靖国神社と大らかな昭和――適当で自由で詰めが甘い、その本質は昭和を守るテーマパークだった

20160502 24
初めて靖国神社を訪れたのは、今から丁度10年前だった。大学生だった僕は、友人と連れ立って『みたままつり』に行ったのだ。メディアでの報道を通じて、何となく靖国神社という存在は知っていた。明治以来の戦死者を祀ってきた神社。A級戦犯が合祀されている為、政治家の参拝が歴史問題になる。歴史観は“右”で、日本の伝統を大切にする神社――。漠然とそれくらいのイメージを抱いていた。しかし、実際に訪れた靖国神社は、僕の想像を超える場所だった。先ず、大村益次郎の銅像の周りで盆踊りが行われていたことに面食らった。大日本帝国陸軍の創始者であり、“軍神”とも崇められた人物だ。その軍神の銅像が派手にライトアップされ、妙齢の女性たちによる楽しげな盆踊りが繰り広げられている。靖国神社を勝手に神聖で厳かな場所だと思っていたから、「軍神をこんなにポップに扱っていいのか?」とびっくりした。しかし、靖国神社の本領発揮はそこからだった。特設の見世物小屋では蛇を飲む“蛇女”や、おじさんが剣を飲み込むといったチープなパフォーマンスを堪能することができる。“見世物小屋”や“蛇女”が21世紀に存在するのも凄いが、まさかそれが場末の神社ではなく、あの靖国神社で見られるとは思っていなかった。更に、安っぽいお化け屋敷があったり、窪塚洋介と小林よしのりの献納した献灯が隣同士に並んでいたり、見所は沢山だった。「何だ、この適当で自由な場所は」。死者を厳かに祀る、伝統を大切にする静謐な神社――。そういった僕のイメージは、靖国神社には当て嵌まらないことがわかった。

今年もみたままつりに行ってきた。しかし、10年前とは大分状況が変わっていた。毎年200を超える露店がみたままつりに出店していたが、今年は靖国神社側がそれを規制したのだ。新聞報道によれば、みたままつりの来場者が大騒ぎをしたり、道端にゴミを捨てたりと、近隣住民からの苦情が増えていたという。実は、一部でみたままつりは“ナンパ祭り”と揶揄されるまでになっていた。靖国神社の傍には大学が集中していて、若者の来場者が多い。また、開催期間が7月中旬と、他の夏祭りに比べて“先取り”感がある。その為、恰好のナンパスポットとなっていたというのだ。あるブログでは、靖国神社でのナンパの成功を“英霊の導き”と表現していた。露店が規制された今年のみたままつり。例年のような活気は無いが、献灯が静かに輝く美しい空間だったと思う。“靖国神社の夏祭り”という言葉から連想するのに相応しい空間になっていたと思う。しかし、靖国神社が“適当で自由”なのは、何もみたままつりに限った話ではない。寧ろ、みたままつりに露店が並び、ナンパが横行する光景のほうが、靖国にとっては自然な状態だとさえも言える。それは、遊就館に行ってみればわかる。遊就館とは、靖国神社が運営する戦争博物館である。1882年の西南戦争における新政府軍側の戦没者の遺品や、古来の武具を展示する為に開館した。終戦後に一度は閉館を余儀無くされたものの、1961年に一部、1986年に全面再開にこぎ着けた。その後、リニューアル工事が行われ、2002年に現在の形になった。屡々、遊就館は「戦争を肯定する危険な博物館」と批判される。確かに、日本各地にある平和博物館と違い、そこまで戦争が否定的に描かれる訳ではない。「大東亜戦争における“日本軍による植民地権力の打倒”により、戦後アジア各国が独立できた」とも書いてある。しかし、一部のネット右翼ほど過激で下品な主張をするような博物館ではない。韓国併合や満州国、更には大東亜戦争が「全面的に正しかった」と強弁する訳でもない。主張としては、ネット右翼のほうが余程過激だ。何よりも、2002年にリニューアルしただけあって、全体的に小綺麗で、そこそこスタイリッシュな博物館だ。実は、遊説館を設計・施工したのは『乃村工藝社』。大手ディスプレイデザイン会社だ。『東京スカイツリー』『渋谷ヒカリエ』『ダイバーシティ東京』等、話題になった施設の多くに、何らかの形で乃村工藝社は関わっている。また、日本各地の博物館の施工も担当していて、『沖縄平和祈念資料館』や傷痍軍人の歴史を伝える国立の『しょうけい館』、更に阿見町の『予科練平和記念館』等も乃村工藝社の仕事だ。そう、靖国神社と主義主張が大きく違う沖縄平和祈念資料館も、乃村が空間プロデュースに関わっているのだ。だから、少なくとも第一印象においては、遊説館と沖縄平和祈念資料館に大きな違いはない。勿論、歴史に詳しい人が行けば、その歴史観について何らかの感情を持ちたくなるだろう。しかし、僕が何よりも気になったのは、歴史認識以前の遊就館の“詰めの甘さ”である。




20160502 25
僕に遊就館の“詰めの甘さ”を教えてくれたのは、『大和ミュージアム』館長の戸高一成さんだった。戸高さん曰く、遊就館の図録には誤植や誤解が多い。歴史認識以前に、先ず単語レベルでの間違いが多いというのだ。そこで今回、本誌経由で『靖国神社 遊就館図録』をプロに校閲してもらった。すると案の定、幾つかの誤記が見つかった。先ず一番酷かったのは、“大東亜戦争全般作戦”を説明するページで、“ガダルカナル”が“ガナルカナル”となっていたこと。“ミッドウェーとガナルカナルの敗北”によって日本が敗戦へ向かっていく様子が説明されているページなのだが、基本的な地名の間違いに思わず微笑ましい気分になってしまう。確認した図録は、2014年発行の第5刷。初版が発行されたのが2008年とあるから、少なくとも6年間は“ガナルカナル”が放置されていたことになる。また、“各宮家の御崇敬”というページでは、“ヒゲの殿下”と呼ばれた寬仁親王の表記が揺れている。正しくは“寬仁親王”なのだが、“寬”の文字がところどころ“、”の無い“寛”になっている。更に図録だけではなく、遊就館内のパネルにも誤記が散見された。徳川光圀が『大日本史』に着手するのを寛文12(1673)年としたり(着手は明暦3年=1657年が定説、更に寛文12年は1672年)、マレー作戦を説明する地図で“クアラルンプール”を“クワラルンプール”と表記していたり、“平和祈念絵葉書”のキャプションが“平和を記念し”となっていたりする。未だある。“靖国の神々”という展示室では、陸軍軍属だった井上朗子さんの説明があるが、“母キヌの長女とし誕生”は“母キヌの長女として誕生”のほうが日本語として自然だろう。

見分けのつき難い文字の間違いではあるが、日露戦争で乃木希典とロシアのステッセルが停戦の為に会見した場所の表記が“水師営”と“水師営”で揺れている(正しくは“水師営”)。また、日中戦争で“楓淫”を攻撃する日本軍の写真が出てくるが、正しい地名は“楓涇”。確かに、どれも砦細なことだ。僕自身も誤字・脱字はしょっちゅうだし、意味が通じない訳ではない。だが、僕が細かな表記を問題にするのは、彼らが図録で遊就館の由緒を次のように説明しているからだ。「愛する祖国、愛する故郷、愛する家族のために、尊い命を捧げられた英霊の“みこころ”やご事蹟に直接触れることによって、日本人として忘れてはならない、さまざまな事象や歴史を学ぶことができる」のが遊就館だという。だとするならば、“神は細部に宿る”という言葉の通り、展示の一文字までも蔑ろにしてほしくない。少なくとも上に挙げた誤植は、専門の校閲業者に依頼すれば直ぐにでも見つけられるものだ。それが遊就館の改装以来、何年もそのままになっているとしたら、それこそ“英霊”に失礼な話ではないだろうか。また、僕が訪れて一番気になったのは、“皇室の御崇敬”という特別展示室で、皇族たちの写真が斜めに飾られていたこと。靖国神社を参拝した皇族の写真を額に入れてディスプレイしているのだが、それがどれも微妙に曲がっているのである。念の為、7月14日と8月7日、2回も遊説館に行ったのだが、その間に写真の傾きが直された形跡は無かった。まさか1年中、写真が曲がって飾られている訳ではないだろうが、“日本人として忘れてはならない”ことを学ぶ博物館ならば、そういう細やかなことにこそ気を配ってほしいものである。

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煩い小姑のようなことを言ってしまった。靖国神社の“詰めの甘さ”が少しは伝わったかと思う。しかし、この“詰めの甘さ”、言い換えれば“適当で自由”というのが靖国神社の本質なのではないかと思う。それは、戦後の靖国神社を考える上で、切っても切り離せないA級戦犯合祀問題とも関係している。1979年4月、共同通信が東条英機ら14柱のA級戦犯が靖国神社にしれっと合祀されていたことをスクープとして伝えた。1978年10月17日に合祀されたものの、批判の声を恐れた神社が公表をしてこなかったというのだ。A級戦犯合祀は、1978年に宮司に就任した松平永芳の決断によるものだ。彼は後年、「“東京裁判史観”を否定する為にA級戦犯合祀に踏み切った」とインタビューに答えている。A級戦犯に対する個人的シンパシーというよりも、「兎に角、“東京裁判史観”を否定したい」というのが彼の本心だったようだ(秦都彦『靖国神社の祭神たち』)。つまり、松平がインタビューで答えたことを信じるなら、A級戦犯合祀は“英霊”に対する尊敬の念からではなく、政治的主張の為に行われたことになる。事実、A級戦犯遺族にさえも許可を取らない事後報告であった。靖国神社のホームページには、「国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています」と書かれている。だが、赤澤史朗の『戦没者合祀と靖国神社』(吉川弘文館)によれば、靖国神社が誰を合祀して、誰を合祀しないかに関して、首尾一貫した基準は無かったという。

戦後の靖国神社では、基本的には戦闘員として“殉国”した人物が祭神として合祀されている。だが、対外戦争の戦没者全員が祀られている訳ではない。例えば、違法な軍事裁判によって刑死し、国からも“公務死”認定されているブーゲンビル島での戦没者の合祀を靖国神社は拒否している。戦争末期、食糧が供給されないブーゲンビル島で、食糧を求めて軍を抜け出した兵士が軍法会議にかけられた。国は1970年と1971年の戦傷病者戦没者遺族等援護法改正で、この軍法会議で刑死・獄死した兵士たちを救済。彼らの公務死認が可能となり、遺族は年金が受け取れるようになった。だが、飽く迄も“大東亜戦争”時代に拘る靖国神社は、この決定を不服とし、彼らの合祀を拒否することを表明した。また、原爆被害者や空襲被害者も靖国神社に祀られることはない。しかし、原爆被害にあった国民義勇隊員や、沖縄の戦斗協力者は合祀されるといった例外も存在する。このように、靖国神社の合祀基準には矛盾が多い。赤澤によれば、神社が只の“慰霊”の為の宗教施設ではなく、様々な意味で“政治的な場所”だからこそ、時代やケースによって合祀基準が揺れ動いてきたのだという。A級戦犯の例が象徴するように、靖国神社はまさに“政治”的な主張の為に合祀を行ってきた。全ての戦没者が“斉しくお祀り”されている訳ではないのだ。

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“詰めが甘い”し、“適当で自由”と言うと言葉は悪いが、これをよく言うと“大らか”ということでもある。靖国神社の大らかさを最も感じるのは外苑休憩所である。東京都内にありながら、ここまで“昭和”っぽさを残すような場所はない。まるで時代が止まったような休憩所では、夏にはかき氷、冬にはおでん等を楽しむことができる。“牛丼”“そば”“ラーメン”といった看板は、昭和風情のある手書き文字。“参拝記念”のお土産物も、スタイリッシュでお洒落なものは存在せず、数十年前から置きっ放しのようなキーホルダーやパズルが並ぶ。値段の表記も手書きで、『20世紀少年』の世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。最近では、鎌倉や川越さえも、コンサルタントの手を借りながら現代風にアレンジされた街になっている。そんな中、この外苑休憩所の野暮ったさはとても貴重だ。もっと驚いたのは、皇室に対する態度だった。休憩所では皇室の写真が飾られているのだが、冬にはおでんの湯気がもくもくと、その写真にかかっていた。柄にもなく、“不敬”という言葉が浮かんでしまう。ここで思うのは、靖国神社が大らかな“昭和”に取り残された場所だということだ。大らかだからこそ、つい最近まで見世物小屋もあったし、ナンパの聖地でもあった。遊就館の図録が“ガナルカナル”と表記してしまうのも、“昭和”なのだとしたら仕方ない。合祀基準が曖昧で、非常に政治的であるのも、“昭和”っぽいと言えば“昭和”っぽい。“昭和”時代は、今ほどコンプライアンスも煩くなかったし、国際感覚も人権感覚も希薄だった。靖国神社は、グローバル化を目指し、事実誤認に煩い“平成”とは一線を画する場所だったのだ。だから、大東亜戦争を肯定する神社でありながら、“平成”時代に登場したネット右翼ほど排他的で狂信的でもない。

靖国神社は戦後70年を迎えるに当たり、『英霊に贈る手紙』という企画を実施した。靖国神社に祀られている“英霊”に、遺族から手紙を書いてもらおうというのだ。その中では、「(憲法)9条はいつまでも守ってほしい」という一文の載った手紙が優秀作として選ばれていた。“憲法9条”というだけでアレルギーを示すネット右翼や一部の与党議員よりも、靖国神社が未だ大らかさを保っていることがわかる。だが、“平成”の世で“昭和”が生き残るのは難しい。いくら靖国神社がA級戦犯の合祀を「正当だ」と訴え、政治家たちが参拝を繰り返したところで、国際社会の納得を得るのは難しいだろう。靖国神社参拝が政治問題化すればするほど、A級戦犯のみならず、やはりしれっと合祀されているB級・C級戦犯をどうするかも、今以上の追及を受けるかも知れない。また、“平成”の消費者の目は厳しい。遊就館の展示クオリティーが、いつまで参拝者の心を掴めるかもわからない。尤も、“戦後70年”や安保法制のこともあり、僕が訪れた時、夏の遊就館は昼間だというのに、まずまずの賑わいだった。しかも若者が多く、中には戦没者の遺書を読んで涙を流している人もいた。“昭和”を守るテーマパーク、靖国神社。靖国神社が話題になり、参拝者が途絶えない限りは、“昭和”が続くということなのだろう。但し、“昭和”を守るのはいいが、誤字や皇族の写真の傾きは本当に格好悪いので、直ぐに修正したほうがいいと思う。例えば、仮に『東京ディズニーランド』を運営する『オリエンタルランド』に靖国神社の運営を任せていたら、こんなことにはなっていなかった筈だ。彼らは統一感を持った世界観を作るプロであるが、そうであるが故に細部を大事にする。“平成”の世で、果たして“昭和”はいつまで生き残ることができるのだろうか。


古市憲寿(ふるいち・のりとし) 社会学者。1985年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)。著書に『希望難民ご一行様 ピースボートと“承認の共同体”幻想』(光文社新書)・『絶望の国の幸福な若者たち』『誰も戦争を教えてくれなかった』(共に講談社)等。


キャプチャ  2015年秋号掲載




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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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