東日本大震災から5年…明日への活力を生む9つのキーワード

■わすれない  ヴァイオリニスト・葉加瀬太郎氏
あの未曾有の大被害を齎した東日本大震災から5年が経とうとしています。2007年、ロンドンにも居を構え、年に4ヵ月ほど暮らしている僕は、3月11日、ロンドンにいました。朝、パソコンを開くと信じられないような光景が目に飛び込んできました。何かしなくてはいけないと焦るのですが、遠く離れた地にいる僕に一体何ができるのかわからず、もどかしい時間が過ぎました。そんな折、ツイッターでロンドンにいる日本人たちが、僕と同じようなジレンマを抱いていることを知りました。それなら心を一にする為にも、皆が集まれる場所を作ればいい。僕はヴァイオリニストだから、「ヴァイオリンを弾いてチャリティーコンサートをやることでお手伝いできるのではないか」と思ったのです。早速、懇意にしていたロンドンの百貨店の支配人に相談すると、何と1階の売場を全て開放して下さった。有難いことに、フロアーに溢れるほど多くの聴衆が集まってくれました。駐英日本大使を始め、在英日本企業の方々、イギリス人の音楽家仲間等、大勢の人たちの温かい協力のおかげで、その後1週間、何ヵ所もの場所で、何十回と手作りのチャリティーコンサートを催すことができました。帰国後、コンサートツアー等で被災地に何回も足を運びましたが、復興できていない場所が一杯あります。「まだまだ時間がかかる」と感じました。僕たちにできるのは、この震災を何度も思い返し、忘れないことです。たとえ微力でも伝え続けていくことが大切だと思います。今、僕のコンサートでは、来て頂いたお客さまに向日葵の種を差し上げています。僕にとって向日葵は幸福の象徴です。実は、震災当時放送されていたNHK朝の連続テレビ小説のテーマ曲が、僕が作った『ひまわり』だったのです。震災後約1週間放送が中断され、再開された時、被災地から「この曲がまたテレビから流れてきて元気を貰いました」とのお便りを沢山戴きました。それを読んで、この曲は、震災が起きる前の“何でもない日常の象徴”のような曲だと思いました。その時以来、僕の中で『ひまわり』は震災復興の応援歌となって、“あの日を忘れない為の曲”として、コンサートで必ず演奏していこうと決めました。これからも僕が必要とされるところに行って、音楽を奏でるのが僕の使命です。3月11日には単身ロンドンで、3月30日には岩手県で志を同じくする仲間とコンサートを開きますが、勿論『ひまわり』は演奏します。

■信頼感  漫画家・柴門ふみ氏
母方の実家は商売をしていたのですが、“けちの細井”と言われるほど倹しくて有名な家。私が育った家にも贅沢なものは無く、「高いものは駄目」と言われて育ちました。ただ、「本だけは幾ら買ってもいい」という教育方針でした。両親が本好きだったからですが、その薫陶を受けた私は、子供たちには「本と文房具だけは幾らでも買ってあげる」と言っていました。我が家は漫画家夫婦なので(ご主人は弘兼憲史氏)派手に思われがちですが、子供たちには「うちは普通の家よ」と言っていて、お小遣いは決まった額だけ。「本と文房具以外のゲーム等は、お小遣いやお年玉をやり繰りして自分で買いなさい」という方針でした。ところが、うちの子供たちは私以上にけちけちしていて、息子など私がお弁当をお休みした日にお昼代としてあげていた500円で100円のカップラーメンを買って食べ、残りの400円を貯めてゲームを買うなんてことをしていたらしいんです。そうやってやり繰りを覚えた子供たちは、娘も息子も実に堅実で、2人ともしっかり貯金しています。近く息子が結婚しますが、結婚費用は全額自分で賄うそうで、親に頼る様子は全くありません。お金の使い方を子供に教えたことは無いんですが、我が家は海外旅行もエコノミーでしたし(夫だけはビジネスでしたが)、息子など、アパート暮らしを始めた時の家電は全部インターネットで調べて底値で買うという徹底ぶりでした。ただ、最初の銀行体験は敷居が高かったようです。息子が浪人した時、予備校の授業料の振り込みで初めて銀行の窓口を利用したのですが、銀行の前で長い時間逡巡しているのを私のママ友に目撃されています。その迷いを乗り越えて、息子は大人への階段を上ったのかもしれません。振り返れば、我が“けちの細井”家は、祖父が中々の人物でした。元々醤油屋だったのを、祖父の祖父が反物を仕入れて呉服屋も始めたのですが、祖父が昭和初期に縫製工場に商売替えし、作業着や学生服を扱うようになるんです。そのうち紡績事業にも手を広げる等、時流に乗るのが実に上手かった。しかも、縫製業の組合を作る等、業界を育てる活動もしていました。祖父は、“商売は信用第一”ということがわかっていたんですね。細井家の事業は最早残っていないのですが、私自身は堅実な息子のおかげで、山形県出身のいいお嬢さんを家族に迎えることができ、初めての北国のお嫁さんと、山形の美味しいお米や果物にわくわくしています。




■大切な人を想う  作家・吉本ばなな氏
生きていると色々なことがある。毎日、予想がつかないことばかりだ。どんな時代であっても、今日という日と同じような明日がやって来ることを誰も約束してはくれない。でも、人生は概ねちゃんと繰り返しで進んでいく。そのことの奇跡を、私はいつも飴玉みたいに大切に舐めている。1日の内に大切な瞬間を2つ、自分の愛の基準として持っている。朝、夫と子供が家を出る時、玄関から顔を出して見えなくなるまで見送る。彼らが振り返った時に未だそこにいて、手を振る。洗濯物を干している途中だったり、原稿を書いていたり、犬のおしっこを拭いていたり、そんな予断を許さないような状況であっても、そうするようにしている。たとえ口を利きたくなくなるような喧嘩をしている時でも、全く声をかけないということはない。その風景の小さな積み重ねが軈て大きな愛の塊として、家族をこの世の混沌からふと守ってくれるような気がするからだ。夜、寝る時にも同じように思う。いつもとおりに寝室に横たわる時、たとえ彼らが(同じ部屋に寝ている犬や猫や亀たちさえも)もうすっかり眠っていても、私は其々の顔を見て「おやすみ」と小さく声をかける。自分がへとへとでも、機嫌が悪くても、嫌なことがあって何もしたくない日でも、思わずそうしてしまう。こんな風にありふれた平凡な夜が今日も訪れたことに感謝せずにはいられないからだ。眠る彼らの耳の中にその小さな挨拶が綺麗な音で響いて、夢の中にいい感じに届くに違いないと信じている。重く固く義務としてやっていては、意味が無いばかりか逆効果だ。心静かに、そっと、気軽に、なんてことなく。そんな羽のような気持ちは、ぎゅっと握りしめた拳や眉間に寄った皺とは、全く違う力を発揮する。これと似た気持ちを他の人にも持てるようになったら、周りの大切な人たちにも同じ力をあげられるようになる。それがもっともっと広がっていったら、この世はとても良いところになるだろう。残念ながら、急に大きく良くなることはないだろう。少しずつ、まるで戦士が剣で活路を切り開くように、進んでいくのだ。

20160418 01

■温故知新  落語家・林家正蔵氏
江戸時代、若しくはもっと以前からあると言われてにいる落語ですが、長屋の人々のちょっとした喜怒哀楽や日々の営みを摘みとって語るのが、この落語という芸。その中には日々新しい発見があって、よくよく考えてみると、家や住まいと通じるものがあるように思います。抑々、落語には台本がありません。師匠の下で口伝で以て教えて頂く。よく先人たちが仰るのは、「弟子に入ったら、先ず一言一句違わずに師匠の言葉と間を覚えろ」ということ。その基本を身に付けると、次には自分なりの個性を出そうとする。更に今度は、その個性が花開くよう試みるようになる訳です。それを“破る”と表現します。人間国宝の“目白の師匠”故・柳家小さん師匠が仰るには、“守・破・離”――守る・破る・離れる。これが大事だと。また、「腹に入れる」という表現もある。先ず言葉とか噺自体を丸ごと頭で憶えてから、言葉自体がすらすら出てくるくらいに自分のものにすることを言います。頭で言葉を追っている内はまだまだ浅い。どんな噺でも 一度腹に入れれば、その時代に生きる自分の喜怒哀楽やら料簡やらというのが自然と言葉となって出てきて、お客さまに聴いて頂けるような噺に仕上がるんです。今はどちらかというと個性的で自由奔放な芸風も流行りで、その反動もあってか、「原点に立ち返ってこそ新しいものが生まれる」という考え方が強くなってきています。とは言え、守りばかりだと今度は古めかしく凝り固まった面白みの無いものになってしまう。古今亭志ん朝師匠は、「ひとっところだけ穴を開けて風通しをよくしなさい」と仰った。穴が開くことで、その噺家さんの個性が出てくることが重要なんですね。つまり、家や住まいと一緒です。同じ間取りの家に住んでいても、誰が住んでいるかによって住んでいる人たちの暮らしは変わってきますよね。壁をとって広くする、何か新しい暖房設備を加えてみる、ちょっと窓を大きくしてみる…とか。落語も同じで、噺というものが家。誰が住むかによって、そこに繰り広げられる噺の奥行とか空間とかが違ってくる。噺という家を譲って頂くけれど、住むのは自分。自分の家。今、常に心掛けているのが、先人から伝えられる落語に、現代の語り部として自分たちの時代の息吹を込めて、お客様にお伝えすること。それに尽きます。

■イノベーション  作家・辻村深月氏
子供たちと暮らしていると、毎日が驚きと気付きの連続だ。昨日はできなかった寝返りが、今日はできるようになっている。「まー」と頼りない発音しかできなかったのが、ある日、はっきり「ママ」と言えるようになる。そんな様子を見ていると、「今は亡き祖母に、この子たちを会わせたかったな」と思う。共働きの両親に代わって面倒を見てくれた祖母が入院したのは、私が小学生の頃だ。偶に外泊許可が出て家に帰ってきても、ずっと寝ていたり、予定を繰り上げて病院に戻ってしまう。祖母と一緒に遊びたかった私は、「折角の外泊なのにもったいない」と思っていた。健康だった子供の私には、世の中には起き上がるのが辛いほどの痛みがあるということが、未だ想像すらできなかった。毎食後、薬を飲む祖母に私が無邪気に「そんなに沢山飲まなきゃいけないの?」と尋ねると、祖母が「早くよくなりたいからね」と答えていたのを覚えている。祖母が亡くなったのは、それから暫くしてからだ。卵巣癌だった。私が病名を知ったのは、亡くなった後のことだ。今、出産し、自分より小さな命と暮らしていると、「あの日、家に戻ってきた祖母は、本当はどんなに私と一緒にいたかっただろう」とふと思う。私が自分と遊びたがっていたことも、人一倍よくわかっていた筈だ。私も風邪を引いたり、体調を崩すと薬を飲む。「早くよくなりますように」と祈るのは、「苦しいから」という理由だけではなくて、「早くよくなって、明日には子供たちと一緒にお散歩に行けますように」と願うからだ。子供たちの成長は早く、目まぐるしい。それを少しでも長く見守りたい、ずっと一緒にいたいという気持ちで、きっと、祖母も私を見ていた。人間は、そんな風に自分ではなく、誰かの為に自分の健康を願う時がある。そんな私たちの祈りや想いが、「昨日できなかったことができる未来に繋がるように」と、そう願ってやまない。

■鼓動  作家・朝井リョウ氏
高校時代はバレーボール部に所属し、レフトのアタッカーでした。決して強豪チームではありませんでしたが、3年間、気の合う仲間たちと練習していました。実は、数ヵ月前から週1日のペースで、ある社会人チームの練習にも参加しています。バレーボールには、ウォーミングアップを兼ねた基礎練習に、2人1組で行う“対人レシーブ”があります。スパイク→レシーブ→トス→スパイクを繰り返すのですが、私はボールを通じて会話でもしているようなこの練習が大好きで、ボールが人肌の様に掌に吸い付いてくるような日は好調だと自覚します。学生時代のチームメイトと東京都内の体育館に行くこともあり、その日は日中からワクワクドキドキしています。今、参加しているチームには、明るく前向きで、声出しを厭わないチームメイトがいます。その人がいるだけでコートの空気は明るくなるし、ミスが出たとしてもムードは悪くなりません。彼の姿勢には、人間としての器の大きさを感じます。バレーボールは特に、人間力が出るスポーツだと思います。小説家とかそういう肩書きを抜きにした時、自分がどういう人間なのかということをプレーする度に思い知らされます。バレーボールを題材に青春小説を書こうと、今年は春の高校バレーをよく観戦しました。無名だった選手が一戦毎に成長していく姿や、今後、世界的なプレーヤーになる可能性を秘めた若い選手たちが必死にボールを追いかけている姿からは、未来への足音、鼓動が着実に聞こえてきた気がします。そう思うと、会場が大きな宝箱に思えて胸が一杯になりました。それが昂じてつい、決勝戦後の記者会見場にも入れて頂いたほどです。観戦中、セッターが難しいコースにトスを上げ、それをアタッカーが綺麗に打つシーンに遭遇することがあります。私も経験者だけに、ほんの数秒に凝縮された2人のこれまでの努力にぐっと胸を掴まれる思いがする。その上でドキュメンタリーを見たり、資料を渉猟していると、これまで想像もしなかった視点の扉がどんどん開いてきます。素敵な物語が紡げそうな鼓動を感じています。

20160418 02

■共存  社会学者・古市憲寿氏
少子化問題が以前から議論されています。日本は、この20年間で20代が600万人も減っていて、このまま減り続けると、これまで日本が作ってきた社会のシステムそのものが成り立たなくなってしまいます。だから、少子化対策は大切ですし、その為の育児休暇や保育園の確保等、制度や設備を整えていく必要があります。しかも、男女問わずに子育てに参加できるようにすることが大事です。僕自身は『保育園義務教育化』(小学館)等の著書を通じて、若い世代の人口比率を増やしていくことの大切さを伝えている訳ですが、それで感じるのは、「日本はどんどん不寛容な社会になっていっているな」ということなんです。こういう話をすると、「子供がいる人だけを優遇するのはおかしい」という意見が出てくる時があります。「子供を産めない人たちの気持ちを考えたことがあ るのか」とか。でも、本当にそうでしょうか? 子供が増えることで恩恵を受けるのは、親だけではなく、我々も含めた社会全体なんですよね。決して、「誰かだけが得する」ということにはならないと思うんです。逆に、つい最近、大物女優の「子供を産まない人生を後悔していない」という発言に対して、「産めなかった負け惜しみでしかない」という感想を言っている人もいました。つまり、何をやっても必ず批判する人はいるんですよね。そう考えると、立場が違う人たちにとっての“共存”って何なのでしょうね。お互いの違いを話し合いを通じて理解しようということを、小学校の道徳の授業等で教わりましたし、それが“共存”だと思っている人も多いのかもしれませんが、僕は「お互い干渉しない」ということが大事なのかなと思います。つまり、立場が違う人を尊重し、干渉し過ぎないという態度です。今、いい時代だなと思うのは、その気になればどこにいても何をしていても生きていけますよね。昔は相互監視社会だったし、一度会社に入ったら定年まで勤めるのが当然でした。そういう時代に生きていたら、“話し合い”って大事だと思うのですが、今は物理的に距離を置くという選択肢もある訳です。喫煙者と非喫煙者の関係で言えば、「吸わない人への迷惑をかけない」というマナーを守ることが大事で、後は自由に楽しめる訳です。昔の映画を見ていると、大人の男性の多くが色々な場所で喫煙しているシーンが目立ちますよね。最近の喫煙者は、マナーは格段に向上しています。お互いが気持ちよく“共存”する為の心掛けができつつあるのかなと感じています。

■求心力  『神戸製鋼コベルコスティーラーズ』GM・平尾誠二氏
これは、私の伏見工業高校ラグビー部時代の体験です。ある日、2~3時間延々と正座でお説教を食らい、10分後に練習開始となった。もうへロへロですよね。当然、スピードなんか出る訳がない。ここで「何をやっているんだ!」等と言わずもがなの一喝を入れられたら猛反発するところですが、山口良治監督は偉かった。涙を流しながら、我々をじっと見守っていましたから…。まぁ、練習なんて凡そ理不尽なもの。上級生が絶対の体育会系の世界は理不尽の縮図です。私のこれまでの人生は、理不尽との闘いでもありました。ただ、50を過ぎて、最近はふと疑問を感じるのです。「理不尽を排除したら、この世の中、もっと良くなるだろうか? 抑々、理不尽と闘って鍛えられたからこそ、今の自分があるんじゃないのか?」と。嘗てスポーツの世界では、女子バレーボールの大松博文監督流のスパルタ方式が全盛だった。短期間で一定の成果を出すには有効でした。しかしその後、「選手の自主性を尊重すべきだ」ということでスパルタは全否定された。ただ、自主性と言うと聞こえはいいですが、私に言わせてもらえば“サボる”“楽をする”いい口実になり得るのです。自主性に甘んじ、堕落しただけでなく、選手と監督の関係も馴れ合いに陥り、一頃の日本選手はメンタルの甘さ・勝負弱さから抜け切れなかったものです。最近、世界ランキング10位以内で活躍する日本選手が実に増えました。スパルタの効用を否定せず、更に選手個人の自主性と創意工夫がバランス良く組み合わさったからです。そこには、選手を理不尽から避けようとさせず、寧ろ「真っ向から闘わせよう」とする指導者の姿勢が窺えますね。リーダーには、その分野の専門性・尊敬される人間性・言動がブレない一貫性が求められ、更に今の時代、これらを統合した“求心力”をキーワードとして掲げたい。明確なビジョンを提示し、それを組織全体に徹底させ、尚且つ個人の自主性も尊重し、自分は方向性がずれぬよう見守る。“求心力”で組織の一体感を高めるのが、現代のリーダーの在り方です。

■安心感  作家・逢坂剛氏
これからの世の中、老後も安心して暮らせるような便利な道具なら、どんどん開発してほしいと思いますね。漕ぐだけで充電できる自転車とか、単語をなぞるだけで画面に呼び出せる電子辞書とか。今の技術なら難しくないでしょう。コンピュータやスマホ等の進歩は善し悪しですね。少なくとも、20歳以前の人たち、脳が成長過程の小学生や中学生には与えなくてもいい。人間がやるべきことを機械に代わりにやらせるようになると、脳の発達が阻害されるように思います。電卓なんかも便利過ぎます。計算や調べ物で楽をさせてはいけないんです。尤も、僕のような年寄りは別ですよ。我々は残された時間が少ないんですから。でも、若い人はいけません。若い頃から便利な道具を使って楽をすると、人間としての大事な能力が衰えてしまう気がします。周りが見えていないとか、コミュニケーション能力が欠落しているとか、そういうことになるのではないか。いや、もうその兆候は現れているように思えます。僕は、「優先席のスマホとお化粧は止めてもらいたい」と願っている1人ですが、彼らの様子を見ると、そこが優先席であることや、隣の人が不快であるということがわかっていないんですね。「ここでそういうことをしてはいけませんよ!」と面と向かって叱る勇気ある年配の女性が時々いますが、そういうと時も「え?」という反応で、何のことかわからなかったりする。我々昭和の世代が死に絶えた後に人類はどうなっていくのか、それが今のSFの重要なテーマと言われています。知能がどんどん発達する代わりに、感情を失っていくのではないか。益々キレ易くなったり、相手の気持ちがわからなくなるのではないか。既にコンピュータ社会の現象としては明らかなことなので、文学というより哲学・心理学・社会学のテーマなのかもしれないですね。手足の代わりを機械がするようになると運動能力が退化して、人間は、ただ呼吸する物体になってしまうのではないか…とかね。僕は、人間にとって食事は大変重要なものなので、それが丸薬のようなもので済まされないことを願いますが、排泄についてもできる限り自立していたいですね。食べることと出すこと、食事と排泄は人類にとって最後の砦と言いますか、特に排泄は「自分が人間だったんだな」と自覚する手立てなんです。僕は、人間らしい排泄を手助けしてくれる道具なら、大いに歓迎したいですね。


キャプチャ  2016年3月17日号掲載




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