【カオスを飲み干せ!挑発的ニッポン革命計画】(66) モーリーがオバマの“広島スピーチ”に涙した理由

“そこ”に入ったのは約40年ぶりのことでした。ローズウッド製の重いドアに薄暗い廊下、そして部屋のレイアウトまで、あの頃と同じです。『原爆傷害調査委員会(ABCC)』。戦後、広島市に『アメリカ科学アカデミー』が設立した被爆者の調査研究機関です。医師だった僕の父は、1968年にここへ研究員として赴任し、日本人の母、そして5歳の僕と共に、一家は広島で暮らし始めた。オバマ大統領が広島を訪れる数日前、僕は40年ぶりにその建物(現在の名称は『放射線影響研究所』)を訪れました。僕はABCCの廊下のベンチに座り、マンガをよく読んでいた。『はだしのゲン』を読んだこともあります。ページを捲りつつ、子供心にある種の違和感を抱きました。「何故、アメリカ人はこんなにも一面的で、憎むべき対象として描かれるのか」――。当時、多くの市民やメディアはABCCに対して「調査ばかりで被爆者の治療をしない」と批判的でした。確かに終戦直後、設立された当初のABCCは、来るべきソビエト連邦との核戦争に向けた軍事的な調査機関としての意味合いが強かった。それは事実です。ただ、僕が広島にいた1960年代末から1970年代、そこで働くアメリカ人研究員たちは日本人に敬意を払い、純粋に医療面で日本に貢献する為に調査に従事していた。「発展途上だった日本の医療を進歩させる」という志もありました。若い日本人医師が、父の知識や技術を必死に学ぼうとしていたのも知っています。後の助手の1人だった児玉和紀さんは、今も主席研究員として放射線影響研究所に勤務しています。児玉さんは2011年の福島第1原発事故の後、原子力災害専門家グループの一員として、半世紀以上に亘る同研究所の調査データを基に、「幸いにして、低線量被曝での健康被害の可能性は考え難い」と訴えました。しかし、一部の反原発派の人々は、児玉さんに“御用学者”と心ない罵倒を浴びせました。同じ時期に、ジャーナリストとして風説の真偽を追った結果、同じような人たちから同じような罵声を浴びていた僕としては、浅からぬ因縁を感じてしまいます。原爆・ABCC・アメリカ・日本・はだしのゲン・ヒロシマ・フクシマ・放射能…。変わらない光景、40年ぶりの児玉さんとの再会は、僕に多くのことを思い出させました。広島にやって来た僕は当初、インターナショナルスクールに通いつつ、家に帰ると近所の日本人の友達とよく遊び、自然と広島弁をマスターしました。スクールには僕のような日米ハーフの広島弁を話せる生徒が多く、日本語のわからないアメリカ人の先生に対して、広島弁で小馬鹿にするという悪ふざけが流行ったこともありました。

ある時、学校側は校内で日本語使用を禁じ、日本語の授業も初級編を除いてほぼ廃止されました。「何で日本語で喋っちゃいけんのじゃ!」。僕たちは反発しましたが、恐らく悪ふざけへの対抗措置だったのでしょう。日米ハーフが多かったスクールに、両親共にアメリカ人で、アメリカのライフスタイルのまま暮らす生徒が増え始めたのもその頃です。彼らは日本にシンパシーが無く、広島弁を話さず、日本のテレビも一切見ない。日本人に対して人種差別的な発言をすることもあった。そういう“白人優位ネタ”に卑屈に同乗する裏切り者のハーフを、僕は心の中で殴りつけました。そんな中での学校側からの一方的な“日本語禁止措置”。僕は自分の尊厳を守る為に、日本の小学校に通うことにしたのです。僕が5年生の2学期に転入したのは、五日市のマンモス公立校。僕にしてみれば、自分の“日本人性”を守る為に来たのに、当初はベランダから身を乗り出した何学年もの大勢の生徒から一斉に「帰れ」コールを受けたこともありました。しかし、校長先生が朝礼で「仲良くしなさい」と言ってくれた後は状況が変わり、最終的には周りの推薦で生徒会長になりました。私立の男子中学校に進学した後は、被爆者の祖父を持つ同級生と校庭で取っ組み合いの喧嘩をしたこともありました。彼はこう叫びます。「わしのじいちゃんはアメリカのせいで死んだ!」「白人! 白豚! ピカの責任を取れ!」。中学生ですから、こちらも売り言葉に買い言葉です。「それがどうした! ざまぁみいや!」「お前も親父もお袋も皆、ピカで死ねばえぇんじゃ!」。彼は突然、大きな声で泣き始めました。全く泣き止まない彼に、僕は只々謝るしかありませんでした。原爆の爆風で壁の下敷きになり、無数のガラス片が腕に刺さったという書道の先生も忘れられません。彼は最初の授業で、「よぅ見い!」と僕に傷痕だらけの腕を差し出してきました。その後も彼は、左利きで書道が苦手な僕の字を見て「ミミズの這ったような字じゃ」と揶揄う等、事ある毎に絡んできます。それは僕にとっては悔しいというより、何というか、苦々しいものでした。彼の言葉や表情には、「何で原爆を落とした国の子供を学校に入れるんじゃ」という憤りと、「でも、子供に罪は無い」という葛藤が滲み出ていたのです。その後、僕が右手で書くことを練習し、書道が上達すると、先生は一転して誰よりも褒めてくれ、「わしの代わりに、ピカドンのことをアメリカで広めてくれ」と思いを託されるまでになりました。




中2の夏、僕は一時、アメリカに戻ります。そこで待っていたのは、全くの別世界。原爆の悲惨さを教えるどころか、逆に「真珠湾野郎!」と罵られることもありまし た。向こうでは僕は“東洋人”。白人からは差別を受け、同じように白人から差別されている黒人も、よりマイノリティーな僕を攻撃する…。勿論、僕がずっと苛めを受けていた訳ではありません。しかし、差別が日常に内包された社会では、弱い者が弱い者を叩き、被害者が加害者となって別の被害者を生む。そんな現実を知ったのです。当時のアメリカ社会は、原爆の歴史にも、先住民虐殺の歴史にも、黒人奴隷の歴史にも、全く向き合っていませんでした。そんな僕にとって、オバマの広島訪問、そして核廃絶を訴えたスピーチは、これ以上ないほど感動的なものでした。オバマは昨年、白人の若者が銃乱射事件を起こした黒人教会を訪れ、人種差別の問題を正面から取り上げて批判する演説を行いました。黒人ハーフで、自身も苦い経験をしてきたであろうオバマにしかできないものでした。今回の広島でのスピーチも、「直接的な謝罪が無い」との批判もありましたが、アメリカの政治力学上、あそこまで踏み込んだだけでも相当な決意だったと僕は思います。そして、あのスピーチには崇高なメッセージが込められていました。スピーチは次のように始まります。「71年前の晴天の朝、空から死が降り注いで世界が変わった。閃光と火の壁が街を破壊し、人類が自身を破壊する手段を手に入れたことを示した」。その瞬間、僕には広島での少年時代に貪るように読んだ手塚治虫の世界がオーバーラップしました。手塚が多くの作品に込めた人類の破壊衝動の恐ろしさ・文明の愚かさといったメッセージが、そのまま重なって見えたのです。国際政治のリアリズムを知るオバマは、「核廃絶は、私の生きている内には達成できないかもしれない」と言いました。この世界の見え方もまた、何百年にも及ぶエピックを描いた手塚と共通するものがあります。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「過ちは繰返しませぬから」という一文が刻まれています。オバマはあのスピーチで、そこに“人類”という主語を入れたのだと思います。被害者・加害者を超え、全人類が未来を見るべきこと。憎しみは愛情や相互理解、和解で超えるしかないこと。それを訴え、“戦後”を終わらせようとしたのです。その言葉の1つひとつが、僕の中にある広島やアメリカの記憶を繋げていきました。


Morley Robertson 1963年、ニューヨーク生まれ。父はアメリカ人、母は日本人。東京大学理科一類に日本語受験で現役合格するも3ヵ月で中退し、ハーバード大学で電子音楽を学ぶ。卒業後はミュージシャン・国際ジャーナリスト・ラジオDJとして活動。現在、『NEWSザップ!』(BSスカパー!)・『モーリー・ロバートソンチャンネル』(ニコニコ生放送)・『Morley Robertson Show』(Block.FM)・『所さん!大変ですよ』(NHK総合テレビ)・『ユアタイム~あなたの時間~』(フジテレビ系)等に出演中。


キャプチャ  2016年6月20日号掲載




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テーマ : 国際政治
ジャンル : 政治・経済

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