【新幹線50年・零戦とロケットの夢を乗せた高速鉄道】(後編) 零戦技術者たちが戦った悪魔の“大振動”!

「今後の洋々たる国運の隆盛に思いをいたしますと、この新幹線の重要さは誠に大きなものがあると信じられます」――1959年4月20日、東海道新幹線の着工式で、当時の十河信二国鉄総裁は、こう感激の声をあげた。世界初の超高速鉄道はどのようにして開発されたのか。その歴史を探る特別読物・後編をお贈りする。 (取材・文 前間孝則)

東京オリンピックの開会式は1964年10月10日だった。新幹線は、五輪に間に合わせるため工事を急ぎ、なんとか10月1日に開通させることができた。その最大の功労者で、いまや“新幹線をつくった男”として伝説化されつつあるのが島秀雄である。だが、1番列車『ひかり1号』が東京駅を発車する出発式典に、島は招待されなかった。新幹線をほぼ完成させた任期半ばに辞職していたからだ。

私は、晩年の島に何度もインタビューしたのだが、式典に出られなくてどう思ったのかを、やはりどうしても訊きたかった。この日の早朝、島は昔から住む高輪の高台にある自宅にいた。「辞めるときには、新幹線はほとんど完成していたので、何も心配することはありませんでした。招待状は来ると思ってましたが、何の手違いだが知らないが、来なかった。1番列車は自宅でそっと見た。そのころは建物の合間から見えましたからね。一生懸命やれば、へんなものにはならないんだとつくづく思いました」。一般に日本人は、新幹線のような独創的で大がかりなシステムを、世界に先駆けてつくり出すことは苦手とされる。そんななか、新幹線は希有な大成功例といえる。いまや“シンカンセン”の呼び名で広く世界に知れ渡る、日本を代表する技術でもある。島は大きな仕事をなしてきたリーダーにありがちな、大言壮語や目立つパフォーマンスは一切しない。そればかりか自らの地位や名誉にも執着しない。言葉も丁寧で驕らず、もっとも技術者らしい技術者というべき人物である。






1951年、桜木町駅手前で車両火災が起こり、大勢の死傷者を出す事故があった。車両の最高責任者だった島は、責任のなすり合いに終始する国鉄の体質に嫌気がさし、事故対策を終えた時点で辞職していた。その島を、再び国鉄に呼び戻し、技師長に据えたのは、かつて南満州鉄道(満鉄)の理事だった十河信二国鉄総裁である。十河は、戦前に計画されていた広軌(国際標準軌)の新幹線である弾丸列車の実現に情熱を燃やし、“鉄道車両の神様”と呼ばれた島の父・安次郎の名前を出して、「父親の弔い合戦をしないか」と島を口説いた。

島がまだ現役で、新幹線が完成に向かっていたときのことだ。地価高騰やインフレなどもあり、建設費が予定の約2倍の3800億円に膨らんでいた。「そうとう前から、工事費が大幅に超過することはわかっていましたが、国会の承認を得るためにかなり低く見積もらざるをえなかったのです。でも、新幹線が完成したら、この程度の建設費の膨張は十分に賄えるし、大きな利益が得られることもわかっていましたから」と、島はさらりと言ってのけた。確かに、東海道新幹線は開業すると、ドル箱路線になった。

しかし、この赤字の責任を取って、1963年5月、十河信二は任期切れを理由にして辞任を余儀なくされた。十河に恩義を感じていた島も辞任を申し出たが、十河の後任に決まっていた石田禮助から「技術面の責任者として、このまま国鉄にとどまってほしい」と強く引き止められた。だが島は「せめて開業のときまで総裁職にと思っていた十河さんが、赤字を理由に再任されないのなら、実際に建設計画を指揮し、工事を推進してきた私にも大きな責任がある。十河さんと一緒に辞めるのが筋であると思っていました」と語った。こうして、新幹線の開業1年5ヵ月前の任期半ばにして辞任したのだった。

それにしても、新幹線はどのようにして開発されたのか。島の部下で、初代の新幹線0系の車両設計をした星晃にインタビューしたことがある。「あのころ、世界は“ジェット機時代の到来”と騒がれていました。その一方で『鉄道は斜陽だ』『時代遅れだ』といわれたものです。だから、0系車両を開発する鉄道屋はみんな高速で飛ぶ飛行機を強く意識していたが、とりわけ島さんは飛行機のような顔つきにこだわっていました」。“団子っ鼻”と呼ばれて親しまれた0系の先頭形状だが、開業当時は「まるで飛行機みたいな流線型で、スピード感あふれるデザインだ」と持て囃された。

先頭形状だけではない。「車両全体のカラーリングにおいても、それまでは汚れが目立つ白は、洗浄作業を頻繁にしなければならないから国鉄内ではご法度だった。でも思い切って飛行機と同じように、白を地の色に採用しました。これは日本の鉄道では初めてのことです。しかも横っ腹に濃いブルーのラインを配したのも、これまたそのころの旅客機をそっくり真似たのです。スピード感が出ますから」。0系の先頭形状のデザインは、島と星が2人で決めたようなものだった。星はこう証言する。「そもそも、鉄道車両に航空機の技術を持ち込むことを決めたのは島さんが最初です」。たしかに開業時、「新幹線の車両に、零戦の技術が生かされている」といわれたりした。それは敗戦直後、GHQの命令により、航空機の研究・生産が一切禁止されたからだ。零戦や『隼』『紫電改』など陸海軍の名機を設計した超エリートの航空技術者たちが失業して路頭に迷うことになった。そんな彼らを、大量に迎え入れたのが国鉄の鉄道技術研究所(鉄研)だった。とはいえ、専門が異なる鉄道だけに、これといった仕事はない。研究予算もなく、半分は遊んでいて肩身は狭かった。

敗戦の翌年12月のことだった。そんな航空技術者5人と、鉄研や鉄道車両メーカーを代表する鉄道技術者19人を集めて、島は『高速台車振動研究会』を発足させた。その1人で、元海軍航空技術廠の技術士官だった松平精は零戦を手がけていた。欧米の水準を大きく上回る性能を誇る零戦だが、試作時には問題が続出していた。そのなかでも深刻だったのが、試験飛行中にフラッターと呼ばれる振動(共振)を起こして空中分解した事故だった。その零戦の審査を担当した、同じ航空技術廠の高山捷一元技術士官に、このフラッター問題について話を聞いた。戦後の防衛庁で、もっとも多く自主開発の自衛隊機を担当したことで知られ、現在99歳で健在である。「このとき、松平さんが中心となって、欧米でも解明されていなかった難解な解析理論を生み出して、振動問題を解決しました。それから数年後、同じ解析を初めて米国がおこなうのです」。車両が高速走行すると、その台車は車輪とともに振動を起こして揺れが生じる。それがさらにひどくなると蛇行し、やがては脱線してしまう。この問題を解決するため、零戦の振動によるフラッター問題を解決した松平らを、島は研究会に参加させたのである。

松平と同じように、海軍航空技術廠から鉄研入りして、0系新幹線車両の開発に携わった元技術士官の三木忠直にも話を聞いた。彼は先進的な陸上爆撃機『銀河』の開発総括主務者だったことで知られている。「車両を軽量化し、さらに先頭形状を流線型にして空気抵抗を抑えれば、間違いなく最高時速は200kmを超えるのはわかっていた」。だが、鉄道技術者たちからは、その手の勇ましい言葉は嫌がられ、「勝手な言動を慎め、と本社からたびたび文句がきた」という。“殺るか、殺られるか”のつばぜり合いを演ずる戦闘機の開発者たちは、敵機より一歩でも先を行く最先端技術の開発が至上命題である。だから、リスクを冒してでも挑戦するのが当たり前だった。一方、安全第一の鉄道技術者たちは、石橋を叩いてからしか渡らず、慎重な考え方をしていた。案の定、研究会では、両者が自説の正当性を主張して譲らず、議論は激突した。それを「まあ、まあ」となだめ、調整して、いい方向へリードしていったのが議長の島だった。こうして、高速でも安定走行する流線型の“夢の新幹線”が実現するのである。

キャプチャ
当時、発表された新幹線のデザイン案。白地に赤いラインの入ったパターンもあった。

東海道新幹線は開業後、大いに利益を稼ぎ出すのだが、国鉄全体は一方的に赤字を累積させるばかりだった。新型車両の開発費は捻出されず、0系以降の研究は低迷する。だが、1987年4月、分割民営化を機に、JR各社は競うようにして、新世代の新幹線車両の開発に着手した。このとき、各社とも300km走行の実現を目指すのだが、高速走行にともなって発生する空気抵抗や騒音が、予想以上にすごく、お手上げとなった。なにしろ、時速300kmともなると、その空気抵抗は全走行抵抗の9割を占める。

JR各社から空気抵抗や騒音の問題解決のために協力を要請されたのが、東北大学流体科学研究所の小濱泰昭教授である。超音速機など最先端の航空研究者として世界にその名が知られた小濱教授が言う。「鉄道といえども、速度が200kmを超すと、セスナ機の飛行速度や大型旅客機の離陸速度の領域に入ってきます。空気抵抗にともなう騒音となると、一般に速度の6乗に比例しますからね」。特に、新幹線車両がトンネルに突入したときが問題だった。トンネル内に押し込まれた空気が空気銃のようになり、出口側で圧縮波となって大きな音を出すのだ。通称『トンネルドン』と呼ばれる猛烈な爆発音だ。深夜におこなった試験走行時には、寝入っていた周辺住民を飛び上がらせた。「何か爆発したのか、雷か!」。この段階になると、典型的なメカ屋である鉄道技術者には手に負えない技術領域となった。そこで先の小濱教授や、JAXA(宇宙航空研究開発機構)のロケットおよび超音速機の研究者である藤井孝藏氏らがJR各社から要請されて、問題解決に全面的にコミットしていく。

JR各社は、見事な流線型をした新世代の新幹線車両を続々と登場させてきた。500系・700系・800系・N700系・E1~E7系などである。いまや超高速鉄道はフランス・ドイツ・イタリア・スペインなどいくつもあるが、日本の新幹線ほど見事で多様な超流線形をした車両は見当たらない。N700系の先頭形状を設計したJR東海総合技術本部の成瀬功グループリーダーが言う。「鉄道先進国といわれる欧米諸国においても見当たりません。日本ならではのオリジナリティそのものです」。先の藤井氏も語っていた。「こうした航空機の技術を駆使して開発を進める鉄道会社は海外にはほとんどありません。間違いなくこの分野は日本がいちばん進んでいます」

どの技術者も「島親子なくして、日本の鉄道は今日の発展はなしえなかった」と言うのだが、島自身は、新幹線について「私は技師長として、取りまとめ役を果たしたにすぎない」と控えめに語る。と同時に、いかにも島らしい意味深長な言葉が印象的だった。「新幹線に目新しい技術はなにひとつ使われていません。時速200km程度なら、それまでわれわれが培ってきた実績のある技術を組み合わせたり改良すれば、十分に作り上げられるのです。お客さんに安全に乗っていただく鉄道で、実績のない目新しい技術をことさら追いかける必要はないのです」

島は、新幹線開業を前にして辞任した。だが、島を高く評価していた時の佐藤栄作首相は、隠居を許さなかった。新たに創設される宇宙開発事業団(現JAXA)の初代理事長職を半分無理に引き受けさせたのだ。島は、1969年、68歳で理事長に就任するや、ゼロからロケット関係の諸文献を読み込み、猛勉強する。一時は失明寸前になるまで目を酷使した。このころ、日本の宇宙開発は“舵なき船”と揶揄されていた。基本となるロケット開発の方向性をめぐって深刻な対立が続いていたからだ。従来からの固体ロケットに固執する勢力と、大型化に適する新たな液体ロケットの基本路線の違いだった。だが島は、両派の対立にとらわれることなく、“商業衛星打ち上げに適した液体ロケット”を採用する。そしてNロケットおよびHIロケットの打ち上げで、日本は宇宙技術を急発展させたのである。

JR東日本は、2020年代をめどに、時速320kmの新幹線の最高速度を400kmにまで引き上げる予定だ。開業から50年を迎えた新幹線には、このように零戦とロケットの夢が交錯していたのである。 《文中一部敬称略》

               ◇

知られざる『貨物新幹線』計画
東海道新幹線と並行して、夜間の貨物新幹線を運行する計画も進められていた。取り扱い駅は東京・静岡・名古屋・大阪で、最高時速130km、東京-大阪を5時間30分で結ぶ予定だった。すでに用地買収も終わり、工事も進んでいたが、トラックによる貨物輸送が一気に広がったため、工事はいつの間にか中止となった。現在、大阪府摂津市の車両基地周辺に、当時の遺構がわずかに残っている。貨物新幹線計画は、その後も何度となく浮上したが、実現することはなかった。最近では2009年に『東海道物流新幹線構想委員会』が“ハイウェイトレイン”構想を発表している。会見で中村英夫委員長は「柔軟な輸送ができる道路と、大量輸送ができ環境にも優しい鉄道、両方のいいとこ取りを目指したい」と述べたが、実現は微妙なところだ。


まえま・たかのり 1946年、佐賀県生まれ。法政大学中退後、石川島播磨重工業でジェットエンジンの設計に従事。同社退職後、執筆活動に入り、多くのノンフィクションを発表。近著に『新幹線を航空機に変えた男たち』(さくら舎)。


キャプチャ  2014年9月23日号掲載
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