現在でも亡命者は毎年数百人、ヒマラヤを越える命のリスク――中国に抑圧されたチベット亡命社会の中心地・ダラムサラの知られざる現実

これまで140人もの僧侶が焼身抗議している中国のチベット人。僧侶のみならず、命懸けの亡命者も絶えない。彼らを待つのは、インド北部のダラムサラにある亡命政府だ。だが、その現実は殆ど知られていない。ダラムサラは今、どうなっているのか?

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「思ったより都会だな」――。ダラムサラを訪れたのは2003年の夏。12年以上前のことだが、街の第一印象はよく覚えている。インドの貧しい農村を巡った後に訪れたからかもしれない。或いは、「ダラムサラは亡命者の集う悲劇の街だ」と思い込み過ぎていたからかもしれない。外国人向けのゲストハウスは雨期にも拘らず満室で、管理の行き届いた良質なレストランが何軒か。抑々、このような施設があること自体、インドの周辺の街と比べれば洗練されていた。とりわけ、ここは確かにインドなのに、買い物に「値段交渉が必要ない」ことに驚いた。とは言え、メイン道路の一部を除けば道は未整備。外出すれば泥だらけになったが、交差点の角にはそれ以上に泥だらけで物乞いをする亡命者がいた。彼らの殆どが凍傷で、手足の指が無かった。チベット人が経営するゲストハウスのドミトリーでは、不良イスラエル人の男女3人と相部屋になった。彼らは夜な夜な音楽をかけ、騒いでいた。ホテルの人は、「1990年代中頃までは物好きかトレッキング客しか来なかったが、最近は欧米人バックパッカーが増えた」と話す。併設のレストランのメニューはチベット語と英語の表記で、ウェイターの女の子も英語を話せた。ピザやパスタを出す店もあり、旅行者の多さを物語っていた。「1週間後にダライ・ラマ法王のティーチングがある」と聞き、申し込んだ。その当日は、外国人ということで最前列に座らせてもらった。法王は身振り手振りを交えながら英語で優しく語っておられたが、こちらの語学力のせいで話の細かなニュアンスは理解できなかった。それでも慈悲と愛、平和の心は伝わってきた。法王は、よく笑った。何より、それまで会った誰よりもオーラを纏っており、正視できなかった。チベット人と同様、恭しく下から仰ぐことしかできなかった。前年、チベット本土のギャンツェを訪れた時、白居寺の釈迦牟尼像の前で五体投地をする巡礼者が、金色の像を一瞥もせず、只々真言を唱え続けていた姿が脳裡に過った。会う人会う人、亡命者はあまりにいい人ばかりで、寧ろ「いい人でい続けなければならない」宿命を背負っているようにも見えた。街外れに「チベット仏教を修めた」というドイツ人が瞑想教室を開いており、何やら盛況そうだった。「ダラムサラは、中国の迫害を逃れたチベット人ばかりが住む街だ」と思っていたが、どうやらそのイメージとは違っていた。

先ずは街の基本情報を紹介しよう。ダラムサラはインド北部のヒマーチャル・プラデーシュ州に位置し、パキスタン国境が近い避暑地。人口は、インド政府の国勢調査に依ると、2001年時点で凡そ2万人。一方で6万人とするデータもあり、亡命者の流動性の高さや避暑地という立地から、人口推移の激しさが見て取れる。地元のインド人を始め、出稼ぎのインド人やネパール人も住んでいる。中長期的に滞在する欧米人も多い。高所に拓かれた地を“アッパーダラムサラ(マクロードガンジ)”、稍低い地は“ロウワーダラムサラ”という。標高は1300~2000m。アッパーダラムサラは1700~1800m付近が中心地で、街は500m四方のエリアに集中する。マーケットや主要機関はメイン道路沿いだが、居住地は山腹に築かれている。気温は夏季でも30℃を超えることは少ないが、冬季は氷点下まで下がる。ダライ・ラマの公邸や政府関係施設があり、亡命者の多くが住んでいる為、一般にダラムサラとして知られるのはアッパーダラムサラ(以下、ダラムサラ)だ。ロウワーダラムサラにはインド人が集住する。尚、国家ではないので、特別な許可証やビザは不要。インドに入国さえすれば、気軽に行ける。アクセスは、デリーからは1日数本の直行バスがあり、片道10時間から12時間。電車ならデリーからパタンコットまで10時間ほどで、そこからバスかタクシーを利用すれば2~3時間で着く。何れのルートを利用しても半日ほどかかる。観光シーズンはチベット暦の旧正月に当たる2月から4月、雨期前の5月から6月、雨期後の10月から11月。統計データは無いが、年間2万人以上の観光客が訪れると言われ、旅行誌では北インドエリアの観光地の1つとして紹介される。では何故、この街に亡命政府が設立されたのか。その歴史や亡命の経緯は、亡命政府の宗教文化省にも勤めていたイギリス人のジェレミー・ラッセル著『Dharam-sala: Tibetan Refuge』やダライ・ラマ著『ダライ・ラマ自伝』に詳しい。以下、簡潔に紹介する。ダラムサラはイギリス領インド時代に、植民地行政官が過ごす避暑地として拓かれた。1905年に、北インドを襲った地震で壊滅的被害を受け、行政官が土地を離れた為、街は急速に衰退した。加えて1947年、インドとパキスタンが分離独立。残っていたイスラム教徒がパキスタンに移民した為、ダラムサラは地元のインド人が住むばかりの山村になっていった。




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1949年に成立した中国は、人民解放軍をカム(四川省)に派兵。1951年、強制的に調印した『十七条条約』を盾に、チベットのラサに2万人の兵士を駐屯させた。1956年には、カムで中国に対するチベット人の大規模な抵抗運動が勃発。このチベット人ゲリラに対し、15万人の中国兵が進軍した為、戦地を逃れたカムの住民がラサに大量に押し寄せた。そうした最中の1959年3月10日、中国当局はダライ・ラマを観劇に招待。但し、「護衛は丸腰で来るように」と条件を付けた。その報せがチベット民衆に広まると、ダライ・ラマのいるノルブリンカ離宮の前に民衆が結集。中国軍と一触即発となった。同月17日、民衆が掃討されることを危惧したダライ・ラマは、数人の護衛と家族と共に中国兵の包囲網を掻い潜り、ノルブリンカを脱出。そのまま数百人のチベット軍や側近らと合流し、インド国境を目指した。脱出から48時間後、中国軍はノルブリンカを砲撃し、無防備の群衆を一斉射撃した。亡命者一行は牛馬を駆り、約3週間かけて辛くも国境に着いた。兵士は死線であるラサに戻り、約80人がインドへ入った。亡命したダライ・ラマは、アッサム地方のテズプールを経由し、マスーリでインドのネルー首相と会談。一先ず亡命者の受け入れが承認されたが、ダライ・ラマを追って続々とチベット人が亡命してきた為、国境地帯に臨時キャンプが設けられた。最初の数千人はラサやその近郊出身者だったが、国境地帯に住む住民が亡命してきた為、数万人規模になった。この事態にネルー首相は、インド各州政府と連携して、南インドの未開のジャングルを入植地として提供。雇用問題を解決する為に道路建設事業を始め、絨毯工場も設営した。更に、子供の教育の為に学校設立の全費用をインド政府が負担することも約束し、ダライ・ラマに伝統文化の教育と英語教育を行うよう勧めた。しかし、亡命者の殆どは、標高3000~4000mの乾燥地帯に暮らしていた人々。熱帯である南インドの入植地と生活環境が大きく異なる。開拓に伴う重労働も重なり、結核等の疫病が蔓延した。このように、入植には多数の犠牲を払ったが、結果として多くが移り住んだ。こうしてダライ・ラマは、マスーリでチベット亡命政府の樹立を宣言した。しかし、ネルー首相は承認しなかった。若きダライ・ラマは落胆したが、ダラムサラに住むパルシー(ゾロアスター教徒)のサオロージー氏が、寂れた街を復興させる為に亡命者の受け入れを決意。インド政府と交渉した。これが認められ、1960年5月以降、ダライ・ラマと亡命政権の役人約80人がダラムサラに入り、亡命政府は正式に設立された。政府機関があり、精神的支柱であるダライ・ラマが住む地となり、亡命者が集う中心地となった。では、亡命政府とはどんな政府なのか。

亡命政府の正式な海外拠点の1つである『ダライ・ラマ法王日本代表部事務所』(東京都新宿区)に依ると、「亡命政府の正式名称は“中央チベット政権(CTA=Central Tibetan Administration)であり、チベット内外のチベット人が唯一の合法的機関と認める政府である」という。CTAとは、中国政府に抗する為のチベット人に依る公的政府ということだ。この政府は、国家元首をダライ・ラマとし、司法・行政・立法機関を有する民主的政府機関だが、それら政府機関がダラムサラにあるだけで、国や領土がある訳ではない。また、CTAは「チベットが中国支配から脱し、自由を手に入れたら解散する」暫定的な政府であり、「亡命者の福祉と自由を守る為の政府」であるという。中国国内のチベット人に対しては、如何なる権限も持っていない。対外的にはどうか。特に、受け入れ国であるインド政府との関係は重要だ。ダラムサラを長期フィールドワークしている人類学者で静岡大学人文社会科学部の山本達也准教授に聞くと、「インド政府の亡命者受け入れ条件に、『政治活動はしない』というものがあった。その為、インド政府との間に公式の関係は無く、世界でCTAの存在を公認している政府も存在しない」という。とは言え、実際には“政治的”な活動を行っている。この点については、「2008年のデモのように、極度に政治的な行動に出ればインド政府も武力で押さえ付ける。一方、中国との外交カードとしてチベット問題を扱ってきたように、“非公式な”形ではCTAを支援してきた。ヒマラヤ地域の文化復興の名目で資金投入したり、インドの政治家が個人単位で支援することもある」という。チベット人自身が公式と認めながら、世界的には非公式な政府機関――。CTAは、入り組んだ立場で成り立つ政府である。では現在、どれだけ亡命者がいるのだろうか。中心地とされるダラムサラには、何人の亡命者が住んでいるのか。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所の発表では、2002年12月時点で亡命者数は約13万4000人。インドには10万人おり、そのうちダラムサラには6000人ほどが住んでいるという。その他、ネパールに2万人、ブータンに1500人と、国境を接する国々に多くが住んでいる。他国を多い順に列挙すると、アメリカに5500人、スイスに3000人、カナダに1500人、台湾に600人、イギリスに250人、フランスに230人、オーストラリアとニュージーランドに200人、オランダに50人、ノルウェーに50人、スウェーデンに40人、デンマークに40人、スペインに30人、ロシアに30人、モンゴルに10人、ハンガリーに6人、ポーランドに4人、ポルトガルに2人、アイルランドに1~2人、チェコに1人。日本には僅か60人。同事務所代表のルントック氏は、「総数を把握するのは難しい。亡命しても、政府とコンタクトを取れない人がいる。また、近年ではインドからアメリカやカナダへの移住者が増えており、アメリカには1万人以上、カナダにも8000人はいるだろう」という。

それでは、今でも亡命する人がどれほどいるだろうか。ルントック代表の話では、「中国で文化大革命が始まるまでは毎年数千人が亡命した(第1期)が、文革期は逃げることすらできなかった為、少なかった。1989年から2008年3月のデモまでは、年に2500~3000人ほどもいた(第2期)。近年は、中国の国境警備が更に厳しくなったことや、中国・ネパール間の政治経済的結束が強まり、激減した。それでも、年に400~500人ほどはいるだろう(第3期)」という。亡命時の年齢にも依るが、第1期亡命者は既に2世から4世が主体で、第2期は1世・2世、第3期は1世が多いという。彼らはどのように国境を越えるのか、その厳しい現実を亡命者のA氏に聞いた。A氏曰く、「リスクの第一は自然環境。チベット人は高地に慣れているといっても、生活圏より遥かに高い標高5000mを超える荒野や峠を歩き続けるのは厳しい。先進国の登山家のような防寒具や装備は無いので、命を落とす者や凍傷に依って手足を切断する者は多い」という。また、国境警備が厳重になったのも問題のようだ。A氏に依ると、「見つかれば軍に依って近くの町まで連れ戻されるのが通例だが、厳しい処置の場合、逮捕されるか射殺されることもある」そうだ。この違いについてA氏は、「連行されるだけでも、少ない荷物を押収される。取るものが無い場合に逮捕や射殺されるのではないか。越境業者や軍部に賄賂を用意できるなら、亡命できるだろう」と話す。具体的に必要な金額は、「その時々に依って違うからわからない」らしい。嘗ては途中で集落に立ち寄ることもできたが、今は国境地帯の経由地に検問や軍施設がある。これらを避けるには、より厳しい荒野と峠を越えるか、賄賂を準備するしかない。これが、亡命者が現象している背景だ。では亡命者は、命がけでヒマラヤを越えてどこに向かうのか。ネパールの首都・カトマンズで亡命者たちに対する民間支援を行っている『チベタンチルドレンズプロジェクト(TCP=Tibetan Children's Project)』に依ると、「インド側の国境は標高が高く、ネパール側に逃れる亡命者が多い。一度ネパールに逃れてからダライ・ラマに会う為に、ダラムサラへ向かうルートを採る者が多い」という。また、「亡命者の約半数は子供です。理由は、彼らの両親が子供にチベット人としての教育と自由を与える為、『せめて子供だけでも…』と送り出すから」だ。亡命時期は「国境警備が手薄な厳冬期に集中する」為、凍傷等のリスクは高い。勿論、亡命に命の保証は無い。それを決意するほど、チベット人にとって中国での宗教弾圧は耐え難いものなのだ。

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では、こうして命がけで国境を越えてきた亡命者の生活は、どのように支えられているのか。財政はどうなのか。CTAに依ると、1970年代に『亡命者が自主的に政府を支援するためのグリーン・ブックプロジェクト』が始まったという。これは、亡命者が毎年定額をCTAに支払う、謂わば税金だ。また、パスポート大の冊子に支払いが記録され、亡命者のIDの役目も果たしている。年額は、インド、ネパール、プータン居住者のうち、6~14歳が12インドルピー、15~17歳が48インドルピー、18歳以上が58インドルピー。それ以外の居住者は、6~17歳が36ドル、学生と非労働者は46ドル、18歳以上の労働者は96ドル(表)。1ルピーが1.8円、1ドル120円とすると、見込める税収は精々1~2億円ほどだろう。これでは外交交渉は勿論、亡命者の生活保障は難しい。ルントック氏は、「実際、政府財源の多くは寄付や献金で成り立っている」という。中国侵攻の前にインドに逃してあったという“財宝”を元手にした投資信託金からも一部を補填しているらしいが、1989年にダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞してからは欧米からの寄付が急増した為、現在の活動ができているそうだ。その総額や用途の仔細は明らかでないが、予算はCTAの各省庁に振り分けられる。宗教・文化省下の200以上の僧院や尼僧院(僧・尼僧2万人以上在籍)・チベット芸術研究所・出版物の刊行・内務省下の農業団体や織物組合・文部省下の84の学校の支援(3万人の児童)・公安省下の一時収容所や厚生省下の病院等に用いられるという。施設は各地にある為、必ずしもダラムサラだけに予算が集中している訳ではない。とは言え、潤沢な資金がある筈はない。同氏は、「政府役人の給与は月に2万円、大臣クラスでも3万円程度。インドでは高給与の仕事は少なく、一般の亡命者の中には海外移住希望者が多い」という。寄付は、外国人が少額から参加できるブルーブック・プロジェクトが重要な財源のようだ。日本では500円単位で受け付けているが、「『営利目的では?』と批判されることがあり、積極的な告知ができない」現状だそうだ。その為、ロブサン・センゲ首相は税収を増やす方針を示しているが、中国と先の見えない交渉を続ける為には、予算はいくらでも必要だろう。

亡命者の総数は13万4000人。それに対し、ダラムサラには僅か6000人だという。これは全体の5%に満たない。亡命者はダラムサラを目指すのではないのか。何故、ダラムサラに住んでいないのか。役人しか住んでいないのだろうか。ルントック氏は言う。「政府関係者以外も住んでいるが、山がちで居住区が少ない上、観光地化の影響で物価が上昇している為、住み辛い。法王は、1年の半分はインドやネパールのチベット人居住区を遊説されるので、多くがダラムサラ以外に住んでいる。これらのチベット人居住区はあまり知られていない為か、観光客が少ない」。この物価上昇が、後発の第2期・3期亡命者が居住する為のハードルになっているらしい。一方で山本准教授に依ると、「旧来の居住者が海外移住する傾向にある。新規亡命者は生き残ろうという力があるのか、インド生まれの2世・3世より英語が上達し、職を得ている者もいる。最近は新規の亡命者(第3期)が増えてきているのではないか」と話す。但し、「ダラムサラでの仕事は、知的労働や芸能関係の他は観光一色」とも。前述のTCPの話では、「亡命して何とかダラムサラに辿り着いても、ネパールに戻ってきてしまう」という。その理由は、「学校の学習ペースについていけない」「高温多湿の自然環境に適応できない」「仕事が無い」「インド人と気質が合わない」為だという。年齢を問わず、ダラムサラは新規亡命者が定住するのは難しく、誰でも簡単に住める街ではないようだ。とは言え、ネパールに戻ったとしても安定した生活を得られる訳ではない。インターネットで知り合った欧米人と結婚して、国籍や永住権を得たら離婚して、家族をその国に呼び寄せるという、経済格差に根差した問題が増えているそうだ。

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様々な理由で、世界各地に居住するチベット人は増えている。では、彼らの国籍はどうなるのか。日本在住の亡命者に聞いた。東京で唯一のチベットレストラン『タシデレ』を経営するロサン・イェシ氏は、南インド生まれの第1期亡命2世だが、日本人と恋愛結婚して日本国籍を取得したという。第3期亡命1世のゲニェン・テンジン氏も同様に、婚姻に依って日本国籍を取得。現在では幸せな生活を送る彼らも、「それまでは無国籍状態だった」という。他の亡命者についても「同じような状況なのでは」というのだ。亡命者の殆どが住むインドの状況はどうか。前出の山本准教授に依ると、「インド生まれの2世以降の大多数はインド国籍を取得していない」という。「インドで国籍を付与する動きはあるが、チベット人自身がインドとの同化を忌避してきた流れがあり、それが国籍取得のブレーキになっているのでは」という。つまり、亡命者の殆どが無国籍者ということだ。無国籍者が多いからこそ、CTA主体に教育や医療等のインフラ提供が必要なのだが、代替わりが進む中、ルントック氏の話やTCPが挙げる例にもあるように、就業機会やよりよい暮らしを求めて、海外移住と国籍取得を希望する者が多くなっているのが現実。ユダヤ人のように各地に離散した民族をディアスポラというが、チベタンディアスポラも益々多国籍化していくだろう。では、チベット人はバラバラになってしまうのか。中国出身で現在は日本企業で働くチベット人のダンゼン・ドルジェ氏曰く、「ダライ・ラマが来日された際に、別室にチベット人だけが集められた。そこで亡命者たちとも知り合えた」という。ダライ・ラマの存在は、ディアスポラや内外のチベット人を繋ぐ役割も担っている。

ダラムサラの街の様子は、昨年の夏に公開されたドキュメンタリー映画『ルンタ』を見ると感じることができる。監督は、『延安の娘』『蟻の兵隊』『先祖になる』で有名な池谷薫氏。映画の主題は“チベットの焼身抗議”で、チベット人の持つ慈悲の心を訴える内容だ。この映画は中原一博氏を案内人として、前半部はダラムサラを舞台に描かれる。中原氏は建築士として亡命政府に招聘されて以来、30年に亘りダラムサラで支援活動をしてきた人物だ。映画では、中原氏がチベット語で亡命者とコミュニケーションし、酒を飲み、歌を歌い、細やかな楽しみを共有する姿が好意的な視点で挿入され、彼らの日常の雰囲気が伝わってくる。“焼身”の悲劇性ばかりを描く映画ではない。劇場公開は終了したが、自主上映や講演依頼は『蓮ユニバース』で受け付けているので、機会を作って見てほしい(http://renuniverse.com/joei/)。そのダラムサラは、ダライ・ラマや政府関係者、文化エリート、経済的に成功した観光産業従事者が住む、チベット亡命社会にあって特殊な街だ。亡命から55年以上経ち、国を亡くした人々の生活や立場は多様化してきた。実際にダラムサラを訪れれば、「それほど困窮していない」と感じる人もいるだろう。また、ディアスポラ化し先進国で暮らす者も増えつつある。しかし、こうした境遇を享受している者は少数で、貧困生活を送っている者が大半だからこそ、寄付や支援は継続して必要だ。厳重な国境警備を敷かれても、中国での文化弾圧から命懸けで逃れてくる人々は絶えない。この事実を心に留めながら、ダラムサラや亡命社会の多様な現実を踏まえて、チベットについて同じ仏教者としてできることは何か、考えたい。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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