フィリピンBC級戦犯“最後の証言者”――天皇・皇后両陛下ご訪問の地で起きた“戦後の悲劇”

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天皇・皇后両陛下がフィリピンに行幸啓された。昨年のパラオに続く“慰霊の旅”である。先の大戦時、激戦地となったフィリピンには、日本人が忘れてはいけない史実が多く横たわる。マニラから南へ30kmほど、モンテンルパの丘に広がるその建物は、正式名称を『ニュービリビッド刑務所』という。しかし、日本の近代史においては“モンテンルパ刑務所”の名で語り継がれる。現在も国立の刑務所として機能を果たしているその施設から、『トライシクル』と呼ばれるバイクタクシーに乗って、近隣の日本人墓地へと向かった。嘗て“BC級戦犯”として裁かれた殉難者たちが埋葬された場所である。粛然とした雰囲気に包まれる敷地内には、平和観音像や平和記念塔の他、日比両国戦没英霊供養塔等が立ち並んでいた。観音像の仏前には折り鶴や生花が手向けられており、その脇には“友よ安らかにお眠り下さい”と彫られた墓石も見える。だが、刑務所の所員の話では、日本からの来訪者は減少の一途を辿っているという。薄れゆく戦犯裁判の記憶。しかし、私は今回、「モンテンルパからの帰還者が京都に生存している」という情報を得て、お話を伺うことができた。「モンテンルパの仲間で今も存命の方を1人だけ知っていますが、充分に会話ができるような身体の状態ではないと聞いています。ですから、恐らく私が最後の証言者になると思います」。宮本正二さん(94)は1921年5月22日、京都府与謝郡の加悦町(現在の与謝野町)にて農家の次男として生を受けた。加悦尋常高等小学校を卒業した後、宮本さんは京都市内の繊維関係の店に丁稚奉公に出た。宮本さんの故郷である加悦町は、古くから『丹後ちりめん』で有名な地である。1942年1月10日に入営。無事に初年兵生活を終えると、第16師団歩兵第20連隊の一兵卒として、フィリピンへの出征を命じられた。5月3日、リンガエン湾から上陸。その後、マニラ等を経て、連隊本部のあるルセナという街まで移動した。ルセナに駐屯中、宮本さんは憲兵試験を受けることになった。志願ではなく、上官からの勧めで受験した。「当時の憲兵試験と言えば、凄く人気がありました。志願者は、試験対策の本を何冊も読んで勉強していました。しかし、私は志願した訳でもなかったので、大した準備もしないまま受験しました。確か、『フィリピンにある島の名前を知っているだけ書け』といった問題が出たように記憶しています」。宮本さんは「受かる訳がない」と思っていたが、試験から1週間ほど経ったある日、上官から合格を告げられた。

合格者はマニラの憲兵学校に入校。憲法・刑法・民法といった法律の他、英語やスペイン語等の語学の授業も行われた。宮本さんは、現地のタガログ語を専攻した。憲兵隊の本部は、スペイン統治時代の城壁に囲まれたイントラムロスという地域内に建つサンチャゴ要塞に設けられていた。同校卒業後、宮本さんはマニラ南憲兵分隊に配属された。「私は学校を出たての下っ端でしたが、軍服ではなく私服を着てマニラの街を歩き、フィリピン人の反日ゲリラや、米比軍等に関する情報を集めました。その他、通貨の安定を図る為、民間人の“ドル売買”の取り締まり等も行いました」。だが、宮本さんは程無くして、語学を改めて学び直す“語学専修生”に選ばれた。宮本さんはマニラ南憲兵分隊から離れ、憲兵学校へと戻った。この時期に、宮本さんは1つの驚くべき噂を耳にした。戦友から「お前のところ、大変なことをやったらしいな」と言われたのである。「何の話だ?」「200人ほど殺したらしいじゃないか」「そんなことないだろう」。宮本さんは苦笑を以て、そう答えたという。数日後、宮本さんは憲兵隊本部へ行った際、事情を訊ねた。聞けば、地下牢に想定以上のフィリピン人を収容していたが、そこで大量の餓死者が発生したのだという。食糧は鉄格子付近にいる者に手渡していたが、それが奥にいる収監者たちにまで届かなかったという話だった。サンチャゴ要塞では厳しい拷問等も行われ、多数のフィリピン人が犠牲になったとされる。サンチャゴ要塞は、フィリピン人にとって“怨み”の対象地となった。1944年の年末、宮本さんは語学専修生の課程を了し、マニラ南憲兵分隊に復帰したが、直ぐさまルソン島の北方へ部隊ごと移動することとなった。1945年1月、アメリカ軍の反攻が始まった。2月にはマニラで激しい市街戦が勃発。民間人を含む多くの死傷者が出た。その頃、宮本さんの所属部隊は未だ行軍中だった。アメリカ軍機からの襲撃も頻繁にあったが、部隊はマニラから250kmほど離れたバギオまで逃避行を続けた。その後、更に北の密林の中に落ち延びた。食糧も尽きた為、住民が逃げた後の芋畑で命を繋いだ。新たな芋畑を見つける為に山中を歩き回ったが、前進し過ぎるとアメリカ軍の猛攻に晒された。そんなある日、芋細に多くのビラが撤かれていた。「戦争は終わった」という意味のことが記されていた。「最初は信じなかったんですがね。その内に、上官から正式に敗戦という事実を知らされました」




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だが、宮本さんの戦いは終わらなかった。以降、宮本さんの長きに亘る収容所生活が始まったのである。北サンフェルナンドの収容所を皮切りに、何ヵ所もの施設を転々とした。1946年には、フィリピンがアメリカから独立。日本人捕虜の管轄もフィリピン政府へと引き継がれたが、宮本さんの収容所生活はその後も続いた。終戦3年目の1948年6月、宮本さんはマニラの裁判所から突然の呼び出しを受けた。“戦犯”として起訴されたのである。宮本さんが当時の心境を語る。「実は、あまり驚くようなことも無かったんですよ。周囲にそういう仲間が大勢いましたから。その時は、そこまで重大な裁判になるとは思っていなかったのです」。宮本さんの裁判は、翌7月から始まった。収容所と裁判所をバスで往復する日々が始まった。起訴内容は、極めて意外なものであった。「マニラ近郊のアンティポロという町で、11人ものフィリピン人を不法に殺害した」という容疑だった。“現地住民を虐殺した実行者”として、所謂“C級戦犯”の容疑者とされたのである。「憲兵隊に入る前の新兵の頃、確かにアンティポロに駐留したことはありました。しかし、全く身に覚えが無いことでした」。当然、宮本さんは無罪を主張した。「自分の知らないことですからね。何か、他人の話を聞いているような感覚でした」。起訴状には、その事件が起きた時期として「昭和17年(註・1942年)9月或いは其頃」と記されていた。しかし、実際の宮本さんは、その時分には既にルセナへと移動していた。アンティポロに駐留していた『垣六五五五部隊岡田隊』から、ルセナの連隊本部へと移っていたのである。裁判の当初、弁護士は日本人だったが、言葉の問題等を理由に途中からフィリピン人に代えられた。「その弁護士も法廷ではそれなりにやってくれますが、休憩時間になると検事と一緒に肩を叩き合ったりして、楽しげに話している。皆、仲間なんですよ。真面目な裁判とは言えなかったでしょうね」。検察側の証人には、宮本さんがアンティポロで何度も食べ物をあげていた少年もいた。日本軍の残飯漁りによく来ていた少年だった。検察側は少年に証言を求めた。しかし、少年の証言は、「処刑の現場は見ていない。見ようと思って処刑場まで行こうとしたが、日本兵に途中で『帰れ』と追い返されたので、実際には見ていない」というものだった。

その後、宮本さんに対して「この男がフィリピン人を殺したのを見た」と証言したのは、1人の老人であった。「近くに住んでいたというおじいさんでした。結局、その証言がそのまま採用されてしまったのです」。8月13日、宮本さんは“デス・バイ・ハンギング(絞首刑)”の判決を受けた。「諦めと言いますか、最早衝撃もあまり感じませんでした。良く言えば“大悟”“諦観”といったところでしょうか」。こうして、宮本さんはモンテンルパ刑務所に移送された。死刑囚房には3名ずつ収容された。収監者たちは、先ずリーダーを決めた。刑務所側との交渉の為、英語が上手な者が選ばれた。「京都大学を出た元海軍予備学生の椿孝雄という方がリーダーになりました。私は彼のアシスタントとして同部屋になったのですが、この部屋は錠も無くてオープンでした」。所長はアルフレド・ブニエという名のフィリピン人だった。「温厚な人でした。刑務所では断水することが度々あったのですが、日本人のところには態々自宅の水を持ってきてくれるような人でした。日本人に対して、とても理解がありました」。だが、1948年の内に3名の死刑が執行された。8月13日、元陸軍大尉の工藤忠四郎は、モンテンルパ刑務所で最初に命を奪われた日本人となった。続いて11月9日、寺本徳次と中野静夫の2人に刑が執行されることとなった。「寺本さんとは同じ監房だった時期もありました。中野さんは憲兵隊の上官だった人です。フィリピンで“憲兵の中野中尉”と言えば、やり手で有名でした。そんな中野さんが刑場へ連れて行かれる際、鉄格子の前に立って私の名前を呼び、『おい、これから行くぞ。お前、しっかりせいよ』と言ったんです。中野さんは最後まで恬淡としていました。私はその時、何と声を掛けたらいいのかわかりませんでした。結局、『そうですか』と言っただけ。その時、『日本語というのは言葉が少ないな』と思いました」。その後、宮本さんは心の安らぎを求めて、カトリックの洗礼を受けた。1949年11月、新たな教誨師として加賀尾秀忍がモンテンルパの地を踏んだ。真言宗宝蔵院の住職だった加賀尾はこの時、48歳。後に“モンテンルパの父”と呼ばれるこの加賀尾の奔走によって、収監者たちを巡る状況は次第に潮目を変えていく。加賀尾は、幅広い助命嘆願運動の展開に尽力した。終戦から5年が経った1950年の時点で、モンテンルパ刑務所には死刑囚の他、有期・無期刑囚合わせて140人以上もの元日本兵が収監されていたという。

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1950年の大晦日には、演芸大会が催された。「私はやるほうではなく見るほうでした。歌や踊り、芝居もありましたね。根本なんかが気張ってやっていたなぁ」。“根本”というのは、根本武二という元1等兵のことを指している。最後の死刑執行から、既に2年以上もの月日が流れていた。日本とフィリピンの国交は未だ回復していなかったが、国際的には戦後処理を巡る講和条約の締結に向けた交渉が進展しており、刑務所内には一種の弛緩した雰囲気さえ漂うようになっていた。そんな中で迎えた1951年1月19日、14名の死刑囚が夕食後に呼び出された。当時の刑務所内では“減刑”の噂も立っており、周囲は「減刑か、帰国だ」と俄かに沸き立った。14名の内の13名は、“中村ケース”と呼ばれるセブ島での村人殺害事件の犯人とされた者たちだった。しかし、その内の少なくとも6名はセブ島に行ったこともない兵士たちであり、冤罪の可能性が強く疑われていた。宮本さんの名前は呼ばれなかったが、同部屋だった三木巌は死刑囚房から期待と共に出て行った。「『減刑だ』という声が上がったのですが、私の中では『執行ではないか』という不安も少しありました。兎に角、心配で朝まで眠れなかったのをよく覚えています」。明け方、加賀尾が疲れ切った様子で戻ってきた。そして、その夜の一部始終を話してくれた。それは、14名がそのまま処刑されてしまったという事実だった。ある者は「天皇陛下万歳」と叫び、またある者は「死にたくない」と絶叫して、刑場の露と消えていったという。宮本さんが獄中で、この日に綴った日記が残っている。その色褪せた紙には、凡帳面な小さな文字で、当時の衝撃が生々しく記されている。「十四名は遂に帰らぬ客となつたと言ふ。比処にゐる七十四名中最も減刑される可能性の多かつた中村ケースが全員執行されたと言ふ事実は残余の者に対する無言の宣告にも等しい。少なくとも全然その部隊にも関係なく況してその島にも行つた事の無いと言ふ六名の人も否応なく執行されて了つた。全く法の美名の下に隠れて行はれた大虐殺と言はなければならない。約二ヶ年間全然執行もなく何かと好都合なニュースらしいものを耳にしてゐたし、又まさか中村ケースまではと誰もが思ってゐたのだが、そんな事を考へてみたのは当方だけであつた訳である」(註・句読点を補足)。以降、死刑囚たちは改めて死の影に怯えるようになった。

そんな彼らの為、加賀尾は歌を作ることを思い立った。早速、収監者たちの手によって曲作りが始まった。1952年9月、『あゝモンテンルパの夜は更けて』(作詞・代田銀太郎)のタイトルで発売されたこの曲は、日本国内で大きな話題を呼んだ。歌ったのは、人気歌手の渡辺はま子である。「モンテンルパの 夜は更けて つのる思いに やるせない 遠い故郷 しのびつつ 涙に曇る 月影に 優しい母の 夢を見る」。この歌を契機として、助命嘆願運動は一挙に拡大。同年12月には渡辺はま子がフィリピンを訪問し、モンテンルパ刑務所を訪れた。宮本さんが言う。「小さなステージを作って、花で飾りました。渡辺さんの歌を聴きながら、泣いている者も多くいました。皆で声を揃えて歌ったことを覚えています」。1953年5月16日、加賀尾はフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領と面会。『あゝモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを聴かせ、収監者たちの釈放を直訴した。その哀切なメロディーを、キリノ大統領は複雑な思いで聴いた。実は戦時中、キリノ大統領は日本軍によって拘束された上、妻子を含む多数の親族を殺害されていたのである。そんなキリノ大統領が万斛の涙を呑んで下した結論は、“受刑者全員への恩赦”という決断であった。後日、キリノ大統領が日本側に伝えた言葉は、以下のようなものであった。「日本人の為、妻と3人の子供、5人の家族を殺された私は、彼らを最も許し難い立場にあったのだが、私は許すことにした。【中略】私の子供やフィリピン国民が、私の憎しみを受け継ぐことを欲しなかったからである」。キリノ大統領が苦渋の果てに導き出したこの決断は、現在にまで連なる両国間の友好の原点となった。こうして、終戦から8年近くもの歳月を経て、収監者たちの帰国が漸く実現した。処刑されてしまった17名の遺骨の帰還も許された。7月22日午前8時半、宮本さんたちを乗せた白山丸が、横浜港の大桟橋に着岸。日本を出た際、20歳だった宮本さんは、既に32歳になっていた。帰還者の内、52名はそのまま自由の身となったが、残りの56名は巣鴨プリズンに抑留されることとなった。

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宮本さん(右写真)は“巣鴨組”だった。しかし、当時の巣鴨プリズンは、既にアメリカ軍から日本側に管轄が移行しており、施設内には開放感が漂っていた。帰還者たちは外出も可能で、会社に勤めることさえできた。宮本さんは出版社で事務の仕事をしたが、年末には晴れて釈放となり、故郷に帰ることができた。帰郷の翌月である1954年1月、宮本さんは結婚。相手の久代さんは、同じ町に住む12歳年下の従兄妹であった。久代さんが微笑と共に当時を振り返る。「元々、従兄妹ですからね。モンテンルパに手紙を書いて送ったこともありました。巣鴨から戻って来た時には、近くの駅まで迎えに行きました。まさか、その直ぐ後に家同士の意向で結婚することになるとは思ってもいませんでしたが」。宮本さんは繊維関係の仕事に就き、その後、独立して生計を立てた。1966年、元収監者たちは、嘗てモンテンルパ刑務所の所長だったアルフレド・ブニエを日本に招待した。妻と共に来日したブニエは、元収監者たちと日光等を観光し、とても喜んだという。そんなブニエだが、実は彼もキリノ大統領と同様、戦時中に家族を日本軍によって殺害された過去を持っていた。ブニエの父・イグナシオはゲリラ容疑で連行され、二度と帰って来ることはなかった。だがブニエは、「憎しみと暴力のサイクルは止めなければならない」と事ある毎に話していたという。教誨師だった加賀尾は、帰国後も元収監者たちの社会復帰に心を砕いた。宮本さんの自宅にも幾度か顔を出し、そのまま泊まっていったこともあったという。宮本さんの自室には、加賀尾が書いたという観音像や富士山の水墨画等が今も大切に飾られている。「加賀尾先生は、絵も字も上手な方でした」。宮本さん夫妻が、そう口を揃える。そんな加賀尾が76年間の生涯を閉じたのは、1977年5月14日のことであった。戦後70年以上が過ぎた今、宮本さんは自らの戦争体験についてこう語る。「若し憲兵隊に進まなかったら、私はレイテ戦に参加していた筈です。新兵時代から一緒に過ごした連隊の仲間たちは皆、レイテで戦死しています。運命の不思議と言いますか、私も戦犯裁判等色々苦労しましたが、それでも運良く生き残ることができました」。国交正常化60周年を迎えた日本とフィリピンの友好は、夥しい血と怨恨の末に成り立っている。それでも、互いにより良き未来を見据えつつ、共に前進する道を目指そうとする両国の姿勢は、“憎悪の連鎖”に塗れる世界史において貴重な教訓と成り得るだろう。天皇・皇后両陛下の鎮魂の祈りは、そんな両国の国民に向けられている。 (取材・文/ノンフィクション作家 早坂隆)


キャプチャ  2016年3月号掲載




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テーマ : 歴史
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