【昭和史大論争】(10) 戦前エリートは何故劣化したのか

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自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は誰も前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしている。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っていない――。満州事変から敗戦に至る日本は、運転手が余所見をして、ハンドルから手を放していたた為に崖から海に転落していった車に見えます。運転手として国のハンドルを切り、ブレーキを踏まなければならなかったのは誰か? それは、戦前のエリー トに他なりません。政治家・官僚・軍人たちです。何故、彼らは国の舵取りを誤ったのか? いや、それどころか、何故それを放棄してしまったのか? それは、戦前日本の失敗を考える時、最も重要な問いの1つです。それを考える為に、明治維新まで時間を遡り、この国のエリートを大きく3期に分けて考えてみましょう。第1期は、明治維新の志士で明治政府の創設に参画したエリートです。西郷隆盛(1827年生まれ)・大久保利通(1830年生まれ)・伊藤博文(1841年生まれ)・山県有朋(1838年生まれ)・西郷従道(1843年生まれ)といった人々です。第2期は、慶応年間(1865-1868)から明治初め頃に生まれ、江戸時代の生き残りに育てられたエリートです。秋山好古(1859年生まれ)・秋山真之(1868年生まれ)・正岡子規(1867年生まれ)・夏目漱石(1867年生まれ)ら、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちの世代です。第3期は、明治の半ばから終わり頃に生まれたエリートです。彼らは明治の終わりから昭和初期に大人になり、エリートの地位を手にいれていきました。東條英機(1884年生まれ)・近衛文麿(1891年生まれ)・広田弘毅(1878年生まれ)・重光葵(1887年)生まれ・米内光政(1880年生まれ)らの名前が挙がるでしょう。ハンドルから手を放してしまったのは、この世代でした。

第1期のエリートの特徴は、非常に数が少ないことです。未だ日本の所帯が小さかったので、政治的な指導者が大勢いる必要が無かったのです。また、その殆どが武士でした。彼らと後のエリートとの最大の違いは、「試験で選ばれた人材ではない」ということです。彼らは志士ですから、選抜試験は戦場から殺されずに生きて帰ってくることでした。生き残る能力を試されながら、「あいつは学もあるし、人柄もいい」と地域の仲間内での声望を得ることで、選抜されていきました。その過程では、故郷を共にするものが信頼できる仲間を選んでいく“郷党の論理”が働いていました。この論理は、明治政府の藩閥政治を形成していったので、「閉鎖的で身内贔屓だ」と評判が悪いのですが、人物を能力だけでなく、家族構成・性格・性癖まで総合的に見られる利点を持っています。一定の声望を得た人物は、藩や志士集団の中で何らかのポストや役割を与えられました。そこで、藩の軍艦購入に大いに貢献したとか、藩の外交を担って活躍したといった具体的な成果を上げた者が、更に上の地位に上っていきました。今の言葉で言えば、幕末維新のエリートは徹底した成果主義で選抜されていたのです。第1期エリートの特徴は、物事を一から構想し、それを完成させる能力の鍛錬を受けていたことです。江戸期は、分業が今ほど進んでおらず、使える人やモノも限られていましたから、上に立つ人間は一から十まで段取りを整えなければ、物事を成し遂げられませんでした。第1期エリートになるような人間は、様々な現場経験を積み、スペシャリストが持つ専門知ではなく、ジェネラリストに必要な総合知を自然と備えるようになっていました。これこそ、国を統べるエリートに求められるものです。例えば、薩摩藩の城下である下加治屋町に住んでいた西郷隆盛・大久保利通ら下級武士は、楠木正成への尊敬の念を厚くすると、大工でもないのに自分たちで材木を調達して、楠公を祀る神社を建ててしまいました。西郷や大久保たちは、この神社を建てるように新しい国づくりをしたに違いありません。また、私が書いた『武士の家計簿』(新潮新書)の中でも紹介しましたが、幕末維新の時代を生きた猪山成之(1844年生まれ)は、明治政府の大村益次郎(1825年生まれ)に会計官として取り立てられたのですが、一度もやったことのない政府の軍艦の修繕を命じられました。猪山は、軍艦が停泊するドックを造ることから始めて、何とかこの無理難題をやり遂げます。高い総合知を身に付けていたのです。




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第1期のエリートは、総合知と共に統治者としての知識・経験、村や藩、延いては国家全体への責任感を持っていました。それらは数百年の間、日本で統治を担ってきた武士階級が培ってきたものでした。第2期のエリートは、第1期に無いものを持っていました。それは、高度な専門知です。明治維新が徹底的に江戸時代の身分制を否定し、能力主義を導入したからです。彼らの使命は、西欧の学問や制度を輸入することでした。第1期エリートは明治政府を創設し、“富国強兵”“殖産興業”という国家目標を掲げましたが、それを実行するには、彼らの手足となって働いてくれる実務家・テクノクラート・スペシャリストが大量に必要でした。第2期エリートが先ず取り組まなければならなかったのは、外国語の習得です。その為、彼らの多くはイギリス、フランス、ドイツに留学し、西欧社会に飛び込みました。彼らは日本人が殆どいない環境で外国語を学び、膨大な書籍を読み、今度はそれらのエッセンスを日本語に翻訳し、日本に持ち帰らなければなりませんでした。江戸時代の空気の中で生きていた人間が、いきなり近代西欧の真っ只中に投げ込まれるという強烈な体験は、第2期エリートを劇的に進化させました。時代を画すような大きな変化が歴史に訪れた時、新旧2つの時代を跨いで生きる人間は、新しい時代の息吹を全身で吸収し、赤子のように短期間で飛躍的な成長を遂げることがあります。そのような成長が社会に与える恩恵を、私は“人材ボーナス”を呼んでいます。第2期エリートは、まさに日本にそれを齎しました。例えば、海軍参謀として日露戦争における日本海海戦勝利に大きく貢献した秋山真之は、1897年から3年ほどアメリカに留学しますが、その時に「自分が1日怠ければ、日本が1日遅れる」という言葉を残しています。それぐらいの切迫感と国家に対する責任感を持って勉強していました。秋山はまた、軍事用語を日本語に翻訳しなければなりませんでした。秋山には、自分が作った訳語が、その後の海軍の教育・訓練・実戦で使われていくことがわかっていました。自分が訳を間違えたら、人の生死、延いては国の存亡に関わる。秋山は、常にそのような緊張感を持っていた筈です。この時、秋山は元アメリカ海軍軍人で戦略研究家のマハンに師事しました。彼の『海上権力史論』は、今でも海軍戦略を学ぶ者の必読書です。秋山はまた、1898年の米西戦争を視察しています。書物・先生・戦争、何れを取っても秋山は“本物”から学んだのです。外国語はあまり得意ではなく、専門知も十分ではないけれども、大局観を持ち、総合知に富んだ第1期エリートとスペシャリストとしての高度な教育を受けた第2期エリートの組み合わせは最強でした。その力が最も発揮されたのが日露戦争です。乃木希典(1849年生まれ)・児玉源太郎(1852年生まれ)・大山巌(1842年生まれ)・東郷平八郎(1847年生まれ)といった江戸時代の生き残りの大将たちが、秋山真之・財部彪(1867年生まれ)・鈴木貫太郎(1867年生まれ)ら第2期エリートを使い熟したことで、勝利が齎されました。

扨て、愈々第3期のエリートです。彼らは第2期エリートと同じ方法で選抜され、育てられましたが、明らかに劣化していきました。それは何故でしょうか? その原因は、明治政府による身分制度の徹底した否定と能力主義にあります。近代日本の身分制否定の徹底ぶりは、明治政府が近代国家を建設するに当たって範としたイギリス、フランス、ドイツ以上でした。西欧諸国は、今も尚階層社会であり、エリートを輩出する階層は限られています。明治時代と同時代の西欧諸国では、軍隊の将校や外交官は貴族によって占められていました。しかし、明治政府が初めて選抜して育てた第2期エリートの出身階層は、教育水準が高かった武士・名主・庄屋階層が多かったものの、年を経るに連れて、急速に他の階層にも広がっていきました。このことには、いい面と悪い面があります。いい面は、あらゆる階層に立身出世の道が拓けたことです。「能力さえあれば出世できる」という希望は、国民の向上心を高め、社会に活力を生み出します。国からみれば、エリートの裾野が広がり、より能力の高い人材を登用できるようになりました。悪い面は、エリートが筆記試験の成績が優秀な、所謂学校秀才ばかりの集団になってしまいます。武士や庄屋は家庭に行政が入り込み、公の訓練を親代々見てきましたが、新しい学校秀才はそんな世代ではありません。行政の暗黙知は無い。それで、多くの弊害が生まれます。第1は、人材の多様性が失われることです。このような集団は危機に弱い。第2は、筆記試験で集めた秀才に画一的な教育を施すので、専門知には長けているけれども、総合知には欠けているエリートが生まれ易いことです。社会が複雑になると専門化が進み、大量のスペシャリストが必要とされるのは確かです。ですから、エリートのスペシャリスト化が進むのは致し方ない。しかし、社会の複雑化によって未来は予測し辛くなります。何が起きるかわからない時に絶対必要なのが、総合知を備えたジェネラリストの直観です。エリートを全部スペシャリストにしてはいけないのは、その為です。しかし、日本陸軍はトップを全てスペシャリストにするような教育をしました。陸軍中枢を担う人材は、15歳ぐらいで陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校・陸軍大学校と進んでいきますから、知識は軍事に偏り、庶民の暮らしも知らなければ、お米も炊けません。純粋培養からは総合知など期待できません。総合知は、幅広い人生経験・現場体験が無ければ培われないからです。そのいい例が、近代日本の名宰相となった高橋是清(1854年生まれ)と原敬(1856年生まれ)でしょう。高橋はアメリカ商人に騙されて奴隷として売られる等、海千山千の経験を積んでいますし、原敬は新聞社・外務省等様々な組織を渡り歩く過程で、引き立てられていきました。

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第3は、出身階層が武士や名主・庄屋以外にも広がっていったことで、第1期・第2期のエリートが持っていた家庭教育で提供される統治者としての知識・経験・国家全体への責任感が失われていったことです。近代日本は“お国の為”“天皇の為”という名目を掲げて、出世すれば何でも手に入ります。表向きは国の為、本当は自分の為に、「金が欲しい」「愛人を囲いたい」「周囲から認められたい」といった私利私欲を満たす為に、エリートを目指す人々が出現してきました。夏目漱石が「帝国大学は今や月給取りをこしらえて威張っている」と嘆いたのは、そのことでした。これらの弊害が極まって、第3期のエリートの劣化が齎されました。劣化は第2期エリートでも進行していた筈です。第2期も第3期も選抜・育成方法は同じだからです。寧ろ、「第2期エリートは何故、劣化しなかったのか?」と問わなければなりません。その最大の理由は、彼らが能力主義以前の身分制社会、即ち江戸時代を体で知っていたからでしょう。彼らの親は江戸時代の人々でしたし、彼らを指導したのも、江戸時代の生き残りである第1期エリートでした。しかも、武士・名主・庄屋階層の出身者が多かったので、統治者としての知識・経験・全体への責任感を自然と受け継ぐことができました。それ故に、彼らはスペシャリストになる為の教育を受けながらも、ジェネラリストとして常に国家全体を考えることができたのです。もう1つの大きな理由は、明治国家が持っていた切迫感や緊張感にあります。「一刻も早く西欧の学問や制度を導入して、近代化を図らなければ、西欧列強に征服されてしまうかもしれない」――。日本全体がそのような恐怖に包まれていました。

ところが、第3期のエリートが大人になる頃、日本はロシアに勝ち、国中の緊張感が解けました。翻訳書が多く出版されるようになり、国産の科学技術が出てきます。すると、日本語や国産品だけでも、ある程度、用が足りるようになります。「必死の思いで外国の技術や制度を学ばなくとも、日本はもう立派にやっていける」という慢心と油断が生まれてきます。これが、日本という小国のエリートにとって、死活的に重要な感覚を失わせてしまいました。それは、時と共に変わっていくもの、即ち国家を取り巻く環境の変化を捉える鋭敏な感覚です。日本は周囲の状況に上手に対応して、舵を執っていかなければ、沈没してしまう国柄です。周囲の状況の変化を具に観察し、感じ取る能力がとりわけ必要とされるのは、その為です。では、近代日本にとって、時と共に変化する環境とは何でしょうか? それは今も昔も、国際情勢と科学技術です。第3期エリートは、それらに対する鋭敏な感覚を失ってしまったのです。1930年のロンドン海軍軍縮会議における“条約派”と“艦隊派”の対立には、第3期エリートの劣化が如実に表れています。この会議は、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの海軍力のバランスを取りながら軍縮する為に開かれたものですが、日本に提案された海軍力を受け容れようとした“条約派”と、それに反対した“艦隊派”の間で対立が生じました。条約派には浜口雄幸(1870年生まれ)・西園寺公望(1849年生まれ)・山梨勝之進(1877年生まれ)・加藤友三郎(1861年生まれ)・鈴木貫太郎らがおり、艦隊派には加藤寛治(1870年生まれ)・末次信正(1880年生まれ)らがいました。後世から見ると、国際情勢を鋭敏に感じ取り、それに的確に対応していこうとしていたのは条約派です。艦隊派は、「アメリカ海軍に敗けない戦力を維持する為には条約案は呑めない。軍隊の“兵力量”を決めるのは、天皇大権の1つである“統帥権”に属するから、それを干犯している」という論理で対抗しました。しかし、結局は第3期エリートが自分たちの身過ぎ世過ぎ、即ちポストや予算を守る為に反対していたようにしか見えません。自分たちが所属する組織の利益を守る為に“統帥権”を持ち出し、天皇の威を借りるのが第3期エリートの拙いところです。

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彼らには、「今、日本はどのような国際情勢の下に置かれていて、その中で生き残る為には海軍はどうあるべきか?」というジェネラリスト的な視点が全く欠けていました。それなのに、自分たちの利益を“天皇の為”“国の為”という誰も文句が言えないお題目を掲げて守ろうとする。残念ながら、1930年頃から、第3期エリートの中で比較的、国際情勢や科学技術に鋭敏な感覚を持っていた条約派的なエリートは、端に追いやられていきました。第3期エリートの劣化と共に、そのようなことがあらゆる領域で起きていました。1939年の『ノモンハン事件』では、戦車や砲兵の近代化が遅れていた為、日本陸軍はソビエト連邦に大敗を喫しました。それでも尚、陸軍はその失敗を直視せず、科学技術の遅れを精神主義で補おうとしました。そして1941年、陸軍幼年学校出身で教科書を丸暗記することで成績を上げた東條英機が首相となりました。東條はスペシャリスト的エリートの典型で、ジェネラリスト的な部分は欠片もありません。東條は「私の肉体は天皇の意思を受けた表現体である」と自分に言い聞かせていたそうですが、逆に言えば、自分の判断というものが無い。首相・陸軍大臣・参謀総長を兼任していたのですから、天皇の決断を待つのではなく、天皇を助ける為に自ら決断を下すべきでした。明治政府ができて凡そ70年で戦前エリートは劣化し、国は滅びました。戦後70年経った今、戦後エリートにも同じような劣化が進んでいるような気がしてなりません。統治者としての知識・経験、国家全体への責任感、幅広い好奇心と多彩な人生経験によって培われた分厚い教養と総合知、それを土台とした時と共に変化する国際情勢と科学技術への鋭敏な感覚と直観、環境の変化を想像する力…。それらが国を率いるエリートには必要です。しかし、ジェネラリストは育てることはできません。彼らを見出したら、素早くピックアップし、重要な仕事を与えることで鍛えていくしかありません。そこが難しいところです。現代のスペシャリストとして育成されるエリートの中に、そのようなジェネラリストを発生させるにはどうすればいいのか? 70年前の失敗を繰り返さない為に、日本人全員が、そのことを常に考えておかなければなりません。


磯田道史(いそだ・みちふみ) 歴史家・静岡文化芸術大学教授。1970年、岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。著書に『武士の家計簿 “加賀藩御算用者”の幕末維新』(新潮新書)・『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)等。


キャプチャ  2015年秋号掲載
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