【悪夢の21世紀】(06) ネットに頭を預けた人間たち

自分が電話番号をいくつ記憶しているのか、最近、たしかめてみたことがおありだろうか。私は、やってみた。その結果、7つしか覚えていないことがわかった。正確に申告するなら、一心に記憶をたぐっている過程で、その7件以外に、はるか昔、しばしばダイヤル(そう。ダイヤルだよ)していた、もう誰も受話器を取ることのない淋しい番号をいくつか記憶していることが判明して、わがごとながら、自分の執念深さに呆れたのだが、ともあれ、通話可能な有効な番号は7個しか出てこなかった。おどろくべき退化だ。昔は、50個は覚えていた。いや、実際に20代の頃、記憶している電話番号を紙に書き出してみたことがあるのだ。私は、そういうことが得意だった。その丸暗記芸が自慢だったオダジマが、7件の番号しか記憶していないのだ。

無論、トシのせいということはある。が、私が電話番号を記憶できなくなった理由の大半は、そもそも記憶する必要がなくなったからだ。いまは、スマホの画面に出てくる通話履歴か、電話帳の名前をタッチすれば、それだけで電話がかかる。であれば、わざわざ番号を覚える必要はない。あたりまえの話だ。今回、私がお話ししようとしているのは、この“使わない機能は退化する”というわれわれの脳みその性質のうちの、危機的な側面についてだ。




30歳より年齢が下の人たちは、そもそも電話番号を記憶する習慣を持ったことがないかもしれない。それゆえ、彼らは、もしかしたら、ひとつも電話番号を覚えていない。私自身も、この先、いま覚えている7つの番号を順次忘れながら、来世に旅立つ瞬間には、たぶん、ひとつも覚えていないことだろう。それで不都合はない。カマドで飯を炊く方法を忘れても、日々の暮らしはなんとか流れてきたのだし、人類の大半が、棒と板で火を熾す技術を失っても、私たちは、何の不都合もなく生きている。そういう意味からすれば、電話番号を暗記する能力が衰退したところで、誰が困るわけでもないし、何が滞るということもないのであろう。が、この先われわれの脳が“あえて記憶しない”対象が、電話番号だけでなく、“あらゆるデータ”に及んで行くのだとすると、そのことは、必ずや、一定の副作用をもたらさずにはおかないはずだ。

学生の頃に読んだ『無文字社会の歴史』(川田順造・1976年・岩波書店刊)という本の中に印象的な記述があった。文字という記録手段を獲得する以前、われら人類は、血族の記録や、祭祀の手順・儀礼・神話・伝説といった情報を、すべて口頭伝承していた。アフリカの一部や世界の辺境に散在する文字を持たない民族(アイヌも文字を持たなかった)は、現在でも、同じように、あらゆる伝承を、口頭の言葉や歌といった、文字を介さない手段で保存している。で、その、文字を持たない社会(無文字社会)で暮らしている人々は、われわれのような文字に頼っている“文明人”と比べて、ずっと膨大な量の言語記憶を保存できる脳を持ちこたえているというのだ。ここが大切なポイントだ。『新約聖書』の最初に出てくる「アブラハムの子がイサクで、イサクの子が何某で……」という連綿たる血縁記録の記述も、『古事記』を織りなす連綿たる文言も、それら、文字が生まれる以前から伝えられてきた記録文学は、すべて、個人の記憶の中に格納され、蓄えられ、伝えられ、受け渡された結果として現在に至っている。『風の谷のナウシカ』に出て来たおばあちゃんが、風の谷の歴史と伝説の一部始終を暗記して伝える役割を担っていたことを記憶している方もおられるだろう。無文字社会の集落には、必ず、あのおばあちゃんのような、一族の記憶をアタマの中に格納する役割の人間がいる。で、少なくともその役割を担う個人は、現代の常識では考えられない量の記憶を集積・保持しつつ、次世代に伝承する役割をこなしているのである。

言葉だけではない。たとえば、モンゴルの遊牧民は、現在でも、300頭程度までは、羊の顔を記憶・識別することができると言われている。もうひとつ大切なのは、“ツール”と“能力”の関係が、トレードオフになっているということだ。つまり、何らかの文明の利器を手に入れることは、同時に、その道具の無かった時代に持っていた能力を喪失することを意味しているのだ。自動車をわがものとした人間は、速度と移動距離を獲得する。さらに、より広い世界の見聞や、物資や、より多くの人々との交遊も得るかもしれない。が、その一方で、移動手段を得ることと引き換えに、彼は、生身の足で歩く歩行能力を、衰退させねばならない。もっとも、多少足腰が弱くなったところで、そんなものは微々たる犠牲だし、クルマを通して得ることになるものと比べてみれば、最終的なバランスシートは、多くの人々にとって黒字になるはずだ。

私が心配しているのは、クルマと足腰について起こっているのと同じことが、コンピュータと脳みその関係についても起こることだ。クルマに乗る人間が、移動距離と利便を得る代償として、足腰の頑健さを失うのと同じように、コンピュータに依存する人間は、膨大な情報を得ることと引き換えに、本人の脳の働きの一部を喪失するかもしれない。だとしたら、これは、非常に深刻な問題になり得る。「取り越し苦労ですよ」と、笑う声が聞こえる。おそらく、若い世代の多くは、私が心配している可能性について、ほとんどまったく注意を払っていない。「電話番号と同じことですよね?」「つまり、覚える必要がなくなったから覚えないってだけの話でしょ?」「むしろ、電話番号に記憶容量を使わない分、別のもっと創造的なことにアタマを使える気がしますよ」「知識にしたって、必ずしも自分のアタマの中に置いとかなくても、必要な時に取り出せれば問題ないわけでしょ」。まあ、大方のところは君たちの言うとおりだ。事実、10年ほど前によく言われた、「ワープロを使っていると漢字を忘れる」というお話も、一時期懸念されていたほど深刻な文化破壊を引き起こしているわけではない。画数の多い文字を“書く”能力は間違いなく落ちている。が、その一方で、難読漢字を“読みくだす”能力は、おそらく、わずかながら向上している。それ以上に、多くの人々が日常的にメールやSNSを通じて文字ベースのやりとりをするようになったことで、日本人の基礎的な文章力は向上している。ということは、結局ワープロは、日本語にとってそんなに悪い結果をもたらしてはいないのである。まあ、異論はあるだろうが。

コンピュータならびにインターネットがもたらす“情報”に関しても、単純な“記憶”の領域では、いまのところ、特に大きな弊害は見当たらない。自分の頭の中にある知識と、スマホの中(実際には、スマホ経由で接続可能な、インターネット上)の情報の間には、数秒の“時差”しか無い。たとえば、私は、『石川さゆり』という歌手を知っている。彼女のヒット曲を何曲か列挙することもできる。『津軽海峡冬景色』あたりは、冒頭から最後まで歌ってみせることさえできる。一方、青年Aは石川さゆりについて何も知らない。が、そんな彼であっても、手の中にあるスマホなり、目の前のパソコンなりに“いしかわさゆり”と入力して検索ボタンを押せば、3秒後には、彼女の全ディスコグラフィーを頭から順に並べ立ててみせることができる。と、事実上、知識において、オダジマと青年Aの間には、明瞭な差は無いということになってしまう。ほかのすべてのことについても同様だ。対象がカール・マルクスであれ、クリスティアーノ・ロナウドであれ山上憶良であれ、グーグルはすべての質問に答えてくれる。ウィキペディアはなんでも教えてくれる。さすがに私の高校時代の担任教師については情報ゼロだが、そんな知識は、ほとんどすべての人間にとって無意味だというだけの話だ。いずれにせよ、われわれはすでに万人が図書館を丸ごと背負って歩いているみたいな情報世界で生きている。とすれば、5秒で調べがつくことを、あえて自分のアタマに格納しておかなければならない理由は無いのだろう。ただ、これは、私自身、最近気づいたことなのだが、真に懸念せねばならないのは、記憶力の減退ではなくて、思考力の減退なのだ。というのも、“記憶”をアウトソーシングすると“思考”が空洞化してしまうからだ。

どういうことなのか説明する。記憶の問題は、比較的単純だ。私たちが電話番号を覚えなくなったのは、単に覚える必要がなくなったからで、私たちの記憶力そのものが低下したということとは意味が違う。電話番号以外の、さまざまな“昔だったら暗記していたはずのこと”を、コンピュータの中のデータベースや、クラウド上の“集合知”に載せ替えたのだとしても、そのこと自体は問題無い。情報は、そうした“アウターブレイン”(←“外部脳”ですかね)にアウトソーシングすることにして、必要な時にだけ、随時アクセスするカタチで“知識”を運用すれば良い。しかしながら、“記憶”は、実は“思考”の礎石だ。のみならずそれは、イマジネーションの足場であり、創造のための欠くことのできない経路でもある。さきほどの石川さゆりの例で考えてみよう。私と青年Aの“知識”は、どっちみち最終的にはウィキペディアに頼るのだからして、事実上、大差無い。が、原稿を書けということになると、これは私の勝ちだ。誰も、知らないことについてオリジナルな原稿を書くことはできない。青年Aの原稿は、つまるところ、ウィキペディアの外には出られない。体裁を整えて、コピペを回避することができるのだとしても、内容的には丸写しだ。私の原稿は、私にしか書けないものだ。失業時代に付き合っていた彼女が石川さゆりのファンだった話を書いてもいいし、石川さゆりが一時期結婚していたカメラマンについての後日談を書いても良い。ネタはたっぷりある。しかも、どれも、私にしか書けないオリジナルのネタだ。

私自身、原稿を書く仕事をしていて、ウィキペディアの便利さにはいつも感激しているし、ネット経由の情報には常々お世話になっている。が、同時に、恐ろしさも感じている。というのも、うっかり検索すると、ウィキペディアに原稿を“書かされる”羽目に陥りかねないからだ。石川さゆりについて、私は、さして詳しい情報を持っているわけではない。いくつかの個人的な思い出と、あとは、ありふれたヒットチャート由来の記憶が明滅しているばかりだ。ここで、いきなりウィキペディアを見てしまうと、それまで知らなかった大量の新情報に出くわすことになる。で、「おお、熊本生まれだったのか」「なんと堀越高校だったとは」「“伊豆の踊子”に出演していたのか」などと、いちいち感心しつつ、この時点で原稿を書き始めてしまうと、最終的に出来上がってくるテキストは、“ウィキペディア情報をベースにした感想文”ぐらいなところに着地する。これは大変にまずい。なんとなれば、その原稿は、本質的にウィキペディアを焼き直しただけの、何のオリジナリティもない、まるっきりの小保方仕事だからだ。

昨今、ウェブメディアの画面をスクロールしているテキストの中には、かなりのパーセンテージで、この種のウィキペディア翻案原稿が含まれている。5行から10行そっくりそのままコピペしてある例も珍しくない。20年前だったら、石川さゆりの名前を知らない人間が石川さゆりの原稿を書くことは原則的に不可能だった。当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、現在は、ここのところの前提が、違ってしまっている。2014年現在の情報環境は、石川さゆりについて何も知らないライターが石川さゆり論を書くことを、可能ならしめる基礎を提供してくれている。そこそこの文章力と、一人前の検索力と、ひと通りの業界遊泳技術を備えていれば、誰であれ、5枚や6枚の石川さゆり論を書くことはできる。これは、本当のことだ。ウィキペディアとは別に、ファンクラブの掲示板や音楽ライターのブログを渉猟すれば、オリジナルに見せかけることだって不可能ではないかもしれない。

話題がズレている。私は“パクリ”や“コピペ”の話をしたいのではない。私が先ほど来、ぜひとも訴えたいと考えているのは、外部の情報をベースに原稿を書くことの恐ろしさについてだ。知識や情報を外部化(具体的には“記憶しないで検索する”こと)することそのものは、一般人が扱う情報量が飛躍的に増加している事情からして、不可避的な流れだし、利用の仕方さえ間違えなければ、たいした問題ではない。が、外部の情報をベースにものを考えることは思考の空洞化にほかならない。また、外部化した情報を材料に原稿を書くことは、情報の移動に過ぎない。にもかかわらず、その、ただの焼き直しに過ぎないテキストが、一見、マトモな原稿に見えてしまう。ということはつまり、知識の外部化は、書き手を退廃させるのみならず、世に流れるあらゆるテキストの小保方化を招来するのである。本来は、「逸ノ城って習近平に似てね?」という最も単純な類似ですら、自分のアタマの中に記憶が無いと発見できない。逸ノ城の顔と、習近平の顔が両方ともアタマの中に画像として刻み込まれている人間でないと、決してこのネタにたどりつくことは不可能だからだ。もう少し複雑な例で言えば、第1次世界大戦前のバルカン情勢と21世紀のシリア情勢を比較して論じる場合、その2つの時代の2つの地域について、相応の知識と歴史的視座が、あらかじめ書き手のアタマの中に入っていないと思考そのものが動き出さない。当然だ。

もうひとつ注意せねばならないのは、クリックひとつで簡単にアクセスできる知識の中には、危険なプロパガンダが含まれているということだ。一例をあげれば、『在日特権』についてのウィキペディアの項目は、現在、事実上使い物にならない。理由は、左右両派による“編集合戦”が展開されていて、フラットな“解説”として使えないからだ。“編集合戦”について説明する。ウィキペディアは、原則として誰でも編集可能な公開辞書だ。志あるネット市民が不断に追記と洗練を加えて行くことで、より安全な“集合知”に近似させることがその創立の哲学だと言っても良い。この原則は、しかし、政治的あるいは商業的な意図を持った編集者の介入を排除できない。それゆえ、項目によっては、偏向した情報を書き込む書き手同士が、互いの書き込みを無効化し、自分の側の主張を盛り込むべく、いたちごっこを繰り返す舞台になってしまう。また、必ずしも政治的に偏向していなくても、学説として偏頗だったり、そもそも誤記だらけだったりということもある。

が、いまやウィキペディアに書かれたことは、多少間違っていても“事実”として認定されてしまう。グーグルの検索結果も、アマゾンの順位も、モノによっては微妙に商業利権に毒され、政治的に偏向し、あるいはまったく事実に反していたりする。それでも、われわれは、もはやクラウド上の知識無しには生きられない。早い話、私自身が、何かの拍子に半日かそこらパソコンから隔離されると、おしゃぶりを奪われた乳幼児もかくやの強烈な分離不安に襲われる。私より若い世代の論客はもっと酷い。彼らは、テレビの生放送のスタジオに入る時も、打ち合わせの喫茶店でも、どんな場面であれ、決してノートパソコンの画面から離れない。まるで、自我そのものが、パソコン(つまりアウターブレイン)込みで成立しているみたいだ。ということは、この先、コンピュータがさらに小型高性能化して、『ウェアラブル』(メガネやイヤホンのように“身に付ける”タイプ)になり、やがて『インプラント』(義歯やコンタクトレンズのように人体に直接“埋め込む”タイプ)になった暁には、われわれは、サイボーグになっている。いや、サイボーグになるのはかまわないのだが、その時に、思考なり自我なりの主体が、人間ではなくて、コンピュータ側に移っている気がして、私はそれがコワいのである。

考え過ぎだと? あんたたちこそ、考えを機械まかせにし過ぎだと思うぞ。 =おわり


小田嶋隆(おだじま・たかし) コラムニスト・テクニカルライター。1956年東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒。食品メーカーの営業マンを経て、テクニカルライターの草分けに。著書に『地雷を踏む勇気』『小田嶋隆のコラム道』『ポエムに万歳!』等。


キャプチャ  2014年12月号掲載


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