【日曜に想う】 水俣、取り戻せない歳月をへて

名前に十二支の1つが入っているので、その年が巡る度に馬齢を明かすような思いになる。ご明察の通り申の年、更に言えば1956(昭和31)年の生まれである。経済白書に「もはや戦後ではない」と謳われたその年の4月。手元の文献によれば、私が生を享けた頃、熊本県水俣市で5歳の女の子に異変が起きた。昨日まで元気に走り回っていたのに、朝起きると口が回らず、茶碗も持てなくなったという。歩くこともままならない。魚が湧くと言われた不知火海の畔の集落に女の子は生まれた。潮騒の齎す恵みは、この子の心身を健やかに育む筈だった。だが、工場廃水から魚や貝に蓄積されたメチル水銀が、海辺に暮らす老若男女に牙を剥いた。何日かすると同じ症状が妹にも現れた。5月1日、病院は保健所に“原因不明の疾患発生”を報告する。それが“水俣病の公式確認”として刻される日となった。暦は巡って今日で60年になる。我が齢に重なる歳月は、生きる方向を閉ざされ、捻じ曲げられてしまった多くの人々の、取り戻しの利かぬ月日である。

入り江の奥、小さな漁港の近くに坂本しのぶさんの家がある。私と同い年のしのぶさんは、母親が食べた魚介によって胎内で水銀に侵された胎児性患者だ。体を捩り、全身を絞るように言葉を発する。水俣に生まれたのを恨んだことが何遍もあったそうだ。しかし、それは歳月と共に消えた。今は「故郷がとても好き」と語る。だが、隠蔽と虚偽で真実を覆い、原因となる廃水を流し続けた加害企業『チッソ』への恨みは「決して消えることがない」と言う。80人以上と見られる胎児性患者には、私と同年配の人が多い。両親から“宝子”と大事にされた故・上村智子さんも同い年だ。寝たきりで言葉は発せず、瞳は生涯、ものを見ることがなかった。母親に抱かれて入浴する写真が水俣病を世界に知らしめたのを、ご記憶の人もあろう。智子さんの下の6人の兄妹に症状は無かった。毒を1人で吸い取ってくれたという思いから“宝子”と呼んだのだった。ところが、水俣病の損害賠償訴訟に加わると、事もあろうに家に来た報道関係者に言われたそうだ。「お金が入るから宝子ですか?」。父親の好男さん(81)は、今でも悔しそうに顔を歪め、目を瞬かせる。奇病とされた当初から、水俣病ほど偏見・差別・誹謗中傷に塗れてきた公害病もない。取材の別れ際、好男さんは私に「智子と同じ年なんですねぇ」と2度言って涙ぐまれた。高度経済成長の陰画とも言える、言われの無い理不尽を彼女は背負わされた。それが私ではなかったのは、ただ偶然でしかない。




「海へ小便したって海の水は小便にはなるまい」と勝海舟が『氷川清話』で述べている。公害の原点とされる足尾銅山鉱毒事件をめぐり、「人間の素朴な営みなら自然を損なわない」という例えに語ったものだ。しかし、「文明が発達すれば話は違う」と続けて述べる。「文明の大仕掛け」(勝)が、水や空気や土壌等、生命の基層に毒を投げ込んだ時の災いは計り知れない。こうした時に往々、産・官・学がつるむように情報を隠し、事態の矮小化へと動くのは歴史の示すところだ。メディアの加担も指摘されてきた。そして被害は常に、弱い立場の人にこそ及ぶのである。3年前、オリンピック招致演説で福島原発事故の状況を「アンダーコントロール」と言った安倍首相は、同じ秋に熊本県であった水銀条約外交会議へのビデオメッセージで「水銀による被害と、その克服を経た我々」と発言した。しかし今尚、不知火海の水銀禍はどこまで広がったのかも解明されていないのが実情だ。60年前に“水俣病の発見者”となった病院長の細川一医師は後年、「公害においては防止こそが重要」との言葉をノートに残したという。痛恨の思いが滲む。取り戻し得ぬ歳月を経て、経済至上・産業優先の齎した悔恨と教訓が、この国で共有されたかどうかは疑わしい。 (編集委員 福島申二)


≡朝日新聞 2016年5月1日付掲載≡




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