【日本人の死生観が急変しつつある現象を読み解く】(下) あの世でもこの世でも居場所をなくした死者

恐らく、今後は墓参の習慣も次第に廃れていくことだろう。それも時代の流れであれば、仕方のないことなのかもしれない。しかし、それが生者と死者との関係そのものの希薄化を招くとすれば、とても悲しく残念なことだと思うのだ。 (東北大学大学院教授 佐藤弘夫)

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3月に入り、陽射しも日毎に力強さを増してきました。20日は春分の日の休日です。世間では一足早い花を求めて、お出かけの予定を立てておられる方も多いのではないかと思います。春分の日は、言うまでもなく、秋の秋分と並んで、昼の時間と夜の時間が等しくなる時です。この日を境に、光の世界が闇の領域を徐々に侵略し始めるのです。春分の日と秋分の日を中心とする数日は“お彼岸”とも呼ばれ、お盆と並んで昔から墓参の日とされてきました。その理由は、お彼岸の中日に太陽が真西に沈むことにあります。彼岸は此岸と対になる概念で、本来は仏教でいう理想世界を示す言葉でした。仏教的な世界観によれば、宇宙には無数の世界がありました。私たちが住んでいるこの世、仏教では娑婆世界と呼ばれる地球は、沢山ある世界のほんの1つに過ぎなかったのです。其々の世界には、そこでの救済を担当する1人の仏がいると考えられていました。娑婆世界の仏は、言うまでもなく釈迦如来でした。けれども、釈迦がインドで入滅して以来、この娑婆は無仏の世となってしまったのです。仏の不在に対する危機意識が強まったのが、日本列島では11世紀のことでした。所謂“末法思想”の流行です。永承7(1052)年を境にして、仏滅後2000年という長い期間を経た娑婆世界は、「釈迦の仏法が救済力を失う暗黒時代に突入する」と考えられるようになったのです。無仏世界に絶望した人々は、新たな救済の道を求め始めました。その1つが、他の世界への転生(他界)です。娑婆世界こそ仏がいなくなってしまいましたが、目を広く宇宙に転じれば、仏のいる世界(浄土)は未だ沢山ありました。末法の悲惨な現実に打ちひしがれた多くの人々にとって、死後、その仏の下に生まれ変わり、そこで修行して悟りの道を得ることが究極の目標となったのです。浄土信仰の流行が、こうして始まるのです。

往生の目標とされた浄土は沢山ありました。観音菩薩の補陀落浄土や弥勒菩薩の兜率天等は、比較的よく知られた浄土でした。しかし、何といっても中世の浄土信仰の代表格は、阿弥陀仏の極楽浄土です。極楽浄土は、この婆婆世界から遠く隔った西方の彼方にあるとされた為、屡々“西方浄土”とも呼ばれましたが、真西に沈む秋分と春分の日は、地平線に没する太陽に寄せて阿弥陀の浄土を偲び、彼の地での再生を祈る絶好のチャンスと信じられました。実際に、極楽浄土往生を成就する為の実践として、西に沈む太陽を観想する“日想観”と言われる修行法も行われたのです。世に流行する浄土信仰を背景として、11世紀頃から盛んに建立されたのが、 阿弥陀如来像を安置する『阿弥陀堂』でした。まさに永承7年、藤原頼通の発願によって宇治の地に誕生した平等院鳳凰堂は、その初期の代表的な建物です。中には、定朝作の丈六の阿弥陀如来像が納められました。鳳凰堂は、池を前にして真東を向いて建てられています。彼岸の時期には、この建物の真上を太陽が過ぎり、背後に沈むというコースを取ります。夕方になると、開け放たれた堂の背後の扉から西日が差し込み、堂内を赤く染め上げます。人々は、落日を光背として光り輝く阿弥陀像に向かって合掌し、太陽の沈む西の方角にある極楽浄土の荘厳に心を寄せるのです。こうした仕掛けが作られたのは鳳凰堂だけではありませんでした。近年、世界遺産に登録された平泉ですが、それを構成する資産の1つに無量光院という寺院があります。その建物自体は最早存在しませんが、発掘によって、ほぼ正確に元の伽藍配置を知ることができます。その結果、無量光院もまた、その本堂は池を前にする形式で、東向きに造られていたことが明らかになりました。太陽はその上空を通って、背後にある金鶏山という山の頂に没するのです。金鶏山は、経塚(お経を埋納する施設)のある聖なる山でした。夕刻、堂内の仏を拝む人々の視線は、自ずから太陽の沈みゆく金鶏山に向かいました。阿弥陀堂から背後の金鶏山を経由し、極楽浄土に向かって、目に見えない中空のルートが一直線に伸びるのです。この光景を目にする人々に、軈て自分も堂内の阿弥陀像に導かれて、このルートに乗り、金鶏山を踏み切り板として遠い世界に旅立つというイメージを喚起する仕組みになっていたのです。




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浄土信仰の流行に見られるように、大多数の中世人にとって、浄土の実在は疑いようのない事実でした。人々が挙って往生を願った浄土とは、一体どんなところだったのでしょうか。浄土の様子は、浄土信仰の拠り所となった『観無量寿経』と、唐代の中国僧・善導がそれを解説した『観無量寿経疏』という書物に詳しく描写されています。しかし、多くの人々が実際に浄土の光景に触れたのは、直接それらの記述からというよりは、それを踏まえて、寛和元(985)年に著された源信の『往生要集』を通じてでした。源信は、平安時代半ばに活躍した比叡山延暦寺の僧です。往生要集は、その後の日本の浄土教発展の礎となる重要な書物です。往生要集は、序文に続いて先ず“厭離穢土”と題された章が置かれ、現世が如何に苦しみに満ちた“穢土”であるかが詳細に論じられます。この世に対する執着を捨てて、真実の世界を願い求むべきことが説かれるのです。続いて“欣求浄土”の章があり、そこでは一転して浄土の素晴らしい光景が描写されていきます。極楽世界の教主である阿弥陀如来は、観音菩薩・勢至菩薩を従えて、宝池の中央にある蓮華座に安坐しています。そこには光が満ち溢れ、法を説く声が響いています。極楽にも川が流れ、林があり、鳥が群れ飛んでいますが、全てが美しく照り輝き、不完全なものは何ひとつありません。衆生もまた、この世界に一歩足を踏み入れれば、その身体は自然に紫磨金色の姿に変身し、知らない間に煌びやかな衣類や装飾品を身に付けているのです。ここで説かれたような浄土の理想の光景は、絵画としても表現され、人々の視覚に直接訴えかけるようになりました。その代表的なものが、奈良の當麻寺にある當麻曼荼羅(右写真)です。この曼荼羅は、極楽往生を願った中将姫(藤原豊成の娘)が、蓮の茎から採った糸で一夜の内に織り上げたという伝説で知られています。蓮池を前にして、中央に鎮座する阿弥陀如来が大きく描写され、それを沢山の聖衆が取り囲んでいます。後方には宝閣があり、空中では飛天が音楽を奏でています。當麻曼荼羅は、正確には曼荼羅というよりは“浄土変相図”と呼ぶべきものですが、これと並んで日本で流通した変相図に、奈良の智光曼荼羅と清海曼荼羅があります。何れも阿弥陀如来を中心に、極楽浄土の様子を可視化したものであり、當麻曼荼羅を含めたこれらの曼荼羅群は、日本人の浄土のイメージ形成に大きな影響を与えることになりました。他方で、平安時代の後期には、地獄での責め苦の様子を描いた地獄草紙や、餓鬼道・畜生道等の悪道に落ちて苦しむ人々を描く『六道絵』と呼ばれる絵巻が、盛んに制作されました。それを見た人々に、この世での精進と極楽での脱楽を選ぶか、この世での懈怠と死後の苦痛を選ぶか、選択を迫ったのです。

死は全ての人々に平等に訪れます。この世でどれほど素晴らしい親子や夫婦の縁を結んだとしても、それが永久に続くことはありません。いつ、どちらの死によってその関係が終了するかさえ、予測することは決して簡単ではないのです。そこで多くの人々は、たとえ死によって現世の縁が一旦断ち切られたとしても、正しい信仰によって来世でその関係性を復活させることを願うようになりました。法然の信奉者に正如房という尼がいました。この人物については、後白河天皇の皇女である式子内親王であるという説もありますが、身分の高い家柄の出であることは間違いありません。正如房が病の床に伏した時に、師である法然に「もう一度お目にかかりたい」と手紙を送りました。これに対して法然は、どちらが先に亡くなるかは生死不定のこの世では全くわからないこと、正如房は正しい信仰を確立しているので、死後は必ずや阿弥陀仏の来迎を得て浄土に往生できることを説きます。その上で、たとえこの世で会えなくても、“一仏浄王”での再会は疑問の余地が無いのだから、往生を疑う心を起こすことなく念仏に励むよう説くのです。信心を貫いて、来世において浄土で再会する――。まさにこれが、今は「善悪何れにせよ運命を共にする」という意味で多く使われる“一蓮托生”の本来の意味に他なりません。一蓮托生を願う言動は、中世の文献に屡々登場します。一の谷の合戦で源氏方の捕虜となった平重衡は、南都焼討の責任を問われ、奈良に勾引されて処刑されることになりました。『平家物語』に見える平重衡とその妻との別れの場面では、重衡は追い縋る妻に、今生での再会の希望を捨てて、後世には1つの蓮に共に生まれることができるよう、仏に祈ることを勧めるのです。1つの浄土に生まれ合わせるという発想は、極楽往生を目標とする狭義の浄土信仰の世界に留まりませんでした。法然を厳しく批判した鎌倉時代の宗教者に日蓮がいます。駿河の在地領主・南条兵衛七郎の妻は、夫と共に日蓮の熱心な信徒でしたが、短い間に彼女は、その夫に続いて次男をも失ってしまいます。悲嘆に暮れる彼女に対し、日蓮は長い書を認め、「とても信じられず、慰めの言葉もありません」と深い哀悼の意を表明します。続いて、「釈迦仏、法華経の信仰に身を入れておられたのでご立派な臨終でした。一足先に亡くなった父君と同じ霊山浄土に往詣して、手を取りあい頭を合わせて喜び合っておられるでしょう」と述べて、信仰を貫いた2人が、今は同じ浄土で対面している様子を極めて具体的に描写します。そして、彼女も信仰に励んで、その場に加わることを目指すように激励するのです。極楽浄土・霊山浄土という違いはありますが、宗派の枠を超えて、中世人が彼岸の理想世界のリアリティーを共有していた様子を読み取ることができます。

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彼岸という言葉が今でも日常的に使用されているように、浄土信仰に伴って広く日本列島に定着した他界浄土の観念は、現在まで受け継がれています。しかし、彼岸のイメージそのものは途中で大きく変容しました。1つの例として、江戸時代の浄瑠璃の心中物を取り上げてみます。著名な脚本家である近松門左衛門の代表作に『曾根崎心中』があります。大坂蜆川新地天満屋の遊女・お初と、その恋人である徳兵衛との心中を猫いたこの作品には、“娑婆世界”“安楽世界”といった仏教的な概念が頻出します。また、道行きの果ての心中の場面では、お初に「これまで神や仏にかけておいたこの世の願いを、いまここで未来の救いへと回向し、後の世も一つの蓮に生まれ合わせましょうぞ」と言わせています。こうした言葉を見ると、この作品の基調には中世以来の浄土信仰があり、徳兵衛とお初が心中を遂げるのも、観音菩薩の導きによって死後2人揃って極楽浄土に往生し、1つの蓮華座を分けあうことを最終的な目標にしていると解釈したくなってしまいます。しかし、曽根崎心中の世界観と中世の浄土信仰のそれとは、決して同じではありませんでした。何よりも曾根崎心中は、浄土往生による宗教的な救済に究極の価値を置いていません。若し2人が真に浄土を願うのであれば、その為の然るべき手続きが必要でした。中世であれば、阿弥陀如来の像が安置され、香が焚かれ、念仏の声が響く清らかな仏堂の中で、心静かに安らかな臨終を迎えることが理想でした。徳兵衛とお初のケースは、それとは全く対照的です。2人が心中の場に選んだ曾根崎の森は、霊場でも聖地でもありません。刃物によって喉を切り裂き、血塗れのまま最期を迎えるという結末も、往生を求める善行からは最も遠いものです。

2人が望んだことは、実は来世での救いではありませんでした。2人が結ばれるというこの世で叶わぬ願望の実現を、死後の世界において実現することでした。行き先が地獄だろうが極楽だろうが、2人が一緒にいられればどこでもよかったのです。近松の作品には、中世人に見られた遠い彼岸の理想世界のイメージは最早ありません。生から死への移行に辺り、仏が主役を務めることもありません。その死生観の背景にあったものは、近世人が共有していた「人は死後もこの世に留まる」という認識と、現世の投影としての死後世界のイメージでした。そこには、彼岸世界と根源的な救済者の観念が縮小し、現世の生活と世俗的な愛憎の感情が浮上する、近世固有の世界観を見い出すことができるのです。もう1つの例は、式亭三馬の『浮世床』です。亡くなった愛犬を懐かしむ心に堪えかねて、飼い主は巫女に口寄せを依頼します。現れた犬は生前の思い出を一頻り語った後、主人に対し「あなたももういい年なのだから、臨終往生を急がれなさい。俺も草葉の陰で待っているから」と述べて、語りを終えるのです。この作品でも“極楽往生”“臨終往生”という言葉は出てきますが、中世のように遠い世界への旅立ちを意味するものではありませんでした。死亡して墓に入ることが、取りも直さず“往生”であり、“仏”になることに他なりませんでした。それらが本来持っていた意味を離れて、現代の私たちが使用する概念に近いものへと変化しているのです。近代に入ると、彼岸のイメージは更に変化します。死者の世界から神仏の姿が消えてしまうのです。その典型が、前回取り上げたムカサリ絵馬や花嫁人形、そして供養絵額です。そこに表現されたのは死者の世界です。しかし、未だ近世では辛うじて残っていた蓮の花咲く浄土のイメージは最早、存在しません。死者の幸福は仏の御元での宗教的な法悦ではなく、現世での至福の時である結婚式であり、衣食住に満ち足りた家族の団欒だったのです。

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間もなく訪れる春の彼岸には、沢山の方々が墓参に来られることでしょう。花を手向け、香を焚き、一足早くこの世を去った縁者の在りし日の姿を静かに思い起こすことでしょう。そこで思い描く死後世界の有り様は、近年、更にイメージが希薄化しているように見えます。私たちは、死者がそこかしこにいると辛うじて感じ取ることはできます。しかし、大方の人が共通して思い描くような死後世界のイメージは最早、存在しなくなってしまったのです。その典型的な例が、最近、死後世界を表現する際によく用いられる“天国”という言葉です。これはキリスト教に由来する概念ですが、今では宗派を超えて広く用いられるようになりました。この言葉を使用する人が、救い主のいるキリスト教的な観念を抱いているかというと、そういうことは全くありません。同じ言葉を用いながらも、思い描くその中身は人によって全く異なるのです。今、日本の社会から、人々が共有できる死後世界のイメージが消え去りつつあるのです。これは本誌正月号で述べた、生者と死者の関係の個人化の動きに他なりません。死と供養を巡る伝統的なシステムの解体と死後世界のイメージの拡散によって、嘗て社会的な制度として機能していた生者と死者の関係が、1対1の個人的な繋がりへと変化してしまったのです。死者は、この世の中に特定の居場所を失い、“天国”という漠然とした世界へと移動したのです。天国がどのような場所であるかは、その言葉を用いる人ごとに異なっています。お墓の中か、仏壇の位牌の場合もあるでしょう。文字通り、天の上から遺族を見下ろしている場合もあるかもしれません。或いは自然の中に溶け込んで、草木と一体化しているかもしれません。どこにいるかはわからないけれども、縁者が死者を想起した時だけ、死者はそこから立ち現れてくるのです。生者が思い出すことによって、死者がいつでもどこにでも姿を現すとすれば、江戸時代以来、長い間死者の住居と考えられてきた墓地は最早不要です。死者に会う為に態々墓に出向く必要はありません。故人を思い出す縁となる1枚の写真があれば十分なのです。恐らく、今後は墓参の習慣も次第に廃れていくことでしょう。葬送儀礼そのものが形を変えていくことも間違いありません。それも時代の流れであれば、仕方のないことなのかもしれません。しかし、それが生者と死者との関係そのものの希薄化を招くとすれば、とても悲しくて残念なことだと思います。

人類が初めて墓を作ったのは、今から数万年前の旧石器時代に遡ります。日本列島では1万年ほど前の縄文時代のことでした。縄文集落では、墓地は住居が取り囲む広場の真ん中に作られました。死者は動かなくなった仲間であり、葬られても尚、親しい存在だったのです。それ以来、この列島の人々は、時代によって形は変わっても、死者と親密な関係を継続してきました。人々は死者を共同体に加え、共棲を実現することによって、精神的により豊かで平穏な生活を実現できることを知っていたのです。その死者が今、あの世でもこの世界でも居場所を無くしつつあるように見えます。特定の住処を失っているだけではありません。社会のシステムそのものが死者を排除する方向へと向かっているのです。私たちが死者に語りかける言葉を失った時、残されたものは人間と機械だけの無機質な社会です。そうした事態を避ける為に、私たちは死者との関係を自覚的に再構築していくことを求められているのです。死者は、科学的な見地からすれば只のものに過ぎません。しかし、遺体をものとして処理する社会が、生者にとって幸福な世界と言えるでしょうか? 現代社会において心の潤いを取り戻す為には、死者を仲間と捉え、故人と対話してきた人類の英知に、改めて光を当てる必要があるように思われるのです。彼岸を迎える今月、彼岸桜の散りゆく花吹雪に亡き人の面影を見い出し、曼珠沙華の血の色に冥界の故人の運命を思う――。そんな日本人の伝統を振り返ってみてもいいのではないでしょうか。

Gonshan、Gonshan
何処へゆく
赤い お墓の曼珠沙華 曼珠沙華
けふも手折りに来たわいな

Gonshan、Gonshan
何本か
地には七本 血のやうに 血のやうに
丁度 あの児の年の数

北原白秋『曼珠沙華』より



佐藤弘夫(さとう・ひろお) 宗教学者・東北大学大学院教授。1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部史学科卒。同大学大学院文学研究科博士前期課程修了。博士(文学)。盛岡大学助教授等を経て現職。専攻は日本思想史。著書に『死者のゆくえ』(岩田書院)・『死者の花嫁 葬送と追想の列島史』(幻戯書房)等。


キャプチャ  2016年3月号掲載

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