【2015年の10大問題】(01) 寿命100歳時代…日本人は死生観を復活させよ

日本人の寿命に、異変がおきはじめているらしい。それというのも、医療技術の進化によってガンの原因がつきとめられ、これまでの長寿の傾向がさらに促進されるようになったからだけではない。同時に、老化をもたらす遺伝子までが抑制されたり撤去されたりして、平均寿命100歳の時代もけっして夢ではない、と囁かれるようになったからである。これらの情報はいずれあれこれのメディアで大きくとりあげられることになるだろう。ところが地方で、少子高齢化や人口減少の加速化による危機が、かなり以前から指摘されるようになった。その結果、高齢者たちの“ひとり暮らし”が増大し、老人たちの孤独死や自殺をめぐる懸念の声がきかれるようになっている。

それから、もうかなりの時間が経つ。このような状況を見渡していて自然に浮かび上がってくるのが、つぎのような光景ではないだろうか。一方に、生の坂をのぼりつづける明るい長寿老人たちの姿、それにたいして他方、ひとり暮らしのまま死の坂をころがりつづける暗澹たる衰弱老人たちの姿、である。そしてここが大切なところなのだが、その生の坂をのぼる老人たちと死の坂をころがり落ちる老人たちのあいだに人間的な橋をかける想像力が、もはやわれわれの社会には失われてしまっているのではないかということだ。2種の老人たちが生の岸辺と死の岸辺に引き裂かれたまま、いわば高齢世代をめぐる格差社会がそこにいつのまにか実現されつつある。そしてこのような高齢格差社会の根底に流れているのが、生と死をめぐる意識の分断、もしくは混濁であり、ひいては死生観の崩壊にいたる病い、という状況ではないかと私はひそかに思う。そもそも“寿命”という言葉が宙に浮きはじめているのである。




思い返せば、われわれの社会はほぼ4~500年のあいだ、平均寿命50年の安定軌道にのってきた。戦国時代の織田信長(1534-1582)は「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」といっていた。また人口学の近年の知見によれば、江戸時代後期の平均寿命もほぼ50年前後、あるいはそれをやや上回る形で推移していたと伝えている。それが戦後に入り、ここ3~40年のあいだに、われわれの社会はあっというまに人生80年時代を迎えることになった。ここでとくに強調しておきたいのは、その平均寿命50年時代においてわれわれのからだに浸みこんだ人生モデルが“死生観”という言葉だったということだ。一部の知的エリートのなかで“生死”という表現が用いられることもあったが、平均的な日本人の五臓六腑に浸みこんだのは“死生観”といういい方だった。それは生と死の一体視といってもいいし、その両者を結びつける統一感覚だったといってもいい。

この表現の仕方そのものに注意してほしいのだが、死が生に先き立って用いられている。と同時に、死の問題が生のそれと同じ比重でうけとめられている。そこには、死を引き受けることが生きることであり、生きるということはすなわち死を覚悟しているということだった。すくなくともそこには生と死の一体感覚のようなものが言外に表明されていたのだ。それが日本人の長いあいだの平均的な人生モデルだったと思う。ところがそのような伝統的な感覚が、あっというまに人生80年時代を迎えてしまって、ゆらぎはじめているのではないか。この思わぬ事態は、いったいわれわれの社会に何をもたらしたのか。端的にいえば、われわれの生と死のあいだに、老と病の困難な課題がわがもの顔に割りこみ、いわば生と死が背中合せになっていたもろもろの関係をそれによって分断し、亀裂を入れ、死そのものの問題性を遠くへ押しやってしまっていたのである。それが医療・介護・年金をめぐる難題を引きおこし、今日の政治や経済が適切な対策を講ずることができない状況を生みだしている。そのため人間の死の問題がますます老と病のかげに隠され、その後方に遠ざけられる結果を招き、長いあいだ慣れ親しんできた死生観がゆらぎはじめている。

もう1つ、このような危機的な状況のなかで気づくのは、“死生観”という言葉遣いそのものが日本列島に固有のものであり、それに対応する言葉が英語などの西欧語にはみられず、中国語にも見出しがたいという事実である。もちろん、この意味するところを他の言葉で補って表現することはできるだろう。けれども、日本語におけるように1つの統合された言語として用いられている例は外にないのである。つまりこの用法は、死の意識を軸として生と死の意識を結びつけ、いわば背中合せにした一体感覚のもとに発せられている言葉だったということだ。もしもそうであるとするならば、その人生モデルとしての死生観を、この老と病が肥大化しつつある現代の人生80年の危機の時代に、われわれはもう一度見直してみるべきときにきているのではないだろうか。さらにいえば、われわれの歴史が育んできた“死”の意味を再考し、それをベースにしたあらたな人生設計を構築するという仕事にとりくむということである。

以前、日本の広告会社が、日本列島を3000m上空から撮影したビデオをつくった。沖縄からセスナ機を北上させ、日本列島を縦断して北海道にいたる眼下の景観を、1時間ほどにまとめたものだった。私はそれを見て驚いた。沖縄から本土までは一面の大海原だったが、そのあとに展開する国土のつらなりは、行けども行けども山また山、森また森の連続だったからだ。そこに、稲作農耕社会をうかがわせるような景観はまったくみられなかった。むしろ森林社会・山岳社会、そして海洋国家といえばいえるような姿がどこまでもつづいていたのである。やがて私は、これは高さのトリックによる錯覚ではないかと気づいた。もしもセスナ機の高度を1000mに下げたらどうか。そこに関東平野のような耕作地帯がみえてくるはずだ。さらに機首を500・300と下げていくと、そこには近代的な都市と工場地帯が姿をあらわしてくるにちがいない……。はっと思った。日本列島は三層構造でできあがっている。森林山岳社会・稲作農耕社会、そして近代産業社会、である。そしてこの列島形成の重層性が、そのままわれわれの意識と感覚に重要な性格を刻みつけていると思ったのだ。深層における縄文文化、中層における弥生文化、そして表層における近代的な意識や価値観である。そしてこの風土と意識にかかわる三層構造は、2011年3月11日に発生した平成の大災害のような危機にさいして柔軟な対応を可能にし、いつおこるかしれない自然の驚異にたいして身を守る知恵を授けるとともに、それによって発生する不条理な死を忍耐づよく受容する態度を生みだしたのではないだろうか。

たとえば近代日本の代表的な自然科学者であり文学者でもあった寺田寅彦(1878-1935)は、1930年代に『天災と国防』『日本人の自然観』などのエッセイを書いて、つぎのようなことをいっている。第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。第二、日本列島は西欧に比べて地震・津波・台風による脅威の規模がはるかに大きい。第三、そのような経験のなかから、自然に逆らうかわりに従順に首を垂れる態度が生まれ、自然を師として学ぶ生き方が育まれた。その結果、日本の科学も自然を克服するという考え方からは離れ、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。ここでとくに注目しておきたいのは、西ヨーロッパの自然が比較的安定しているのにたいして、日本の自然がはるかに不安定で、ときに狂暴な性格をもっているということだろう。それだけではない。寺田寅彦はこのような日本人の、自然への随順、風土への適応を示す態度のなかに、仏教の無常観と通ずるものを見出していた。数かぎりない地震・津波や風雨による災害をくぐり抜けることで“天然の無常”という感覚がつくりあげられたといっているからである。この“無常”という観念は、もちろん一方にはインドのブッダが考えたものだった。「この地上に永遠なものは1つもない」「形あるものはかならず滅する」「人はやがて死ぬ」というのがブッダの考えた原理的な立場だった。ただこのインド産の無常の意識は、日本列島の風土のなかでは重要な変容をとげることになった。

われわれをとりまくモンスーン風土の自然界には、インドの乾燥した砂漠的風土とは異なって四季のめぐりによる蘇りと循環の無常のリズムが息づいており、そのような感覚がしだいに研ぎすまされるようになったからだ。春には花が咲き、秋になれば紅葉と落葉の季節へとしだいに推移し、冬になって木枯らしが吹く。けれども寒い冬を越せば、ふたたび明るい春が巡ってくる。照る日・曇る日が循環し、それが日常の暮らしを支える独自の季節感を生みだすようになった。自然の変化とともに歩むねばり強い、柔らかな性格が生れることにもなる。たおやめぶりの忍耐力といっていいかもしれない。その蘇りと循環のリズムのなかから、やがて近づいてくる人生の最期のとき、すなわちわが死の訪れを静かに待つ。その運命を受け入れて土に還る・自然に還る、という感覚が発達するようになったのである。そこに一言でいえば、人生50年時代の人生モデルの芯が通っていたと思う。それが、われわれの生き方と死に方の根底に流れていた、基調低音のような感覚だったといっていいだろう。しばしばいわれるような日本人の無自覚的な無神論者のなかにもみられる、いってみれば五臓六腑に浸みこんだ死生観だったのだろうと思わないわけにはいかない。冒頭にもふれたことだが、いまわれわれの社会は容易ならざる長寿社会を迎えようとしている。その光景は死の岸辺への道行きを切り離したまま、生への上昇気流にのみこまれそうな危機の軌道にのろうとしているようにもみえる。われわれはこのあたりで、もういちど、かつてのわれわれの暮らしのなかにあったはずの死生観という名の人生モデルを思いおこし、これからの人生をあらためて歩みだすときにきているのではないだろうか。


山折哲雄(やまおり・てつお) 宗教学者。1931年、アメリカ生まれ。東北大学文学研究科博士課程修了。同大文学部助教授等を経て、元国際日本文化研究センター所長・国立歴史民俗博物館名誉教授。著書に『近代日本人の宗教意識』(岩波現代文庫)、『17歳からの死生観』(新潮文庫)など。


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