台湾総統選と母国の未来――気鋭の直木賞作家・東山彰良が故郷で見た“台湾アイデンティティー”の葛藤

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今年1月11日、凡そ3ヵ月ぶりの帰省である。本誌の依頼で、5日後の16日に控えた台湾の総統選挙を見届ける為だ。実は投票するつもりでいたのだが、帰国直前に叔母から国際電話がかかり、「あんたの身分証は失効しているから投票できないわよ」と言われてしまった。それを聞いた瞬間、アメリカの気骨あるロッカーであるスティーヴ・アールのライナーノーツに書いてあった言葉が眠間に揺れた。「Don't bitch if you don't vote.――投票しない奴はつべこべ言うな」。が、一度引き受けた仕事を途中で投げ出すつもりはなかった。たとえスティーヴの奴に軽蔑されようとも。「今回の総統選は然程殺気立っていないのではないか」というのが、帰省する前の私の予想だった。「盛り上がってない」と言っているのではない。台湾人の政治好きは有名で、立法委員(日本の国会議員)が乱闘騒ぎを演じるのは日常茶飯事だし、庶民だって負けちゃいない。支持政党が割れたせいで離婚した夫婦の話等は巷間で実しやかに囁かれているし、数年前の選挙の時等は、ある家の兄と弟で支持政党が真っ二つに割れ、家の中に壁を築いて交際を絶ったというニュースまであった。総統選に向けて、台湾は間違いなく大盛り上がりを見せている。しかし、嘗てのような殺気は幾分薄れているのではないか。理由がある。1996年に初の総統民選が実施された時のことは、今でもよく憶えている。“1つの中国”を標榜する中華人民共和国にしてみれば、台湾人が民意で自らのリーダーを決めるというのは、看過できない忌々しき問題であった。一国の中に中国共産党以外の権威が存在すれば、中国の辺境にあって共産党の統治を快く思わない少数民族の民族意識が高まる。「台湾に続け」とばかりに独立運動が起こるかもしれない。「そのような事態に立ち至らない為にも、中共としては断固として台湾の総統選を阻止せねばならないし、その為なら武力行使も辞さないだろう」と私たち台湾人は考えていた。中国が軍事演習と称して台湾海峡にミサイルを撃ち込み、アメリカの航空母艦が台湾海峡へ出張って来るに及んでは、人心は恐慌を来し、株価は暴落した。海外へ脱出する者が続出した。

しかし、恙無く選挙が終わり、李登輝が台湾初の民選総統に就任してからも、中国が攻め込んで来ることは終ぞ無かった。台湾人は胸を撫で下ろした。取り敢えず選挙を実施したくらいでは、中国は動かないことを学んだのである。その4年後の2000年の選挙では、政権交代がなるかが焦点となった。先の選挙で勝利した李登輝は、本省人とは言っても国民党主席である。中国にして見れば、台湾人が選挙を実施したこと自体は面白くないが、それでも独立派に政権を奪われなかったのは不幸中の幸いであった。が、此度、野党の民進党が立ててきた候補者は、台湾独立傾向の強い陳水扁である。「選挙までは許してやるが、調子に乗って独立等と抜かすなよ。若しお前たちが統一交渉を止めたら、今度こそ武力行使だからな」と中国は早速『台湾白書』で牽制してきた。それでも、台湾人は戦争の恐怖を跳ね返し、自分たちのリーダーに陳水扁を選んだ。ここに、中華世界初の平和的政権交代がなったのである。その時もまた、中国が台湾を焦土化するようなことは無かった。台湾人は、また学んだ。「取り敢えず、政権交代も大丈夫。急進的な独立論をぶ上げない限り、痛い目を見ることはない」と。確かに、中国は未だにミサイルの照準を台湾に合わせている。それでも、1996年の総統民選実施以来、台湾は少しずつ「ここまでやっても大丈夫」という境界線を押し広げてきたのだ。これが、「今回の選挙は然程殺気立ってないのではないか」と私が思う第一の理由である。だって、初めての総統選挙でもなければ、当選確実と目されている民進党の蔡英文は極めて穏健な独立派だし、しかも殆ど現状維持派と言ってもいいくらいなのだから。第二の理由は、今回の選挙がほぼ一方的な試合だからだ。殆ど全てのメディアの世論調査で、民進党の蔡英文候補が軒並み40%以上の支持率を集めている。甚だしきに至っては、48%近い数値を出している媒体もある。その『自由時報』による昨年12月16日の調査では、国民党の朱立倫候補の支持率は14%で、親民党の宋楚瑜は7%であった。この数値を信じるなら、今回の選挙は完全なワンサイドゲーム――そう、民進党の圧勝なのだ。そのような勝負に、一体誰が殺気立つことなどできるだろうか?




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台湾独立を標傍する民進党が総統候補として擁立した蔡英文は、中台関係においては前述の通り、ほぼ現状維持派である。現職の馬英九総統も然りだった。中台統一を目指す国民党の主席である馬英九と蔡英文は、立場こそ違えど、どちらも穏健な現状維持的な政策を掲げて中間層の支持を得た。『中央研究院』の調べでは、台湾人の46.4%が本音では“独立”を望んでいるが、同時に49.9%が将来的には「統一される」と考えているようだ(聯合報・2015年12月3日)。本音は本音として、しかし、現実はそれほど甘くないと思っている層が半数近くに達する。つまり、こういうことだ。将来的には「統一される」としても、それは将来の話で、今は未だ“独立”の夢を見ていたい。性急な台湾ナショナリズムも中国ナショナリズムも、凡そ半数の台湾人は望んでいないという訳だ。この中間層、即ち現状維持派を上手く取り込めたからこそ、馬英九は総統選に勝利した訳だし、蔡英文も勝利しつつある。そして、昨年10月17日に国民党が総統候補に洪秀柱を擁立しないと決めたのも、全く同じ理由によるものだ。それまでは、今回の総統選は蔡英文と洪秀柱という女性同士の一騎打ちになると見られていた。顔が似ているということで、この2人をのび太ママ(蔡英文)とスネ夫ママ(洪秀柱)に擬え、国を挙げて面白がっていた(確かにメッチャ似とる!)。ところが洪秀柱は、中国回帰的な政策を掲げて中間層の支持を失ってしまったのである。彼女の考えを要約するとこうだ。「独立も現状維持も現実的に不可能。それならば中国の圧力に屈し、尊厳を失った形で統一されるよりも、台湾のほうが積極的に中国回帰の道を模索するべきではないか」。確かに一理ある。台湾人の半数が将来的には「統一される」と考えているのなら、洪秀柱の言うように、「尊厳を失った状況下で統一される」のは誰も望まないに違いない。「でも、ちょっと待てよ。本当にそうなのか? 尊厳を失う前に統一の道を模索するのは、本当に肝心の尊厳を守ることになるのか? 例えば、カツアゲされる前に自分からカネを差し出せば、それで尊厳を守れたことになるのだろうか?」。勿論、政治とカツアゲでは全く話が違う。それでも、私などはどうしてもそのように感じてしまうのだ。洪秀柱に代わって国民党が擁立した総統候補は、新北市の現職市長である朱立倫だ。私と同じ台湾生まれの外省人である。基本的には統一路線を踏襲するものの、彼は洪秀柱ほど中国ナショナリズムを前面に押し出さない。中間層を意識しつつ、1992年コンセンサス(“1つの中国”の堅持)を踏まえて、「台湾も中国も同じ中国だが、全く同じという訳でもない」「“1つの中国”を堅持しつつも、その解釈は各自に委ねる」という曖昧な両岸関係を目指す。最後の1人が親民党の宋楚瑜だ。嘗て三度総統選を戦い、三度敗北しているが、今回もほぼ負け確定だろう。さぁ、駒が出揃ったぞ。纏めておこう。今年の台湾総統選挙は、蔡英文(民進党=穏健的独立派)・朱立倫(国民党=穏健的統一派)・宋楚瑜(親民党=基本現状維持派。選挙のスローガンは「一緒に出口を探す」「変化は先ず自分から」等、何となく中二的だぞ)の三つ巴の戦いとなる。

飛行機の中で、ちょっとした出会いがあった。Mさんの席は通路を挟んで私の斜向かい、離陸前におずおずと話しかけてきたのだった。私のことを知っている方にそんなところで出会うなど思ってもみなかったが、聞けば、彼女の日本のご実家は我が家のご近所だった。それだけではない。彼女の旦那さんのご実家も、何と台北の私の実家の目と鼻の先だったのである! 私は勇気を出して、彼女の旦那さんが本省人かどうかを尋ねた。「えぇ、夫は本省人です」。Mさんは屈託が無かった。「でも、民進党を支持している訳ではないと思います。夫は40代半ばで、国民党の教育を受けて育ちました。そのせいか、台湾と中国を切り離して考えてはいないようです」。国共内戦に破れた国民党は、台湾へ逃れ落ちて尚、いつの日か大陸を光復することを夢見ていた。そんな国民党は台湾を中国の一部ではなく、逆にあの広大な中国を中華民国=台湾の一部として捉え、学校教育のみならず、社会の隅々にまで周知徹底する政策を採っていたのである。「民進党を支持しないのは、若しかして旦那さんのご実家が裕福だからでは?」。私は遠慮会釈無しに切り込んだ。「留学をさせてもらえる家庭環境だから、保守的なのではないですか?」。彼女は、「私の知る限り」と前置きをしてから穏やかに続けた。「裕福な家庭に育ったから国民党を支持する訳ではないようです。確かに、軍人・公務員・教師には国民党支持者が多いです。彼らは国民党の恩恵を受けていますので。でも、例えば医師等は一概にそうではありません。医師の仕事はその地域に根差しているので、本省人と接する機会のほうが断然多いからです。ローカルな人々はローカルなアイデンティティーを持つのだと思います」。確かに国民党は、退職金や年金の面で“軍公教(軍人・公務員・教師)”を優遇してきた。台湾で“18%”と言えば、誰でも知っている。軍公教が退職金や年金を台湾銀行に預ければ、18%という特別優遇利子率を享受できるのだ。1995年に廃止され、それ以降の新軍公教には適用されないが、1995年以前の受給資格を持つ人々は依然として、この優遇利子率を申請できる。

昔は家族に軍公教が1人いれば、皆の預金を取り纏めて自分名義の口座に預金していた。そうすれば、一族郎党が“18%”の恩恵を受けることができる。18%! 現在の銀行利率が軒並み1乃至2%であることを考えれば、夢のようだ。私たちは連絡先を交換して別れた。私は台湾にいる間に、彼女の旦那さんにも話を聞かせてもらおうと思っている。篠つく雨の中、私は空港から高速バスに乗って市内へと向かった。これから1週間、ずっと雨の予報だった。「今回の選挙はあまり殺気立ってないのではないか」という私の見立ては、結果的に半分だけ正しかった。バスの車窓から見る限り、お揃いのウィンドブレーカーを着て大声を張り上げている人たちもいなければ、やかましい選挙カーも鳴りを潜めていた。銅鑼や太鼓の音は聞こえず、爆竹の煙も棚引いていない。選挙直前の、あのわくわくするような殺気は感じられなかった。その理由は夜、従妹たちと酒を飲んだ時に教えてもらった。

①各候補者は今、台北を離れて地方で選挙活動をしている(道理で!)。
②今回は宣伝カーを走らせてよい時間帯や騒音が規制されている。
③街頭に候補者を応援する旗や幟を立ててはいけない(バーのテレビで丁度、朱立倫陣営の旗が燃やされるというニュースを報じていた。「え? だって旗を立てちゃいけないんだよね?」。私の疑問に、従妹は得たりとばかりに答えた。「だから燃やされたのよ」)。
④30元(約100円)以上の贈答品は賄賂と見做される。

テレビは連日連夜、選挙関連のニュ ースを報じているが、これでは嘗てのように街全体がうねるような、あの熱狂を私が感じられなかったとしても不思議ではない。メールで連絡を取り合い、私とMさん夫婦は翌日、永康街で落ち合ったのだった。Mさんの旦那さんのJさんは長身痩躯、私より3つ若い44歳で、笑みを絶やさない温厚な人柄に私は忽ち好感を持った。「私はアイデンティティーというもの自体に抵抗感があります」。Jさんが話してくれた。「国家というアイデンティティーは権力が押し付けてくるものです。統一派は中国が押し付けてくるアイデンティティーに与していますが、独立派も台湾が押し付けてくるアイデンティティーに縛られているだけで、本質は何も変わりません。私にとっては、縛られていることが問題なんです。中国のアイデンティティーでも台湾のアイデンティティーでも、誰もが自由に持てればいいと思います」。

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Jさんは、「ミシェル・フーコーに影響を受けている」と言った。私たちが物事を決める時、たとえそれが一見自由意志に基づいているようでも、実は背後に私たちが自覚しない権力が作用していることがある。もっと噛み砕いて言うなら、それは要するに“空気”というヤツである。近年、若者たちの台湾アイデンティティーの確立が著しい。“中国”を中華人民共和国としてではなく、民族を束ねる大きな概念として捉え、その上で国境線に規定された台湾人としてのアイデンティティーを持とうとしている。台北には“四四南村”(右写真)という場所がある。嘗て外省人が生活していた共同体の一部を保全し、一般公開している観光スポットだ。レトロブームに乗っかったお洒落な若者たちがお洒落なカフェを営んでいるようなところだが、そこのお洒落な売店に“説台湾話(台湾語を話そう)”と胸に書かれたお洒落なTシャツが売られていた。1968年生まれの私の時代の学校教育は“国語”、即ち標準語の使用しか認めず、台湾語は厳に禁じられていた。勢い、私も国語は普通に話せるが、台湾語は全くわからない。しかも、5歳の時に台湾を離れてしまったので、その後、ストリートや軍隊等で台湾語を身に付ける機会も無かった。そんな私のような者からすれば、この“説台湾話”Tシャツに象徴される台湾アイデンティティーには少々緊張してしまう。「台湾語も話せないような奴は、厳密に言えば台湾人じゃない」と後ろ指を指されているような気がしてしまうのだ。Jさんに言われてよくよく見てみれば、今の台湾は台湾アイデンティティーという空気(=透明な権力)がどんどん膨張しているようだ。これでは、蔡英文の勝利は堅いだろう。政治とは、とどのつまり、時代の空気を掬い取るものなのだから。時代の空気を読まずして、己の政治的立場を決めるのは難しい。しかし、空気を読むということは、自由な意思決定に権力が食い込んでくることを意味する。私の疑問はこうだ。「その台湾アイデンティティーは本物なのか? ひょっとすると、単に空気を読んでいるだけではないのか?」。

投票日前夜、民進党が台北で最後のイベントを打った。総統府前の凱達格蘭大道に野外ステージを拵え、有権者に蔡英文を猛アピールしたのである。私は午後7時に始まったイベントに8時頃到着したのだが、メインステージに近付くこともできないほどの混みようだった。支持者たちは蔡英文の名前の入った鉢巻を締め、朝からずっと降り続いている雨には雨合羽で対抗し、そして大きな旗を振り回していた。集結した群衆は意気軒昂で、集会場所に数ヵ所設えてある巨大スクリーンに向かって鬨を作った。ステージ上で司会進行役が煽ると、声を1つにして“凍蒜”と叫ぶ。「凍った蒜? 一体どういう意味か?」と思っていたら、台湾語で“当選”という意味だった。台湾語には書き言葉が無いので、音に当てた単語である。“当選”と言わずに“凍蒜”と叫ぶ辺りにも、彼らの台湾アイデンティティーを感じた。蔡英文は穏健な独立派だが、至るところに“台湾独立”と書かれた幟が立っていた。あの感覚がまたぞろ私を襲った。そう、“説台湾話”Tシャツを見た時の感覚が。会場は物凄い熱量を放っていたが、登壇者たちが喚き立てる台湾語を、私は一言も理解できなかった。たったそれだけのことで、余所者になってしまったような気がした。この場所では、台湾語はある種の符牒だった。それを理解できる者だけが、真の台湾人だと認められる。寄る辺の無い孤独を噛み締めながら、私は雨に打たれていた。心温まる民進党のプロモーションビデオが流れ、登壇する人する人、「明日の選挙では票を割らずに一致団結して民進党に入れよう」と訴えかけた。流行のバンドの演奏等もあり、宛ら音楽の野外フェスティバルのような様相を呈していたが、私の好きな董事長楽団が登場した時は本当に野外フェスかと思ってしまった。9時過ぎに副総統候補の陳建仁が登壇し、この1時間で耳にタコができるくらい聞かされた事柄を力強く主張した。そして9時半、遂に蔡英文が満を持して登場した。色とりどりの探照灯の光が夜空を切り裂き、音の良いスピーカーから聴衆のモチベーションを高めるようなドラマチックな音楽が流れた。蔡英文は落ち着いた声で、標準語で群衆に語りかけた。彼女の話で印象に残ったのは、「今回の選挙では誰かを打ち破るのではなく、我々が打ち破るのは国家の苦境なのだ」という行だが、台湾語のわかる群衆に標準語を使うという政治的配慮に、旋毛曲がりの私は情けをかけられているような気分になった。

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私は演説を最後まで聞き、群衆のうねるような興奮から逃れるようにして、ひっそりと会場を後にした。寒さに打ち震え、コートのポケットに手を突っ込み、前かがみで歩いた。雨は降り続いていた。孤独とは、群衆の中にぽっかりと口を開けた底の浅い穴だ。1月16日の投票日は、薄曇りの空を透かして淡い陽光が降り注ぐ、気持ちのいい日だった。私は投票所を3ヵ所回ってみたが、取り立てて興味を惹かれることは何も無かった。怒鳴り合いも無ければ殴り合いも無く、一番面白かったのは小学校の運動場に蹲っていた、人が近付いても逃げない変な鳥くらいのものだった。投票は午前8時に始まり、午後4時に締め切られた。ぼーっとテレビを観ていると、インタビューを受けた学生が言った。「自分の1票が今回の選挙に影響するとは思えませんよ」。それは、今回の総統選について、台湾人が全員共有している思いだった。その証拠に、午後7時の時点で蔡英文は既に約6割の票を集め、朱立倫が敗北演説を行っていた。宋楚瑜のことを気にする者はあまりいなかった。政権交代がなり、台湾初の女性総統が誕生した。結局、各候補者の得票率は、このまま変わらなかった。翌日の新聞によれば、朱立倫の381万票、宋楚瑜の158万票に対し、蔡英文は689万票を獲得しての大勝であった。蔡英文の勝利の原因は多岐に亘るが、若い世代の票を得られたことと、史上最低の投票率も勝因のうちであろう。保守的な国民党に見切りをつけた若い世代の票が、台湾アイデンティティーを標傍する民進党に流れたのである。“周子瑜事件”も追い風になった。台湾出身で現在は韓国のアイドルユニット『TWICE』に所属している16歳の女の子が、とあるバラエティー番組で台湾の国旗を持たされた。そのことを、中国で活動している台湾出身の歌手・黄安が論い、彼女のことを台独派であると断罪したのだ。中国は直ちに過剰反応を示し、TWICEのみならず、彼女たちが所属する事務所のタレントの中国での契約問題にまで発展した。当該芸能事務所の株価は暴落した。1月14日、周子瑜は記者会見を開き、「中国は1つしかなく、私は中国人であることを誇りに思っています」と謝罪した。これに台湾の若者たちが激怒した。「周子瑜は中国の圧力に屈して、屈辱的に頭を下げさせられた」等の書き込みがインターネット上に犯濫した。投票日の2日前のことである。総統候補の3人も、この件を重く見て、其々が声明を出したほどだった。各メディアは、「元々、投票する意志の無かった若者たちが、周子瑜事件のせいで中国に対して憤慨し、民進党に票を投じたのだ」と報じている。

それでも、今回の投票率は66%で史上最低だった。無理もない。誰もが民進党の勝利を始めから知っていたのだから。国民党支持者が無力感に囚われていたことは想像に難くない。選挙の数日前、「余程のことが無い限り、民進党の勝ちだね」と乗り合わせたタクシーの運ちゃんが言っていた。「余程のことって?」。私は尋ねた。「決まっているだろ? 蔡英文が殺されることさ」。中国時報によれば、過去の経験に鑑みて、投票率が高ければ往々にして国民党有利の展開になるそうだ。今回の投票率を見れば、約600万人の有権者が投票しなかったことになる。2012年の総統選で馬英九に敗れた時に比べて、蔡英文の得票は僅か80万票伸びたに過ぎない。対して、国民党は4年前に比べて308万もの票を失っている。投票しなかった人々が全員国民党支持者だという訳ではないだろうが、かなりの部分を占めるのではないかと推察する。今回の選挙は、国民党支持者にとっては投票するのもアホらしい負け戦だったのだから。国民党支持の私の友人等は、殆どやけっぱちな感じで「宋楚瑜に入れるつもりだ」と話していた。「蔡英文が優秀な訳じゃない。他の2人が頼りないんだ」。このような考え方をする国民党支持者は、私が見た限り、決して少なくない。「どうせ、国民党に勝ち目は無い。だけど、民進党に入れるのは業腹だ。だから宋楚瑜に入れるしかない」という訳だ。少なくとも、宋楚瑜は元国民党員だったのだし。この投票結果を受けて中国は、「1992年コンセンサスの堅持、台独反対の方針に変化無し」と即座にコメントを出した。私は、前日の民進党のイベントで目にした“台湾独立”の幟を思い出した。あの時、私は雨に打たれながら困惑していた。まぁ、ともあれ、蔡英文政権が本格始動するのは任期が始まる5月20日からだ。投票日の私は、従妹と祖父母の遺灰がある寺へ参り、四平街の富覇王で美味い豚足を食べ、夜は叔母も誘って南機場夜市へ繰り出すことになっていた。「行くわよ」。身支度を整えた叔母が声をかけてくる。「もう観てたってしょうがないでしょ」。私はリモコンのボタンを叩いた。テレビの中で深々と頭を下げ、支持者たちに詫びる朱立倫がふつりと消えた。久しぶりの晴れ間に、夜市は人でごった返していた。選挙で勝とうが負けようが、腹は減るのだ。翌日には、また激しい雨が戻ってくる。だけど、この日は風も暖かく、ちっぽけな夜市は浮き足立ち、申し分のない宵であった。翌日、そう、全ては翌日だ。私たちは大いに食べ、飲み、いつものように笑いさざめき、そして選挙のことはあまり話題にならなかった。


東山彰良(ひがしやま・あきら) 本名は王震緒。作家・西南学院大学非常勤講師。1968年、中華民国台北市生まれ。西南学院大学大学院経済学研究科修士課程修了。吉林大学経済管理学院博士課程中退。著書に『ブラックライダー』(新潮文庫)・『ラブコメの法則』(集英社文庫)・『流』(講談社)等。


キャプチャ  2016年3月号掲載




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テーマ : 台湾
ジャンル : 政治・経済

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