【悪夢の21世紀】(05) 『ウェブ2.0』はどこへ消えた?

最近、セルカ棒というものを買った。今、アジア各国で大流行している画期的な製品である。見た目はただの棒なのだが、とんでもなく便利な代物だ。使い方は簡単。手持ちのスマートフォンにこのセルカ棒を取り付けるだけ。棒は伸縮自在で、大抵の場合Bluetooth対応のリモコンが付属している。そしてカメラアプリを起動して写真を撮る。そのためだけの製品である。なぜセルカ棒が画期的なのか。それは、スマホ単体ではどうしても自撮りが難しかったからだ。自分で手を伸ばしてもいいが、どうしても遠景のショットは撮れない。集合写真を撮りたい時は、結局道行く人に頼んだりするしかない。そこでセルカ棒だ。使えばわかるのだが、この棒を用いたことが気付かれないような、きれいな自撮り写真を撮ることができる。そもそも“セルカ”とはセルフカットの略、つまり自撮りのことである。世界的に自撮り(セルフィー)が流行しているが、それを支援してくれるのがセルカ棒なのだ。日本ではまだそれほど見かけないが、隣国では大統領までがセルカ棒を愛用している。僕自身が愛用者となったセルカ棒だが、複雑な気持ちでもある。時は21世紀。空飛ぶ車やドラえもんのようなロボットが活躍しているわけでもなく、インターネットによって理想的な民主主義社会が実現したわけでもなく、ただの棒がアジア中で流行しているのである。




もう誰も覚えていないだろうが、10年ほど前、『ウェブ2.0』という言葉が流行したことがある。多くの人が情報の受け手に過ぎなかった『ウェブ1.0』時代が終わり、“みんな”が情報発信者になれる時代が訪れた、というような騒がれ方をしていた。ブログやmixiといったソーシャルネットワークがブームになり、ウィキペディアなどの集合知が注目を集めていた時代のことである。2006年にベストセラーになった梅田望夫の『ウェブ進化論』(ちくま新書)によると、確かにネット上のコンテンツは玉石混淆だという。しかしそれを集合愚と断じてしまうのは早計である。これから一般人が表現をするハードルはどんどん下がっていく。すると母集団が増え、良いコンテンツの割合も自然と上がっていく。さらに個人の趣向に合わせて情報を提供するシステムが高度化していくだろう。要はテクノロジーの力によって、理想的な総表現社会が実現されていくという夢を梅田は語っていた。

確かに有象無象のネットユーザーの“表現”と、テクノロジーの組み合わせが、人々の役に立つことがある。僕が一番参考にしているネット上での集合知は『価格.com』だ。専門性が必要とされず、主観が介在する余地が少ない情報を集める時、ネット上での集合知は威力を発揮する。『価格.com』のミソは価格という、誰が見ても比較しやすい情報を集約している点にある。価格よりもやや客観性が落ちるが、使用者による商品レビューも参考になる場合が多い。電化製品を使うのに専門性なんていらないし、思想信条が評価に大きな影響を及ぼすとは思えない。専門性ともイデオロギーとも無縁の領域で、ネットの集合知は大いに役に立つ。だが電化製品よりも個人の趣向や経済状態が反映されやすい食の分野になると、集合知は少しずつ怪しくなってくる。通常の雑誌では無理だろう詳細な情報や写真が掲載されている『食べログ』。だが星の数や食に対する判定になると当たり外れが多い。

さらに難しいのは医療や法律といった高度に専門的な分野だ。共に本来は長期間、高等教育機関に通わないと専門家になれない領域。しかしネット上には自称専門家による怪しい情報が溢れている。たとえば『Yahoo!知恵袋』の医療情報などは、本当に玉石混淆である。「牛乳で免疫力を高める」とか「めかぶを食べると代謝が高まる」とか、あらゆる食品が身体にいいことになっている。そうか、牛乳やめかぶを食べればいいのかと思ったら、今度は「牛乳は毒。飲んでいるのは日本人くらい」といった自称専門家の説にぶち当たる。結局、何でもほどほどのバランスで食べればいいのだろうが、ネット上の意見にはとにかく極端なものが多い。深刻に悩んでいる人が多いからだろうが、癌や妊娠・出産・子育てに関する話題にも、トンデモ知識が溢れている。知り合いの医師も、ネット上での知識を患者が頑なに信じすぎていて、「知恵袋ではこう書いてあります」と言って聞かないと愚痴っていた。

結局、ウェブ2.0は実現したのだろうか。少なくとも『ウェブ進化論』を書いた梅田望夫自身は、その夢をあきらめてしまったようだ。彼は2008年、自身のブログで水村美笛の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を好意的に紹介したが、それに批判的な意見が殺到した。さらに梅田が役員を務める企業のサービス『はてなブックマーク』も、彼への批判で溢れた。これに対して梅田は、「はてブのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」とツイッターで発言、大炎上した。さらに2009年にはネットメディアでのインタビューで、日本語圏のネット空間が“残念”であるとコメント、再び炎上した。要は、ネットで発生してしまう“衆愚”の問題に梅田は耐えきれなくなってしまったのだろう。

中川淳一郎が断じるように、インターネットが普及しすぎた結果、“ウェブはバカと暇人のもの”になってしまったようだ。確かに中川の論じるように、ネット上には読解力がなく、ジョークも通じない“暇人”が多いように思う。この1ヵ月で3回くらい炎上した僕も、どうしても中川説に賛同したくなってしまう。しかし、『ウェブ進化論』ではすでに、衆愚の問題についても論じられていた。たとえネットに溢れる情報が玉石混淆でもいい。それを個人に合わせてカスタマイズしてくれる『自動秩序形成システム』に、梅田は期待をかけていた。実は同じような議論は最近でも続いている。要は、技術の力でネット空間がよりよいものになるはずという楽観論である。現在、ネット空間は、PV数(閲覧数)至上主義。だから、とにかくアクセスを稼ごうと、扇情的な見出しや、誰かを傷つけるようなコンテンツが跋扈してしまう。しかしそれはネット空間が発展途上だからと楽観論者は言う。先日収録した『ニッポンのジレンマ』という番組でも、ウェブメディアで活躍する論者たちが素敵な未来語りをしていた(放送は11月29日深夜、と一応宣伝しておく)。そのような未来が本当に実現されるのかはわからない。だが、少なくとも言えることがある。そうした“情報技術が明るい未来をもたらす”という議論は昔から繰り返されてきたということ、そして技術の力では、大して社会が変わってこなかったという残念な事実である。

『ニューメディア』『マルチメディア』『高度情報化社会』、そして『インターネット』と具体名こそ変わりながらも、何らかの新技術が新しい社会をもたらすといった情報化社会論は、この半世紀ほど形を変え流行してきた。しかし、衆愚の問題一つとってもそうで、技術の力で社会の形が大きく変わってきたようには思えない。少なくともウェブ2.0が宣言されてから10年で、日本社会は大きく変わっていない。ネット空間には“バカと暇人”が増えただけのように見える。なぜか。答えは簡単で、衆愚とは何もネット空間だけの問題ではなく、この社会が抱える問題だからである。民主主義社会とは、“みんな”の声を尊重する社会である。ヨーロッパで貴族が政治を支配していた頃、普通選挙を導入する際は、「豚のような民衆に参政権を与えて良いのか」といった批判が巻き起こった。その後、日本を含めた近代国家は普通選挙を導入し、誰もが国のトップをも目指せる民主主義社会が実現された。しかし今でも衆愚の問題は消えていない。事実、自分の想定とは違う選挙結果になった時、インテリたちは『ポピュリズム』という言葉を使って大衆を馬鹿にする。梅田の言葉を使えば、“残念”なのはネット空間ではなくて、この社会そのものなのである。確かにそれを技術の力で変えられるような未来が来るのかも知れない。だがそれはネット空間をどうこうするという話ではなく、社会を変えるという遠大な作業に他ならない。

新しい技術が社会を変えたと言われることがある。しかし、多くの場合、それは論者にとって都合の良い出来事が起こった時に、その説明材料として新メディアが持ち出されただけ、という場合が多い。記憶に新しいところだと、ツイッターなどソーシャルメディアの力で、アラブの春など民主主義革命が起こったということになっている。確かに新しい技術が、社会変革に一定の役割を果たしたことは事実だろう。しかしそれが『ツイッター』である必然性はない。たとえば1989年に起こった東欧革命の時は、衛星放送が大きな役割を果たしたという分析がされた。国境を越えて伝えられる映像の力で民衆による革命が起こったというのだ。要は、悪政や民衆の不満など様々な革命が起こる条件が重なった時に、たまたま存在した新技術が『ツイッター』だったというだけである。また、アラブの春において、より重要な影響力を持ったのはアルジャジーラだったという分析も多い。佐藤俊樹が『社会は情報化の夢を見る』(河出文庫)で述べるように、技術の中身に関わりなく、新奇なメディアはコミュニケーションを活発にする。しかし、利用者が増加し、そのメディアの新奇性が消えていけば、人はまた新しいメディアを探す。その繰り返しである。

セルカ棒が社会を変えると言っても誰も信じないだろう。しかし、『インターネット』や『ソーシャルメディア』が社会を変えると言うと、人は信じてしまう。それは『インターネット』や『ソーシャルメディア』のほうが、より未知で、より新しいものに見えるからだろう。だが、それは人々が実は『インターネット』の内実を何も理解していないことと同義である。“未知”で“新しい”ものに期待できるのは、それをよく“知らない”からである。本当は、セルカ棒にだって人々のコミュニケーションスタイルを大きく変える可能性はある。自撮り文化が世界中に浸透し、日本人のシャイな性格も変わるかもしれない。人々は羞恥心を捨て、とにかく自分たちの世界を写真に残そうとする。セルカ棒は、僕たちの性格をも変えてしまう魔法の棒なのだ。馬鹿げた妄想だろうか。しかしそれを言うなら、『インターネット』が新しい社会を作るという楽観論も同じくらい馬鹿げているのである。一番に残念なのは、『セルカ棒』でも『インターネット』でもなく、新しい技術にただ夢を託して、のんきな未来語りに一喜一憂してしまう“みんな”自身である。


古市憲寿(ふるいち・のりとし) 社会学者。1985年東京生まれ。東大大学院博士課程在籍。慶大SFC研究所上席所員(訪問)。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『誰も戦争を教えてくれなかった』『だから日本はズレている』など。


キャプチャ  2014年12月号掲載


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