【日本人の死生観が急変しつつある現象を読み解く】(中) 何故に亡き人を忘却してはならないのか

中世から近世への転換期に、死後の世界観も大きく変わったと言われる。死者は最早遠い世界に旅立つことは無く、この世に留まり続ける。そのケアは、生きてある人々の重要な務めとなった。それは何故なのか? (東北大学大学院教授 佐藤弘夫)

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私は前回、日本列島では、死後も長期間に亘って生者と死者が交渉を継続する伝統があったこと、その典型が墓参りの習俗であり、それは墓の在り方と深く関わるものであったことを述べました。こうした伝統は屡々、太古以来の日本人固有の死生観に根差したものという説明がなされます。しかし実は、江戸時代に定着した比較的新しい習慣でした。中世と言われる室町時代・鎌倉時代まで遡れば、墓参りの習慣は無かったのです。それは、中世人が死者に対して冷淡であったからではありません。中世は、人々を救い取ってくれる救済者=仏に対する強い信頼が社会に共有されていた時代でした。極楽浄土の阿弥陀仏はその代表でした。人々の理想は、死後速やかにこの世を離れて浄土に生まれ変わることであり、いつまでもこの世にグズグズしている死者は不幸な存在だったのです。中世から近世への転換期、14世紀から16世紀にかけての時期に、こうした世界観は大きく転換します。遠い世界に実在する絶対的な救済者に対するリアリティーを、人々が次第に維持できなくなっていくのです。より具体的に言えば、「どこかに目には見えないけれども尊い仏さまがいて、信じれば死んだ後に救い取ってくれる」という説明を、大方の人が受け入れられない時代になってしまうのです。近代まで継続する、識別できるもの、計測できるものだけを実在と認める世俗的な世界観が、広く社会を覆う時代の到来です。最早、遠い浄土へと旅立たない死者は、いつまでもこの世に留まって、墓の中で子孫の行く末を眺めながら、穏やかに第二の人生を過ごすことが望ましい姿と考えられるようになりました。宗教的な覚醒を最終目標とする中世の“仏”から、墓の中で心地よい微睡みを楽しむ近世の“ホトケ”へと、死者のイメージは決定的に変化していくのです。

他界浄土の仏の救済能力に対する信頼が失われてしまった近世において、死者が最終的な安らぎの境地に到達する為の最も大切な条件となったのは、縁者との長期間に亘る交流でした。死者は生前に持っていた欲望と怨念を少しずつ浄化し、長い時間をかけて穏やかで無害な“ご先祖”の領域まで上り詰めることが理想とされました。その為、近世社会では、縁者や子孫との長期に亘る交流を経て、死者を祖先神にまで上昇させる為のシステム整備が進められました。死去直後から77日を経て、33回忌・50回忌に至る様々な儀式と供養が考案され、宗派を超えた地域共通の儀式として在地に定着していくのです。縁者は、こうしたプロセスが首尾よく成就するように、盆や彼岸等、折々に死者の許を訪れ、或いは死者を家に招いて、故人が寂しい思いをしないで済むように配慮することが求められました。これらの死者供養の儀礼は、地域毎に様々なバリエーションを生み出しながら、今日まで継承されてくるのです。こうして江戸時代以降、日本列島上では生者と死者との親密な交際の光景が展開することになりました。季節毎に繰り返される死者との対話と交流は、供養する側にも「自分が死後に縁者との関係を継続できる」という思いを植え付けていきました。盆側に祖先を迎えて甲斐甲斐しく供物を捧げる人々は、その祖霊に、何十年か後にそこに祀られて奉仕を受ける自分の姿を重ねていたのです。先祖に依って見守られているという認識は、何れは自分も“ご先祖様”になって子孫を見守るようになるという確信を支える根拠となりました。故人の安らかな後生は、生者にとっては取りも直さず、自分たちの死後の安心を保証するものでした。こうした感覚を共有する社会においては、生と死は重なり合い、連続していました。死者の世界は未知の暗黒世界ではなく、再びこの世に蘇るまでの休息の地でした。死は一切の終焉ではなく、生者との新たな関係の始まりだったのです。近世社会においても、圧倒的に多くの地域において、仏教は相変わらず死者供養に不可欠の要素であり続けました。けれども、そこで主役となる“仏”は、極楽浄土の阿弥陀仏のような他界の救済主(あの世の仏)ではなく、寺院に安置された仏像(この世の仏)でした。その役割も、人を聖なる世界に送り出し、成仏させるという宗教的な意味での救済ではありませんでした。死者供養との関わりで近世の仏教に期待された機能は、墓地での穏やかな眠りを継続できるよう、故人を見守り続けることでした。或いは、悪道で苦しんでいる先祖を救い出し、来世に人間として復活する為の正常なルートに乗せることだったのです。




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死者供養のシステムが完成した近世においても、そこから漏れる死者はいました。庶民層まで安定した家が形成されていくのが近世社会の特色でしたが、それでも家を形成することのできない人々は少なくありませんでした。例えば、武家や商家に住み込みで働いていて、生涯自らの家族を形成しない都市在住の下層民がそうです。遊女たちの多くも、家庭を持つことはありませんでした。農村に目を転ずると、そこには結婚できないまま一生を終える下男や小作人が沢山いました。そうした人々の遺体は皆、無縁墓地に葬られました。近世社会は、死者が死後も個性を持ったまま、この世で生者と共存し、交歓する時代でした。にも拘らず、これらの人々は墓石も無く、墓地に運び込まれた瞬間に地上から忘れ去られる存在だったのです。墓地に放置される人々は中世にもいました。寧ろ、その割合は中世のほうが圧倒的に多かったと言えます。しかし、中世ではたとえ無縁の人物でも、一度高野山等の聖地=この世の浄土に運び込まれれば、仏の力に依って彼岸への飛翔が実現し、宗教的救済が達成されると信じられていました。目に見えない他界の救済主の実在に対する揺るぎのない信頼が、その安心を支えていました。それに対して、近世は親族縁者に供養されることを通じて死者が欲望や怨念を振り捨て、穏やかな眠りを継続できると考えられた時代でした。反面、無縁仏となることが極度に恐れられた時代でした。そうした中で一応、墓地に葬られたとは言え、誰も訪れることのないまま放置された死者は、定期的な供養のシステムに乗った人物に較べれば、墓所を離れて彷徨い易い存在=幽霊の予備軍と見做されることになりました。光に満ちた風光明媚な場所に造られることの多い中世墓地とは対照的に、単なる死骸の安置場所という以上の、近世墓地の持つあのえもいわれぬ不気味さは、墓標の無い埋葬者や無縁仏に対する忌避と恐怖の感情に依るところが大きかったのです。その為、近世では無縁仏を如何にケアするかが、個人のレベルを超えた社会的な課題となりました。地域毎に無縁仏供養の様々な行事が執り行われました。中でも、最も広く行われたものが施餓鬼の法要です。この法会は、盂蘭盆の時期を中心に、現在でも多くの寺院で催されています。これに合わせて、魚や鳥等の生き物を自然に帰す放生会が行われているところもあります。墓に安住できない=成仏できないでこの世を彷徨っている死者が暫し心の安らぎを取り戻し、静かに眠りに就くことができるよう食物や水が捧げられ、読経がなされました。その功徳は餓鬼道に堕ちた人々だけでなく、“三界万霊”と総称されるありとあらゆる人物の精霊に振り向けられたのです。寺での儀式とは別に、お盆の時期には各家庭でも彷徨する無縁の死者の供養が行われました。盂蘭盆は「亡くなった先祖が家に帰る」と信じられた日であり、その為の居場所として精霊棚が設けられましたが、それとは別に小さな施餓鬼棚が家毎に作られました。そこに供えられた湯茶と食物で、有縁・無縁の死霊が暫し飢えや渇きを癒し、悪道の苦しみが少しでも和らぐことが願われたのです。

江戸時代の社会において、無縁仏を生み出すもう1つの要因が、天災に依る大量死でした。品種改良や水利施設が不十分で、農薬も貧弱だった江戸時代の農業生産は、天候に左右される側面を強く持っていました。西日本では日照りや台風が、北日本では寒冷な気候が屡々飢饉の引き金となりました。東北地方では、とりわけ冷害が猛威を振るいました。江戸時代の4大飢饉は、何れも冷害を原因とするものでした。一度飢饉が起これば、数年の間に地域の人口が半減することも珍しくありませんでした。飢饉は多数の人間の命を奪い、“間引き”と言われる堕胎や新生児殺しを誘発しました。それ以外にも、火山の噴火・津波・疫病等に依って大量死が発生する事態が繰り返されてきたのです。天災に依って命を落とした不特定多数の死者を供養する為、江戸時代には各地で、仏像や慰霊碑の建立が盛んに行われるようになりました。福島県檜枝岐村では、尾瀬に通じる沼田街道沿いに六地蔵が立っていますが、これは飢饉で亡くなった子供たちの冥福を祈って作られたものでした。今、日本列島の至る所にある無数の路傍の地蔵もまた、その多くは非業の最期を迎えた人々を悼んで建立されたものです。石のお地蔵さまのあの穏やかで柔らかな表情の陰には、不幸な運命に依ってこの世の生を全うできなかった無数の子供たちの嘆きの声が塗り込められているのです。岩手県盛岡市茶畑の羅漢公園には十六羅漢と五智如来、合わせて21体の巨大な石像が露天に安置されています。これは、繰り返し押し寄せた近世の飢饉の犠牲者を供養する為に、天然和尚という人物が地域住民の寄付を募り、13年の歳月を費やして幕末に制作したものです。これらの像を目の当たりにすると、そのスケールに圧倒されます。餓死者に「もう十分である」と感じてもらう為には、これだけ大規模なモニュメントを作る必要がありました。災害が人々の心に残した傷跡は、それほど深かったのです。こうして近世の日本列島では、直接的な供養者がいなくなった場合でも、無縁の死者を安定的にケアする為の重層的なセーフティーネットが張り巡らされていきました。このネットに依って、死者が無秩序にこの世に越境することを防止する一方、故あって越境してしまった死者を本来の領域に押し戻そうとする試みが続けられました。江戸時代は、死者に対する細やかな心遣いが広く社会を覆っていた時代だったのです。

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「死者の安穏が生者側のケアに左右される」と考えられた近世社会では、長期に亘る供養継続の前提として、死者の記憶を如何に維持するかが重要な課題となりました。死者が早々と忘れ去られてしまっては、供養のしようもないからです。墓標の建立は記憶を伝える為の代表的な試みですが、それ以外にも列島の各地域では、特色ある記憶維持の装置が考案されていきました。皇祖神を祀る伊勢の内宮に接するようにしてそそり立つのが、555mの標高を持つ朝熊山(三重県)です。山上には、6世紀の欽明天皇の時代に創建され、空海が奥の院を建立したという伝承を持つ臨済宗南禅寺派の金剛證寺があります。本堂の前を通って境内を奥に進むと、朱塗りの楼門(極楽門)が出現し、それを抜けた先は奥の院に向かう参道になっています。石畳の参道の両側には、死者供養の為に建てられた巨大な角柱の卒塔婆が、隙間無く並べられて壁を作っています。“卒塔婆の供養林”と呼ばれる金剛證寺独自の光景です。伊勢地方では江戸時代から、近親者が亡くなると、朝熊山に登って故人の供養の為に卒塔婆を建てる“岳参り”という習慣がありました。人々はその折に卒塔婆を奉納し、その後も折々にここを訪れて亡き人の面影を偲び、その安らかな眠りを願ったのです。関東地方では、下野の岩船地蔵(栃木県高勝寺)が卒塔婆奉納の霊場として知られています。ここでは中世には、死者を悪道から救い取り、彼岸へ送り届ける地蔵尊に対する信仰が行われていました。近世以降は、身内に死者が出るとここにお参りし、卒塔婆を納める信仰が広がりました。今も、境内には膨大な数の卒塔婆が群をなして建ち並び、本堂には故人の衣類が奉納されています。

死者を記憶する為の装置は、近代に入ると衰退するどころか寧ろ多様化していきました。東北には、若くして亡くなった人々を供養する独自の風習が残されています。山形県の村山地方では、夭折した男性の霊を慰める為に、その婚礼の風景を描いて奉納する“ムカサリ絵馬”という宗教儀礼があります。この風習が盛行するのは明治以降のことであり、立石寺(山形市・天台宗)や若松寺(天童市・天台宗)では現在も引き続き行われています。死者の婚礼姿を奉納するという風習は、青森県の津軽地方にも見られます。太宰治の生家がある金本の川倉地蔵尊は、死者の婚礼の地として知られている場所です。ここでは、死亡した男性の写真を同じケースに納めた花嫁人形が奉納されています。其々の花嫁人形には、恰も実在する人物であるかのように架空の名前が付けられています。供養の対象が若い女性である場合は、花婿・花嫁人形が対で奉納され、花嫁人形のほうが故人に見立てられました。江戸時代以来の伝統を受け継ぐ金剛證寺や岩船地蔵の卒塔婆供養が、梵字と戒名を記すという仏教的な形式を取っているのに対し、近代になってから流行するムカサリ絵馬と花嫁人形には、宗教色が極めて希薄です。勿論、ムカサリ絵馬にせよ花嫁人形にせよ、奉納されるのは仏堂でした。しかし、そこに表現されている光景は、結婚式という完全に世俗化した儀礼です。宗教的法悦とは全く次元を異にする、婚礼というこの世で体験するセレモニーが、死者にとっても至福の時として認識されているのです。死者の世界は、現世と異質な時間と空間ではありません。死後に過ごすべき幸福な時間が、俗世の生活の延長線上のものとしてイメージされているのです。岩手県の遠野地方では、“供養絵額”という習慣が行われています。下の絵額は、明治時代に光岸寺(遠野市・曹洞宗)に奉納されたものです(写真①)。床の間のある客間と思しき部屋にいる紋付袴姿の3人の男性と、着物を着た1人の女性の姿が描かれています。

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目の前には、立派な器に盛られた豪勢な食事が用意され、お酒の徳利も並んでいます。柱の一輪挿しには紅葉の小枝が飾られ、何事かお目出度い日の様子に見えます。しかし、これは現実の光景ではありません。床の間に掛けられた掛け軸にある戒名からわかるように、この4人は既に鬼籍に入った人物なのです。何れも“前川”姓であることから、これらの人々は家族か親戚であったことが推測されます。年齢からいって、女性は右の2人の若い男性の母親であった可能性があります。髭を生やした年配の男性は、その父親でしょうか。生没年を異にする家族が、死後にはこうして再会し、生前と同じ生活を送っているのです。但し、この世の人生と違って、そこには飢えや病の苦しみはありませんでした。もう1枚の絵額は、瑞応院(遠野市・臨済宗妙心寺派)に奉納されたものです(写真②)。母親と3人の乳幼児が描かれています。母親も子供たちも綺麗な肝のを身に付けています。床には沢山の玩具が散らばっています。左上に記された戒名から、これらの人物全員が既にこの世を去った者たちであることがわかります。この母親は子供たちを幼くして次々と失い、自らもその命を落としてしまったのです。赤子に乳を含ませる姿、子供と戯れる姿には、強く願いながらも叶わなかった母親の無念の心情が表現されているのでしょうか。この世で叶わなかった願望を、この母親はあの世で漸く実現することができたのです。これらの絵額を奉納した親族は、繰り返し寺を訪れてはこの絵を目にし、先逝った家族が死者の国において幸せな生活を続けていることを確認して、安らかな気持ちを抱いて帰途に就いたのです。これらの絵馬があることに依って、残された人々は墓だけからは容易にイメージできない、身近な故人が体験している死後の世界のリアルな日常を想起することが可能となったのです。

14世紀から16世紀辺りの時代を移行期として、日本列島では死者と死の世界に対する観念が大きく変容しました。死者がこの世にいてはならない時代から、いつまでも身近に留まって生者と交流を続ける時代への転換です。この転換以前の中世と呼ばれる世界では、人々を彼岸へと迎えとる絶対的な救済者に対する深い信頼が維持されていました。異次元に実在すると信じられていた理想世界(浄土)のイメージも、生々いリアリティーを持って共有されていました。救済者の手に委ねられた死者は、その力に依って瞬時に浄土に飛翔することが可能となりました。浄土に到達した死者は最早、生者が気軽に触れ合うことができるような存在ではありませんでした。それに対して、世界観の転換を経た近世社会では、死者は最早遠い世界に旅立つことはありませんでした。この世に留まる死者は、救済者の力に依ってではなく、残された生者に依る長期間のケアを通じて、子孫を見守ってくれるご先祖様へと少しずつ上昇していくのです。その為、先祖への変身の過程で死者が忘却されたり、その供養が中断されたりすることがあってはなりませんでした。それは死者を記憶し続けることの重要性が、日本列島において大衆レベルで初めて認識されるようになったことを意味しました。特定の人物に対する記憶の継続が、その人物の死後の命運と不可分の関係を持つ時代が到来したのです。死者をケアする主体が救済者から人間へと移行するに連れて、死後世界の世俗化は急速に進行しました。死者の安寧のイメージが、生者の願望に引きつけて解釈されるようになりました。死者は、仏がいて蓮の花咲く浄土で、最終的な解脱を目指して修行しているのではありません。美しい婚礼衣装を身に纏い、冥界での衣食住に満ち足りた生活を満喫しているのです。日本列島では江戸時代に入った頃から、故人の戒名・法名を刻んだ墓標が普及し始めます。死者に対する周忌供養も社会に定着していきます。それは、死者を記憶に留めることの重要性が社会に認知され、定着していく過程と裏腹の現象でした。墓標の建立は、幕末に向かうに連れて、次第に下層身分の世界にも浸透していきます。明治維新を経た近代社会においても、死者の記憶の維持は相変わらず重要な課題とされ、ムカサリ絵馬や供養絵額等、個性豊かな記憶維持装置が制作され、奉納されていくのです。


佐藤弘夫(さとう・ひろお) 宗教学者・東北大学大学院教授。1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部史学科卒。同大学大学院文学研究科博士前期課程修了。博士(文学)。盛岡大学助教授等を経て現職。専攻は日本思想史。著書に『死者のゆくえ』(岩田書院)・『死者の花嫁 葬送と追想の列島史』(幻戯書房)等。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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テーマ : 仏教の教えと世界観
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