【思想としての朝鮮籍】第4部・朴正恵(下) この子らに民族の心を

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1972年10月、大阪市西成区にあった朴正恵の自宅に、父の盟友で、『朝鮮奨学会』(所属団体や思想信条を問わず、在日学生への奨学支援を行う中立団体)の理事だった李殷直が訪ねてきた。「今度、長橋小学校に民族学級を作るから、関わってみないか?」。“民族学級”の起源は1948年、朝鮮学校閉鎖令にある。抗議運動の結果、民族団体と文部省・自治体との間で“覚書”が交わされ、公立学校でも課外で週数時間なら、朝鮮語・歴史・文化の学習が可能になった。当時、朴は産休中だった。「正直、ピンとこなかった。それなら民族学校に転校して、1日中学んだほうが効果はある。何故、民族学級を作るのかと」。個々の教員が努力しても、公教育は本質的に“国民育成”の手段である。当時は日教組等も、朝鮮人の子供には民族学校への転校を勧めていた。李は語った。「日本の学校に通う子は、先ず出自を隠す。知られている子は酷い差別を受けるけど、声も出せずに我慢する子も多い。そういう子は軈て、アボジやオモニを否定するようになる」。朝鮮学校とは対極の現実だった。朴の表情に困惑を読み取ったのか、李はこう結んだ。「朝鮮学校に通う子だけが胸張って生きていくんじゃなくて、地域の子、皆が堂々とできなアカンやろ? この子らにこそ民族教育が必要なんじゃないか?」。キメ技だった。「そう言われたら断れないでしょ。後でえらい目に遭いましたわ(笑)」。

「私を根本的に変えた」と朴が言う長橋小学校(西成区)の民族学級は、複数の思い・事件・僥倖が交錯した地点に生まれた。直接の契機は同和対策事業だった。長橋小の校区は“同和”地区だった。運動の結果として1969年、一定額の学用品費支給と学力補充学級の開設が決まったが、対象は国民たる部落民で、在校生の2割を占める在日朝鮮人は排除された。被差別者間に生まれた“格差”に、朝鮮人児童から怒りの声が上がった。当時の教員だった太田利信は語る。「最初の不満は学力保障じゃなく、“おやつ”でした。午後3時に始まるので、補充学級ではコッペパンや白い牛乳じゃなくて、フルーツ牛乳と菓子パンの間食が出たんです」。保護者からの不満も相次いだ。「“私ら”の子にも学力保障して下さい!」「長橋は『差別を無くす』と言うのに、これは差別やろ!」「『補充に入りたい』って子が泣きつくんです」。太田の思いは複雑だった。「学力保障は大事だけど、現場の課題は、ほぼ全員が通名で通う民族性の抑圧でした。基本方針は、できれば民族学校へ通う。公立学校ならなるべく本名を使い、可能な限り家庭で言葉や文化を教えてほしい。でも、家庭訪問でそれを言えば、『朝鮮学校閉鎖令で日本の学校に行かせながら、今度は追い出すのか!』『本名を名乗らせて差別された時に責任を取れるのか!』『綺麗事を言うな!』とか怒鳴られてね」。1971年春、事態が動いた。児童会選挙に、5年の在日生徒である南仁が立候補した。「長橋では部落差別のことはよく言われるけど、朝鮮人差別は忘れられている。僕は、朝鮮人差別を無くす為に立候補しました」。補充学級の間食を運ぶワゴンを“襲撃”し、おやつを奪っていたヤンチャな南は、持ち前の行動力で各学年を回り、2位当選を果たした。同時期、大阪市立中学校長会の冊子に、朝鮮人生徒への差別偏見が記されていた問題が表面化した。校長会や教委を批判する教員たちは『公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会』を結成、解放教育を謳いつつ、朝鮮人を放置していた欺瞞を批判的に検証し始めた。翌年の児童会選挙には、南に触発された複数の朝鮮人児童が本名で立候補し、当選した。彼らは朝鮮問題研究部を結成し、活動の中で自然に「朝鮮人の先生から学びたい」との声が上がった。そこに、ある偶然が重なった。南ら6年の“国語”教科書に、A・ドーデの『最後の授業』が載っていた。「教員間で話し合い、朝鮮人の歴史と絡めて教え、最後は朝鮮人講師を招き、講演会を行うと決めました」(太田)。普仏戦争でフランスが敗れ、プロイセン領となる直前のアルザスで、最後のフランス語授業をする教師と生徒の物語だ(アルザス語というドイツ語の一方言を母語とする子供たちに、フランス語が“国語”とされていることを自明とする同作の問題性は夙に指摘されているが)。子供たちが受けたインパクトは強烈だった。「(生徒たちは)祖国の勉強が明日からできなくなるので、国語つまり“ろうごくのかぎ”をにぎろうと、ことばをおぼえようとしていたのだ。今のぼくらはそれと同じだ。でも今のぼくらは、“ろうごくのかぎ”を持たないで、ろうやをあけなくてはならない」(感想文より)。そして決定打は、朝鮮奨学会の理事である曹基亨の講演会だった。




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前半を終えて校長室で休憩していると、電話が鳴った。共同通信からの談話取材だった。「曹さんは恰幅のいい、地声の大きな方でしたけど、見る間に声が上ずり、受話器を握る手が震えていました」(太田)。この日は1972年7月4日。建国以来、互いを打倒の対象としてきた南北政府が協議を重ね、自主的な平和統一に向けた7原則で初の合意に至ったのだ。『7.4南北共同声明』。四方やの巡り合わせだった。「今、素晴らしい電話を貰いました! 我が国は統一に向かって第一歩を踏み出した!」。興奮と感動がそのまま持ち込まれた講演で、曹は合意内容を平易に語り、子供たちの機運が一気に高まった。「確かに、朝鮮人としての教育を考えれば民族学校に移ったほうがいいけれど、目の前の子供はどうなるのか? それが原点でした」と太田は言う。翌8月、朝鮮人保護者集会が催され、太田が民族学級開設を提案した。「従来の集会は学校側への不満をぶつける場だったけど、あの時は違った。共同声明の影響でした」。保護者で世話人会(後の運営主体)を立ち上げ、中身を詰めた。朝鮮奨学会から朝鮮籍と韓国籍各1人の講師派遣を受ける枠組みが決まり、前者は同会関西支部の金仲培、後者は大阪外国語大講師の金東勲が選ばれた。市の予算措置を待たず、保護者らは1口カンパで運営費を集め、11月21日に開設式を開いた。だが、思いは予想を遥かに凌駕していた。式には246人の対象児童中、実に151名が参加した。最初は5年以上を対象にしていたが、当初は懐疑的な態度だった親までもが「民族教育は早いほうがいい!」等と声を上げ始め、学校側が押し切られたのである。講師が足りなくなり、急遽3人を追加した。その1人が、多忙な金仲培の後任としてスカウトされていた朴だった。11月29日に開講。放課後の校舎内に、朴らの発音を反復する子供たちの声が響いた。放課後の2時間でも、子供は劇的に変化した。自分のクラスの黒板にハングルで名前を書いて自慢する子や、担任に「自分を民族名で呼んで」と言う子も出た。当時の作文には、自己解放の喜びが満ちている。「ちょうせんのことばや自分の名まえは、とてもむずかしいけれど、とっても楽しい。自分は少しでもちょうせん人だというじしんがでてきた」。

だが、南北分断が影を落とした。「12月5日、3回目の授業の前にね、金仲培先生から『多分、今日で民族学級は止まる』って言われて、何のことかと」。終了後、朝鮮奨学会が講師の引き上げを通告してきた。韓国サイドからの抗議が原因だった。「朴ら朝鮮籍者が、韓国民子息を教育するのは許せない」と言うのだ。講師たちは来校できなくなった。学校側は市教委主導の継続を求めて徹夜の交渉を重ねたが、領事館や民団から再三の抗議を受けていた市教委は及び腰だった。2学期最後の自主授業日には市教委の担当者が来校、子供の声を訊いた。「何故、先生が来なくなったのか?」「いつから再開できるのか?」――。次々と発せられる疑問に具体的な回答を避け、時に黙り込む担当者に、子供たちの怒りが爆発した。「ソンセンニムを返して下さい!」「差別を跳ね返す為に勉強したいのに、何でわかってくれへんねん」「朝鮮人の先生は、『あと3回勉強したら朝鮮語の字が大体書けるようになる』言うてた。あと3回でホンマの朝鮮人になれると思とったのに、その先生を取り上げられた僕らの気持ちがわかるか」「『答えられません』ばかりですけど、僕らを侮辱しているんですか」「日本人は、僕らが朝鮮人らしい朝鮮人になったら困るんか」――。午後3時半から5時の予定が、7時を過ぎても子供たちの怒りは収まらない。保護者が取った出前のウドンを掻き込み、“団交”が続いた。市教委に向けられた子供たちの言葉は、臨席した教師の胸をも射抜く。事態を打開できない自らの“不甲斐無さ”に号泣する教師もいた。年が明けても復帰は実現しない。一方で、韓国サイドの抗議はエスカレートし、1月23・24日には校区の朝鮮人児童の家に、民団府本部団長名のビラ『わが子女に浸透する共産教育を阻止しよう!』が配布された。25日には支団長名で会議が招集され、朝鮮籍講師の排除を求める連判状作成も目論まれた。それでも再開を目指すと、領事館側は民族学級の運営主体『民族教育を守る会』の役員を呼びつけ、旅券の没収まで仄めかした。テープの朝鮮語を復唱する日々が続いた。「子供が日本人の先生に『何で朴先生はけぇへんの?』って訊くけど、理由は言えない。『朴先生は小さな子供がいるから…』って答えるでしょ? そしたら今度は、子供から『僕らが子守りするから先生、戻ってきて』とか『もうテープは嫌や。本物のソンセンニムが欲しい』とか書いた手紙が来てね…」。見かねた朝鮮学校生らが自主授業を手伝い始めた。程無く、複数のメディアがこの理不尽を報じ、風向きが変わり始めた。決定打は、解放教育として行われていたサマースクールだった。部落解放同盟の協力で朝鮮人児童の場が設けられ、子供と年齢の近い朝鮮高級学校生らが2週間、子供たちを指導した。ロールモデルを見た子供の歓喜は、“大人の事情”では押し留められない再開への奔流となり、9月、遂に民族講師が戻った。「子供の思いが全てだった」と朴は言う。「民族学級は、単に『ウリマルとか歴史とか文化とか風習を学びたい』とか、『集まったら楽しい』とかで出来たんじゃなくて、『親や祖父母が奪われてきた民族のマウム(心)を自分たちで取り戻したい』という思いなんだって。それが教師たちを動かしてん。私が今、伝えたいのはそこやねん」。

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“長橋教育闘争”を乗り切り、やっと教育に取り組み始めたが、苦労の連続だった。「最初に誘われた時、『私、何教えますの?』って聞いたら、『朝鮮語や。正恵は文学部やから心配ない』って。でも、騙された。歌とか踊りとか、軒並み私の苦手なものばかり(笑)。朝鮮の学校と違うて、教材も何もかも自分で作らなアカンでしょ。私、凄い絵が下手やねん」。2年目は特に苦労した。「6年担当したけど、全然言うこと聞いてくれへんの。子供の前で何回も泣いてね」。五里霧中の日々、ある日本人教師の一言が光となった。「あの子たちは普段、『クラスでは出せない自分を、ここでは出していい』と実感している。解放されているんですよ」。発想の転換だった。荒れた子でも、1人ひとりと向き合えば関係性は変化した。同時に、市内外には次々と民族学級が開設され、複数の学校を掛け持ちする毎日が始まった。“上階から椅子や机が降ってくる”ような教育困難校でも、丁寧に語らう中で関係性を築いた。その秘訣を訊くと、朴は思い出を愛おしむように少し間を置き、言った。「一生懸命やれば、その時に意味はわからなくても、思いは通じる。それからやっぱり、怒鳴ったらダメですわ。私も大きな声出したこともあったけど、そうした子供は卒業後に繋がらない」。積み重ねた子供たちとの対話は、朴自身の来歴を見つめさせた。「1つは国籍です。親の判断で一家丸ごと帰化した子は、民族性が高まると悩む」。具体例を訊くと“語り”はトップギアに入り、堰を切ったように子供の逸話が溢れ出す。「『今日から僕は日本人やから、ここにおったらアカンのかな…』と呟いた子がいてね。この日に申請が下りた子やったん。別の子からは、『親が勝手に帰化したけど、戻されへんやろか』って相談されたことあってね。あの子の姿、忘れられへんわ。だって、かける言葉が無いもん。『国籍が人格決める訳ちゃうし、胸張ったらいいやん』って言いつつ、私は大学時代を思い出すん。『国籍なんて便宜上』と言う人いるけど、拘るのは日本社会の抑圧があるから。そこを解決せんと」。唐突に、「ソンセンニムの旦那さんは朝鮮人か?」と訊く男児がいた。「『そやけど』言うたら、『そしたら喧嘩せんでえぇな』って。『いや、うちも喧嘩するで』って返したら、『そういう意味ちゃうねん』って」――。家庭訪問すると、朝鮮人を父に、日本人を母に持つ子だった。父は不安定な日雇いで、生計は母が担う。普段は小さくなっている父は、反動なのか、酒を呑むと時に暴れた。子供の目には、その“だらしない”姿だけが映り、彼は“朝鮮”に劣性を見ていた。親の悩みも多種多様だった。「民族学級で活き活きとして帰ってくるけど、アボジとの会話が弾む一方で、日本人の私は寂しい思いをしている」と零す日本人の母もいた。

学級で頑なにチョゴリを拒否する子の家に赴けば、母が日本人だった。女児は、親の疎外感を慮って“朝鮮”を拒否していたのだ。親たちから意見や要望を訊いて歩き、日本人保護者を対象に学習会も開いた。丸ごと向き合うしかなかった。教室の前に佇み、「私、ここにいてもえぇの?」と言う中学生もいた。訊けば、「うち、朝鮮籍やから…」。朴が「朝鮮籍も韓国籍も政治的なこと。民族は1つやから、気にせんでえぇよ」と言うと、学級の子供が「気にせんでえぇ!」と引き受けてくれた。終了後、朴は自らの立場を説明した上で、彼女に言った。「先生も朝鮮籍なん。それで、オモニは日本人なん。大事なのはどう生きるかやから、一緒に頑張ろう」。子供の目が輝いた。「その頃から出自を言い始めた。直向きに努力してる子供たちと“生き方”を語る訳でしょ。南北対立が凄い時代だったけど、どうしても隠し切れなかった」。これまで足場の不安定さだとしか捉えられなかった自らの来歴は、子供や保護者の境遇と向き合う力に転じていった。「朝鮮人児童・生徒の自尊感情は、同じ境遇の者と出会い、その人の中にも自分と同様の“揺れ”や“迷い”“悩み”があることを知り、それを通して培われていくケースが多い」。自著『この子らに民族の心を 大阪の学校文化と民族学級』(新幹社)に記した、朴の確信である。子供や保護者の“迷い”や“揺れ”に向き合う中で、屡々頭を過ったのは、朝鮮人との結婚で除籍され、朝鮮人社会に飛び込み、根を下ろそうと努力した母の語られぬ“思い”だった。焼肉屋を切り盛りし、生活と夫の活動を支える一方で、歌舞団公演や映画上映があれば必ず朴を連れて行き、“民族”に触れさせた。息子2人を彼らの希望通りに朝鮮民主主義人民共和国へ送った後は、働きぶりに拍車がかかった。「『もうすぐ共和国に帰るから、家族全員で正月を迎えよう』とか夢みたいなことを本気で言ってね…」。ある時、母が呟いた一言を朴は忘れられない。「『昔、占い師に見てもらったら、私は大事な人が皆、離れて行く運勢にあるんやって。だから、正恵も帰りたかったら帰ってえぇねんで』って」。

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父が遺した莫大な借金を完済した後、母は遂に倒れた。日本での身寄りは朴1人だが、大阪に誘うと「日本人の私が正恵の家に行ってええの?」と繰り返した。説き伏せて横浜へ迎えに行くと、廃棄する荷物の中に何枚もの着物があった。「『何で?』って訊いたら、『朝鮮人の家庭に住むからもう要らない』って。『オモニは日本人なんやし、うち来ても着物着たらえぇやん』って言うて、持ってきてもらったけど…」。孫や曽孫に囲まれた穏やかな暮らしを経て、母は2010年秋、大阪で死去した。納棺の為に整理した行李の中に、持参した筈の着物は1枚も無く、黒い着物コートだけが入っていた。「それ見た時ね、悔いというか、結果的に私は、日本人であるオモニの尊厳を蔑ろにしていたんちゃうかって…。途絶えた人間関係とか、絶縁された時の思い、否応無しに横浜に来た覚悟とか、息子を共和国に送った時の気持ちとか、着物を棄てたこととか…。私に話したいこともあった筈なのに、私は無我夢中で走り続けて、訊かずに来てしまったって」。家族だけの葬儀、棺に向かって朴は言った。「ごめんなさい…ごめんなさい。ありがとう」。何故、あれだけ徹し、尽くしたのか。民族講師として、子供や保護者と“揺れ”や“苦悩”を分かち持つ作業は、言語化されなかった母の“思い”を推察する過程でもあったのだろう。「オモニに何もしてあげられなかった分は、せめて子供たちに返したいと思う」。全力疾走の日々。気が付けば、民族講師たちの支柱になっていた。1985年には脳腫瘍を手術し、右眼の視力を失ったが、現場は離れなかった。民族学級の拡充や講師の身分保障にも取り組み、2005年には大阪市内の民族学級が100校の大台に乗った。一方で、教育現場は1990年代以降、息苦しさを増していく。その象徴は、1999年の『国旗国歌法』だ。朴に子供への説明を頼む教師もいたが、「それは日本人教師の役割」と断った。対応に苦慮すると、マイノリティー当事者を表に出す。マジョリティーの“逃げ”に対する眼差しは厳しい。教壇を降りて10年近いが、隠居する気は微塵も無い。入院する昨年まで、研修会にも引っ張りだこだった。「だから、歳に自覚が無い。私の定年は死ぬ時やわ(笑)。民族を伝えることに終わりは無いねん」。

小柄な体は、語るべき“今”と“思い”で一杯だ。いつも、インタビュー序盤は質問そっちのけの独白となる。子供の大半がダブルや日本籍者となった現場の課題・教師の意識・行政施策の後退…。話は尽きない。とりわけ拘るのは、名前の問題である。「最近ね、(日本名か朝鮮名か)『どちらにします?』って親や子に訊く教師がいるけど、おかしいと思うねん。『貴方はどう呼びたいの?』『貴方は、この子の何と出会いたいの?』が先でしょ。何年か前の研修会でね、『ダブルの子に姓は無い』って言う教師がいて、批判したら嫌がられてね(笑)。民族学級では、2つのルーツのうち抑圧され易いほうを見つめて、丸ごと自分を肯定するのが大事やと思うん。だから私、“ダブル”の言葉も抵抗があったの。だって、日本人と朝鮮人が対等であって成り立つ言葉だと思うけど、未だに違うから」――。夫の故郷は済州島である。墓もあるが、朴には未だ未踏の地だ。「一度、日本の校長先生たちの研修ツアーで引率役やることになって、臨時パスポートが下りてね。連れ合いも喜んでいたけど、(後遺症の)ふらつきが酷くなってね。医者に相談したら止められた。倒れたら怖いし、実際、何回か倒れたこともあるけど、黙って行ったらよかったとも思う。未だチャンスあるかなぁ…」。そう言って朴は、沈んだ空気を振り払うように笑った。

――朴さんにとって朝鮮籍は?
「単純に『丸ごと朝鮮人になろう』と思って変えたけど、朝鮮籍は私を変えたね。自分のルーツをそれとして見据える人間になったんとちゃうかな。オモニへの眼差しも変わったん。家族は私以外は皆、韓国籍に変えたけど、私は20歳の時に『同胞社会で生きよう』と思って、アボジの籍に変えて再スタートしたもん。変えられるもんじゃない。朝鮮籍でいうと、亡くなったシアボジ(義父)が朝鮮籍でしてん。でも、『自分の時間が限られている』と思った時、『死ぬまでに一遍は帰りたい』って。『一遍行ったら、二遍・三遍行きたいでしょ。国籍変えてね。それで、済州島の土に理めてほしい』と言わはって、棺で飛行機乗って済州島に帰りはった」

帰国した弟2人は、既に鬼籍に入った。訪朝したいが、体調は如何ともし難い。「やっぱり、チョッカ(甥・姪)たちが気になる。だって、親戚いないもん…」。少し沈黙した後、朴は突然、声のトーンを上げた。「行きたい! 会いたい! やっぱり、弟の子供たちや孫たちに会いたい…。やっぱり、一度会ったら二度会いたいと思う。自分の身体では行かれへんと思うけど、行きたい! シアボジの気持ちが私、ようわかるねん。ああいう一世の思いに触れるとね、こんな理由で変えざるを得ない状況に、凄い憤懣がある。この分断状況を続ける朝鮮人社会と、その原因である日本に対してね」。一気に語ると、遠くを見るような目をして呟いた。「それにしても私、死んだら夫の家の墓に入れるのかな。それとも、朝鮮籍は骨になっても入国拒否で、玄界灘に散骨なんかな」。 《敬称略》


中村一成(なかむら・いるそん) フリージャーナリスト・元毎日新聞記者・在日コリアン3世。1969年、大阪府生まれ。立命館大学文学部卒業後、1995年に毎日新聞社入社。高松支局・京都支局・大阪本社を経て現職。著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)等。共著として『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)。


キャプチャ  2016年5月号掲載

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