【偽善の逆襲】(07) “大人”はどこへ消えた?

世の中、子供っぽい大人と、大人びた子供ばっかりで、皆が中途半端な似た者同士――。誰か冗談でない“大人になる教科書”を書いてほしいが、スマホがある限り無理か…。 (作家・ミュージシャン 中原昌也)

20160409 08
自分の部屋すら無いのに人生相談の本を出してしまった身だけれど、人並みに「大人になりたい」という願望はある。いい年こいてアイドルに熱中したり、モノを集めていたり、電車の中で漫画を読んだりするのはどうかと常々思っている。しかし、最近では漫画を読んでいる人は少なく、かなりの割合でスマホを弄っていて、しかもジジイから子供までゲームで遊んでいる。10年前は、こんな社会は考えられなかった。一体、この国はどうなってしまったのか。僕の生活圏に問題があるのかもしれないけれど、立派な大人にお目にかかることは絶無と言っていい。しかし今、“大人”というのはどんな行動をするべきものか、全くわからない。冗談でない“大人になる教科書”など、誰も書けないだろう。だから、基準を考えようとしても、只々保守的な人間観が出てくるだけで、つまらない。序でに言っておくと、純真な子供らしい子供もとても少ない。こまっしゃくれた子供を「可愛い」と持て囃す風潮も鬱陶しい。大人びた子供と子供っぽい大人、どっちも似たようなもので、ずっと中途半端で落ち着きのない存在が跋扈する。少女のお色気なんか真っ平である。これは日本だけの現象なのだろうか? 実感できないのを承知で、いつまで“大人”が普通に存在していたのか考えてみる。昭和・大正・明治・江戸…。実物を見ることができないから、はっきりしない。

僕の場合、不利なのは、蓮實重彦さんと同じ歳の父親が元気で家にいて、『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ/日本テレビ系)とかを見ながら、人種差別や人権無視の発言を毎日、目の前で繰り返すことだ。ネトウヨ老人で、とても真面な大人とは思えない。戦争を経験した筈なのに、何の人間的な成長も感じられないのはどうしたことだろう? 1つ言えることは、時を遡れば遡るほど、人間の知見は狭かったということだ。移動手段も限られているし、印刷物の量も時を追って減る。連絡手段も少ない。況してや、インターネットで検索して簡単に全世界に繋がった気になる(薄っぺらいけど!)ことなどあり得ない。狭い範囲の中で生きるならば、経験知によって“大人”の役割を果たすことが可能だったかもしれないだろう。今は情報量が多過ぎて、ジャンル横断的に網羅することは凡そ無理だし、共通する言語や認識はどんどん失われている。基本はお互いの内面に対する無知と言語的なディスコミュニケーションで成り立っている世界に、大人への方程式などあり得ないのではないか。勿論、単なる量の比較をしているだけで、昔と今とで生の深さと質の差があるかどうかは、また別問題だと断っておく必要があるけれど。もう1つは、長生きの問題がある。ただでさえお金があっても無くても不安な時代なのに、何故皆、長生きしたがるのか。山中伸弥教授のiPS細胞により、「“不老不死の夢”が実現するかも…」なんて燥いでいるけど、ゾッとする。新鮮な喜びがどんどん減っていく中、ただ生きていても退屈なだけだし、不安が増すだけである。50歳で死ぬくらいの社会が、丁度いいのではないだろうか。そういう環境ならば、ちゃんとした“大人”が育つのかもしれない。そういえば最近、足立区の西新井大師に行き、早く着き過ぎて周囲をふらふらしていると、不安になってきた。「金歯買います」という手書きの貼り紙がある店が神社の裏手にあって、「金髪=いいですね」「金庫=基本的に鉄だから駄目です」とか色々書いてあって、“金歯”の下だけ○がしてあるのだ。一体、どういうつもりなのか。自分の知らない場所に行くだけでもう、心穏やかでなくなる時代である。先日、初めて2人組のアイドルの前座をやった。「ああいうアイドルの人たちは楽曲でなく物販が中心で、一緒に撮ったポラにサインしてカネを取るのが大事なのだ」と現場に行って初めて知った。短い時間、皆、アイドルと会話を交わしたりしていたが、あんなことをしてどこが楽しいのだろうか。育てているという実感があるという話なのか。「ああ、商売しているのね」と思うだけで、全く理解できない。まぁ、アイドルの女の子たちが普通に可愛かったからいいけれど。




20160409 09
最近、“オタク”はいるのだろうか? というより、アニメ、ロリコン、コレクション癖等々、オタク的なものが浸透してしまったから、目立たなくなったのかもしれない。「大人気ない」と馬鹿にされている趣味嗜好が当たり前になれば、幼稚さが受け入れられるキャパも増すだろう。元々、ものに執着する“オタク”は嫌いだったが、かといって、そのような風潮に対抗して持ち出される“大人”の形も好きになれない。そんなことでグズグズしているうちに45歳になったから、世間的には大人に扱われる。この歳になり、自分が関係した人間が死んでいくことが多くなり、色々考えさせられたり、落ち込んだりもする。この間も、30歳で死んだ友だちが東京湾に散骨されて、葬式が無くて密葬に立ち会えなかった連中と皆で手を合わせに行こうと思ったのだけれど、モーターボートに乗るのが1人2万5000円かかるというので諦めて、桜鍋を食って帰ってきた。世界というものは、生きている人間だけで構成されているものである。でも、人間はどこかで、神みたいなものとはまた違う形の、昔から今まで何もかも知ってい、時空を超越する一貫した眼みたいなものの存在を意識させられていて、死んだ後までもその眼があるような気がしている。そんなものがある訳もないけれど、“大人”というイメージはどこかでその眼のようなものと重なっているような気がする。そういう“眼”のようなものとして、例えば小津映画の中の笠智衆のイメージがあるかもしれない。でも、笠智衆と原節子は実際、16歳しか離れていない。それで、あんなに年が違う設定になっている訳だから、小津映画も案外、歳についてはあやふやである。というか、映画の世界は、老け役は若い頃から老け役で、老人はずっと老人なのだ。初井言榮など、「婆さん役で映画に出始めてから、何年生きているんだよ!」という感じだった。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を見て、自分的に一番感動したのは、『エクソシスト』でメリン神父役をやっていたマックス・フォン・シドーが、銀河の旅人役で出ていたことだ。『エクソシスト』の時が44歳だったから、もう40年以上“老人”である。同じような老け役の人は沢山いたけれど、「最後に生き残ったのはマックス・フォン・シドーだけなのか」と思うとショックである。虚構の中でも老人と老人役の区別がつかなくなっているように、現実においても、本当に知っているのとインターネットで知った気になるのが一緒くたになっている。大人と子供の境界が無くなったというのも、似たような現象だという気がしないでもない。若し大人だと言い張る人がいたとしても、“大人のコスプレ”をしているだけだろう。現実に大人かどうかは別にして、キャラクターとしての大人が浮遊している訳だ。内面までちゃんと大人になるなんて、到底無理である。できるとするならば、精々、お互いに“いい人ごっこ”するくらいかな。

最近、“昭和”の人が沢山死んでいく。野坂昭如さんは大人の感じだったし、安藤昇さんまで死んだ。とても寂しい。この歳になると、いつの間にか、どの場でも自分が最年長ということが多くなった。ちょっと怖い。勿論、60歳の人だっていない訳でもないが、大雑把に言えば長老。でも、別に解決策も思いつかない。10年ほど前、新宿の近辺に移り住んだら、矢鱈とケータイを持っている人間をどやしつけているオバちゃんをよく見かけた。何故、そんなことをしているのかわからず、実は近所に住んでいることが判明したので、酔っぱらった時に理由を聞いてみたのだ。「何で、ケータイにそんな無茶苦茶怒っているんですか?」「昔、ケータイを持っている女に後ろから刺殺されそうになった」。訳のわからないことを言っているので「これはキチガイだな」と思ったけれど、そのオバちゃんは歌が好きで、結構上手だったのだ。暫く会わなくて、「愈々死んだか」と思っていたら、何年かぶりに遭遇した。そうすると、思いっ切りスマホを持って、ルンルンしながら音楽を聴いている。「お前、何だったんだ、今までは!」と首を絞めたくなった。昔よく、電車の中でケータイで何かやっていると、「ペースメーカーに影響するから止めて下さい」とか怒るオバちゃんを見かけたものだ。「殆ど影響を与えない」と言い訳したりしていたけれど、最近、全く消えたのは何故だろう? それどころか、電車の中で大声を出してケータイで話しているのは、オバちゃんばかりである。自分だって携帯が1日無いと不安になるぐらいだから仕方ないが、社会全体が完全に依存症に侵されている。文庫本とかを読んでいる人など粗、絶滅した。スマホが全て悪いのか? 若し昔に戻るとするならば、電気を作る石油が無くなる他ない。望まれるのは『マッドマックス』的世界だけれども、今やあんな酷い空間で生き延びていく自信も能力も無い。大体において、ローマクラブ等の予言によれば、今頃はとっくのとうに石油は無くなっている筈だが、現実には価格がどんどん下がっているのだから、訳がわからない。現状は全く肯定できないし、このまま温暖化が進んで人類が滅びるとしても、何か新しいシフトチェンジをする方法を見つけなければいけないだろう。勿論、“電気”と諸々のシステムがあるままであるべきだけれど、何も思いつかない。でも、「石油が無くならない限り大人になれない」という結論になるのも、何だか馬鹿馬鹿しい。自分の脳細胞がどんどん減っている現状と、“反知性主義”みたいな風潮を見ていると、「やっぱり皆、スマホを持った原始人に返るのかなぁ」というイメージに落ち着くのが哀しい。


中原昌也(なかはら・まさや) ミュージシャン・映画評論家・小説家・随筆家・画家・イラストレーター。1970年、東京都生まれ。文化学院高等課程中退。1988年頃より音楽活動を始め、1990年にノイズユニット『暴力温泉芸者』を立ち上げる。2009年以降は『Hair Stylistics』名義で音楽活動を続けている。著書に『こんにちはレモンちゃん』(幻戯書房)・『知的生き方教室』(文藝春秋)等。


キャプチャ  2016年2月号掲載


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