ラバウル戦を率いて戦犯とされた父と技術将校だった長男――“名将”今村均の長男(97)が語る“父と戦争”

人格・見識等で、敵・味方を問わず高い評価を受けた旧日本陸軍の今村均大将。殊に、ジャワにおける現地住民に対する人道的対応や、多くの餓死者を出した南方戦線にあって、司令官として赴任したラバウルで自ら率先して農地を耕し、自給態勢を築いて多くの兵士の命を救ったことから、“聖将”と称されることもあった。更には戦後、南方での禁錮刑に服した後も、自宅の敷地内に3畳の小さな離れを建て、終生、自ら謹慎生活を送ったことでも知られる。その今村均の長男である和男氏は、今年97歳。昭和16年に陸軍に入り、航空担当の技術将校として戦争を体験した。父と子にとって、昭和の戦争とは何だったのか。戦後70年の時を経て、改めて振り返ってもらった――。 (聞き手/フリージャーナリスト 森健)

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戦後、父・今村均に再会したのは、昭和25(1950)年1月22日のことでした。父は戦時中もずっと南方に行っていましたから、7年3ヵ月ぶりということになります。オーストラリア軍の軍事裁判で司令官としての責任を負い、禁錮10年という判決を受けた父は、巣鴨拘置所で刑に服することとなり、日本に帰国した訳です。やはり、戦犯とされた凡そ700人と共に帰ってきましたが、病身の方も多い中、父は元気そうでした。ラバウルにいる間、長く百姓生活をしていたからでしょうか。ところが、巣鴨に訪ねて行った母・久子と長男の私に会うなり、父はこう言ったのです。「もういっペん南方に行く。南方には未だ苦労している仲間がいる。同じ服役するなら、日本ではなく、豪州刑務所のあるマヌス島(パプアニューギニア)であるべきだ。直ぐ手続きを取りなさい」。予想もしない言葉だったので驚きました。特に、漸く生きて帰ってきた夫からそんなことを言われた母の気持ちはどんなものだったのでしょう。今、思っても胸が詰まりますが、父の言葉ですからどうにもなりません。母と私は、直ぐに連合軍司令部に出向き、父をマヌス島に送るように願い出ました。GHQとしても、折角日本に帰って来られたのに、日本人にとっては過酷な環境下にある南方の獄に態々戻りたい等と言う者がいようとは想定していなかったのでしょう。三度かけあって、マッカーサー司令部に話をさせてもらったところ、漸く許可が出ました。その際、マッカーサー元師が「部下たちと共にマヌス島での服役を希望する陸軍大将がいるとは感銘した。私は、日本に来て初めて武士道に触れた思いだ」と感概を漏らしたそうです。実際、3月4日にオーストラリアの船でマヌス島に到着すると、現地では400人の受刑者が父を大歓迎したといいます。母の心中を思うと複雑でしたが、私としてはそんな父の思いもわからないではありませんでした。私自身、戦時中は陸軍航空技術研究所に勤める陸軍軍人の1人であり、日本の敗戦に強い責任を感じてもいたからです。勿論、一介の技術将校だった私とは比較にならないほど、父の感じていた責任は重いものだったと思います。日支事変でも激戦地帯で指揮を執り、太平洋戦争が始まると蘭印作戦、ラバウルと転戦。数万人の部下を率いて、少なからぬ犠牲を出し、遂には敗戦に至った…。父は口には出しませんでしたが、マヌス島行きへの固い決意から、それは十分に伝わってきました。マヌス島での刑期を終え、日本に戻ってからも、父が選んだのは蟄居謹慎でした。世田谷の自宅の敷地内に3畳間の離れを作り、82歳で他界するまで、そこで起居しました。尤も、父本人は「自分の手が届く範囲で用が足せる刑務所での暮らしが思いの外快適だったから」と説明していましたが。何れにせよ食事と風呂、それから来客のある時以外は母屋に顔を出すことも無く、ずっと離れで過ごしていたことは事実です。だから、戦後も父と2人でじっくりと話をした記憶はあまりありません。その離れで、父は回想録や頼まれた書き物等もしていたようです。




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私が大阪帝国大学を卒業したのは、昭和16(1941)年春のことです。陸軍第1航空教育隊を経て、現役志願で陸軍航空技術学校に入り、航空技術研究所に配属されて、技術将校になりました。父に進路の相談をした記憶はありません。当時、広東省のほうに行っておりましたから、相談のしようもありませんでした。今の人が聞かれると不思議に思われるかもしれませんが、その年の12月に真珠湾攻撃があるというのに、陸軍に入ってからも、アメリカと戦争するなんて想像もしていませんでした。これは私だけではなく、周りの陸軍下級将校・技官の殆どはそうだったのではないでしょうか。それどころか、戦争が始まってからも、私たちの主な任務はソビエト連邦との戦争に備えることだったのです。当時、私に与えられた課題は、基礎的な航空技術の研究、それから新しい飛行機の燃料タンクや車輪等の降着装置の審査でした。そこで中心だったのは、耐寒装備の研究です。これはアメリカが本土爆撃をし始めてからの話ですが、盛岡で『B29』が2機墜落したことがありました。高射砲等で攻撃した訳ではありません。過冷却雲に突っ込み、翼が凍結して、操縦不能になって墜ちたのです。寒さ対策は航空機にとって重要な問題だったのですが、問題は、南方での対米英戦が始まってからも、私どもの研究は北方での寒冷地対策に重心を置いたままだったことでした。毎年12月から3月まで、寒さが厳しい季節になると、北海道・樺太・千島・満州で凍結防止対策や飛行機用雪橇等のテストを行うのが私の任務でしたが、これを昭和19(1944)年の春まで続けていたのです。こうした極寒の寒冷地では、機体の修理等をしようと思っても先ず手が悴んで上手く動かない。部品も凍結しています。弁当も、凍ったものをバリバリ齧らなければなりませんでした。また、択捉島には立派な飛行場があるのですが、ここは大変な強風が吹いていて、飛行場に航空機を並べておくと、大人2人がかりでやっと回せるプロペラが、風の力で自然に回っているのです。そうした過酷な状況下で、航空機を無事に飛ばす為の装備を主に研究していたのです。

ところが、ご存じの通り、太平洋戦争の主戦場は南方です。北部方面の戦闘隊も随分南方に回されていきましたが、南方と北方では当然、環境も違い、発生する問題も異なります。そこでは、私がやっていたような研究は、残念ながらあまりお役に立てませんでした。例えば、南方で炎天下の飛行場に航空機を停めておくと高温になって、燃料タンクの中でガソリンが気化寸前になって、上手くエンジンに送り込めないという問題が発生しました。これはベーパーロックといって、下手をするとエンストしてしまいますから、日本軍は飛び立つ前にエンジンを十分に回し、ガソリンが上手く送り込まれていることを確認してからでないと飛ばせなかったのです。それに対して、アメリカ軍は既に対策を施してあり、燃料タンクにモーターポンプを設置し、圧力でガソリンを送り込む仕組みにしてあるのです。こうした点が、日米の工業力・技術力の差だったと痛感します。日米の技術力の差で言えば、例えば左の翼に弾が撃ち込まれて穴が開いてしまった機があるとしますね。するとアメリカは、右の翼がやられた機から左の翼を外して、取り付けるんです。日本では、こうはいきません。1機1機が職人仕事で作られていて、微妙に調整が違うので、他の機のパーツを持ってきても上手くいかない。もっと言えば、工具からして違う。エンジンの構造上、ドライバーが入り難い箇所があると、私たちは苦労して何とか手を突っ込んで整備していたのですが、アメリカはというと、そうした箇所専用の軸の長いドライバーがあるのです。だから、アメリカ軍機を鹵獲すると、私たちは急いで行って、アメリカの工具類を先ず押さえたものでした。話が戦後に飛びますが、私は昭和44(1969)年から防衛大学校の教官を務めました。そこに、零戦の設計をした堀越二郎先生が教授としておいでになられたのです。また、丁度その時、『一式陸攻』という名機の設計で知られる本庄季郎先生も防大にいらして、尊敬する大先輩のお2人が彼是お話しなさるのを、よく同席して聞かせてもらったものです。堀越先生は、やはり自ら設計した零戦のことはとても誇りとしておられた。ただ、最初は零戦に圧倒されていたアメリカが、軈て『グラマンF6F』や『P51』等、パワー・速力・火力共に優る新型機を投入してくる。ところが、零戦があまりにいい出来だったので、現場からは「零戦の改良型を作ってくれ」という要望ばかりが来たそうです。堀越先生としては、新型機の開発投入に力を注ぎたかったのに、それが叶わなかったことを悔やんでおられました。

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もう1つ、堀越・本庄先生たちが共に反省点として挙げていたのが、防弾装備が遅れたことでした。陸海軍共々、航空機で“攻める”ことを重視し、“守る”という意識が薄かった。「落ちないことを考えるのではなく、相手を落とすことを考えろ」という訳です。燃料タンクに弾を撃ち込まれると火だるまになるし、操縦席に撃ち込まれると最後です。それとは対照的に、アメリカの戦闘機は、燃料タンクにも操縦席の背当てにも堅固な防弾装備をしていた。だから、容易に墜ちないのです。この問題には、私たちも悩まされました。航空機を造る側としては、これ以上犠牲を増やしたくないので、防弾装備をするよう助言するのですが、現場では戦闘力が落ちるのを嫌がって、中々「うん」と言いません。しかし、不十分ながら防弾防火を装備したところ、「防弾装備のおかげで犠牲が減る」ことがデータ上明らかになり、南方から研究所宛てに感謝状が届くようにもなりました。ただ、戦争末期、敵機の空襲を防ぐ為に調布飛行場から飛び立った飛行機は、防弾装備を殆ど外していました。そうして少しでも軽くしないと、アメリカ軍の爆撃機が飛ぶ高度まで届かないからです。結局、アメリカ軍機のパワーに及ばなかった。それも、私たちの大きな反省の1つでした。もう1つだけ例を挙げると、終戦の頃にドイツの技術を輸入して、陸海軍共同開発で『秋水』というロケット戦闘機を作りました。これは高度1万mまで、飛行機では何十分もかかるところ、僅か1分で到達するのです。このロケットは過酸化水素水により飛ぶのですが、その濃度が90%以上でないと使えない。ところが、当時の日本には高濃度の過酸化水素水が充分作れなかったのです。日本の航空機は、設計は素晴らしい。零戦等はまさに名機です。しかし、基礎となる材料・燃料・部品の精度等の面で、欧米の先進国に追いつけない部分が数多くありました。

北方での私自身の体験に戻りましょう。戦場には出ることの無かった私でしたが、命を落としかけたことが二度あります。どちらも、昭和19(1944)年の初春のことでした。当時、樺太には樺太東線の深雪駅という駅がありました。その直ぐ近くに陸軍の飛行場があったのですが、名前の通りの豪雪地帯です。しかも寒いから、さらさらの粉雪なんです。そこで、私たちは橇による離着陸のテストを行っていました。飛行機に橇を履かせて、雪の積もった飛行場に離着陸するのです。その飛行場を上から見ると、キラキラ光るものが沢山動いていました。銀狐です。その頃、銀狐は毛皮用に捕獲され、大変な高値で取引されていました。ある時、飛行機を操縦していた少佐殿が、私に「今村、あの狐を捕まえろ」と言うのです。命令ですから、従う他ありません。橇で着陸し、雪原に足を踏み入れた途端、目の前が真っ暗になりました。さらさらの粉雪が何mも積もっているのですから、深い雪溜まりに落ちてしまったのです。もがいても上がれない。必死で助けを求めたのですが、10分ほどすると、何と少佐殿はそのまま飛び立ってしまったのです。もう周囲には誰もいない。「このまま死ぬかもしれない」と覚悟したころ、少佐殿が雪上自動車に乗って戻ってきてくれました。あの時は本当に死ぬかと思いました。もう一度は、札幌の丘珠という飛行場でのことです。私が立てた実験計画の不備で、3回続けて飛行機を壊してしまった。私からすると計画のせいばかりではなかったのですが、中央から中佐がやってきて、「天皇陛下の飛行機を3機も壊して、これは軍法会議にかかるぞ。軍法会議で有罪を食らうくらいなら、ここで潔く自決しろ」と迫った。私も自決の作法は習っていましたが、切腹というのは短刀でないとできないんですね。ところが、まさか切腹するとは思っていなかったから、そこには軍力しかない。しかし、やらない訳にはいかないので、飛行場の隅に白布を敷いて、裸になって軍力を構えたのです。その時、三輪という大尉に介錯を頼んだのですが、彼が言うには「班長殿、わしの刀は大変切れが悪いんです」と。しかも、「私は柔道をやっていたんで、剣道の作法を知りません。1発ではとても首は落ちないかもしれないから、何回も叩きますよ」と言うんですね。「嫌だなぁ」と思ったけど、兎に角、軍刀を腹に突き立てました。腹を切るのは、最初から深く刺しちゃいけないんです。腹膜まで入ってしまうと、苦しくなって力が入らなくなる。それはわかっていましたから、浅く刺して横に切る筈が、長い軍力で力の加減がわからず、思いの外深く刺してしまった。

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激しい苦しみに襲われて、後ろに転がってしまったから、三輪大尉も首を切ることができず、これを見た例の中佐が「責任を負って死ぬ覚悟はしたんだから、堪忍してやれ」。3週間、札幌陸軍病院に入院しました。みっともない話ですが、今でもお腹に痕が残っています。私が死にかけた話は今では笑い話ですが、後々振り返って、悲痛な思いにかられた体験もあります。戦争も末期、宮崎県の新田原飛行場に輸送機のタイヤを調べに行った時のことでした。当時、新田原飛行場近くに陸軍病院があり、そこで私の従兄弟が院長を務めていたのです。仕事の序でに彼を訪ねると、話を持ちかけられました。「この飛行場から特攻が飛び立っている。隊員たちには、飛び立つ前の夜に出来る限りの食事をご馳走して、遺言を聞いている。お前も一緒に聞いてくれないか」と。そして、こう念を押されたのです。「1つ守ってほしいことがある。それは、彼らの話を聞いても絶対に泣かないでくれ。こちらが泣いてしまうと、彼らはどうしていいかわからなくなるから」。それから7日間、毎夜、特攻を前にした若い兵士たちの話を聞くことになりました。人は、そう簡単に死ねるものではありません。彼らは誰も不安を抱き、迷っていました。「それでも死なねばならない。郷里の両親・兄弟姉妹・友人に、どういう死に方をしていったか伝えてほしい。或いは、遺書を渡してほしい」。そう口々に聞かされました。話し終えて、彼らは床に就きますが、そこから泣く声が聞こえてくるのです。そして朝になると、彼らは次々に飛び立っていきました。車輪を落とし、片道燃料で。私たちは、飛行機が見えなくなってから後ろを向いて泣いていました。終戦の時には、私は陸軍病院にいました。肺を患って、入退院を繰り返していたのです。一番覚えているのは、その日に亡くなった整備担当の少佐のこと。彼は前日の14日に、P51戦闘機の機銃掃射で腹を撃たれた。腹を撃たれるのが一番苦しいそうですが、玉音放送を聞いていたら、その少佐が「天皇陛下万歳」と叫ぶのです。そして放送が終わると、今度は「お母さん」と言って、ぱったり息を引き取った。終戦とほぼ同時の同僚の死だっただけに、鮮明に覚えています。

私の体験ばかりお話ししましたが、ここから父・今村均について、幾つか記憶に強く残っていることをお話ししましよう。戦後、父が離れでの暮らしを続けていたことは前に申しましたが、その父を頻繁に訪ねてきたのは、最後の連合艦隊司令長官である小沢治三郎さんでした。レイテ沖海戦で囮部隊としての役割を見事に果たし、名将と謳われた人です。小沢さんとは家が近くて、歩いて5分くらいのところにお住まいでしたから、年中行き来していました。そして、老人2人でいつも侃々諤々の討論をやっていました。私も時々廊下から聞いていましたが、レイテ沖海戦の話や戦争全体への反省等、話は尽きないようでした。抑々、父は現役の頃、ジャワ作戦で小沢さんに大変お世話になったんです。というのは、作戦成功には海軍の援護艦隊が必要だったのですが、当初の計画では海軍の援護が極めて少なかった。そこで、父が小沢さんのところに直談判に行って、援護艦隊を充分出してもらった。小沢さんの部隊がオランダの駆逐艦なんかを皆沈めてくれた為に、父は小沢さんには心から感謝していたんですね。ところが、このジャワ作戦の折に、父が乗っていた『龍城』が海軍の誤射で沈んでしまうのです。幸い救助されたのですが、小沢さんが父に陳謝する一幕もあったそうです。そんなこともあって、小沢さんとは本当に仲が良かった。また、私が幼い頃、“山本のおじちゃん”と呼んでいたのが山本五十六元帥です。山本元師が中佐、父が少佐の頃からよく行き来していました。父はイギリスで、山本さんはアメリカでトランプのブリッジを覚え、よく一緒にやっていたのです。2人とも勝負事が本当に好きで、互いに「自分のほうが強い」と言っていましたから、いい勝負だったのでしょう。父はラバウルで自給態勢を取って、餓死者の増加を食い止めたとよく言われますが、私の推測では、そこに山本元帥からのアドバイスがあったのではないかと思うのです。昭和17(1942)年11月、トラック島から海軍の飛行機で新しい任地のラバウルに向かう際、父はトラック島で山本元帥に会っています。

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少し遡って、父がジャワからラバウルに転勤する時、天皇陛下から父にお呼び出しがありました。私もお供で宮城まで同行したのですが、迎えの車は宮内省からのものだったと記憶します。父は宮城で陛下に拝謁し、宮内省で待っていた私に、こんな話をしてくれたのです。「陛下から、『南方で兵隊が非常に苦労している。この兵隊を助けてやってくれ』とお言葉があった」。ガダルカナル島のことでした。同年8月、アメリカ軍主体の連合軍によるガ島奪取作戦が始まります。補給も絶たれ、我が軍の被害は1万人を超えて広がる一方でした。陛下は、その厳しさを案じておられたのではないでしょうか。一方でこの時、参謀本部からは「ガ島を取り戻せ」という指令が出ていました。しかし、父は陛下の命に従って、奪回ではなく撤退戦を選んだのです。このことは、父の回想には記されていません。また、ここからは私の推測ですが、父は山本元帥にガダルカナル島からの撤退作戦の協力を頼み、更にラバウルの窮状について話し合ったのではないかと思うのです。当時、ラバウルには陸軍7万人強・海軍2万人強で、凡そ10万人の兵隊がいました。補給が十分に行えない現状で、彼らを如何に救うか。それは、海軍にとっても重大な問題だった筈です。父はラバウルに着任すると、食べる為の農作業をするよう部隊に声をかけました。そこで、3分の1が農作業、3分の1が塹壕掘り、3分の1が警戒作戦という態勢で戦いに備えました。地下要塞の総距離で、東京-名古屋間に達する距離になったといいます。その結果、連合軍の兵糧攻めにも拘らず、父の第8方面軍は、草鹿任一中将率いる南東方面艦隊と、ラバウルを確保したまま終戦を迎えることができたのです。

屡々、「陸軍と海軍は仲が悪かった」と言われますが、振り返ると、父は陸軍軍人であったにも拘らず、海軍と深い交流を続けていました。戦後も、戦艦『三笠』が保存されることになった時、何故か陸軍の父が保存会のメンバーに入っていたほどです。中でも、父が若い頃から懇意にさせて頂いたのは東郷平八郎元帥でした。私の家には東郷元帥の書かれた額がありますが、父が「『帝国陸海軍で最も偉い軍人は誰か1人挙げろ』と言われたら、やはり東郷さんだ」と語ったのを覚えています。一体何故、父が東郷元帥の知遇を得たのかはわかりませんが、父は陸軍でも特定の派閥に属さず、軍の枠を越えて、幅広い交流を行っていたようです。その一端が窺えるのが、昭和14(1939)年、日支事変でのエピソードです。父が第5師団長として加わった南寧作戦は、蒋介石の中国軍が最精鋭部隊を繰り出し、激しい戦闘となりました。戦いの残酷さを痛感した父は陸軍に退職願いを出し(受理されませんでした)、帰国後、ジャーナリストで衆議院議員でもあった中野正剛さんと語らって、「日支事変をここで終わらせよう」という計画を立てていたのです。中野さんは、お子さんが私の弟と中学の同級生だったこともあり、よく家にも来られていました。「本当の戦争の残酷さを知らない参謀たちが頭の中で考えて戦をしたんじゃ、前線の人間は敵わない。だから、止めさせなければいけないんだ」と父は語っていました。また、幅広い交流には、父が副官を務めた上原勇作元帥の影響も大きかったと思います。“十社会”と言い、銀座の老舗10社の旦那衆の集まりで、月に一度食事会を開いていたそうですが、そこに毎回、上原元帥も出席されていたのです。それがお年を召されて、父は代わりに出席し、会合でどんな話が出たか、毎回、千葉の元帥のお宅で報告する役目を仰せ付かった訳です。社長さんたちは皆、一廉の人物ですから、「ためになる話が聴ける」と喜んで出かけていましたね。そのお付き合いで、銀座の天ぷら屋さんから職人さんが来て、家で天ぷらを揚げてくれたこともありました。

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こうした陸軍軍人として少々変わった父の在り方は元々、父が軍人志望ではなかったこともあったと思われます。新潟県の新発田中学を卒業後、東京の第1高等学校(現在の東京大学大学院総合文化研究科・教養学部)か東京高等商業学校(現在の一橋大学)を目指していた時に、裁判官だった父親を亡くしてしまいます。そこで、陸軍将校の娘だった母親の勧めもあり、陸軍士官学校に進むことにしたのですが、元々文学書を読むことを好み、『戦陣訓』作成に携わった時には、敬愛していた島崎藤村先生や土井晩翠先生に添削してもらって、「軍人の書くものとは全然違う」と感激していたことを覚えています。ただ、「生きて虜囚の辱めを受けず」については戦後、「あれで助かる命を無駄に死なせてしまった」と悔いていました。また、戦場で部下を死なせてしまった体験から、「軍隊を辞めて坊さんになる」と言い出す等、宗教には強い関心を持っていました。私は戦後、キリスト教に入信したのですが、ある時、「旧約聖書はお前のほうが読んでいるが、新約聖書は俺のほうが研究した」と言われたこともあります。そう言えば、父は新発田にいた頃に、地元教会の日曜学校に通っていたのですが、その時、同じ日曜学校に通っていたのがアナーキストの大杉栄だったそうです。これも不思議な縁ですね。戦地の父から手紙が来ることは殆どありませんでしたが、ラバウルから「“内村鑑三全集”と天文学の本を送ってほしい」と頼まれたことがありました。当時、『内村鑑三全集』が手に入らず、参謀の方が彼方此方に声をかけて、『銭形平次捕物控』の作者である野村胡堂さんの蔵書を譲って戴いたのですが、残念ながら、途中で飛行機が撃墜されて、父の手元には届きませんでした。父は1968年、82歳で他界しました。私は今年で97歳になります。とうに父の年齢を超えてしまいました。父があの狭い離れで、独り何を考えていたのか。そして、あの戦争を、戦後の日本をどう捉えていたのか。今でも屡々、思いを巡らせるのです。


キャプチャ  2015年秋号掲載

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テーマ : 歴史
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