幻の『月刊毎日』発掘の衝撃――戦時中・日本占領下の北京で刊行されていた驚くべき日本語総合雑誌の全容

昭和19年から20年にかけて、毎日新聞北京支局が発行していた日本語総合誌『月刊毎日』が、この度発掘された。国内資料機関に一切所蔵されず、その存在の事実すら継承されなかった幻の雑誌を通して、戦時下の言論活動を徹底検証する。 (取材・文/立教大学教授 石川巧)

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2015年8月上旬、熊本での資料調査を終えた後、市内の古書店に立ち寄った。遠方に出かけた際は、その土地の古書店を目指すのが習慣になっている筆者にとって、それは日常的な光景だった。インターネットでの検索に依る図書の購入が当たり前になっている現在では、自分の足で古書店を巡っても成果が得られず、もう長いこと動いていないのだろうと思える書架を眺めただけで店を出ることが多いのだが、その日、古書店の棚に茶色い雑誌が束になって置かれているのを見つけた時は、胸がときめいた。今回発見した『月刊毎日』の第2巻第1号(1945年1月号)は、その中の1冊である。最初に、この雑誌を手に取った時、筆者は今まで見たことのないそのタイトルに驚き、「どこかの如何わしい出版社が“毎日新聞社”の名前を騙って発行したのだろう」と思った。「“月刊毎日”という汎用性の高い名前を付けて、読者を誑かそうとしているのだろう」と類推した。ところが、その雑誌の奥付には“月刊毎日 第二巻第一号 一月号 定価一部金五円 昭和十九年/民国三十三年十二月二十日発行 編輯兼発行人・伊東重任、印刷人・田中荘太郎 北京東城東単三條胡同廿六 発行所・毎日新聞北京支局内 月刊毎日社 北京阜成門外北禮士路 配給元・新民印書館 電話(二)二一三〇-三三”とある。同誌は、戦争末期の1944年に毎日新聞社北京支局が発行した正統な総合雑誌だったのである。改めて同誌の目次を見ると、斎藤茂吉・佐藤春夫・山口靑邨・壺井栄・尾崎士郎らの著名作家が寄稿している。論説についても、2.26事件で反乱軍を援助した陸軍の要人である斎藤瀏や、岸信介・佐藤栄作兄弟の長兄に当たる佐藤市郎(海軍中将を務めた後、病気の為に1940年退役。1944年当時は大東亜戦争調査会委員だった)、慶應義塾の塾長(1933-1947年)で皇太子明仁親王の教育責任者も務めた小泉信三等が名を連ねている。分量も100頁あり、紙質も極めて良い。同じ時期に国内で発行されていた時局雑誌とは比較にならないほど、贅沢な雑誌だと言える。詳細は後述するが、どう考えても1945年1月号の雑誌とは思えないというのが率直な印象だった。そこで、先ずは発行元の毎日新聞社に問い合わせて、同社が『月刊毎日』という雑誌に関してどのような情報を持っているのかを確認すると共に、国立国会図書館・大学機関・公共図書館等の検索システムで同名のタイトルを探索した。社史編纂委員会編『毎日新聞七十年』(1952年・毎日新聞社)や、1872年からの毎日新聞をキーワードと日付でデータべース化した『毎索』等も調べた。だが、何れも該当する項目は無く、毎日新聞社もこのような雑誌が出版されていた事実を把握していなかった。唯一、1941年に毎日新聞社(当時は東京日日新聞社)に入り、戦中・戦後における同社の内情に通じていた野村尚吾の『サンデー毎日の歩み 週刊誌五十年』(1973年・毎日新聞社)に、「昭和20年には、実動部員は柴田四郎、杉本士朗、松田ふみ子となり、さらにその年の六月には、柴田も北京で発行していた“月刊毎日”の岸哲男と交代すべく、東京を去るという状態になった」という記載があるものの、同誌に関するそれ以上の言及は無かった。つまり、月刊毎日という雑誌は、日本国内の資料機関において1冊も所有されていないどころか、このような雑誌が存在したという事実すら継承されないまま、現在に至っていたのである。

続いて、月刊毎日に発表された文芸作品がその後、どのような形で全集や単行本に所収されているかを調査することにした。同誌の寄稿者には著名な作家も多い為、「全集等で書誌情報を確認し、作品に関する自解を見つけることができるかもしれない」と考えた訳である。だが、手許の第2巻第1号に掲載された斎藤茂吉『新年述志』(短歌5首)・佐藤春夫『異郷の新春』(詩)・壺井栄『村の運動会』(小説)に関しては、何れも全集未収録・未刊行の新資料であり、研究書や評伝にもそれらの作品に関する言及は無かった。こうして、月刊毎日が戦争末期から今日に至るまでの日本で殆ど認知されることのなかった幻の雑誌であることは判明したが、同誌が北京で発行されている以上、主たる読者は当時の中国大陸で暮していた日本人、及び日本語の識字能力を有する在住者である。そこで、戦争末期に北京周辺で発行されていた日本語雑誌に関する資料として『大東亜地域新聞雜誌総攬』(1945年3月・興亜総本部調査部編)の“雑誌之部 北支之部”に当たったが、月刊毎日に関する記述は無かった。日本を代表する新聞社の1つである毎日新聞社から発行され、戦争末期の総合雑誌としては驚くほど充実した執筆陣と内容を誇っているにも拘らず、日本国内に出版の記録が残っていないことに愕然とした筆者は、「中国の資料保存機関にこの雑誌が所蔵されているかどうかを調査するしかない」と考え、中国国内にある大学図書館のデータべースに当たった。その結果、創刊号以降の月刊毎日(1944年11月の創刊号から終戦を迎えた1945年8月の第2巻第8号まで、全10冊のうち8冊)が北京大学に所蔵されていることがわかった。中国国内でも他には保存されておらず、それだけが唯一の現物資料であることも明らかになった。また、北京大学で見つかった雑誌の目次を確認したところ、第2巻第2号に大佛次郎が『遅桜』という短編小説を書いており、自身が残した『敗戦日記』(1995年4月・草思社)の中で、「夜になってから月刊毎日の仕事にかかる。花頃の昭堂を書く(八枚)。十二時過ぎる。酉子を相手に白鹿を飲んでいるとまた警報。三時近くなりその後の警報は構わず酔って寝て了う」(1944年12月6日)、「遅桜を続け深夜になりて筆を置く。また警報出で静岡県下に投弾と情報を放送。白鹿二本目に手をつけて寝る」(同7日)、「“遅桜”に手を入れ送り新聞一回」(同8日)と記していることを確認した。同じ時期、朝日新聞に『乞食大将』を連載していた大佛次郎にとって、月刊毎日からの原稿依頼はそれほど大きな意味を持たなかったらしく、雑誌に関する記述は特に無かったが、翌年2月号に掲載される小説は、約2ヵ月前に3日間で書き上げていたことがわかった。以上の経緯を踏まえて、本稿では北京大学が所蔵する8号分(うち1冊は執筆者の個人蔵と重複)を原紙として、特に文学作品を中心に月刊毎日の特性と資料的価値を明らかにしていく。また、戦争末期の北京において、何故これほど充実した内容の雑誌を発行し続けることができたのか、この雑誌が何故歴史に埋もれたのかを考察し、所在が確認できていない号(今、現物確認できるのは、全10号分のうち第2巻第5号・第6号を除く8号分である。同誌は、日本が敗戦・撤退を迫られた1945年8月を以て終刊した可能性が高い為、この2号分が未見ということになる)の発見、及び復刻出版等に繋げていく為の基礎作業を行う。




1940年12月に内閣情報局の統制下で社団法人『日本出版文化協会』が設立され、翌1941年6月から出版用紙配給割当規程が実施されて以降、戦時下の日本では、同協会の査定に合格しなければ紙の配給が受けられない事態になっていた。1941年12月22日には『言論・出版・集会・結社等臨時取締法施行規則』が公布され、戦時の安寧秩序の為、新聞・雑誌の言論が厳しく統制されるようになる。また、雑誌は時局雑誌への整理統合が進み、1944年2月には国民大衆雑誌が『富士』『日の出』の2誌に、総合誌が『公論』『現代』『中央公論』のみとなる。毎日新聞社でも雑誌の統廃合が進み、1944年には『週刊毎日』『経済毎日』『時局情報』、及び海外向けの『華文毎日』『SAKURA』以外の雑誌が全て廃刊・休刊となる。更に、同年7月からは用紙制限強化の為、新聞も月・ 火・木の週3回・2頁立てになっている(同年7月15日には朝日・毎日・読売の3紙が非常時に対処した相互援助を取り決める)。11月には、大日本言論報国会の『言論報国』(10月号)に掲載された「航空戦力の増進」という記事が、「わが方の航空機性能の劣悪を暴露して戦争に対する国民意気の低下、作戦上重大な支障の虞あり」と判断され、同誌が発禁処分を受ける事態も起こっている。この年、1606あった新聞・雑誌のうち1378が廃刊されていることからも、日本国内の出版事情が如何に遍迫していたかが理解できる。1945年6月以降は、空襲に依る印刷所・製本所の焼失、輸送の混乱等に依り、出版活動が壊滅的状況となる。日本出版配給統制会社が5月22日から終戦までの間に取り扱った新刊書籍は、月々40点ほどしかなかった。月刊毎日の発行元は新聞社である為、新聞紙等掲載制限令・新聞事業令・言論出版集合結社等臨時取締法・治安維持法等の統制を受ける他、軍機保護法・戦時刑事特別法・国防保安法、そして国家総動員法第20条「新聞紙その他の出版物の掲載につき制限又は禁止」の厳しい制約を受けていた。1941年8月6日に閣議決定された『国論昂揚ニ関スル件』では、「英米ノ不当ナル対日圧迫ニ対シ日本国民ハ断乎之ヲ排撃抗争スルノ決意ト気魄トヲ内外ニ充溢セシムル」こと、「大東亜共栄圏確立ノ成否カ即チ帝国死活ノ岐ルル所ナルコトヲ極力強調スル」ことが新聞の役割と定められ、情報宣伝を担う武器としての機能強化を強いられる。一方、当時の日本は満洲・中国・樺太・朝鮮等の外地に製紙・パルプ工場を置いており、北京では比較的、印刷用紙を入手し易い状況は続いていた。外地では出版物の統制も緩く、政府や軍部に依る検閲が徹底していなかった側面もある。つまり、1944~1945年の北京では雑誌の出版に必要な材料が揃っており、それを求める読者も数多くいたのである。

同じ頃に、北京の情報部隊に配属されていた小島信夫が『燕京大学部隊』(『同時代』1952年4月)の中で、「支那全土にわたって日本の部隊は、師団は大隊に、大隊は中隊に、中隊は小隊に、小隊は分隊にと、トーチカを作っては守備人員をへらして後退し、余力はと云うと南方へ満州へとまわされていた。重要飛行基地にはすべて米軍が配置されて通信を交わしており、遥か成都、重慶、昆明、さてはカルカッタあたりの基地や、基地を発する、B二十九の大群の機上会話が耳に痛いほどきこえてくる」と描写するほど中国大陸に展開する日本軍は追い詰められていたが、多くの日本人はその事実を知ることもなく、支配者の利得を謳歌していたのである。月刊毎日は、そうした状況の中で発行された雑誌である。石川勝司編纂兼登行『日本新聞会便覧』(1944年・日本新聞会・非売品)に依れば、編輯兼発行人の伊東重任は明治43年に茨城県で生まれ、旧制中学校を卒業後、1931年に下野新聞社に入った後、翌1932年に毎日新聞に入社している。同便覧には“毎日(東京)地方部”とあることから、東京から北京支局に出向していたことがわかる。但し、月刊毎日創刊時の年齢は30代半ばであり、日本にいる著名な書き手に直接依頼して原稿を集めるほどの人脈は無かったと思われる。これほどの雑誌を発行する為には、より経験豊富な大立者が背後にいた筈である。現在、確認できている月刊毎日は、創刊号の表紙に赤インクのペンで“閲”とあり、その下には黒インクのペンで“日/1725/第1巻/第1-2号/第2巻/第1-4、7-8/1944-1945/昭和19-”と記されている(“/”は便宜的に付した行替えの記号。“日/1725”の意味は不明。黒インクは北京大学が資料整理の為に記したものであろうが、赤インクは元々雑誌を所蔵していた人物が記した可能がある)。第2巻第4号には“警労本部宣伝班 杉田課長殿”という謹呈名がある。第2巻第7号の表紙にも“杉田”という捺印があり、第2巻第8号の表紙には万年筆で“資材”と書かれている。3冊の字体には特徴があり、恐らく同一人物の筆跡と思われる。第1巻第2号の奥付脇には“江口”という捺印があり、同誌は“江口”という人物が所有していたものと想定されるし、今回、古書店で偶然見つけた筆者所蔵雑誌にも“贈呈”の印が押されており、関係者が日本国内の知人に送ったものだった可能性が高い。雑誌本体を眺めると、各号に依って紙質や印刷状態に大きな差があり、毎号、同じ条件で印刷されていた訳ではないと判断できる。雑誌価格も、創刊号から第2巻第2号までの4冊は5円を保っているものの、第2巻第3号から第4号が10円、第2巻第7号が30円、第2巻第8号が70円と、僅か半年のあいだに14倍の値段になっている。発行日は通常20日だが、1945年8月の最終号の奥付は何故か“8月1日”(実際の発売日は不明)である。以上のことから、月刊毎日は商業雑誌でありながら、一般に販売された形跡が見つかっていないミステリアスな雑誌だということがわかる。これは類推に過ぎないが、同誌は大量に印刷された訳ではなく、極限られた範囲の中で流通したのではないかというのが率直な印象である。

創刊号の巻頭を飾る『創刊の辞』には、以下のように記されている。

新秩序建設、世界史創造の大潮流におひまくられて地球は、いま大回転をつゞけてゐる。殊に強奪、搾取に終始した貪慾飽くなき米英が武力に訴へ、物量に物をいはせて、これの流れを阻止せんと執拗に反攻を繰返してゐるため、さらにその度を加へ、戦争は大消耗戦となり、戦局は東西とも日増しに悽愴、苛烈化してゐる。【中略】現在、われわれに禁物なのは迷ふこと、動揺することである。自ら迷つてゐては他人は信頼しない。況んや他民族はひきつけ得ない。今日この際は物事に動じないことが必要である。それには何はともあれ、新しい流れを正解すること、換言すれば“戦争観”に徹することである。“戦争観”に徹すれば、“必勝の信念”は勃々として起り、戦局の一段階に一喜一憂することはなくなる。さすれば、そこに心のゆとりが出来、気持は明るくなり、能率はあがるのである。これがためには、移り変る新事象を正しく理解することが先決であると信ずる。こゝに期するところあつて、本社は『月刊毎日』を創刊し、“心の糧”を提供せんとする次第である。

1944年11月という時節柄、当然、その言説はアジア・太平洋地域に進出していた日本が主張する大東亜共栄圏の思想に彩られている。「他民族から信頼される為には、物事に動じず、正しい“戦争観”を持ち続けなければならない」と説くその論調は、大東亜共栄圏の思想そのものである。ところが、この『創刊の辞』は、最後の最後で「戦局の一段階に一喜一憂する」ことを戒め、「心のゆとり」を持つこと、「気持」を「明るく」することの大切さを訴える。「雑誌は人々の“心の糧”となるべきものであって、国民を統制する為のプロパガンダではない」とでも言いたげに、「移り変る新事象を正しく理解することが先決」だと訴える。大本営がラジオや新聞を通して1億総動員体制を謳っていた当時の言論状況にあって、それは極めて異例なメッセージである。「移り変る新事象を正しく理解する」という表現は、「メディアが流布させる情報に惑わされてはならない」という戒めを含んでいるようにも聞こえるからである。

巻頭言に続いて創刊号の記事の最初を飾ったのは、1942年に『日本文学報国会』を設立し、自ら会長に就任する等して戦時中の日本におけるナショナリズムの中枢を担うと共に、1929年から大阪毎日新聞社と東京日日新聞社の社賓となっていた徳富猪一郎(蘇峰)である。『神州必勝論』という表題を付した蘇峰は、当然のことながら、「われらは三千年来萬世一系の皇室を奉戴し、憶兆一心もつて小は自国生存のため大は東亜十億同胞解放のため戦つてゐる。すべての勝利は当然われに帰すること明瞭である」といったアジテーションを展開し、1億総決起を呼びかけている。こうした大政翼賛体制の強化を訴える論説は各号で幅広く展開されており、極東国際軍事裁判で死刑判決を受ける陸軍大将の松井石根、戦時中に大東亜省の大東亜共同宣言作成に携わり、満洲国建国を画策したことで知られる思想家の大川周明を始め、有力な政治家・軍人・思想家たちが名を連ねている。また、同時代を代表する中国文学者の吉川幸次郎と奥野信太郎、『国民学術協会』の活動を推進していた文明批評家の長谷川如是閑も寄稿している。だが、そうした中にあって唯一、政治家たちを正面から批評し、歯に衣着せぬ物言いをしているのが、第2巻第1号から始まる野山草吉の『時の人』という連載である。この『時の人』は、残念ながら宇垣一成・重光葵・小磯国昭の3人を取り上げた後の号が確認できない為、コーナーの全体像を把握し切れていないが、例えば、小磯国昭首相の政策スローガンに斬り込んだ時の「大和の精神は、大は大東亜の舞台より、小は私達の台所の配給に至るまで、浸潤しなければならない。最近私は東海道の列車中で体験したことであるが、列車は例によつて、殺人的に混雑してゐたが、 ある車では秩序よく昇降が行はれたに反し、ある車では昇降口が閉塞して遂に数百人の降り遅れ客を出した。これは畢竟、大和互譲が行はれたか否かによるのであって、東亜の天地に大和が行はれなければ、東亜は世界の乗り遅れとなること必定だ」という文面からもわかるように、その書きぶりはカラリとした毒舌調で言かれており、読物としての面白さは抜きん出ている。政治問題に関しては完全読み切りの単発記事が殆どを占める月刊毎日にあって、野山草吉にだけ特別なコーナーが与えられ、現役の総理大臣や閣僚を辛辣に批評している事実にも注目する必要がある。

野山草吉の本名は阿部眞之助。1938年に東京日日新聞社の編集局主幹・主筆を経て取締役になったものの、1944年に毎日新聞社を退職し、顧問となった人物である。東京帝国大学文学部社会学科を卒業して満洲日日新聞社に入社した後、中国大陸でジャーナリストとしての腕を磨いた阿部は、中国大陸の状況に精通すると共に、同時代の政治家・軍人・官僚・学者等に豊富な人脈を持っていた。前出の『毎日新聞七十年』が「阿部氏は千葉亀雄氏の後を継いで東日学芸部長(昭和8年5月)となって以来、特に文壇との接触に努め、菊池寛氏をはじめ知名の作家・随筆家を顧問その他の名で相次いで迎えた。そのため一時の東日学芸部は、まるで文壇人クラブの観を呈し、したがって、東西の学芸面はかつてない生気にあふれて好評を博した」と記すように、文壇関係者とも幅広いネットワークを持ち、『女流作家の会』の結成(1933年)等、女性作家の登用に対しても積極的だった。戦後、阿部は『日本エッセイストクラブ』会長やNHK会長等を務めることになるが、毎日新聞社時代に築いた豊富な人脈がそれを後押しする力になったことは間違いないだろう。その一方、戦中の阿部は社内役員会で、『日独伊三国同盟』の締結に反対する態度を強く打ち出すと共に、軍国主義批判の著作を堂々と出版していた為、軍部から睨まれて本名での執筆活動ができない状況にあった。『毒舌ざんげ』(『現代知性全集 第25巻 阿部眞之助集』・1959年・日本書房)の中で「太平洋戦争が始まる三、四年前のことだったと記憶するが、石橋湛山君やわたしたちで評論家協会というものをつくった。それが時局がさし迫ってくるといつのまにか言論報国会にすりかえられてしまった。すりかえられたばかりでなく、そのころ危険分子と見られていたわたしたちはすっかりオミットされていたのであった。これが弾圧の前兆ともいうべきものであったらしく、そのうちに雑誌へ原稿を書いても掲載されなくなってしまった。【中略】情報局あたりが、わたしたちには直接何もいわないでおいて、雑誌社なんかには、こういう人間に執筆させてはいけないという一覧表がまわされているらしいことがわかった。サンデー毎日の原稿も、本名ではまずいというので、野山草吉などというペンネームを、使わねばならなくなった」と回顧している通り、戦時中の阿部は情報局から“危険分子”と見做されるような存在であった。大阪毎日新聞社京都支局長の頃(1920年)、『島津製作所』のストライキを弾圧した警察と暴力団に対して、附録の全紙面を割いて筆誅を加えたり、NHK会長になった後も東京新聞の『放射線』というコーナーに匿名執筆を続けたり、ジャーナリストとしての阿部はあらゆる方法で権力への抵抗を試みる知略家だった。つまり、彼には言論の場を必要とする動機と、雑誌を出版する政治力と、過去の経験で培ってきた人脈が、全て揃っているのである。

一方、少なくとも第2巻第4号まで編輯兼発行人を務めていたことがわかっている伊東重任を始め、月刊毎日の編集部にいた社員の多くは若手であり、阿部に肩を並べられそうな人材はいない。第2巻第7号・8号で編輯兼発行人を務めている岸哲男に至っては、短期間の繋ぎ役だった可能性が高い(前述『サンデー毎日の歩み 週刊誌五十年』の記載から、戦争末期の毎日新聞社が岸哲男を東京に呼び戻し、代わりに柴田四郎を派遣していたことがわかる)。勿論、現役の政治家に物申すことができる特権的な発言力を行使している人物も、他には見当たらない。こうしたことから、同誌の発行を画策し、日本が敗戦を迎える1945年8月までそれを継続させることができた背景には、阿部の政治力があったと結論付けてよいのではないだろうか。戦後になっても、誰ひとり月刊毎日という雑誌の存在を公に語ろうとしなかったという点を考慮すると、この雑誌は、日本国内での言論活動に困難を来していた阿部が中心となって、北京という治外法権区域で試みられた細やかな抵抗だったのかもしれない。月刊毎日は総合雑誌故、毎号のように俳句・短歌・詩・小説・随筆等が掲載されており、著名な書き手たちが作品を寄稿している。そうした雑誌の特性を鑑み、ここでは主な文芸作品を紹介する。詳細は末尾の資料『目次』を参照頂きたい。創刊号(1944年11月号)に『うなばら洲』という詩を書いたのは、詩集『海原にありて歌へる』(1942年・アジヤラヤ出版部)で日本文学報国会の大東亜文学賞を受賞した後、国威発揚の為に数多くの戦争詩を作った大木惇夫である。同号には、満洲での放浪体験を基にした『苦力頭の表情』(『文藝戦線』1926年6月)でプロレタリア文学の新進作家と目されていた里村欣三の『美しき戦死』も掲載されている。1937年から1939年まで兵士として中国戦線に従軍した里村は、中国の内情をよく知る作家として原稿を依頼されたのであろうが、彼は『美しき戦死』が掲載された直後に陸軍報道班員として従軍していたフィリピンで戦死している為、この作品は遺作小説ということになる。その他には、斎藤瀏が短歌5首『海の外の同胞』を、徳川夢声が随筆『猫にカラ飯』を、1928年から1939年まで東京日日新聞社会部記者をし、1932年には『戦ひのあと 附・事変日誌』(東京日日新聞社)を刊行している岩崎栄が評伝の連載を始めている。大木・里村は、この時期に最も活躍した戦争作家であり、恐らく、その人選は軍部の顔色を窺いながらなされたものであろう。

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第1巻第2号(1944年12月号)には、正岡子規の門下生であり、『アララギ』の中心であった岡麓と、島木赤彦の妻・久保田不二子が其々短歌を、長谷川零余子の妻・かな女、砲兵少尉として従軍した体験を踏まえて詠んだ句集『砲車』(1939年)で知られる長谷川素逝、報知新聞の記者を経て句誌『辛夷』を主宰する前田普羅が俳句を寄せている。小説では、1940年に『“小指”その他』で女性として初めて直木賞を受賞した堤千代の『女郎花』、1938年に『浅草の灯』によって新潮社文芸賞を受けた後に中間小説や時代小説の分野で活躍していた濱本浩の『復讐』が掲載されている。『女郎花』は、おみやという女が友人の“私”に向かって、指輪に纏わる数奇な運命を語る話である。――おみやは、比島で1人の青年を看病したお礼に指輪を貰って帰国する。そんなある日、おみやの許に青年の義父がやって来て、彼の容体を訊こうとするのだが、その義父こそ、若い頃におみやを弄んだ挙げ句に棄てた男だった。過去の記憶が甦り、復讐の念に囚われたおみやは青年の妻と会い、自分が貰った指輪を態と見せびらかす。「宅が、本当に思つてゐましたのは、私ではなかつたのでせうか」と泣き崩れた若妻は、元々の病を拗らせて息絶える。興味深いのは、この後の展開である。ある日、モンペ姿で勤労奉仕に出かける生活を送るおみやの許に若妻の幽霊が現われて、彼女を悩ますのである。男女の愛憎をテーマとするこの作品には、「男の人が、細君より他の女に、熱を上げる、それア、つまり浮気でせう。浮気なんて、うつちやつておけば、水の泡みたいに消えちまふものよ。そんなことで良人の愛を信じなくなるやうちや、旦那さまが、可哀さうね」という台詞まであり、戦争末期に発表されたものとはとても思えない内容である。また、同号には林房雄の批評『大東亜の文学』も掲載されており、大東亜共栄圏の思想をそのままなぞるように、「文化の創造には民族の自覚と自信を必要とする。現在この自覚と自信を明確に有してゐるのは日本人と中国人と満洲人である。しかも、中国と満洲国にはこの自信を文学的に生かすだけの文化環境はまだ充分には成熟してゐない。従つて、こゝ当分は、日本の文学者が率先して大東亜諸民族の長所と美点を採り、彼等の自覚と自信を養ふ役割を引受けなければならぬ」と述べている。

月刊毎日が最も充実したラインナップになったのが、第2巻第1号(1945年1月号)である。同号には斎藤茂吉が短歌『新年述志』を、山口靑邨が俳句『御代の春』を、そして佐藤春夫が詩『異郷の新春』を発表しており、何れも全集等未収録の作品である。中でも、斎藤茂吉の短歌は時局に即しているとは思えないような寂寥感に満ちている。揺るぎない決意を見せようとすればするほど湧き起こる死んでいった者たちへの哀惜と、生きることへの希望を失うまいとする気概が静かに吐露されている。同じことは、佐藤春夫の詩にも言える。1943年10月、朝日新聞社の臨時記者兼陸軍嘱託として東南アジアに向かった佐藤春夫は、マニラ、シンガポール、マラッカを経由してインドネシアの戦況を取材した後、1944年5月に帰国した。この詩は、その時の思い出を書いたものである。同じ時期に書いた詩であっても、朝日新聞(1944年1月12日)に発表した『共栄圏・決勝の春 ジャワ』には、「ジャワの海明けゆく見んと御軍のここに上りし、クラガンの常椰子のかげ、貝がらの異形を愛でて故郷の思はろばろ」というように、ジャワに上陸した“御軍”の雄姿が高らかに謳われている。だが、『異郷の新春』には“里人”の“轎夫”と共に、未明の寒さを凌いだ思い出が懐かしげに語られるだけである。“芭蕉の葉に包んだ握飯”を雑煮に代えて暖をとったことや、「鯨の背なす島影から日輪が半分のぞき出てゐた」時の感動を率直に語り、「この朝わが心は古の酋長もかくやと豊に楽しかつた」と結んでいる。そこには、兵士も戦争も姿を現していない。第2巻第1号の小説は、壺井栄の『村の運動会』と尾崎士郎『バタアン残月』である。『村の運動会』は、夫が戦死した報せを受けた妻が、子供たちの運動会に参加して村の人々と交流する中で、「泣きたいのは自分1人ではないのだから」という気持ちを持つようになる様子を義姉の視点から描いた作品である。ストーリーの展開としては、銃後を守る女たちの毅然とした姿を捉えた内容になっているが、「ほんとに“くそ”真面目であの人ほどロマンスのない人はなかつた」といった敵性語が使用されている。また、「雨上りの空は深く、星の屑まで数へられるほど澄み渡つた秋日和でした」という冒頭の一文を読めばわかるように、その表現は柔和且つ感傷的である。戦争末期、作者・壺井栄は児童雑誌に童話を発表したり、短い随筆を書いたりする以外殆ど小説を発表することができず、他のプロレタリア系作家と同様に生活が困窮していたが、この『村の運動会』は壺井栄が1945年に発表できた数少ない小説作品として重要な意味を持つ。




『バタアン残月』にも同様の特徴がある。既に敵の攻撃が激しくなりつつあるフィリピンのバタアンで、総攻撃に参加する為に編成された宣伝小隊の様子を描いたこの作品の冒頭、高月少尉は隊員たちを前に、「今夜は、見らるるとほりの月夜である。この月を眺めて感概を催さぬものもあるまい。われわれが戦場にあつて、遠く祖国を思ひうかべてゐるときに、われわれの同胞もまた銃後にゐて、戦場に立つわれわれの身の上を案じてゐるであらう、見るひとの心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月、――と古人も月の美しさを讃へてみるが、鏡のごとき月を仰ぐとき、われ等の心は生れながらの童心にかへるのである」と訓示する。特攻と玉砕の精神が尊ばれていた時代にあって、この訓示はあまりにも情緒的であり、同時代に書かれた戦意高揚小説とは似ても似つかぬ様相を呈している。また、作品内には「――事実、これだけの激戦をして、もう最後の一歩といふところまで敵を追ひ詰めてゐるのに、市民はまだアメリカがマニラを奪還するといふことを信じてゐるんですからね、昨夜あたりのコレヒドールからの放送によると、日本軍は日ならずして全滅に瀕するであらう、増援部隊はすべて海の藻屑となり、それがために木下指揮官は極度の神経衰弱に陥つて屡々自殺を企てたといふやうなことを本気で放送してゐるんです、ところがそれに対して、こつちは当然打つべき手を打つてゐない、そりやあ前線の情報を探ることも必要でせうが、宣伝部隊の要員が全部前線へ出動するといふのは一考すべきことです」等といった会話もあり、アメリカによるマニラ奪還・日本軍の全滅・精神衰弱に陥って自殺を企てる指揮官等が描かれる。2つの小説は、どう考えても軍部の期待に添うものではない。国内で内務省の検閲を受けていれば、間違いなく削除を命じられていた筈である。月刊毎日の特異さは、このような作品を掲載しているところからも伝わる。尚、尾崎士郎は戦後になって、この『バタアン残月』の登場人物名を変え、粗そのままの形で『人生劇場 離秋篇』(1953年・文藝春秋新社)の1章(章題は“悪魔”)として挿入している。『人生劇場』シリーズは尾崎士郎の代表作であるが、戦中に発表した短篇作品が長篇小説の一部に組み込まれているという事実は、この作品を読む為の新たな視点を提示しているし、短篇小説の再利用という観点で言えば、戦後、大衆文学作家として作品を量産した尾崎士郎が、自身の旧作(それも内地に生活している読者が目にしていないと思われる作品である)を引っ張り出さなければならないほど追い詰められていたことの証左にもなっているだろう。

第2巻第2号(1945年2月号)になると、時局に相反する形で文芸作品の割合が多くなり、中国旅行記『魔都』(1924年・小西書店)、モデル小説『男装の麗人』(1933年・中央公論社)で人気を博していた村松梢風が連載長篇小説『海燕記』を開始している。戦前から、田漢・郭沫若・郁達夫を始めとする中国人作家たちと交流し、随筆集『支那風物記』(1941年・河原書店)の“序”に、「私の此の随筆集は、主として平和な支那の姿である。【中略】私は是が本然の支那の姿で、現在も矢張り変つては居らず、将来も続くものであると確信してゐる」と記すほど“支那”を愛していた村松梢風は、同号から第2巻第4号まで、この歴史小説の中で主人公に、「支那も日本も倶に儒仏を尊び、聖賢の道を以て治国の根本となす点に於いて全く一致し、東洋無二の友邦として脣歯の関係にあることは申さずとも明かな事実です。此の二大強国こそ東洋の礎、民族の滅亡を防ぐものは日本と支那以外には有りません。私達が互ひに信頼して、固く手を握つて西欧人に当るなら、彼等敢へて恐るるに足りません」と語らせている。また、この作品では、日本の進駐が当地に暮らす民衆の“歎願”によるものだと訴えるかのように、「日本の水軍総大将である東鳥将軍は正義任侠の人であるから将軍に願つて劉を退治して貰ふのが宜からうとの意見、東鳥将軍の英名は既に土地の者も聞き知つて居りますから、それは至極妙案であると早速一同打揃つて将軍を其の船に訪れ、事情を語つて劉の討伐を歎願に及びました。然るに将軍は一面温厚の君子でありますから、却々承認されなかつたが、住民がしきりに歎願して已まない上に、まつたく劉の悪虐無道であることを御承知になられたので、遂に住民達の願ひをお聞き入れになつたのでした」といった描写もあり、いみじくも、日本と中国が手を取り合って欧米諸国と対峙することを主張し続けた村松梢風の思想が、寓話的な語りで吐露されている。

既に言及した大佛次郎『遅桜』も、この号である。『遅桜』の主人公・信乃は、学徒出陣で戦場に散った息子の死を悼む為に建長寺のお堂を訪れる。“建長興国禅寺”という額が掲げられた楼門の辺りを歩いていると、突然、“昔の女”が現れる。彼女は、お互い惚れ合っていながら、「有耶無耶に別れて了つた」相手だったのである。その後、信乃を慰める為、態々鎌倉まで足を運んできた友と酒を酌み交わすことになった信乃は、死んだ息子と“昔の女”の面影を交互に思い浮かべながら酩酊する。友もまた、そんな信乃に向かって、「人間の値打は、この、…相手は、人にしろ仕事にしろ、本統に相手に惚れることが出来る人間かどうかで決ると云ふことだったんだ」「近頃の、街の人情、すたれたと云ふ。若い奴が、いくら工場で働いて草臥れてゐるか知れないが、電車の中で、よぼよぼの年寄を立たしておいて平気で腰かけてゐられる、と云つた、ありきたりのことなんだらうが、世間がそれかと思へば、見てゐてなさけなくもなれァ日本の行く末のことを考へて淋しいとも思ふ。人に、しん底から惚れたと云ふきれいな話が聞きたかつたんだ。えゝ」と訴える。戦死して“神”になった息子と“昔の女”が並行的に語られる等、考えようによっては不謹慎とも言える内容を含んだ作品であり、主人公たちが酩酊していく様子も時局に照らして問題のある表現と受け取られたかもしれないが、“本統に相手に惚れる”ことができるかどうかが“人間の値打”を決めるという友の台詞には、作者の強い信念が感じられる。また、前号に論説を発表した斎藤劉の娘・斎藤史が短歌『日常』を、河井酔茗が詩『吾家の待避壕』を発表している他、画家の小杉放庵や木村荘八、作家の武者小路実篤が随筆を、陸軍報道班員としてビルマに渡った経験を基に書いた『行軍』(1944年・金星堂)で文学報国会賞を受賞した豊田三郎が『東京から』というリポートを寄せている。

第2巻第3号(1945年3月号)も文芸作品の充実ぶりは健在だが、特にこの号で目立つのは、『特輯 女子の戦力化』に阿部静枝・池田きみ枝・鷲沼登美枝が論説を書いている他、生方たつゑ・窪川稲子(佐多稲子)といった女性の書き手を積極的に登用している点である。中でも『たゝずまひ』を書いた佐多稲子は、1944~1945年にかけて新作の小説を殆ど発表していない為、壺井栄『村の運動会』と同様、極めて貴重な文学資料と言える。因みに、ここに登場する鷲沼登美枝は、戦後に佐多稲子・宮本百合子・山本安英・松岡洋子・三岸節子らと共に『婦人民主クラブ』(1946年3月設立)の呼びかけ人に名を連ねた女性解放運動家であり、そうした意味でも、この人選には特定の人脈らしきものが感じられる。壺井栄や佐多稲子といったプロレタリア文学系の作家が、何故戦争末期の雑誌に小説を発表することができたのかという点も含めて、月刊毎日に掲載された小説のラインナップには留意が必要である。『たゝずまひ』では、縁故疎開に行く友だちと別れて集団疎開の列車に乗り込む我が子を見守る母親の心境に焦点が当てられ、後半では、愈々空襲が頻繁になる中、配給を受けながら慎ましく暮らす街の人々の様子が淡々と写されている。母親と息子の会話に「アメリカの敵機は人間ぢやないんだから」といった台詞が入ったりする場面はあるものの、戦争に対する思い等は一切描かれず、空襲に怯えながらその日その日を精一杯に生きようとする人々の表情だけが切り取られている。興味深いのは、戦後になって初めて佐多稲子の筆名を使った単行本『たたずまひ』(1946年・萬里閣)を出版する際、彼女がこの作品を表題作に掲げ、次のような改稿を施していることである。

【初出】庭につゞいた隣りの家で、今年五つの男の子が母に言ってゐる。/「母ちやん、敵機はもう来ない?」/「あゝ、もう来ないよ。逃げちやつたよ。」/「ほんたうにもう逃げちやつた。」/と、優しい気性の男の子がまだ不安が残るのかくり返して聞いた。/「あつ、逃げちやつたんだよ。」と、今度は母親は言葉をつよめた。/「今度、いつ来るの。」/「知らないよ。母ちやんそんなこと。アメリカの敵機は人間ぢやないんだから。」/「アメリカの敵機は、人間ぢやないの。」/「あゝ、さうだよ。」/幾枝は、母と子のおもしろい会話に頼笑んでぢいつと聞いてゐた。/「夜、来ない?」/「うるさいねお前は。母ちやんは敵機の番なんかしてゐないから知らないよ。」と、母はうるさくなつたらしい。
【初刊】庭につづいた隣りの家で、今年五つの男の子が母に言ってゐる。/「母ちやん、アメリカの飛行機、もう来ない?」/「あゝ、もう来ないよ。」/「ほんたうに、もう来ない?」/と、優しい気性の男の子が、まだ不安が残るのか、くり返して聞いた。/「さうだよ。」/と、今度は母親は言葉をつよめた。/「今度、いつ来るの。」/「知らないよ。母ちやんは、そんなこと。」/幾枝は、母と子のおもしろい会話に微笑んでぢつと聞いてゐた。/「夜、来ない?」/「うるさいねお前は。母ちやんは、アメリカの飛行機の番なんかしてゐないから知らないよ。」/と、母親はうるさくなつたらしい。


戦後、GHQ/SCAPによる厳しい検閲がなされていた時代にあって、“アメリカの敵機”を“人間ぢやないんだ”と表現することが許される筈はない。それが出版社の意向なのか作者自身の自主規制なのかはわからないが、兎も角、占領国批判に繋がる表現を修正せざるを得なかったのは当然であろう。だが、ここで興味深いのは、このエピソードそのものを削除するのではなく、前後の辻棲を合わせて表現が巧妙に変えられていることである。読者が気づかぬように手が入れられ、検閲の痕跡を感じさせないような工夫がなされている。例えば、『たたずまひ』と同年に萬里閣から短編集『ふたたび』(1946年)を出した壺井栄の場合は、『村の運動会』を所収せず、その後、この作品に言及することも無かった。そこには、消極的な形であれ、銃後の女たちを励ますような小説を書いてしまったことへの贖罪意識のようなものがあったと思われる。『ふたたび』のあとがきには、「殆ど戦争中に書いたものである。半分は既に出版された単行本の中から再録した。そのことが多少気になるのだが、戦時中の出版事情は再版が不可能であったこと、発行部数が少なかつたことなどを理由に、比較的人目にふれなかつたものを選び、終戦前後の新しい作品と組合せてみた」といった弁明もあり、当時のプロレタリア系作家の困窮ぶりを顕わにしているが、そのような状況の中でさえ、壺井栄は『村の運動会』を収録しようとはしなかったのである。勿論、だからと言って、「アメリカに関する表現を手際よく修正して戦後版の単行本に収めた佐多稲子よりも、戦時中の自作を葬った壺井栄のほうが、作家の戦争責任に対する自覚が強い」と主張したい訳ではない。見方を換えれば、一部の表現を修正するだけで戦後文学として通用する作品を“戦中にも書き続けていた”佐多稲子こそ、矜持を守り続けた作家だったと言えなくもないからである。ここで重要なのは、2人の選択に優劣をつけることではなく、戦後の新しい時代に臨もうとした女性作家たちが、自作の扱いに関して全く異なった判断をせざるを得ないような状況があったという事実を正しく認識することである。

第2巻第4号(1945年4月号)になると、流石に雑誌としての新陳代謝が上手く機能しなくなり、力の籠った文芸作品が見られなくなる。『特輯 今こそ示せ日本の底力』には、戦記文学の先駆けとなる『肉弾』(1906年・英文新誌社出版社)がべストセラーとなった櫻井忠温、1941年に保田與重郎・林房雄・尾崎士郎らと共に『新国学協会』を設立した国粋主義者の浅野晃、『労農芸術家連盟』の作家として農村を舞台としたプロレタリア文学を描き続けた伊藤永之介、そして武者小路実篤が名を連ねている。武者小路実篤の『筆と墨』には、「日本にも墨絵の名人はゐるが、何と言つても中国にはその巨匠がゐる。そして世界に類のない芸術をつくり出してゐる」といった記述があり、戦争とは無関係とばかりに中国で発達した書や墨絵を絶賛している。伊藤永之介の『日本の水』は、“北秋田郡の銅山”で目撃した中国人労働者たちを描いたルポルタージュ風の小説。北国の厳しい冬には水道管が凍る為、蛇口を開いたままにしておくのが習わしだが、大陸の汚れた水しか知らない中国人が、その綺麗な水を惜しんで水道管を凍結させてしまうという挿話を通して、“私”が中国人労働者たちに親しみを覚えるようになる様子が描かれている。伊藤永之介の場合は、戦後に編んだ創作集『雪日記』(1946年・新紀元社)に『日本の水』を所収するに当たって、中国人労働者の描写等に関しても一言一句修正せず、戦中の初出と全く同じ内容で読めるようにしている。そこには、壺井栄や佐多稲子とは違った意味での高い見識を感じる。

20160411 02
第2巻第5号・第6号が未見の為、この間、どのような書き手が作品を発表したのかを知る術はないが、ここで興味深いのは、第2巻第7号(1945年7月号)に至って、再び内容の充実した文学作品が掲載されていることである。その1つが、室生犀星の『片信』という小説である。戦禍を逃れて、住み慣れた東京から信州のとある街に移住してきた“彼”は、胃潰瘍の検査も歯の治療も時計の修理も断られ、「何処を歩いても人の笑ひ声がしない、陽気なあかるい声が絶えて」いる街を彷徨う。そんな時、地方を巡回している交響楽団のポスターを見かけて会場に足を運んだ“彼”は、1人の気品に溢れた音楽家の歌を聴き、「無理や拵へもののない声」に思わず襟を正したい気持ちになる。戦中のうらぶれた街角の光景から演奏家たちに喝采する人々の姿まで、その描写は精密であり、主人公の悲哀が抑制の効いた言葉で表現されている。この作品も、伊藤永之介の『日本の水』と同様、読点や段落換え等微細な補筆を施しただけで、戦後に刊行された『信濃山中』(全国書房)に所収されている。戦争末期に書かれた作品でありながら、内容に関する削除や改稿をせずに公開できたということは、逆に、室生犀星という作家が国策文学に筆を染めることなく、自らの世界観を貫いたことの証となっている。同書には初出が記されておらず、室生朝子・本多浩・星野晃一編『室生犀星文学年譜』(明治書院)にも書誌情報が無い為、『片信』は戦争末期における室生犀星の創作活動を考える上で貴重な資料となり得るだろう。同号には、武田麟太郎の『嫌はれもの』も掲載されている。この小説は、語り手の“自分”が堂本という男の葬儀に出かける場面から始まる。大陸を転戦したの後に壮烈な戦死を遂げた堂本は、その乱暴な性格が災いして周囲から嫌われていた。だが、彼には出征前に将来を誓い合った富子という女がおり、“自分”に彼女の面倒を見てくれるように託していた。実際、富子にそんな気持ちは無かったのだが、不器用な堂本は富子の優しさを誤解していたのである。だが、堂本が出征した後に縁談相手と結婚し、戦場に赴いた夫を待つ身になっていた富子は、堂本の葬儀に駆けつけて彼の遺骨を引き取っていく。作品の結末は稍唐突な印象を与えるが、誰からも愛されることなく死んでいった堂本の侘しさと、そんな“嫌はれもの”の死を静かに慎む人々の慈しみが鮮やかに描出された作品である。武田麟太郎には『心境』(『中央公論』1941年1月)という小説がある。『心境』は、出征軍人である堂本と彼の一方的な求愛を受ける富子との関係を中心とした短篇小説であり、両作は同じモチーフを別の角度から書いた作品であることがわかる。其々は全く別の作品とも言えるし、1つの事象を違うカメラで捉えた作品とも言えるのである。




終刊号となる第2巻第8号(1945年8月号)になっても、そうした文学作品重視の姿勢は変わっていない。ここでは、尾崎一雄『我が疎開記』と大下宇陀兒『我が残留記』という2つの随筆が対になる形で配置され、一方では、「戦争完遂に役立つ」ような文章を書きたいと思いつつ、田畑を耕して食糧増産に協力しなければならない疎開生活者の葛藤が、もう一方では、帝都の機能を維持する為に、居残った住民が力を合わせて空襲の被害から街を守ろうとする様子が描かれている。小説では、1938年に『生きてゐる兵隊』(『中央公論』1938年3月)が新聞紙法に問われて発禁処分となり、禁錮4ヵ月・執行猶予3年の判決を受けた経歴を持つ石川達三が『沈黙の島』を書いている。実は、この作品が掲載される直前に石川は、1945年7月14日から『成瀬南平の行状』という小説を毎日新聞に連載している。ところが、この作品はスタート当初から「政府への批判的言辞がなされている」と指摘され、僅か15回で打ち切りになっていた。また、彼はその前年、同じ毎日新聞(7月14日)に『言論を活撥に』という論説を書き、「今日、言論統制はその方法を誤り、もしくは厳に失して言論抑圧の傾向を生じてはゐないか」「言論を抑圧すれば民衆は反抗し、反抗を弾圧すれば民心は沈滞する」といった過激な表現で当局を批判したりもしている。石川は、1945年1月には文学報国会の実践部長に就任して大政翼賛運動に加担する姿は示していたが、言論統制に対しては真っ向から反対する姿勢を貫いていた。つまり、月刊毎日は1945年8月という重要な局面において、この気骨溢れる書き手に小説を依頼し、掲載したということである。その意味で、『沈黙の島』という作品は、戦争末期の閉塞した状況に向けて毎日新聞北京支局と石川が放った痛烈な矢だったとも言えるものである。作品は、「敵米軍の作戦がニューギニアから更にレイテ島に及んで」くる中、補充部隊で勤務する“私”が乗っていた輸送船が撃沈され、命辛々小島に打ち上げられる場面から始まる。ところが、作品世界にリアリズムの秩序が設定されているのは、この冒頭のみで、“私”が小島で体験することの全ては寓話的な語りで処理される。つまり石川は、如何にも戦争小説らしい作品を書いている素振りをしながら、その中に体制を批判する劇中劇を用意するのである。

島で出会った男は“私”に向かって、「この島の名は高島と云ひます。現在この島は向ふに見える長島の大酋長の支配下にあります。私はその大酋長の代理としてこの島を治めに来てゐるのです。この島にも一年まへまでは大酋長カルクライが居りました。カルクライは一族の神祀りの司でもあり戦ひの指揮官でもありました。その頃の高島の一族は慓悍無比と言ひませうか好戦的と言ひませうか、何百隻のカヌーを連ねて長島の岸を襲ひ、戦ひの度毎に必ず勝つたものでした」と語る。だが、その高島では収奪品の分配等を巡る内紛が絶えなかった。そこで、島の存亡を危ぶんだ大酋長は、「神よ一年のあひだ彼等より言葉を奪ひ給へ」と祈り、彼らを“啞”にしてしまう。言葉と暴力行為を封じられた民衆は戦闘意欲を喪い、束の間の平和に現を抜かす。そんな時、一方の長島では大酋長による“強力政治”が進められる。――その様子は、「長島の大酋長はこの悲運を挽回する為に島の中に強力政治を断行しました。その第一の指導綱領は(不言実行)と言ふことでありました。さうして戦力の蓄積、船の増産と武器の増産、そして次に精神の鍛錬とを唱道したわけであります。最後の一人まで戦ひ抜かうといふ精神、島の伝統を守り島の名誉を護つて死なうといふ精神を養ふために、朝となく夜となく島の一族にむかつて指令を発したものでした」と語られる。言葉を喪って“心の統一”を果たせなくなっていた高島の民衆は、こうした長島の反撃によって、為す術もなく敗れていくのである。この記述を目にした読者は、当然、それが戦争末期の日本とその周辺諸国を描いた戯画だということを確信し、その咋な体制批判に驚いた筈である。どちらか一方を日本に見立てるのではなく、諍いを繰り広げる両島に其々ファシズムの陥穽を振り分けている点も含めて、その仕掛けは実に巧妙である。日本国内でこの雑誌を手にした国民は殆どおらず(発行直後に無条件降伏となっている為、第2巻第8号は市場に流通しなかった可能性が高い)、実際には誰も気が付かないまま歴史の外側に追いやられることになった訳だが、未だ戦争が続いている段階でこれだけ露骨な体制批判を試みた作品は他に無いのではないかと思われるほど、その内容は辛辣である。一方、同号に小説『山村』を発表した榊山潤は、敵の空襲によって焼土と化しつつある東京から妻の実家に疎開してきた主人公と、彼を頼って家族を託す親友の交情を描いている。作品の収束部には、特攻隊として出撃していった息子の死を新聞で知る老人のエピソード等も織り込まれ、戦争末期における農村の暮らしが細やかに描かれている。伊藤桂一・尾崎秀樹・小田淳編『回想・欄山潤』(榊の会編)によれば、この頃の神山潤は『戦時日記抄(1) 疎開文学者山村日記』(『文学報国』1945年3月)しか発表していない。後に『山村記』(『文芸』1946年5月)等を書いているが、それは戦後になって書かれたものであり、戦中とは認識の在り方が大きく変わっている。その意味で、『山村』は榊山潤における疎開という問題を考える上で貴重な資料となる。

月刊毎日が発行された時代の北京は日本の統治下にあった為、当然のことながら、書き手の中には、嘗て日本に留学した経験等を基に、日本文学の翻訳や研究に関わったり、日本文学の影響から作家的営みを始めたりした中国人作家もいる。彼らの多くは戦前・戦中を通じて親日的な態度を取っていた為、戦後は“文化漢奸”としての汚名を着せられることになるが、ここではその問題を一旦留保し、純粋な書き手として彼らを紹介する。創刊号に随筆『雨の感想』を寄せたのは周作人である。昨年3月に島崎藤村・武者小路実篤・谷崎潤一郎を始めとする日本の作家・芸術家・政治家らが送った1500点以上の手紙と葉書の存在が明らかにされて大きな話題となった周作人は、戦前の日本に留学した後、北京大学文科教授となり、実兄・魯迅と共に中国近代文学における言文一致運動や思想革命を推進した中国近代文学の先駆者である。また、当時の北京大学に東方文学系(日本文学専攻)を設置し、教育に力を注いだ教育者でもある。『雨の感想』には政治性を感じさせる記述が一切無く、北京の街を機能不全に陥れる雨と、地方の農村に豊かな恵みを齎す雨に関する感概が綴られているだけである。当時、周作人が置かれていた立場を考えると、それは思慮深く計算された文章だったのだろうと思われる。

同じく、創刊号には梅娘が『私の随想と日本』を寄せている。日本に留学している時に出逢った夫・柳龍光が、雑誌『華文大阪毎日』の編集に就いた関係で、彼女は1938年から2年間、西宮で暮らした経験がある。1942年に北京に居を構えた後は創作・翻訳・雑誌編集等を精力的に熟し、華北における代表的な女性作家となった。だが、1944年に大東亜文学賞を受賞した為、戦後は日本の協力者として厳しい批判に晒されることになる。この随想では、日本で暮らしていた時に見かけた少年たちの思い出が、「少年等は、ほんとに高明なる先生の教誨を受けたのでした。当時日本国内では、一心一意、大陸へ向け軍隊を派遣してゐた最中でしたので、男の子たちは皆な将来の国家の干城を以て自任してゐました関係から、日本の敵と誤認された私を岐視したのでありまして、それは全く一種の自然な心理現象だつたでせう」といった表現で皮相的に語られている。第1巻第2号には、清華大学で日本語と日本文学を講じる傍ら、周作人と共に日本文学の中国語翻訳者として活躍した錢稲孫も、随筆『近譚一二』を書いている。周作人・梅娘・錢稲孫は、共に同時代の中国を代表する知識人である。彼らは日中両国の国策に翻弄され、その才能を十全に発揮することができないまま、その生涯を終えたのである。第2巻第7号に『苦悩する文学精神 中国を愛する作家たちの動き』を書いた引田春海は、「事変後作家は分散し北京には周作人氏が留つた。その頃朔風といふ雑誌が発行され、多くは周作人氏其の他の作家が執筆してゐた。が、これは間もなく廃刊した。何故廃刊しなければならなかつたか、理由は極めて簡単である。日本人がその雑誌に宣伝をさせようとしたからである。その後いろいろな雑誌が宣伝といふことを背景に刊行され、それを利用する人物までも登場して来た。かうしたなかで、和平地区に新しく萠出た若い作家が如何に頽廃してゆくものか想像にあまるであらう」と記し、中国人作家たちを報国文学に駆り立てようとする日本のジャーナリズムを批判しているが、それは彼らが立たされていた苦境を考える上で非常に貴重な証言である。

以上、文芸作品を中心として月刊毎日各号を紹介してきた。同誌に発表された小説の執筆陣に共通するのは、従軍作家として活躍し、軍部との繋がりが深かった作家の名前が目立つことである。陸軍宣伝班員としてフィリピンに従軍していた尾崎士郎、文藝春秋社報道班員として中支戦線へ、文芸銃後運動の講師として満洲・朝鮮等に赴いた後、『同盟通信社』嘱託として南方を取材していた大佛次郎、陸軍報道班員としてジャワ島に滞在していた武田麟太郎、同じく海軍報道班員として東南アジア各地で取材を行っていた石川達三、1941年以降に陸軍航空隊の報道班員としてベトナム、タイ、ビルマを転戦していた榊山潤等、多くの執筆者は戦時中に報道班員として活躍している。また、文芸銃後運動講演会や大東亜戦争文芸講演会に参加したり、銃後文芸奉公隊の一員として外地を慰問したりした作家同士の繋がりも感じられる。勿論、報道機関である毎日新聞社は彼らに取材費を提供する側であり、阿部眞之助との結び付きも強い。更に月刊毎日の場合、武者小路実篤や室生犀星といった文壇の大御所に原稿を依頼する一方、里村欣三・壺井栄・窪川稲子・伊藤永之介等、プロレタリア文学の系譜に属する作家たちを終刊まで継続的に登用している点にも注目する必要がある。月刊毎日の編集部は、1944年11月の雑誌創刊時において、既に戦争が日本の望むような形で終結しないであろうことを予測していたと考えられる。彼らの中には、「“総力戦”に敗れてしまったら、その後に何が残るのだろうか?」という危惧があったと思われる。だからこそ、社賓である徳富蘇峰が会長を務める『日本文学報国会』で積極的に活動することを潔しとしなかった左翼系作家たちに作品発表の機会を与えることを厭わず、言論の自由を生き延びさせようとしたのではないだろうか。尚、月刊毎日の特徴を際立たせるものとしてもう1つ指摘したいのは、挿絵やカットの担当者の充実ぶりである。目次には、横井禮市・小穴隆一・鈴木信太郎・棟方志功・宮崎丈二・江崎孝坪・野間仁根・川口軌外・恩地孝四郎・芹澤銈介・堀内巌・清水力根・熊谷守一・脇田和・中村善策・伊原宇三郎といった名前が記されており、後に名を馳せる著名画家たちが数多く関わっていたことがわかる。また、同誌にはそれ以外にも栗原信や宮田重雄といった画家が随筆等を書いているし、会津八一・中村草田男・前田夕暮等が短歌・俳句を発表している。第2巻第1号から始まる一般読者からの“短歌・俳句募集”では、釈迢空(短歌)と水原秋櫻子(俳句)が選者を務めると告示されている(“北京支局内、月刊毎日社”に直接葉書で送るように求められている)。本稿で度々繰り返したように、月刊毎日は大政翼賛体制の下で発行された時局雑誌であり、主な論説記事は戦時スローガンをそのまま拡声する内容になっている。また、日本軍が事実上の統治を行っていた当時の北京において発行された雑誌故に、誌面の端々には支配する側の驕りや傲慢さが滲み出ている。だが、少なくとも幾つかの文学作品にはそうした国威発揚の潮流に呑み込まれまいとする抵抗の姿勢が表現されている。“支那”の歴史や文化に通じた学者やジャーナリストが書いた文章にも、「欧米列強の植民地支配からアジアを解放する為には、この国の自立を促し、経済を発展させていかなければならない」という認識がある。全てが侵略者の論理で塗り固められている訳ではなく、共に発展していく為の方策を考えようとする呼びかけがある。

これまで、現在、確認できる範囲で月刊毎日という雑誌の詳細を追ってみたが、これだけ多彩な書き手たちに原稿を依頼し、敗戦を迎えるその時まで贅沢な誌面を構成していたこの雑誌が、何故歴史に埋もれてしまったのかという問題に関しては、未だ謎が残っている。この雑誌に作品を寄稿した作家が、戦後に発行した単行本や全集にそれを収録していなかったり、初出に関する情報が明らかにされていなかったりすることも、謎を深める要因になっている。詳細は今後の研究を俟つしかないが、一先ずの仮説として言えるのは次の3点である。――1つは、月刊毎日が北京を中心とする北支のみで読まれていた雑誌であり、日本国内に配送された形跡が無いということである。今回、熊本の古書店で発見した1冊に“贈呈”の印が押されていることからもわかるように、月刊毎日を国内で読むことができたのは北京から個人的に郵送されたものに限られ、その数は極少数だったと思われる。戦争末期の言論統制下において、この雑誌に書かれている内容はあまりにも危険過ぎるからである。もう1つは、寄稿者自身の自己検閲的な意識が働いた可能性である。いくら外地であったとは言え、月刊毎日に発表された論説・随筆・創作の多くは大東亜共栄圏の理念や大政翼賛体制を推進する為の戦時イデオロギーに染まっている。戦後、GHQ/SCAPの占領下に置かれた日本において、戦争末期に書いたものを態々掘り返すことにメリットがあるとは思えない。特に、新しい民主主義の時代を颯爽と駆け抜けようとした作家たちにとって、月刊毎日に掲載した作品は戦争協力とも受け取られかねない。多くの作家が自作を封印した理由は、その一点にあると考えられる。

こうした、出版流通や書き手の自己抑制と共に、もう1つ重要なのは、抑々月刊毎日のような雑誌を保管し、敗戦後にそれを日本に持ち帰ることなどできなかったのではないかという問題である。例えば、1941年春から1944年秋までの3年余り、北京日本大使館に副領事として勤務していた大柴衛は、『北京の追憶』(駿河台書房)の末尾を、

筆者が北京を引揚げたのは十九年秋であるが、戦争はまだ酣であり、誰も日本の敗北など予想もしなかつた。ただ戦局は日増しに苛烈となり皆が戦争を実に身近かに感じた。現地召集も行われ始め、今までは応召すれば内地へ行つたが、これからは北支の部隊へそのまま入隊することとなつた。帰国の車中は内地へ引揚げる人が相当多数いた。もう大陸にいては危いと悟つて家族だけ帰らせたり、一家揃つて引揚げる人も相当あつたのである。車内は女子供で相当にぎやかであつた。当時既に内地へ一万円以上は持つて帰れぬこととなつていたから、止むを得ず何十万円か支那料理を食つて金を費つた人も多かつた。筆者が引揚げてから十カ月ばかりで終戦になつた次第であるが、その日のうちに北京神社は、一物も残らず中国人に壊され持ち去られた由である。日本人の家へはよく強盗が入つたという。また日本人が民衆に袋たたきにされるのを見たという人もある。併し終戦になってはじめて中国人は大国民であるということが分つたといつている人もある。

と結んでいる。雑誌が創刊された1944年の秋ですらこのような状況だったのだから、1945年8月以降、日本に引き揚げた人々がどれほどの混乱・苦難を体験したかは推して知るべしであろう。殆どの家財道具を現地に残し、現金さえ1万円までしか持ち込むことができなかった人々が、態々リュックサックのなかに読み棄ての雑誌を入れて日本に持ち帰ろうとする筈がない。食糧を確保すること、生き延びることに精一杯の人々にとって、雑誌など無用の長物と思えた筈である。

また、泡沫の夢に酔い痴れた日本人が引き揚げてしまった後、自国の主権を取り戻した中国人にとって、日本語で書かれた月刊毎日は憎き支配者たちの残滓にしか思えなかったであろう。日本の敗戦を知るや否や神社を取り壊し、日本人への敵意を露わにした彼らが、それを後世に残そうと考えなかったのは当然のことかもしれない。その意味で、北京大学に所蔵されていた月刊毎日は、「如何なる言論であろうとも、焚書という行為によって世の中から抹殺してしまってはならない」という信念を持った誰かが残してくれた貴重な遺産だったと言えるだろう。だが、こうした仮説を以てしても尚、謎が解けないのは、発行元の毎日新聞社に『月刊毎日』に関する資料が一切残っておらず、社史にさえ記録が無いという点である。意識的にそれを隠匿したのか、それとも戦中戦後の混乱期ということで外地の自社活動が把握し切れていなかったのかは不明だが、発行に関わった多くの記者たちさえ、この雑誌の編集発行に纏わる思い出を記していないというのは、どうにも説明がつかない。強いて言うなら、編集及び執筆者の選定等を実質的に担っていたと思われる阿部眞之助が、丁度月刊毎日が創刊される直前に毎日新聞社を退社していることである。敗戦後、逸早く『日本ジャーナリスト連盟』を設立することからも明らかなように、彼の中にはジャーナリストとしての強い信念と気骨があった。言論統制の抑圧が及び難い北京支局を拠点に雑誌の出版活動を継続したのは、戦時下においてもその精神を絶やさぬ為だったのではないだろうか。既に毎日新聞社の社員ではなくなっていた阿部眞之助は、こうしてフィクサーとしての企てを遂行した。毎日新聞社本体にも責任が及ばないようにするという周到な算段の下、自らの人脈で執筆者を集め、日本国内ではとても書くことができない内容の誌面を作り上げた。石川達三が『沈黙の島』において、言葉を奪われた島の滅亡を描くことで警鐘を鳴らしたのと同様、そこには、言論の自由が封殺されることへの強い危機意識が働いていたのではないだろうか。第2巻第5号・第6号の発見によって月刊毎日の全容を把握することは勿論だが、同誌を含む戦時期の外地日本語雑誌にどのようなものがあるのか、どのような記事や作品が掲載されていたのか、そして、それらがどのようにして流通していたのかを明らかにすることが今後の課題である。

※本稿の執筆に際して、金沢文圃閣・田川浩之氏より貴重な資料をご提供頂いた。特に、井川充雄監修『戦時末期敗戦直後新聞人名事典-附・日本新聞年鑑196 全2巻』(金沢文圃閣)からは、編輯兼発行人・伊東重任に関する情報を教えられる等、多大な恩恵に与った。ここに記して、お礼申し上げる。
※今回、新たに発見された小説に関しては、室生犀星『片信』・佐多稲子『たゝずまひ』・尾崎士郎『バタアン残月』等、幾つかの作品が初出不詳のまま、戦後に出版された単行本や長篇小説の一部に組み込まれており、本誌に再録した小説に関しても同様の可能性があることをお断りしておく。




【『月刊毎日』目次】第1巻第1号・第2号、第2巻第1号-第4号・第7号・第8号
印刷人・田中荘太郎 北京東城東単三條胡同廿六 発行所・毎日新聞北京支局内 月刊毎日社 北京阜成門外北禮士路 配給元・新民印書館 電話(二)二一三○—三三


創刊号・第1巻第1号(1944年11月号 定価1部金五円 昭和19年10月20日発行 編輯兼発行人・伊東重任)
創刊の辞/徳富猪一郎『神州必勝論』(論説)/秋山謙蔵『決戦 日本の進路』(論説)/大木惇夫『うなばら洲』(詩)/草野文男『支那辺反論』(論説)/米内山庸夫『日支文化政策の新指標』(論説)/渥美豊『華北展望』(論説)/斎藤瀏『海の外の同胞』(短歌)/杉原荒太・杉村広蔵・後藤四郎『大東亜戦局と支那』(座談会)/周作人『雨の感想』(随筆)/梅娘『私の随想と日本』(随筆)/松井石根『在支皇国民の態度』(論説)/栗原信・里村欣三・柴田賢次郎『大陸面信』(随筆)/小山田豊『大陸作戦の新様相』(論説)/村上知行『支那習俗物語』(随筆)/寺島正『大東亜戦局の現段階』(論説)/津久井龍雄『米英の宣伝謀略』(論説)/森正光『敵米の爆撃戦法』(論説)/高田市太郎・赤谷達『憤激を新たにせん』(論説)/藤林敬三『勤労動員と国家管理』(論説)/佐藤浅五郎『食糧の現状と対策の進展』(論説)/住本利男『決戦臨時議会の収穫』(論説)/工藤信一良『自信満々たる独逸』(論説)/徳川夢声『猫にカラ飯』(随筆)/山口久吉『北九州空襲体験記』/里村欣三『美しき戦死』(小説)/岩崎栄『岸田吟香』(評伝)/内地だより(コラム)/飾絵=横井禮市・小穴隆一・鈴木信太郎・棟方志功・宮崎丈二・江崎孝坪/附録 大東亜全域地図

第1巻第2号(1944年12月号 定価1部金五円 昭和19年11月20日発行 編輯兼発行人・伊東重任)
巻頭言『支那の現実事態を認識せよ』(論説)/大川周明『解決の唯一路』(論説)/松下正寿『歴史の関頭に立ちて』(論説)/木村禧八郎『華北経済の対日寄与』(論説)/特輯=『米英邀撃戦論』(論説) 中柴末純・匝瑳胤次/栗原信『大陸面信』(随筆)/鳥瞰子『重慶と延安』(随筆)/竹田光次『大陸作戦の新様相』(論説)/錢稲孫『近譚一二』(随筆)/長谷川正道『新兵器論』(論説)/大澤潤『大陸展望』(論説)/林房雄『大東亜の文学』(批評)/岩崎栄『興亜礎人伝・荒尾精』(評伝)/高建子『支那習俗物語②』(随筆)/森正蔵『欧洲のソヴィエト化と米英』(論説)/井上縫三郎『決戦 政治の動向』(論説)/内地だより(コラム)/堤千代『女郎花』(小説)/濱本浩『復讐』(小説)/岡麓『決戦近しといふ』(短歌)/久保田不二子『秋草』(短歌)/長谷川かな女『天上の月』(俳句)/長谷川素逝『大陸吟詠抄』(俳句)/前田普羅『静かなる日本』(俳句)/飾絵=横井禮市・小穴隆一・伊勢正義・棟方志功・宮崎丈二・江崎孝坪・鈴木信太郎

第2巻第1号(1945年1月号 定価1部金五円 昭和19年12月20日発行 編輯兼発行人・伊東重任)
巻頭言/斎藤茂吉『新年述志』(短歌)/斎藤瀏『神風特別攻撃隊』(論説)/小泉信三『職域に戦ふ』(論説)/佐藤市郎『現代決戦の本質』(論説)/山口靑邨『御代の春』(俳句)/特輯=日満支経済の再検討(論説) 楠見義男『大豆と棉と甘藷』(農業)、榊原二郎『生産の地域的再編成』(鉱工業)、吾孫子豊『大陸鉄道の一元化』(輸送)、吉田政治『通貨及び金融の革新』(金融)/若山喜志子『幼児疎開』(短歌)/桑原寿二『新民会の方向』(論説)/佐藤春夫『異郷の新春』(詩)/魚返善雄『遠い支那・近い支那』(論説)/簫艽『友を懐ふ』(随筆)/宮田重雄『北支の回想』(絵文)/関原利夫『大陸展望(華北の巻)』(論説)/丸山野銀治『礬土頁岩を探る』(論説)/江井洋三『支那習俗物語』(随筆)/野山草吉『時の人・宇垣一成』(コラム)/内地だより(コラム)/岩崎栄『興亜礎人伝・根津一』(評伝)/矢加部勝美『レイテ決戦・我に勝算あり』(論説)/渡邊善一郎『冬を迎へた欧洲戦局』(論説)/ウェーラン『“獰猛”シェンノート』(論説)/井上縫三郎『国内展望』(論説)/壺井栄『村の運動会』(小説)/福田栄一『神機』(短歌)/尾崎士郎『バタアン残月』(小説)

第2巻第2号(1945年2月号 定価1部金五円 昭和20年1月20日発行 編輯兼登行人・伊東重任)
巻頭言/蠟山政道『米国の戦争目的』(論説)/斎藤史『日常』(短歌)/松本忠雄『重慶とアメリカ』(論説)/牧野良三『政治の持つ魅力』(論説)/河井酔茗『吾家の待避壕』(詩)/特輯=見て来た支那(論説) 平野義太郎『愉快な実例三つ』、坂西利八郎『三個の政権、四種の思想』、水野梅暁『一人でも多くの友を』/若菜正義『変貌する上海』(論説)/魚返善雄『遠い支那、近い支那』(論説)/特輯=絵と随想(絵文) 小杉放庵『よき中国人』、武者小路実篤『宋元の画』、木村荘八『新しき美しさ』/佐藤亮一『陽泉岩礦を見る』(随筆)/豊田三郎『東京から』(随筆)/大河原元『火を吐く高射砲』(論説)/野山草吉『時の人・重光葵』(コラム)/國府種武『支那習俗物語』(随筆)/多田貞一『支那のこよみ』(随筆)/岩崎栄『興亜礎人伝・鐘崎三郎』(評伝)/渡邊善一郎『欧洲政治戦線』(論説)/磯田勇『重慶軍の実体』(論説)/藤田福乎『スチルウエル旋風』(論説)/住本利男『国内展望』(論説)/内地だより(コラム)/村松梢風『海燕記 第一回』(小説)/大佛次郎『遅桜』(小説)

第2巻第3号(1945年3月号 定価1部金拾円 昭和20年2月20日発行 編輯兼発行人・伊東重任)
巻頭言/特輯=科学者に聴く(論説) 富塚清『よきをとりあしきをすてゝ』、多田禮吉『大陸と科学戦』、田口泖三郎『音もたゝかふ』/会津八一『火鉢』(短歌)/生方たつゑ『徹るみち』(短歌)/千坂高興『華北合作社の新方向』(論説)/甲斐太郎『大陸展望』(論説)/魚返善雄『遠い支那・近い支那』(論説)/特輯=女子の戦力化(論説) 阿部静枝『あらゆる部面に働く女』、池田きみ枝『女性の築く新時代』、鷲沼登美枝『強い誇りとその決意』/陳公博『私の自伝』/船津辰一郎『友人の見た陳公博』(評伝)/澤田瑞穂『支那のこよみ』(随筆)/吉岡義豊『支那習俗物語』(随筆)/徳光衣城『凍玻璃』(排句)/岩崎栄『興亜礎人伝・藤島武彦』(評伝)/森下春一『比島戦局を直視せよ』(論説)/征矢野平三『国内展望』(論説)/野山草吉『時の人・小磯国昭』(コラム)/日高一郎『欧洲戦局』(論説)/大賀千歳『重慶座の登場人物』(論説)/岡久雄『米の対重慶陣首脳』(論説)/内地だより(コラム)/窪川稲子『たゝずまひ』(小説)/村松梢風『海燕記 第二回』(小説)/カット=横井禮市・小穴隆一・野間仁根・川口軌外・恩地孝四郎・宮崎丈二・芹澤銈介・掘内巌

第2巻第4号(1945年4月号 定価1部金拾円 昭和20年3月20日発行 編輯兼発行人・伊東重任)
巻頭言/吉川幸次郎『支那と世界と日本』(随筆)/波多野乾一『自主建国論の擡頭』(論説)/奥野信太郎『中国の大学生』(随筆)/高野三三男『中支点描』(随筆)/海野秀雄『華北展望』(論説)/特輯=今こそ示せ日本の底力(論説) 高須芳次郎『国難突破の威力』、櫻井忠温『漠然たる勝利なし』、浅野晃『底知れぬ力』/武者小路実篤『筆と墨』(随筆)/伊藤永之介『日本の水』(小説)/特輯=戦ふ職場の手記 遠藤基治『鉄道の現場から』、生方鶴二『生産特別攻撃隊』、藤居平一『御璽奉る』/何達『中国と日本』(随筆)/大潤『龍烟鉄鉱を視る』(随筆)/岩崎栄『興亜礎人伝・中西正樹』(評伝)/藤島周三『支那の暦・清明前後』(随筆)/石原巌徹『支那の芝居』/柳雨生『北京大学の思ひ出』(随筆)/河野密『議会を顧る』(論説)/対馬好武『国内展望』(論説)/岡久雄『欧洲戦局展望』(論説)/丸山直一『比島戦局と大陸戦線』(論説)/大河原元『高空飛行と空気密度』(論説)/内地だより(コラム)/村松梢風『海燕記 第三回』(小説)/短歌 土屋文明・大村呉楼/排句 中村草田男・推薦排句/詩 宮崎丈二・中野明/カット=宮崎丈二・江崎季坪・恩地孝四郎・清水力根・野間仁根・鈴木信太郎・熊谷守一・脇田和

第2巻第7号(1945年7月号 定価1部金参拾円 昭和20年6月20日発行 編輯兼発行人・岸哲男)
巻頭言/植木直一郎『神武天皇の創業と新日本の経営』(論説)/長谷川如是閑『戦争と民族的道徳性』(論説)/『延安の虚を衝け』(論説 ※筆者名判読不能)/特輯=戦争と謀略(論説) 坂戸智海『欧洲に於ける謀略戦』、大槻憲二『女性と謀略』/佐藤敬『中支の画帖』(随筆)/百田宗治『中支小孩風景』(随筆)/特輯=華北文化展望(随筆) 土方定一『現代の支那文化と日本文化』、引田春海『苦悩する文学精神』、長谷川宏『伝統との新しい結合を』、江文也『中国古典楽の復興』、河合信雄『映画演劇への待望』/直江広治『支那習俗物語 霊童出現譚』(随筆)/吉城一郎『支那の暦 看穀秀』(随筆)/林語堂『東西文化漫談(下)』(随筆)/岩崎栄『興亜礎人伝・金玉均』(評伝)/関原利夫『大陸展望』(論説)/鳥居龍蔵『乾隆帝と人種学』(論説)/若山正一『華北指導者群像 田村羊三』(評伝)/中沢誠一郎『爆風と弾片』(論説)/渡邊善一郎『世界の動き』(論説)/対馬好武『国内展望』(論説)/内地だより(コラム)/室生犀星『片信』(小説)/武田麟太郎『嫌はれもの』(小説)/大陸歌壇/大陸排壇/短歌 前川佐美雄・岡野直七郎/排句(※筆者名判読不能)/カット=中村善策・伊勢正義・大沢昌助・野間仁根・宮崎丈二・鈴木信太郎・小穴隆一

第2巻第8号(1945年8月号 定価1部金七拾円 昭和20年8月1日発行 編輯兼発行人・岸哲男)
巻頭言/松下正寿『ドイツの降伏と欧洲の今後』(論説)/橘樸『孫文思想の東洋的性格』(論説)/辻原八二三『和平地区における青年の動向』(論説)/大谷光瑞『北京縦横談』(随筆)/鍋井克之『燕京回想』(随筆)/陳公博『偏見』(随筆)/土方定一『縣城日記』/『中国大学卒業生の問題』(随筆)/若菜正義『大陸展望』(論説)/若山正一『指導者群像 八田嘉明』(評伝)/澤田瑞穗『支那習俗物語 孟姜女室巻』(随筆)/『支那の暦 七夕祭と中元節』(随筆 ※筆者名判読不能)/岩崎栄『興亜礎人伝・頭山満』(評伝)/尾崎一雄『我が疎開記』(随筆)/大下宇陀兒『我が残留記』(随筆)/高松棟一郎『ルソン最後の特攻隊』(随筆)/大河原元『沖縄から来る敵機』(随筆)/住本利男『国内展望』(論説)/日高一郎『米の軍事評論家』(論説)/大賀千歳『激化する国共争覇戦』(論説)/佐藤浅五郎『本年の食糧事情』(論説)/石川達三『沈黙の島』(小説)/榊山潤『山村』(小説)/大陸歌壇/大陸排壇/詩 百田宗治/短歌 太田水穂・小杉放庵・前田夕暮/俳句 長谷川かな女/カット=中村善策・宮崎丈二・江崎孝坪・小穴隆一・鈴木信太郎・伊原宇三郎・野間仁根


キャプチャ  2016年2月号掲載


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