【思想としての朝鮮籍】第4部・朴正恵(上) 日本国籍から朝鮮籍へ

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3時間近くなったインタビューに区切りを付け、レコーダーを止めた。筆記用具を鞄にしまって顔を上げると、見たことのないほどリラックスした表情の朴がいた。「こんな率直にありのまま話すことができて幸せです。こんなことできないと思っていたもん。朝鮮籍も、朝鮮大学校卒も、民族学校の教師をしていたことも、母が日本人なことも…。これも民族学級との出会い、子供たちとの出会いがあったおかげ。人は人との出会いで変わることができる。私が子供たちに伝えたいことは、それなんです」。朴正恵。朝鮮にルーツを持ち、日本の公立学校に通う子供が、朝鮮の言葉や文化を学ぶ場『民族学級』で、30年以上も教壇に立ち続け、今も『大阪市民族講師会』の相談役を務める後進たちの拠り所だ。1942年、平安南道(現在の朝鮮民主主義人民共和国=DPRK)出身で在日1世の父と、富山県生まれで日本人の母との間に京都で生まれた。両親とも実家に勘当されての結婚だったが、法律婚ではなく、生まれた朴も未認知で、母の日本国籍を受け継いだ。朝鮮大学校生だった20歳の時、意を決して日本国籍を離脱し、朝鮮籍で外国人登録をした。卒業後は6年間、朝鮮学校の教師をした後、大阪で民族学級の講師となった。実は、これらの経歴について、朴は積極的に口にはしてこなかった。リスク回避の“知恵”である。総連系・民団系の民族学校の場合、大半は「言葉や文化、同胞の繋がりを得てほしい」との思いで、親が子供を送っているが、民族学級は、教師が朝鮮ルーツの子供を発見し、通級を勧め、保護者の了解を得るケースが殆どだ。家計の事情や思想信条、更には居住国社会における将来の展望等、日本の公立学校に子供を通わせる保護者の理由は様々で、“民族”への意識も多種多様、民族学校のように前提が分かち持てない。「日本で朝鮮の言葉や文化を学ぶことなど無意味」と見做す者や、「日本社会で“朝鮮性”に拘るなどリスクでしかない」と考える者もいる。朝鮮人として受けた差別を内面化したような者もいるし、所謂“北朝鮮嫌悪”の感情が強い者も少なくない。自己紹介で「朝鮮大学校出身」と言えば、それだけで保護者が民族学級を拒む恐れもある。況してや朝鮮籍だ。朴は長らく、国籍を訊かれれば「民族籍です」と答え、故郷の話題になると「夫は済州島です」と語ってきた。何度も会って対話を重ね、経歴や国籍以前に、先ずは自らの人格を知ってもらう形を採ってきた。本質的に日本国民育成の場であり、朝鮮人にとっては同化装置に他ならない公立学校において、マイノリティーの場を設け、維持・発展させていく。そのシビアな闘いが身に付けさせた“慎重さ”である。だから、自らの想像範囲を超えて流布する書籍で経歴を明らかにすることは避けてきた。学歴と職歴を初めて公にしたのは、公立学校での民族教育運動の記録である初の著書『この子らに民族の心を』(新幹社)でのこと。つい数年前までは、幾つか依頼のあったライフヒストリーの聴き取りも断ってきた。それが転じた契機は、2015年来の入退院だった。「いや、病気してからね、『人に迷惑かけない範囲で色んなことを残さないと』と思うようになったんです。人との出会いで学んできたことは、人に返して伝えていきたいと思うんです。やっぱり私、子供たちに伝えたいことがありますから」――。

朴の記憶は5歳、横須賀・三笠の朝鮮人部落で始まる。「海沿いにあるバラックで、向こうに軍艦が見えていました。元々はアメリカ軍の武器倉庫でね、7~8棟あった中をベニヤで間仕切りして住んでいました。板1枚ですから、同居生活みたいなもん。板に穴空けて隣の子と突き合いして遊んだりね。台風や大雨が来ると直ぐボロボロになるんです」。幼い彼女の目に映ったのは貧困と、それを補う同胞の紐帯である。「皆で海に行って貝を集めてね、冷蔵庫なんて無いから炊いて乾物にしたり、集落の直ぐ前に青果市場があるから手伝いしてね、汚くて売れ残った白菜とかキャベツとか大根とか貰って皆でキムチにしたりね。市場を手伝ってスイカ貰って、持って帰って皆で食べたこと覚えてますねん。それから、漁に出た小舟が戻って来る時間に皆でバケツ持って岸壁に行って、荷揚の時に落ちた魚を集めて帰ってきて皆で甘辛く煮付けたりね。食べられる時は皆食べて、食べられない時も皆一緒、そんな生活でした」。近接するアメリカ軍基地は、部落の朝鮮人にとっては“宝の山”だった。女性たちは日が沈むと敷地内に忍び込み、再利用可能な“ゴミ”を持ち帰った。重宝したのは物資運搬用の木箱である。「潰して釘とか金具は売って、残りは家の修緒に使うんです。“家”それ自体を建てた人もいました」。横流しされた物資の売買も、重要な生計手段だった。「秋葉原にそれを買い取る店があるんですわ。闇市です。私も遠足みたいにナップサック背負ってね。その中にウィスキーやらチーズやら入れてね。オモニに『若し捕まったら、知らんおばちゃんに渡されたって言うんやで』って言われて(笑)。取り締まりが厳しくなって止めたけど、仕事が無いからそんなんせんと食べられへんのが、子供心ながら複雑な思いでね…」。アメリカ軍基地には歓楽街が隣接し、日本人女性を連れたアメリカ兵が闊歩していた。「“白人通り”と“黒人通り”があって、間違って入ったのか、白人通りで黒人が血だらけになってたの憶えています。靴磨きをしている子供が居て、アメリカ兵が横柄な態度で台に『ダンッ』て足乗っけてね。それが皆、チューインガム噛んでんの。だから私、今もガム噛んでいる人が駄目ですねん。こんな言葉アカンけど、私、アメリカ兵が通り過ぎると『美奴がっ』とか言っていた」。祖国を奪い、名前や文化を踏み躙り、戦争にまで動員した旧宗主国の者たちを倭の国の奴ら、即ち倭奴と呼んだことを、“新たな支配者”美国(アメリカ)に当て嵌めたのだ。「キャバレーで働いているのは貧しい地域の日本人女性で、アメリカ兵に体を売って家族を養っているんですけど、蔑む目があるん。私は子供心に、『あの人たちも懸命に生きているんだ』って寧ろ応援していた。だって、ウチらの集落でも女の人、必死やったもん。パチンコの景品買いで捕まったりね。日本人でも朝鮮人でも、連れ合いを悪し様に言ったり暴力振るう男の人がいてね。『この社会は女の人が尊重されないんだ』って思いましたよ」。アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた子供たちもいた。「ダブルの子への差別は日本人・朝鮮人問わず激しかった。さっきの靴磨きの子もそうなんだけど、道を通ると地元のゴンタ(腕白)たちが『合いの子』とか言って石を投げたり、無茶苦茶に苛め倒す。私自身がそうじゃないですか、腹立ってね。同じダブルの子でも、黒人との間に生まれた子供を“クロンボ”とか言って苛めるんです」。彼・彼女らを通して、朴は自らの出自を自覚していった。




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部落の真ん中には、人々の拠り所『横須賀朝鮮初等学院』があった。1949年春に朴も入学し、寺井章子から朴正恵に名乗りを変えた。だが、自主学校での長閑な日々は半年しか続かなかった。同年11月のある朝、何台ものトラックが学校に乗り込んできた。前年に続く強制閉鎖だった。サイレンとエンジン音が響く中、机にしがみ付く大人を警官隊がゴボウ抜きし、子供の襟首を掴んで犬や猫のように建物外へ放り出すと、学校の扉や窓に次々と板が打ち付けられていった。「関東大震災での朝鮮人虐殺のイメージで見てました。あの記憶にあるから、私はね、警察は本当に嫌なんです。童謡で“犬のおまわりさん”ってあるでしょ? あれ、子供に絶対に歌わせなかったの(笑)。勿論、良い人もいるやろうけど、悪いイメージが強過ぎて」。DPRKを支持し、日本共産党指導下での民主革命を掲げた左派朝鮮人運動の弾圧と、朝鮮人を育てる学校の閉鎖は、東西対立時代に向けた日本における抵抗勢力排除だった。朴の集落でも、権力との対立は先鋭化した。抑々、組織の指示で京都から移り住んだ父・朴元俊は、闘争の先頭だった。父が集落の道に穴を掘り、思想書や書類を理めていた姿は鮮明だ。極秘会合にも連れて行かれ、会場宅の前で飯事をした。官憲の動きを知らせる“見張り”役である。「今にして思うと『ようあんなとこに子供を…』って思うけど、会合の中にも連れて行かれていたみたい。私は憶えてへんねんけどね。飯事始めるのに、『それでは、これから会議を始めます。進行は私がします』とか言っていたらしいから(笑)」。母も熱心な活動家だった。「アメリカ軍基地でビラ撤くんですけど、体にビラを巻き付けた上に服着て隠してね、『今日はドッグに行ってくる』って言うからわかる。『時間が経っても帰ってこなかったら、写真館に行って“お母さんが帰ってこない”って言いなさい』って出かけていく。日本共産党の委員長が写真館をしてはったんですね。だから、そこに行きなさいと」。“ガサ入れ”も度々あった。黒ずくめの警官隊が集落を包囲し、土足で家の中に乗り込んできた。「警察が迫ってくると、『お前らなんかにやるか!』とか怒鳴って、次々と甕を道路にひっくり返すオモニがいたり、『持ってけ!』とか叫んでいるオモニもいて…。集落にはマッコリの匂いが充満してね。どんだけ時間かけて丁寧に造っているか知ってるでしょ? 腹立ってね。床も壁も全部剥がされていく。怖くてね、『朝鮮人は人間扱いされていないんだ』って思った。今、テレビで令状持って家宅捜索入るシーン見るでしょ? そしたら私は、『ちゃんちゃらおかしいわ』って思いますねん。朝鮮人には全然あんなんちゃうかったから」。

必死で築いた生活基盤が、まるで伸びた芝を刈るように破壊されていく。生きる展望を奪う“捜索”は、追放政策の一環だった。それでも食わねばならない。人々は繁華街の残飯を集めて豚を飼い、ボロ布や屑鉄を集めて金にした。禁制品を売買する者もいた。朴には痛恨の記憶がある。「私も家計を助けなアカンと思って、磁石を紐で腰に結わえて彼方此方歩き回ってね。吸いついてくる屑鉄を集めたんですわ。高く売れたけどね、大きくなると意味がわかってくる」。朝鮮戦争である。「親を助けようと集めた鉄屑が、同胞を殺す武器になった。自分を責めても仕方ないけど、悔しい。あれで日本は復興でしょ。その後、日本人とのいい出会いがあったから日本人を一纏めに恨みはしなかったけど…」。しかし、官憲の弾圧も“学び”の火を根絶やしにはできなかった。空地や隣接する公立小学校の一室での授業が続いた。交渉の結果、学校は公立小学校分校の位置付けで再開した。朝鮮人教師は無報酬である。集落の者が持ち回りで食事を出した。法的には公立学校の分校であり、民族科目以外は日本人教員が授業をした。「チョーセン帰れ」と公言する差別者がいる一方で、「朝鮮は空や川が綺麗で、人情に篤い素晴らしい所だ」と説く者もいた。大弾圧の後である。“同じ”日本人の口から発せられた“肯定”が、どれほど幼い心を力付けたか。朴が愛する『コヒャンエポム(故郷の春)』を教えてくれたのも、そんな日本人教師の1人である。「父と話をした記憶は殆ど無いけど、一度、故郷(平安南道)の農村地帯の話をしてくれたことがあって、『正恵、朝鮮の空がどれだけ青いか知っているか?』って。『日本人はチョゴリが派手だとか言うけど、あの青い空にグリーンや赤や黄色がね、映えるんだよ』って」。朝鮮の自然風景を説明しながらの授業に、朴は父の言葉を重ねた。この歌は彼女を父の故郷へと誘うと同時に、日本社会で生きる展望を繋いだあの時の喜びをも喚起する。これが後に、日本人と共働で民族教育運動を進める朴の原体験になっていく。とは言え、真っ直ぐに教師は目指さなかった。「最初は看護師とか栄養士とか、手に職を付けようと。自立して、人に左右されない人生を送りたかった」。反面教師しての父である。

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作家でもあった活動家の父は、朴の目には家庭を一切省みない“暴君”と映っていた。「先ず、家にはいない。オモニが働きに出るから、食事の支度は小学生時分から私がやる訳。日本人のオモニが本当に努力して近所の人やらから朝鮮料理を教わってね、一生懸命作っても『(自分の)オモニの味はこんなんじゃない』とか平気で言う。何で『美味しくできたな』とかの一言もかけられないのかって。暴力は一切無かったけど、活動家ほど家庭では封建的なんだなって。帰宅も遅いでしょ。当時は貧乏で温め直すこともできないから、食事に毛布を巻いて冷めないようにして待っていたんです。オモニのそんな姿見て、余計に腹が立って。でも、2人は物凄く仲良くて、それも私には理解できんでね。だから私、活動家は大嫌いだったんです。そりゃ、運動が無いと前に進めへんけど、得てして活動家は家族を犠牲にするでしょ? 結局は、自分も活動家みたいになったけど」。DPRKを絶対的存在とし、“民族の為”を全ての基準にしつつも、日本共産党指導時代の“一国一党”原則から“祖国直結”への“路線転換”には順応できず、組織から批判され、失意の中、病で早逝した不器用な父だった。その存在に向き合うのは、未だ先の話である。手に職をつけたい朴にとって、朝鮮大学校は選択肢ではなかった。朴は日本の大学への進学を希望。推薦入学が決まっていた。「でも、担任が良くない人でね(笑)。私に内緒でオモニに相談したんですわ」。母から翻意を促された。「『私は日本人で、貴女に朝鮮人としてのことは教えてあげられなかった。大学は人間がどう生きていくかを学ぶところやから、朝鮮大学で朝鮮人と友だちになって色んなことを学んできなさい』と」。朝鮮大学校文学部(現在の文学歴史学部)に進学し、読書に没頭した。「古典での朝鮮の女性像を探究しようと思った。在日の社会でも男女差別が激しかったから、闘って自立する女性像に憧れていた。朝鮮だけじゃなくて、中国の文学を沢山読みました」。同世代の同胞たちと語らえば、話題は勢い各々の来歴に至る。朴は、それまで自らの生い立ちを殆ど語ってこなかった。「何となく、私が今でいう“ダブル”だって言い難くてね。友だちの口からオモニやハルモニの話とか訊くと羨ましかった。『何でアボジは日本人と結婚したんやろ?』とか、『何でオモニは朝鮮人と結婚したんやろ?』とか思っていた。同胞の間では父親の話ばかりしていたから、“父子家庭”だと思われていたと思う。申し訳ないと思いつつ、言い難かった。一方で、日本人の中ではオモニの話ばかりしてね、“母子家庭”と思われていたやろうね」。当時の朴にとって、自らの出自はアイデンティティーの不安定さや、寄る辺なさでしかなかった。意を決して、出自を語った。「『私、実は母親が日本人で、日本国籍やねん』って言うてね。そうしたら、実は当時も日本国籍の子が4~5人もいたんですよ」。日本籍者の友人ができた。彼女は両親の判断で日本国籍を取得したが、民族運動との出会いでルーツへの思いが芽生え、「より民族的になりたい」と願い、朝鮮大学校に進学したのだった。

決定的な転機が来た。日韓条約である。有償無償の経済支援と引き換えに、韓国は“対日請求権”を放棄し、国交を正常化する。アメリカの東アジア戦略を担う2国による“解決”は、今に至る禍根の1つの原点だ。それは2015年末、“慰安婦問題”を巡って強行された破廉恥な2国間“談合”にも通じる。1962年秋、朴正熙の“片腕”金鍾泌が大詰めの交渉で来日するとの報に、学生たちはいきり立った。朴と友人もチャーターしたバスに乗り込み、抗議に向かった。気が付くと検問所があった。「警察官が来てね、『全員、降りて外登証を提示しろ。持っていない者は連行する!』って横柄に言うんです。私と友人は日本国籍で外登証は持っていないから、2人で顔見合わせて『どうしよう…私ら持っていない…』って。学生たちが物凄く抗議して、提示せずに済んだけど、あれは私が日本国籍を意識した最初の時だったな。幼くてね。日本国籍で民族学校に行っていたのに、それまで考えたことがなかったんですわ」。自分には登録証が無い――。ある種の欠落感は、国籍変更への思いに変わっていった。「『ほんまの朝鮮人になるには登録証がいる』と単純に思った。私の理由はそれだけですねん」。友人と2人、朝鮮籍への変更を決め、朴は両親に相談した。「『同胞社会に基盤を置いて生きる為、日本籍を離脱したい』と。オモニは全面的に賛成してくれた。アボジはじっと私の顔を見て、『ほんまにする気なんか』って、それだけ」。母の戸籍を取り寄せ、保証人を得て、膨大な書類を1人で書き上げた。「凄い量でしたよ。1972年にアボジが亡くなったバタバタで更新が遅れてね。西成署に呼ばれて調書取られたことがあって、その時に当時の書類一式を目の前に出されたけど、これくらいありましたわ」。そう言って上げた掌と机の距離は20㎝ほどあった。国籍を離脱し、証明書を手に外国人登録を済ませた。担当官の態度は今でも覚えている。「『本当にいいんですか?』って繰り返すんです。言い分が腹立ってね。『朝鮮人は皆、日本人になりたがるのに、何故貴女は朝鮮人になりたがるんですか?』って。偉そうな態度でした。今でもあの役人の顔ははっきり覚えていますよ。ウチらどれだけ悩んで友だちと話し合ったか。抑々、私ら在日の国籍欄をややこしくしたのは日本やろって」。朴にとっては人生の再スタートだった。

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だが、共に申請した友人は門前払いだった。「『日本人になりたくて“帰化”した人が国籍離脱するなんてあり得ない』って言われたって。彼女が帰化したんじゃないのに…」。父が朝鮮人で、未認知だった朴の場合、当時の韓国国籍法(朝鮮籍者にも一律に適用された)に基づく日本国籍離脱と外国人登録が可能だったが、一家で“日本国民”となった友人の場合、その“根拠”が無かったのだろう。実は、友人が朝鮮籍取得を決めた理由は、朝鮮大学校で知り合った恋人の存在だった。朝鮮籍を取得して2人でDPRKに帰国する。そんな夢は制度の壁に阻まれ、恋人は彼女を残して帰国した。次の恋人もまた帰国を望んでいたが、再度の申請も通らず、恋人は彼女を日本に残し、海を渡った。“日本人妻”としての帰国もあり得たが、学生同士の結婚など当時は論外の話だった。彼女は自殺未遂を起こし、軈て勤め先で知り合った日本人からのプロポーズを受けた。結婚する条件は“子供を作らないこと”だった。「『何でそんな条件で結婚したの?』って聞いたら、『私みたいな悩み・苦しみを味わう子供を生みたくない…』って。その後、結局、離婚してしまいました。親が“帰化”した子は可哀そうですよ。本人が選べない訳ですから」。後に、朴が何度も直面する苦悩であり、憤りであった。「民族学級で何度も相談されたけど、辛いわ。言う言葉が無いもん。『国籍で人格が規定される訳じゃない。朝鮮籍・韓国籍・日本籍って政治的に付けられたもので民族は1つやから、自分らしくどう生きるかが問題やろ?』とは言うけど、本人の思いは違うもん。そこに拘らせているのは日本社会の抑圧ですよ。ルーツに目覚めて、本人が希望した場合は国籍を戻せる制度を設けるべきだと思う」。同胞社会に根差して生きるとの思いは、大学の実習で訪れた各地の同胞コミュニティーや朝鮮学校で更に強まった。「数字の勉強をしていた時、あるハルモニがね、紙に朴正恵の“正”の字を一面、一杯に書いているんですよ。何かというと『五だ』と言い張る。数字が書けないんですね。自分は朝鮮大学校を出させてもろた訳で、同胞社会に何かできるんじゃないかと思った」。朴の弟2人は既にDPRKへ帰国し、父は朴にも続くよう勧めたが、「私は在日同胞に貢献する」と断った。地元の横浜を振り出しに、民族学校の教師として教壇に立ち、経験を積んだ。私生活では、済州島出身で1世の男性と結婚した。産休の最中、朴の人生は大きな岐路を迎える。民族講師へのスカウトだった。


中村一成(なかむら・いるそん) フリージャーナリスト・元毎日新聞記者・在日コリアン3世。1969年、大阪府生まれ。立命館大学文学部卒業後、1995年に毎日新聞社入社。高松支局・京都支局・大阪本社を経て現職。著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)等。共著として『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)。


キャプチャ  2016年3月号掲載
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