で、その見聞を率直に記してある点だ。私も軍人の手記・日記の類をかなり読んできたが、自らの言い訳や自慢話に傾いたり、自分の体験と伝聞とが混濁し、独断憶測に走り過ぎたりする書も(特に後年書かれたものには)散見される。また、上層部に近い者ほど、様々な思惑が記述の中に隠されてもいる。その点、『吉橋日記』はどうだろうか。当時、4人いた陸軍の侍従武官の中で、拝命当時、38歳の中佐だった吉橋は最も若手だった。謂わば最末端の位置から見た天皇像が、そこにはあると言えるだろう。立場上、高度の機密に属するような場面には立ち会っていないが、幾つかの印象的な場面で、自分が見た素顔の天皇を記している。

先ず注目されるのは、戦争末期の天皇と軍部との緊張関係である。『吉橋日記』の冒頭近くで吉橋は、上官の坪島文雄少将から侍従武官としての心構えを聞く。そこで坪島は、「陸軍に対する御不信感を十分考え、陸軍を代表したつもりで立派に勤務せよ」(昭和19年12月29日。原文の片仮名を平仮名にし、仮名遣いを改め、句読点等を補った。以下同)と述べるのだ。つまり、これは陸軍には「自分たちは天皇から信用されていない」との自覚があったことを意味する。陸海軍が天皇に偽りの報告を行ったり、不利な戦況を隠したりしたことはよく知られている。一例を挙げれば、昭和17年4月18日、ドーリットル隊に依る東京空襲。東部軍司令部は「敵機墜落数は9機」と発表し、杉山元参謀総長も同様の奏上を行った。ところが、東部防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王は、天皇から「真相を報告せよ」と詰め寄られ、「敵機は1機も撃墜できませんでした」と明かしたのである。こうした事例が積み上がり、天皇は相当の不信感を抱いていた。身近で仕える侍従武官たちとしては極めて深刻な事態だった。更に、坪島は念を押す。「(天皇には)間違ったことを申上げられぬ。戦略戦術が分ったなどと思うたら大間違い、陛下の前にはかたなしだぞ」(同日付)。つまり、「作戦等に対する天皇の指摘・追及は中々厳しいぞ」という忠告なのだ。後に、吉橋はそれを身を以て実感する。それは昭和20年7月、北陸で行われた陸軍大学校の参謀演習を視察した折のことだ。これは国土防衛作戦を想定したものだったが、東京に戻り、天皇に報告した吉橋は、予期していなかった冷や汗を流すことになる。『日記』には、「朝、陸軍大学校参謀演習に関する復命を了す。努力不十分なりしを思い恐懼に堪えず」(昭和20年7月27日)とのみあるが、戦後の回想に依ると、「陸大で研究していたままを説明すると、(天皇は)地図を指されながら、いろいろ御たづねになる。それが一つ一つ痛い所、痛い所と突込んで来られる」(『侍従武官としてみた終戦の年の記録』…『軍事史学』1965年8月号。以下『回想』)。吉橋は陸大で兵学の教官を務めた経験もあったが、「未だかつて今日程、手剛く、鋭い追及を受けたことはなかった」(同前)と述懐している。稍前後するが、吉橋は同年6月にも東金から片貝へ出張している。「片貝に車行し水際陣地の研究を実視」(6月4日)。これも、九十九里での本土防衛の進捗を視察したものだろう。吉橋は国土防衛作戦の進捗状況を探り、軍備が整っていないことを正直に天皇へ報告した。実は、この終戦直前の時期、吉橋だけでなく侍従武官たちが日本各地に派遣され、本土決戦が可能かどうか実視を重ねている。昭和天皇の“聖断”は、こうした侍従武官たちの活躍にも支えられていたのである。




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では、次に『吉橋日記』に描かれた、終戦の年の昭和天皇の素顔を見てみよう。先ずは特攻の報を受けた時の反応を、吉橋は以下のように記す。「敵船団六日“リンガエン”湾に侵入す。夕刻、右戦況其の他に関し上奏す。体当り機のことを申上げたる所、御上は思わず最敬礼を遊ばされ(吉橋は)電気に打たれたる如き感激を覚ゆ。尚戦果を申上げたるに『よくやったなあ』と御嘉賞遊ばさる」(昭和20年1月7日)。特攻機を“体当り機”と記しているのも興味深い。“特攻(特別攻撃)”という言葉自体が一種の誤魔化しであることを、“体当り”という即物的な表現が(期せずして)暴いている。また、「よくやったなあ」のニュアンスにも注目すべきだろう。「思わず最敬礼」したという描写と相俟って、単に戦果を喜んでいるのとは異なる、兵士たちの自己犠牲に対する畏れをも感じさせる。また、吉橋の“率直な目”は、国民の微妙な感情の動きも見逃してはいない。3月10日の東京大空襲の後、18日の朝、天皇は東京都内罹災地を視察した。この行幸に、吉橋は初めて御供する。『回想』には、この時の様子がこう描写されている。「私はお召自動車の次の車で、小倉侍従、村山侍医と三人でお伴したのであるが、焼跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。【中略】菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、三、四台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人達を真近に御覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察した」。6月・7月に入ると、本土決戦の準備を視察したことは前にも述べたが、6月30日には、沖縄戦で牛島中将が自決したニュースに続いて、以下のような“仕事”の記載がある。「三種の神器輸送車を見、かつ試乗す(愛宕山)。国軍の将来を思い感概無量なり」。これも本土決戦が行われた際、天皇の動座に備えたものであろう。更に興味深いのは、翌7月1日に『神皇正統記』を読んでいることだ。周知の通り、『神皇正統記』は三種の神器の重要性を説いたもので、神器の疎開が真剣に検討されていたことを窺わせる。

そして、戦局は苛酷な状況下で進み、愈々8月6日を迎える。この日の記述は、ノートに太字で記されていた。「広島特殊爆弾の攻撃により相当大なる被害を受く」。この“特殊爆弾”が、9日には「長崎に原爆投下」となる。興味深いのは、後の加筆としてこんなメモ書きがあることだ。「一時間置きにこ下問あり。答えられずに困った。『何れ調査団が帰京しましたら』と申あげるより手はなかった」。『回想』では、当時の吉橋の心境がより踏み込んで書かれている。「しかし現地からは何の報告もないし、お答えの仕様がない。何回御下問があっても、『何れ報告入手次第』と申しあげるよりほかない。お側にお仕えしている間に、陛下に対していやな気持を抱いたことは一遍もないが、このときばかりは『そんなに度々お尋ねになっても、わかるわけがないではありませんか』と一寸反撥にも似た気持を抱きたいくらいであった。しかし後から考えてみると、陛下としては重大な御決心の瀬戸際で、一刻も待たれない御気持だったと思う」。昭和天皇は、戦況等に関しても正確で詳細な情報を求めたと言われるが、原爆投下という重大事に際して、それが最大に発揮されたと言えるだろう。末端の一侍従武官の困惑・閉口を通じて、事態の切迫が実感を持って伝わってくる。『吉橋日記』を通じて浮かび上がるのは、戦争を主導した好戦的な陸軍軍人というイメージよりも、淡々と実務に励む真面目な官僚としての姿だ。そして恐らく、それが大多数の軍人の素顔だったのだろう。それが最も鮮明に表れるのが、8月15日の玉音放送前後だ。敗戦という重大事態の只中にありながら、吉橋たちを待っているのは日常業務の遂行でもある。先ず8月10日。この日の御前会議で、天皇はポツダム宣言受諾の意思を示したのだが、日記には「重臣御召」とあるが、上層部での重大決定は、末端の侍従武官である彼には知らされるべくもない。「福生陸軍航空審査部を視察す。技術に関する平素の研究不十分なるを悔ゆ」と記している。但し、不穏な空気は伝わってきた。夕方に帰ってくると、「近衛師団長、武官長の許に面会に来らる。実に奇異なることを承る」。これ以上の記述は無いので、“奇異なること”の内容も誰から聞いたのかも明らかではないが、終戦に関する情報だった可能性は高い。

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しかし、吉橋にはそれ以上に気がかりなことがあった。前日の9日から、秘密書類の紛失が問題となっていたのだ。そのファイルの1つが『ソ連兵要地誌』。9日のソ連参戦を受けて、急に必要になったのだろう。その秘密書類も12日には全て発見され、「真に晴々した気持となる」と安堵している。一方、航空技術の視察も続けていた。青梅や久我山等の都下から、取手・土浦・水戸にも足を伸ばし、大洗から一旦皇居に戻ったのは14日昼のことだった。そして、ここで“聖断”について知ることとなる。「昼食後、武官長より武官一同に対し重大なる事項を説明せらる。漏れ承るに本日の会議に於て、お上には畏多くも御落涙遊ばされ『国民を納得せしむる為に御親ら放送してもよい』と仰せられたりと聞く」。興味深いのは、それ以後の吉橋の行動だ。既に敗戦が決まったのに、航空研究の視察を続けて何になるのか。「続行すべきや否やに関し迷いたるも、武官長に伺いたるに」、返ってきた答えは「予定通り実行せよ」だったのである。吉橋は、そのまま午後に宮城を出発し、甲府の第1陸軍航空技術研究所へ向かった。吉橋が後に加えたメモに依ると、武官長は「終戦のことは今決まったばかりで、半年前から各県と警察に御差遣の予定が通知されているから、今止めたらパニックを起す」と説明したという。官僚的と言えばあまりにも官僚的な決定だが、しかし、これも敗戦のリアルな一光景だと言える。吉橋が玉音放送を耳にするのは、翌15日、視察先の岡谷へ自動車で向かう途中のことだった。再び、このまま視察を続行するかどうか迷った挙げ句、吉橋は1つの決断を下す。それは、御沙汰書にあった「現戦局下」を「独断を以て削除」することだった。吉橋は続行を決めた理由について、こう記している。「第一は最後の時期迄敢闘せる各研究審査機関の活動状況を見届けて復命すること【中略】。第二は皇国復興の為技術研究の第一歩を踏出すに在り」。この考えは、後に敗因の1つとして「科学を忘れたことである」と語った昭和天皇の意にも通じるものだったと思われる。8月20日、午前9時半から30分間に亘って、「従来、国家としてまた国軍として技術的欠陥ならびに国家として今後行くべき道につき」、天皇に報告すると、「御上には極めて御熱心に御聴取遊ばされたり」。『回想』に依ると、昭和天皇は「力強いお声で一々相槌を打たれながら【中略】技術振興の必要、実験的成果と実用との関係について強調された」という。

昭和20年11月30日まで、吉橋の侍従武官としての務めは続く。昭和史の1コマとして印象的なのは、9月12日、参謀総長だった杉山元と夫人の自決の報に接した昭和天皇の姿だ。これも『回想』に詳しい。「午後六時二十分頃だったろうか、陸軍大臣秘書官の田中忠勝大佐から武官府に電話があり、私がこれを受けた。元帥の自決についてのことで、遺書の内容についてもたしかめておいた。既に六時半を過ぎていた。御夕食との関係を考えて、上奏をいつにしようかと考えた。しかし午後七時のラジオニュースで、陛下がこのことを聞かれると、陸軍としての責任ある第一報を武官が取次がなかったこととなり、陸軍に対して申訳ないと考えたので、私は直ぐに御文庫に上って拝謁を願い出た。陸軍の軍服でホールにお出ましになった陛下に、『只今杉山が自決致しました』と申しあげたところ、陛下は『またっ』と一言仰せられ、暫し御言葉もなく、床の一点を見つめておられた。私もその後を申しあげることが出来ない。【中略】しばらく経って『どうしてかねえ』と仰せられたので、『お詫びでございます』とお答えしたが、陸下の御心痛の御様子をお見上げすると、折角確めておいた詳しいことも申しあげることが出来なくなってしまった」。天皇の「またっ」という一言は、その前日の11日に自殺未遂に終わった東條英機元首相や、8月15日の阿南惟幾元陸軍大臣等の自決を指しているのだろう。因みに、『吉橋日記』は東條に対して、「言行上考えさせらるる所頗る多し」と冷ややかだ。戦後70年の今年、昭和史に関連する多くの書籍等が刊行されている。しかし、単なる歴史的事実だけではなく、その時代を生きた人々の在り方まで知るには、この『吉橋日記』のように新たな光が当てられるべき資料は、まだまだ少なくないのである。


保阪正康(ほさか・まさやす) ノンフィクション作家・昭和史研究家。1939年、北海道生まれ。同志社大学文学部卒。『昭和史の深層 15の争点から読み解く』(平凡社新書)・『なぜ日本は“嫌われ国家”なのか 世界が見た太平洋戦争』(角川oneテーマ新書)・『昭和の戦争と独立 二十一世紀の視点で振り返る』(山川出版社)等著書多数。


キャプチャ  2015年秋号掲載


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テーマ : 歴史
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