連続幼女誘拐殺人事件、“ロリコン犯罪者”宮崎勤の魂が眠る土地を往く――被害者家族を破滅させ、獄門の露と消えた男の末路

戦後日本の犯罪史上、稀に見る残酷さと、幼女への異常な性愛を以て語られる宮崎勤事件。東京と埼玉を跨いで発生した連続幼女誘拐殺人事件は、主犯・宮崎勤が2008年に死刑執行された今も、都市伝説めいた話が浮遊している。宮崎勤は今、敬愛して止まなかった祖父と同じ墓の下に眠っている。この地に至るまで、彼ら一族の身の上にどのようなことがあったのか。今回、数々の事件現場を訪ねてみたが、改めて事件による傷痕の深さを思い知らされる結果となった。 (取材・文・写真/ノンフィクションライター 八木澤高明)

20160509 07
「あそこにカメラを持った何か変な人がいます」。集団下校をする為に校庭に集まった小学生たちが、先生にそう伝える声が聞こえて来た。“変な人”とは筆者のことだった。「早く帰りなさい」。先生がそう促すと、小学生たちの集団は走って学校を出て行った。筆者が不審者に間違われた場所は、埼玉県入間市にある入間ビレッジ7号棟前に架かる歩道橋である。カメラを持って付近を撮影していた筆者は、小学生を撮影にきた不審者だと思われたのだ。その時、「この地区では未だに宮崎勤の亡霊は生きているのだ」と思った。この歩道橋で今野真理ちゃん(当時4歳)が連れ去られたのは、今から27年前の1988年8月22日のことである。事件のあった歩道橋は、入間ビレッジ7号棟と小学校の中間地点に架かっている。この場所を筆者が訪ねたのは、平日の午後3時過ぎ。丁度、宮崎が真理ちゃんを連れ去った時刻である。下校途中の小学生たちが歩いていて、常に人の気配があった。しかし、真理ちゃんが連れ去られたのは丁度夏休みの白昼で、不運なことに人の気配は無かった。入間ビレッジの方角から友人の許を訪ねようと歩道橋に向かう真理ちゃんを見かけた宮崎は、反対側から先回りして、歩道橋の上で彼女を呼び止めた。「涼しいところに行かないかい?」。頷く真理ちゃんを、自身の愛車であるラングレーに連れ込み、自宅から程近い場所にある西多摩郡五日市町(現在のあきる野市)の山林へと向かったのだった。事件からかなりの年数が経ち、この場所を通学路に使う小学生たちは、宮崎が起こした事件を知らないのではなかろうか。ただ、この界隈に長く暮らしてきた人々や小学校の先生たちには、今も生々しい記憶として残っていて、不審者への警戒を怠らないのだ。真理ちゃんを愛車に乗せた宮崎は、入間市から国道16号線を南下。土地勘のあった東京電力新多摩変電所(八王子市)へと向かい、そこで車を止めて、ハイキングコースを歩いて、日向峰の山林の中で真理ちゃんをいきなり押し倒し、絞殺した。翌日も殺害した現場を訪ね、真理ちゃんの性器に指を入れるなどし、その様子をビデオ撮影した。翌年には真理ちゃんの殺害現場から遺骨を持ち帰り、自宅前の畑で家具類等と一緒に燃やしてから骨だけを拾うという奇行に及んでいる。その際、真理ちゃんの半ズボンやサンダルの写真と共に段ボール箱に入れて、両親が暮らしていた入間ビレッジの玄関の前に置いた。連続幼女誘拐殺人事件を盛んに報じていたマスコミによって、送られてきた真理ちゃんの歯が別のものだという報道がなされると、今度は“今田勇子”名義で犯行声明文を送りつけるのである。1件目の犯行を振り返っただけで、悍ましい気持ちにさせられる。その後、宮崎は犯行を重ねていき、合わせて4人の幼女を殺害した。

20160509 08
2人目の殺害は、真理ちゃん殺害から約2ヵ月後の同年10月3日。埼玉県飯能市内の小学校の前で吉沢正美ちゃん(当時7歳)を見かけると、「道を教えてくれるかい?」と言って車に乗せて、真理ちゃん殺害の時と同じように新多摩変電所に連行。ハイキングコースを歩き、真理ちゃんを殺害した場所から100mも離れていない場所で、同様に手を下した。殺害後、これまた性器に指を入れるなどしたが、死んだ筈の体が動いたことに驚き、その場を立ち去ったのだった。3人目に殺害された難波絵梨香ちゃん(当時4歳)は、やはり埼玉県川越市内の小学校の前を1人歩いているところを、宮崎に連れ去られた。真理ちゃんの事件から2ヵ月が過ぎ、季節は冬であったので、「暖かいところに行かないか?」と言って誘い出したのだった。秩父市と飯能市の境にある正丸峠付近で絵梨香ちゃんが泣き出したので、車を止めた。そこで、「お風呂に入ろう」等と言って全裸にさせ、写真を撮った後に殺害。その後、車に積んでいた死体を捨てようと場所を探している内に、山道で車を脱輪させ、慌てて遺体を近くの山林に遺棄した。この時、脱輪した車を、偶々通りかかった自動車販売業者の男性2人が、引き上げるのを手伝っている。彼らの証言によると、この時に目撃した車はカローラⅡだったという。宮崎の愛車はラングレーであるから一致しない。後の裁判で検察側は、2人の目撃者に「ラングレーではなかったか」としつこく聞いたというが、彼らは最後まで「カローラⅡだ」と言い張り、検察側は裁判で証拠採用することを断念している。この3人目の少女殺害に関しては、宮崎が事件を犯したという直接的証拠は何も無く、“宮崎冤罪説”が囁かれる1つの根拠となっている。4人目の被害者は翌1989年6月、江東区東雲団地の公園で、1人遊んでいる野本綾子ちゃん(当時5歳)を言葉巧みに車へと連れ込んだ。車内でガムを与えていると、綾子ちゃんが宮崎の生まれつき抱えていた手の平が上に向かない障害を揶揄ったことに殺意を覚え、車内で事に及んだのだった。その後、死体は自宅に持ち帰り、全裸にした上でビデオとカメラで撮影。同時にマスターベーションに耽った。殺害後、強烈な死臭を放ち始めた死体を、自室でノコギリを使ってバラバラに解体。胴体は埼玉県飯能市にある宮沢湖霊園のトイレに、手首や足首は自宅近くの御岳山に捨て、頭蓋骨は髪の毛を抜き取り、奥多摩の山林に放置したのだった。一連の事件を起こしてから10ヵ月が過ぎようとしていたが、それでも捜査の手は宮崎には及ばなかった。次なる幼女を物色していた同年7月、宮崎は八王子市内の公園で9歳と6歳の幼女を見つけ、6歳の幼女を公園近くの林道に連れ込み、全裸にして撮影しているところを幼女の父親に見つかり、強制猥褻の現行犯で逮捕された。後の自供によって、世間を騒がせた連続幼女誘拐殺人事件の真相の数々が明るみに出るのである。




20160509 09
「東京の銀座みてぇだったよ。いや、銀座以上だったな」。今は更地になった宮崎の実家の前で出会った男性は、事件当時を振り返って、そう言った。次から次へと押し掛ける報道陣に、静かな町は騒然となったという。「事件の後に売りに出されたんだけど、誰も買い手が付かなくて。結局、人に頼んで管理してもらっているって話だよ。何度か不動産屋が来て『分譲住宅にする』とか話はあったんだけど、やっぱりあんな事件があった場所だから、結局、更地のままなんだ。夏になれば川遊びの観光客が来るから、結構、駐車場は一杯になるよ」。私の目の前にある更地は、てっきり人手に渡っているのかと思ったら、土地は未だに宮崎家のものだという。事件を起こす前の宮崎の様子についても聞いてみた。「あんなことを仕出かすとは思わなかったけど、ちょっと変わった子供だったな。姉と妹は、道で会えばちゃんと挨拶をする子だったけど、勤は挨拶したことなんて無かったな。いつもソッポ向いていたよ。家の中では、爺さんにはえらい懐いていたようだな」。事件を起こす3ヵ月前に亡くなった祖父は、宮崎にとって精神的な支柱でもあった。祖父が亡くなった後、形見分けに集まった親族を追い払ったり、祖父の遺骨を食べる等、異常とも言える愛情を祖父には抱いていた。事件の引き金の1つが祖父の死にあったことは想像に難しくない。だが、織物工場を経営し、町会議員を務める等、地元の名士でもあった祖父だが、女癖の悪さは地元でも知られていた。「お父さんが新聞を出す前は、織物工場だったんだ。ここに移って来る前は、山の上のお寺の前に住んでいたんだけど、カネが入ってきたんだろうな。爺さんは、ここに来て工場を建てて、女工さんを何人も置いたんだ。お爺さんは手が早いから、女工さんに手を出して子供を生ませちゃったり、方々に女を作っては、お婆さんとよく揉めていたよ。お婆さんも勝ち気な人だから、黙ってりゃいいものを、近所に『うちの爺さんは、また女を作った』なんて吹いて歩くもんだから、有名な話だったんだよ」。勤の祖父は、黒八丈と呼ばれた泥染めの絹織物を織る工場を建てるまで成功したが、艶やかな噂がいつも付いて回る男だった。家の中では、そのことから喧嘩が絶えなかったというが、勤が生まれた頃には、流石に女遊びも収まっていたようだ。その代わりなのか、女遊びが落ち着くと同時に執着したのが、孫の勤だった。勤が欲しいと言ったものは何でも買い与えたという。

20160509 10
1962年8月21日に生を受けた宮崎勤は、生まれた時から両手首を回して手の平を上に向けられない障害があった。それ故に、内向的な性格が形成された。両親は、祖父が経営した織物工場を畳み、『秋川新聞』というタブロイド判の地方新聞を発行し、多忙を極めるようになった。よって、勤の世話は祖父と雇われた男性が見ていた。父親の発行する新聞は3000部の発行部数を誇り、常に黒字だったという。宮崎は経済的に恵まれ、何不自由無い家庭環境の中で育った。ただ、両親の諍いは絶えなかったという。PTA会長を務めた父親は、その際に女性関係の噂が立ち、そのことを詰問された母親に殴る蹴るの暴行をしたこともあった。多忙な為、両親に代わって祖父と雇われた男性が身の回りの世話をして育てられた“連続殺人鬼”宮崎勤。その成長過程で、十分に両親の愛に恵まれたとは言い難い環境であった。両親は、子供たちを含め、家族揃って食卓を囲むことも無かったという。裁判の証言で、勤が初めて幼女の性器にカメラを向けたのは、事件を遡ること4年前、1984年のことだと明らかになっている。既に問題行動を起こしていた訳だが、決定的な行動に及んだのは祖父の死後である。やはり、祖父は大きな支えであったのだ。勤の逮捕後、父親が発行していた新聞は休刊となり、逮捕から1年後に両親は家を取り壊して、五日市から姿を消した。5人兄弟の勤には姉妹2人と兄弟2人がいたが、結婚間近であった姉はそれが破談となり、妹も専門学校を退学に追い込まれた。兄弟も会社を辞職した。そして最大の悲劇が起こったのは、逮捕から5年後の1994年11月21日。勤の父親は、被害者遺族への慰謝料支払いの目処を立てると、多摩川に架かる神代橋から身を投げたのだった。宮崎勤の家があった更地から程近い寺に、宮崎家の墓地があった。その寺の門前は、織物工場を建てるまで宮崎の一家が暮らしていた土地でもあった。墓は墓地を入って直ぐの場所にあり、あまり訪れる人もいないのだろう。苔生し、供えられた花も枯れていた。黒い御影石に刻まれた墓誌を見てみると、事件の3ヵ月前に亡くなった祖父と自殺した父の名はあったが、勤の名前は無かった。ただ、墓誌の片隅に“無縁一切之霊”と刻まれていた。これが宮崎勤のことであり、彼が殺めた幼女たちのことを意味しているように思えてならなかった。この言葉を見た時、「宮崎勤の一族は、現世だけでなく、あの世までも宮崎勤が犯した罪を背負っていくのだな」と思った。


八木澤高明(やぎさわ・たかあき) ノンフィクションライター。1972年、神奈川県生まれ。写真週刊誌『FRIDAY』専属カメラマンを経て、2004年からフリーに。著書に『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』(小学館)・『娼婦たちから見た日本』(KADOKAWA)・『青線 売春の記憶を刻む旅』(スコラマガジン)等。


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