【偽善の逆襲】(08) 東京オリンピックはきっと“無難”なだけの祭典になる

ザハ案・新国立競技場はデザインと予算を理由に“炎上”したけれど、半世紀前の日本ならどうだっただろう。何故今、こんなに“守り”に入ってしまったのか? (社会学者 古市憲寿)

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先日、上海に行ってきた。浦東新区のビル街は、まるで未来都市そのものだ。高さ632mの高層ビル『上海中心大厦』が完成し、隣にある高さ492mの『上海環球金融中心(上海ヒルズ)』が小さく見えてしまう。ビルの足元にある巨大ショッピングモールは夜遅くまで光り輝き、『ルイ・ヴィトン』を始めとした世界中のハイブランドが存在感を示している。浦東新区に限らない。中国の都市には奇抜な建築物が兎に角多い。北京オリンピックの際に作られた『国家体育場(鳥の巣)』を始め、“パンツ”と揶揄されることもある『中国中央電視台』本部、“天に聳え立つ便座”こと『シェラトン湖州温泉リゾート』等、世界中の著名な建築家による芸術的な建物が次々に作られてきた。翻って日本では今、奇抜な建築物を作り難くなっている。象徴的なのは、ザハ・ハディド設計の『新国立競技場』の案が白紙撤回になった事件だろう。ザハ案には様々な反対意見があったが、特に声が大きかったのが「デザインが奇抜過ぎる」「予算がかかり過ぎる」という2点だ。確かに、ザハ建築が景観にマッチするかは微妙だし、当初の目測の倍となる2500億円という予算に批判の声が集まったのもわかる。しかし、これが中国だったらどうだろうか。ザハの奇抜なデザインはランドマークとして歓迎されたかもしれないし、予算も何とか帳尻を合わせただろう。若しくは、これが半世紀前の日本だったらどうだろうか。1958年に『アジア競技大会』と『東京国体』のメインスタジアムとして完成した旧国立競技場は、着工時には工事費や土地買収費等を入れても予算約13億円と発表されていた。しかし、いざ完成してみると、総工費は約30億円。当初の計画の倍以上の予算がかかった訳だ。しかし、当時の報道では、このことを糾弾するようなものは見つからない。それもその筈、その頃の日本は高度成長期で“岩戸景気”の前夜だった。1960年には経済成長率は13%を記録している。景気の良さの前に、予算が倍になることなど、大して世間の関心事にならなかったらしい。

中国や半世紀前の日本にできていたことが、今はできない。別に、「ザハの国立競技場を作るべきだった」と言うのではない。最近、日本全体が何だか“守り”に入っている気がしないだろうか? 僕はその最大の理由が、「日本がどんどん貧乏になっている」ことにあると思う。日本は嘗て、世界第2位の経済大国だった。しかし、2010年にGDPは中国に抜かれてしまう。ここまではご存知の方も多いと思う。だが、今の中国と日本のGDPにどれくらいの差があるか知っているだろうか? 2014年の段階で、中国のGDPは10兆3800億ドルだった。それに対して、日本は4兆6160億ドル。経済規模で見れば、中国は日本の倍以上の国になってしまっているのだ。日本は僅差でのGDP3位ではなく、堂々の3位。ドイツに追い抜かれるのも時間の問題と言われている。尤も、中国は人口が多い。GDPが大きな数字になるのは当然だ。しかし最近、「日本はやっぱり貧乏」ということを裏付けるニュースが発表された。日本の1人当たりGDPがOECDに加盟する34ヵ国中、20位だったことがわかったのだ。ランキングでは、アメリカやオーストラリアは勿論、イスラエルにも抜かれている。また、OECDには加盟していないが、シンガポールや香港にも日本の1人当たりGDPは抜かれている。勿論、円安の影響もあるが、それだけではこの順位は説明できない。日本は、1996年にはランキング3位だった。それから20年間で徐々に順位を下げてきたのだ。どうやら統計的に言っても、「日本がどんどん貧乏になっている」のは間違いなさそうである。だけど、日本が“貧乏”になってしまったことを直視したくない人も多い。例えば、森喜朗元首相は新国立競技場の白紙撤回に際して、「国がたった2500億円も出せなかったのかね?」と発言したとされる。確かに1937年生まれで、日本の経済成長と共に年を重ねてきた森元総理には、「日本が貧乏になった」という状態を信じることができないのかもしれない。また、「オリンピックを開催しさえすれば、日本がこの“貧乏”状態から抜け出せる」と信じる人々がいる。例えば、今年の年頭記者会見で、安倍首相は2016年を、60年前の1956年に擬えていた。『経済白書』で「もはや“戦後”ではない」と宣言された年辺りから、日本は非常に豊かになった。それは、「“挑戦”を決して諦めなかった先人たちが豊かな日本を築き、私たちへと引き継いでくれ」たということらしい。あの頃と同じように、「日本がオリンピックをきっかけに復活してほしい」という期待が滲んでいる。更に、大阪では2025年の大阪万博、北海道では2026年の札幌オリンピックの開催を目指した誘致をしている。若し実現されれば、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博、1972年の札幌オリンピックの再現ということになる。




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この誘致に対して、思想家の東浩紀は自身のツイッターで、「60年代と同じ事を繰り返せば日本も復活するという魔術的思考に国全体が陥っている気がする」と指摘していた。まさに東が言うように、「半世紀前と同じことさえすれば日本が復活する」というのは“魔術的思考”に他ならない。何故ならば、日本が“貧乏”になった最大の原因は少子高齢化であって、それはオリンピックという一度のお祭りで解決できるようなものではないからだ。日本は1970年代から出生率が下がり始め、現在では世界有数の“老人の国”になっている。実は、経済成長を一番説明するのは人口だ。若い人口が多い国は豊富な労働力を安く使える上に、若者は消費者としても魅力的だから、経済成長がし易い。一方で、高齢者が多い国では医療等の社会保障費に多額のお金がかかり、経済どころではなくなる。まさにバブルを終えた頃から、日本はこの状態に突入した。日本の1人あたりGDPが低くなってしまうのも、高齢者が増え、働いていない人が多いことと関係している。例えば、自民党が好きな“3世代”同居の“伝統的”な家族を考えてみよう。そこで現金収入があるのは、現役世代の男性だけ。リタイアした祖父母、妻に子供が2人いた場合、たった1人で5人を支えることになる。これじゃ“貧乏”になって当然だ(因みに、このような家族は伝統でも何でもない。日本は“伝統的”に自営業者が多かった)。1964年の東京オリンピックは、日本が“若い国”だった時に開催されたものだ。勿論、新幹線や首都高の開通等、オリンピックが起爆剤となって実現した公共事業も多いだろう。しかし大前提として、当時の日本は若かった。1960年には何と、平均年齢が28.5歳である。あの頃と比べてすっかり“老いた国”となった日本で、いくらオリンピックや万博を開催したところで、日本が急に復活する訳はない。しかも、そのお祭りであるオリンピックでさえ、最早東京開催が決まった直後の高揚感は消え失せている。思えば、2013年9月に東京オリンピック開催が決まってから色々なことが起こった。東京都の猪瀬直樹前知事の辞任、新国立競技場問題、そしてエンブレムの盗作騒動…。少し前までは、様々な人がオリンピックの利権に群がろうとしていた。だが、オリンピックに関する“炎上”案件が増え過ぎて、正面から関わることが厄介な存在となってしまった。僕の知人も、「オリンピックのプロデュースに関わってくれないか?」という申し出を断っていた。恐らく、このままでは東京オリンピックは、“無難”であることが最優先の祭典になっていくだろう。開会式も、競技も、施設も、兎に角“無難”。たとえどんなにダサくても、炎上さえしなければ構わない。そんなポリシーは、ザハ案から代わって建設が決まった新国立競技場のデザインにも反映されている。今後決まるエンブレムも、“桜”や“日の丸”が使用され、誰も積極的に否定しない野暮ったいものになるかもしれない。

中国と日本を比べて気付くのは、「新しいことや奇抜なことは、成長期の場所でしかできないのではないか」ということだ。この数十年の中国、そして豊富な石油資源で繁栄していたドバイ等、経済成長の最中にある国では、奇抜で間抜けな案も通り易かった筈だ。財布に余裕があると挑戦もし易くなるからだ。これは国に限らず、企業や個人でも似たことが言えるだろう。例えば『Google』では、定期的に行われる面談で社員の最近の“失敗”が聞かれる。そして、“失敗”をした社員のほうが評価されるという。何故なら、“失敗”はその人が新しいことにチャレンジした証拠だからだ。一方で、“貧乏”だったり余裕の無い組織では、挑戦それ自体が難しくなっていく。“できない理由”を並べるのは簡単だ。お金に余裕の無い場所では、尤もらしく“できない理由”が話し合われ、結局、何も決まらないということが起こる。だが本来、一番挑戦を必要とするのは衰退期の場所である筈だ。現状が順風満帆なら、何も今までのやり方をがらっと変える必要はない。本来は、今の日本のように、既存の昭和型の仕組みで社会が回り難くなっている国でこそ、挑戦が必要だ。先程も引用した年頭記者会見で、安倍首相は“挑戦”という言葉を実に25回も繰り返していた。「挑戦の終わりは新たな挑戦の始まり」・「一億総活躍」への「挑戦」・「未来へ挑戦する国会」・「挑戦、挑戦、そして挑戦あるのみ」等、本当に何度も“挑戦”という言葉を用いた。“挑戦”が必要だという認識は正しい。だが、低い起業率を見てもわかるように、日本は極めて“挑戦”がし難い国である。例えば日本では、“民泊”も、配車アプリ『Uber』等のタクシーサービス1つとっても、厳しい規制に阻まれて十分に機能していない。軽井沢の高級別荘に宿泊できることを売りにした『ヤフー』のサービスは、旅館業法に抵触する恐れがあるということで、僅か1ヵ月でサービス停止に追い込まれた。年頭記者会見で使用された“挑戦”には、“国家”による“挑戦”という意味合いが強かったのかもしれない。だが最早、国が成長産業の目処をつけて、社会主義的に成長できた昭和時代ではない。若しできることがあるとすれば、肥大し過ぎてしまった“国家”の権益を民間に委譲していくことだ。とは言え、やはり“貧乏”な国での“挑戦”は難しい。このまま日本が少子高齢化という最大の問題に何ら“挑戦”をせず、様々な改革を先送りにする未来は十分に考えられる。GDPでは“大国”中国の足元にも及ばず、1人当たりGDPも韓国に追い抜かれ、極東の小国になっていく日はそう遠くないだろう。新年から暗い話題になってしまったが、“貧乏”な国なので仕方ない。


古市憲寿(ふるいち・のりとし) 社会学者。1985年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)。著書に『希望難民ご一行様 ピースボートと“承認の共同体”幻想』(光文社新書)・『絶望の国の幸福な若者たち』『誰も戦争を教えてくれなかった』(共に講談社)等。


キャプチャ  2016年2月号掲載
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