【お寺が足りない!】(中) 首都圏開教に挑んだ住職が痛感した寺が足りぬ最前線

立派な伽藍も広い境内も駐車場も無い。民家と見紛う建物だったり、マンションの一室が都市開教寺院の現実。だが、人もお金もどんな場所でも集まってくる。そこがまさにお寺である限り――。首都圏で開教に挑んだ住職たちの実践からわかったのは、やはりお寺が足りない現実だったのだ。

前回、首都圏にお寺の数が人口に比して極端に少ない実状を見た。その現実に対して、宗派の取り組みを取材したところ、2つに分かれたと言っていいだろう。1つは、どちらかと言えば既存寺院を拠点に布教をしていこうというもの。もう1つが、浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・日蓮宗のように、積極的に教団がバックアップしながら新寺建立していく動きだ。但し、後者にしても、人口増のスピードには追いついていない。何故、追いついていないのか。人材や資金面の課題もあるだろう。宗教法人格の取得も今の時代、容易なことではない。また、近くに新しいお寺ができることで、「檀家を取られる」と既存のお寺が嫌がるという声も常に聞く。だが、そんなことがあり得るのだろうか。寧ろ、そのような声はお寺が足りない現実、いやそれに伴う危機から目を背けているだけではないのだろうか。首都圏開教に挑んだ住職たちを取材すると、はっきりとその事実が見えてきた。

①手を合わせる場を求めている  埼玉県・日蓮宗源妙寺越谷布教所(※閉鎖済)
※Currently, this temple is closed and we have been informed that it is a general house, so we deleted only this item in consideration of the privacy of each party concerned.




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②開教4年で新寺建立できた!  東京都・日蓮宗一妙寺
「地方は、どちらかといえば家の宗教。小さい頃から『ここのお寺さんに守って頂いている』という意識です。一方、首都圏で国内開教をしていると家の宗教というより、個人の宗教。そこに訴えかけていくのは、同じ日蓮宗のお寺の住職といっても、求められるスキルも活動も全く違うと思います」。そう力強く話すのは、東京都国立市の新寺・日蓮宗一妙寺の赤澤貞槙住職(35)だ。国立市は人口約7万5000人。人口増加地域だ。1日約車7万台が通るという甲州街道沿い、約60坪の敷地に白壁のモダンな3階建ての建物が新築されたのは平成26年。先述した通り、同寺が日蓮宗の国内開教制度の第1号寺院である。赤澤住職が国内開教師に任命されたのは平成22年。現在地から数km離れた市内の住宅街の借家を布教所としてスタートした。当時、赤澤住職は奥さんとの間に娘さんが生まれたばかり。一家3人の生活を背負っての船出だったが、僅か4年で新寺建立。費用は、土地建物合わせて総額約1億円。貯金や銀行融資、信徒からの寄付で賄ったというから凄い。既に銀行には返済を終え、今年中には宗教法人の認証を目指す。その馬力は凄まじい。毎月の寺報は約300軒に配布する。お寺を求める人たちの強い思いがあったと言える。赤澤住職は、神奈川県川崎市の在家の生まれ。ただ、祖父母が熱心な日蓮宗の信徒でもあり、子供の頃から仏教に関心があった。中学生の時、身延山久遠寺にお参りに行った際、「『僧侶になれ』という暗示を受けた」ことから、両親の反対を押し切って僧侶の道へ。身延山高校卒業後、立正大学に進学。20歳の時に教師資格を取得し、26歳で百日荒行を成満した。その後は都内のお寺に勤めていたが、次第に「自分のお寺を作りたい」という思いが募る。だが当時、日蓮宗には宗派がサポートする制度は無かった。「宗門に『浄土宗は国内開教制度があるのに、日蓮宗は無いのですか?』と助成金の申請をしたのです。そしたら、『話はあったが、公募してもチャレンジャーがおらず凍結した』と言われました。それで、『私がやるから解凍して下さい』とお願いしたのです」(赤澤住職)。日蓮宗でも国内開教に力を入れようと考えていた時期。公募で希望者を募ることになった。赤澤住職は、持ち家率が低い国立市を選定。入念な現地調査の上、レポートを作成。緻密な計画と熱意が見込まれたのだろう。見事、国内開教師第1号に選ばれた。29歳の時である。

布教所拠点は、駅から徒歩15分の2DKの一軒家に決めた。家賃は15万円。スムーズに借りることができたのか。「第1候補と考えていたところは、お寺と聞くと煙たがられた。それで、第2候補ではお寺とは言わず、『書道教室のようなものです』と言うことにしました」。本堂は、リビングに段ボールで祭壇を拵えた簡素なところから始まったが、木魚の上にはバスタオルを掛けて音を抑えた。地域の清掃活動にも積極的に参加。お寺にも来てもらった。そんな姿勢が伝わったのか、「駐車場を使っていいよ」という人もいて、住民は好意的になった。駅前で辻説法を行い、街を行脚した。チラシも5万枚近く配布した。しかし、反応は薄かった。助成金があるとは言え、頼みの仏事も当初は少なく、月収1万円の時もあった。不安な時を傍で支えてくれたのが、歯科衛生士でもある奥さんの実永さんだ。共に行脚にも付き合ってくれたのだ。「国内開教師は孤独。自分の信仰だけが頼りです。思ったような反応が無いと、『自分の存在意義って何だろう』と、中にはノイローゼになる人も出る厳しい世界です。私は、『ゼロからお寺を造るのだから、奈良や京都には無い、既存のお寺に無いお寺にしたい』という思いがありました。その1つが、女性に受けるお寺です。『女性が写真を撮りたくなるようなお寺にしたい』と思った。妻は、私にとって世の女性の代表。その妻が一緒に歩いてくれるのだから、『世の中的にヘンなことをしている訳ではない』と思えました」と赤澤住職。また、若い2人を助けてくれたのが、地元の教区の同宗寺院だった。「都市部では、仏事の数がお寺の数より勝っている。『土日空いてる?』と霊園の法事やお葬式を回してくれました」。その1回1回を、赤澤住職は布教の好機として全身全霊で臨んだ。初めて出会った喪主に故人の話をしっかり聞いた。オリジナルの引導文を作り、暗記して読み上げた。法話は必ず行い、「四十九日はこんな話をします」と次の法事を頼みたくなるような仕掛けも考えた。今の本堂葬儀は、まるで自然の草花の中に佇むような空間であることからも、心遣いが伝わる。春秋のお彼岸にも季節の花や果物、野菜をアレンジして供える。まさに、思わず写真を撮りたくなる空間だ。

心の籠った仏事に感動したのは遺族もそうだが、葬儀社もだった。「一妙寺のファンになった」と信徒になる葬儀社まで現れ、仏事の依頼が増えたのだ。開教たった1年で法務が10倍になったというから、驚くべき成果である。こうして、新寺建立にこぎつけた。ただ、後進の為には、国内開教制度、それに首都圏布教にはこんな提案をする。「ゼロからお寺を造るのは大変です。銀行融資ではなく、宗門に貸付制度があればと思います。やはり、利子の無い身内に借りられると心強い。他宗の国内開教の方との情報交換も大切です。私は自分から手紙を書いて教えを請いに行きましたが、ゼロからお寺を造るからこそ情報交換が重要です。それに、地方出身の、日蓮宗の檀家の仏事を代行できるシステムが必要です。宗門が『仏事のご用命は直接ご依頼下さい』とPRするのも1つの方法ですから、そんなところにも予算を使ってもらえたらと思います」。アイデアが溢れる赤澤住職。国内開教師に任命されて6年目に入る今、改めて感じることがあるという。「実感するのは、『ご本尊に向き合う僧侶の背中に檀信徒は礼拝しているのだ』ということ。確固たる信仰心が一番だということです。合理的な世の中になったけれど、生きていく上での矛盾や葛藤を解決してくれるのは宗教しかない。だからこそ、人は仏様にその力を求めている。手を合わせる場が大事なのです。お寺を建立した時、本当に多くの方から寄付を戴いたのですが、ある方が働いていないのに多額の寄付を下さいました。『寄付よりも、生活の足しにして下さい』と言うと、『お寺の為ではない。亡くなった主人の供養の為に出すお金です』と言われたのです。冷や汗をかきました。『自分はまだまだだな』と。『ご本尊に呼ばれてお寺に来た』という方もおられました。仏事の簡略化が言われますが、生きる上では矛盾に応える精神世界の場が必要です。僧侶はそこに尽くす存在なんだと、私がお寺に集う人たちに教えて頂いているのです」。

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③国内開教は時代のアンテナだ  東京都・浄土宗林梅庵
「国内開教には4つのステップがあります。第1段階は、信徒さんのコミュニティーをゼロから立ち上げる。第2は、新寺建立の為の土地建物取得。第3は宗教法人格の取得。第4段階はお墓。更に言えば、後継者育成の課題もあります。相談できる方も少ないし、其々の段階で試行錯誤がある。大変でもあり、やりがいもあります。一方で、特定の檀家さんだけを対象にしない開教寺院は、仏事に対する意識の変化を肌で感じ得る時代の最先端なのです。宗門にとっても、非常に大切なアンテナ部分ではないでしょうか。例えば、最近では親戚の目を気にしない方も増えてきた。法事も三回忌までやるけれど、七回忌はお墓参りで済ませるという方が非常に増えています。既存のお寺さんにとっても脅威の時代だと思います」。そう話すのは、人口約14万7800人の東京都多摩市にある新寺・浄土宗林海庵の笠原泰淳住職(57)である。同寺は京王線聖蹟桜ヶ丘駅から車で10分、閑静な住宅街の一画に、山を背にしたログハウス風の伽藍が目を惹く。林海庵は、浄土宗の国内開教寺院第1号である。その歩みは、今から15年前の平成13年に、国内開教寺院としてスタートした。最初はマンションの一室から始まった。4年後の平成17年、現在地に土地建物を取得。建物は中古だったので、リフォームを加えて土地取得費を合わせて総額約8000万円を要した。3年後の平成20年3月に宗教法人取得の為、書類申請。同年9月には認証が下りた。開教から7年だった。現在、実質的な檀信徒は約200軒。毎月、お念仏の会には20人近い人が集まり、お正月には地元の人もお参りに来る。新寺を建立して10年。地域のお寺として浸透しつつあるのだ。

笠原住職は昭和33年、東京の在家の生まれだが、学生時代から仏教に興味があった。慶應義塾大学経済学部卒業後、『日本通運』に就職。しかし8年後、人生を考え直すきっかけがあった。「私の父が62歳で、病で亡くなったのです。父の死に遭って、『第2の人生というのは無いかもしれない。それなら、自分の関心のある分野に思い切って飛び込んでみよう』と思ったのです」。菩提寺の浄土宗寺院の住職を師僧として出家できたのがよかったという。教師資格を得た後は、港区にある同宗寺院の職員として勤務した。同寺に勤めて7年近く経った頃、転機が訪れる。偶々、帰りの電車で宗門の役職者と一緒になったのがきっかけだった。「その課長さんが、『浄土宗で、国内の浄土宗寺院が少ない地域にお寺を作る話が出ている。やってみませんか?』と言われたのです。『それはいいなあ』と思いました」。とは言え、浄土宗でも初めてのこと。制度的にも確立しておらず、「何もかもが見切り発車。名称1つにしても“開教使”か“開教師”なのか、そこからでした」と振り返る。開教地域の選定から始まった。当初、考えていたのが多摩市だ。「多摩市は、人口14万人に対して浄土宗のお寺はゼロでした。隣りの稲城市は、人口7万人に対して浄土宗のお寺は1ヵ寺あった」と笠原住職。しかし、「人が集まる仏間として使える賃貸物件を…」と考えると絞られた。そこで選んだのが、稲城市のマンション。メゾネットタイプで、5階と6階が内部階段で繋がった住空間だった。ただ、お寺として借りた訳ではない。「居住専用ですから、内緒でした。賃貸であまり付き合いが無かったことと、メゾネットタイプだったことからワンフロアにもう1軒しかなく、隣りの方の理解を得ることで済みました。とは言え、鉄筋で木魚の音が響くので、バスタオルを詰めたりして工夫をしていました」。43歳の時である。手始めに行ったのが、当時としては未だ珍しかったお寺のホームページの立ち上げだ。「友人が『これからの若い人は電話帳なんて見ないよ』と、ホームページを薦められました。“多摩地区 浄土宗”で検索したら直ぐに出るようにしようと」。ホームページには仏教や仏事Q&Aコーナーを作った。メール相談も受け付けたところ、縁作りの一歩になったという。しかし、家賃だけでも17万円近い。寺院建立に向けた積み立ても必要だ。生活の支えは、浄土宗と東京教区からの助成金に、奥さんの翻訳業の収入、そして地元の組からの法務の紹介だったという。それにしても実感したのが、お寺の少なさだった。「人口が増えた多摩地域には新しい霊園がどんどんできた時期があるのですが、お寺の数が全く追いついていなかった。霊園から『浄土宗のご寺院が無くて困っているから来てほしい』と法務を頼まれることが非常に多かったのです」。仏事やメール相談で縁ができた人が、定例会の『お念仏の会』にも来るようになる。信徒コミュニティーの立ち上げだ。2年後には勤務先のお寺を辞めて、林海庵の収入で食べていくことができるようになったというから、仏事のニーズは大きかった。貯蓄も少しずつ増えてきた。

人が集まれば、「やっぱり独立したお寺が欲しいね」と声が上がる。「お金も大事ですが、お寺の核となる人が盛り上げてくれるのが一番大きかった。『今度、不動産広告を持ってくる』という話が出る。人数は少なくても、次の段階に進む原動力になるのです」。第2段階、新寺建立へと進む。「丁度その頃、宗門で貸付制度がスタートしたので利用することができました。上限3000万円を借りました。信徒さんや、宗内のお寺さんから寄付を戴けたことも大きかったです」。前述の通り、平成17年に新寺建立。46歳の時である。次なるステップが、宗教法人格の取得だった。その頃から東京都庁に年2回ほど足を運び、事前相談を始めた。だが、中々進まなかったという。「役所は『活動実績を把握する為、写真を撮れ』と言うけれど、『こちらは信仰の場だし、個人情報もあるから写真など撮れない』と言いました。また、『土日に行事があるから見に来てくれ』と言うと『休みだ』と言われた。必要な書類も1回で揃わず、こちらが聞き込んで漸く教えてくれる状況でした」と振り返る。平成20年、都庁の担当者から「来年度は規則認証に向けて動き出しましょう」といわれる。努力の甲斐あって、同年9月にはやっと下りた。平成23年には、近くの霊園に共同墓も建立した。で、最後のステップである後継者は未だこれから。多摩の地に浄土宗のお寺ができて10年。その間、仏事を巡る環境は大きく変わった。だが、一方でお寺を求める人々の強い思いを折りに触れて感じるという。「京王線の沿線に住むある方が、『浄土宗のお寺がここにできたと聞いた。それを知っただけで自分は安心できる』と言われました。また、最近では『体の弱ってきた義母をどう支えていったらいいか』と相談に来られたお嫁さんがおられました。そんなことをお寺に言って下さるのを非常に有難く感じるのと同時に、『ああそうか、お寺って他の何にも代わりが効かない場所なんだな』と教えられたのです。成年後見人や臨床宗教師といったお立場の仕事もありますが、もうちょっと表に出ないようなところの地域の“安心”を支えるのもお寺の役割ですね。だから、人々にとってもお寺が地域にあるか無いかで全然違うでしょう。それは、やはり宗教の場であるということ。手を合わせる心というのは、余所では教えてもらえない。年配の方が手を合わせるのを見て、若い方もそれに倣う。お寺のご本尊さまに住職が熱い心で手を合わせているその姿を、皆さんは見て下さっているのです。そこにお寺が生まれるのだと思う」。笠原住職は熱く話すのだった。

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④廃寺から国内開教寺院へと…  神奈川県・真宗大谷派重蓮寺
扨て、ここまで見た3ヵ寺は、新寺建立に向けて教団が助成金でサポートするというものだった。真宗大谷派がこのほど新たに始めた都市開教は、それとは大きく異なる。前回報じたとおり、「宗派が主体となり開教地と開教者を選任し、人の問題や開教活動当初の金銭的な課題を共に担い、新寺建立を確実に進める施策」というものだ。平成22年、宗派立開教拠点第1号となった神奈川県川崎市の重蓮寺を訪ねると、都市開教の5つ目の課題である後継者の問題も見えてきた。また、過疎地のお寺との新たな連動も考えさせられる。重蓮寺は、川崎駅から徒歩20分。住宅街の一画に建つ3階建てのお寺だ。民家風だが、2階部分には立派な本堂がある。「実は、重蓮寺は元々、真宗他派のお寺だった」と長谷部隆男住職(42)が語る。「重蓮寺は戦前、この地域の方が新潟から真宗のお坊さんを招いて建てたお寺なんです。ところが数年前、2代目の方が、後継者が無いまま亡くなって廃寺になってしまったのです」。廃寺になった重蓮寺に注目したのが、地元の真宗大谷派川崎組の住職たちだったそうだ。組内寺院は9ヵ寺。しかし、同地は人口増加地域。まさに“お寺が足りない”状態だったのだ。幸い、他派とは言え真宗寺院。立地も建物も申し分ない。門徒も多くはないとは言え、残っていた。宗門は同寺を買い取ってリフォーム。初年度は、練馬区の真宗会館の職員が法務を担った。同時に、“開教法務員”として住職候補を公募したのだ。では、長谷部住職は何故応募したのかと言えば、背景には真宗寺院を取り巻く事情があった。長谷部住職は、石川県の能登島にある真宗大谷派のお寺の重職でもある。次男だったが、兄が早世したことで後を継ぐことになった。ただ、同寺は説教所として村の人が建てたお寺。お葬式や法事が無く、お寺だけでは暮らしていけない。過疎化も進む。師父は年金で暮らしていた。「お寺を継いでも生計は立てられないことはわかっていました。私は高校卒業後、東京に出て自衛隊に入隊。その間、練馬の真宗会館で教師資格を得ました。その後、美容師として働いていたのです」。

30代の時、師父の高齢を理由にお寺を任せられることになった。とは言え、故郷に戻っても生活はできない。奥さんとの間には子供が2人。美容師を辞めた長谷部住職は『首都圏大谷派開教者会』に入り、都市開教の研修を受けながら川崎市のお寺に勤務。そこに公募されたのが、重蓮寺の開教法務員だったのだ。本山の試験を見事にクリア。開教法務員第1号となった訳である。平成22年12月のことだ。新たな開教法務員の仕組みは、5年間で宗門がかけた初期投資を返済するというもの。法務員として宗門から給料が支給される代わりに、お寺の収入は全て宗門へと納める。昨年9月、期限内に無事完済。元々の門徒が残っていたとは言え、僅か5年で可能だったのは、やはり土地柄と地域のお寺の協力という。「高層マンションが次々できている。組内のお寺さんは、何れも大きなお寺ばかり。地元の葬儀社にも『紹介してやってくれ』と頼んで下さった。また、真宗会館の職員の方が、お盆参りやお彼岸参りの先も開拓しておられた。全て、周りで支えて下さる。私は只々頭を下げているだけですよ」と長谷部住職は謙遜するが、新住職の人柄も大きいに違いない。「噂を聞きました」と葬儀や法事を頼む人は絶えず、聞法会にも人が集まる。今年度中には宗教法人格を取得の見込みだ。お寺が求められている実感はある。「お葬式や法事に出席した親戚が『話をもう少し聞きたい』とやって来られることも少なくありません。結局、最後は教えが聞ける場があるかどうかだと思う」と言う長谷部住職。近く、リフォームも計画中。宗派からの自立も経て、愈々本格的なお寺造りが始まるのだ。――以上、都市開教の事例を紹介した。人には見えない苦労もあるだろうが、どの住職も水を得た魚のように活動している。それに、どのお寺も開教ほどなく人もお金も集まっているのが驚きだ。その理由は、生老病死の問題は常に変わらないということだろう。問題は、例えば死との最初の接点が今は葬儀社になっていること。ここにお寺が関わった時、改めてお寺の存在意義が見出される筈だ。「葬議や法事にはお坊さんが必要だ」と思われている間に、対応が急がれる。

■宗派名撤去を求められた開教寺院のその後
首都圏開教を可能にする1つが宗教活動の拠点だ。しかし、苦労の末にマンションの一室に新寺建立し、無事に宗教法人の認証を得たのに、管理組合から理不尽にも反発を買い、葬儀禁止の上、「窓ガラスに宗派名を掲げるな」と掲示物撤去訴訟にまで発展したのは、千葉県松戸市の真宗大谷派恵光寺だった。本誌平成23年9月号で報じたが、争いは和解で決着した。が、宗派名の掲示は結局叶わなかった。その後、どうなったのだろう。恵光寺の勝尾当知住職(81)に聞くと、「宗派名を掲げられるのは、今も玄関のプレートのところだけです。葬儀を望む声にも応えられず、制限をかけられています。とは言え、聞法会も開き、日々、仏道を歩んでおります」と溌溂と話す。しかし最近、特に気がかりなのが仏事の減少という。「お寺の収入を支えていたのが、他寺や霊園から頼まれる葬儀や法事でした。ですが近頃、法事の件数がぐんと減りました。霊園に行っても『年回忌の掲示が本当に減ったな』と実感します。お布施の額も減り、更に問題は仲介業者が手数料を取るので、手元に殆ど残りません。収入全体も数年前に比べるとかなり減りました。しかし、それより大きな問題は、昨今、葬儀がまるで通過儀礼のようになり、宗教的な意味が失われ始めていることです。本来、亡くなった人を縁として、教えに出会い、歩んでいく機会の筈ですが、そうならないのです。葬儀の本質が見失われている。生死を考える場、語る場が無くなるということです。当然、次世代にも伝わらない。これは都市開教寺院だけの問題ではありません。宗門の対策が必要です」。仏教界挙げての課題と言える。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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