【日日是薩婆訶】(18) ウソだらけの情報社会だけれども志ある若い僧侶にエールを送りたい

昨日、岩手県水沢での講演が終わり、今年(2016年)の講演予定が全て終了した。昨夜の講演でも話したことだが、今年1年は社会全体に極めて大きな変化が現れた年だと思う。思いつくままに書いてみたい。8月には天皇陛下生前退位示唆発言、同じ8月に『SMAP』解散決定、更にはリオデジャネイロオリンピック閉会式における安倍総理のマリオに扮しての登場があった。以前にも書いたが、これら一言の出来事は、宗教者としては見過こせない宗教動向のように思えた。つまり、昭和から平成にかけてヒーローが消え、アイドルもグループ化していった流れから、更にそれが解散し、“ゆるキャラ”に代表されるキャラたちに変わりつつあるのだ。アイドルが元々宗教用語であったことからも、その“象徴”への宗教的熱狂が低減し、対象も小粒化しているのは明らかである。これを日本的“八百万化”と見做すことも私は可能だと思うが、背景にはどうやらスマホに代表される通信機器の過剰な発達がある。宗教的な存在に祈って待つほど、今の人々は悠長ではない。「疑問や悩みは、手元のスマホで検索すれば直ぐ解決する」と思っているし、往事の若者たちを熱狂させた宗教的な集いも今は寂れ、代わりにSNSやフェイスブック等インターネット上の集会が盛んである。インターネット社会が盛んになると、何故アイドルが小粒化し、ヒーローがいなくなるのかというと、このインターネット社会が壮絶な噂社会だからである。SMAP解散決定後のインターネット情報等でもそうだが、謂わばあることないこと全てが洗いざらい出てくる。というより、その情報がどこまで本当か判らないような怪しい情報が、インターネット上に溢れてくるのである。政治の世界では、“ポストトゥルース”という言葉が流行った。“真実の後”と言えば勿体もつくが、要は“嘘”が罷り通る世の中ということだ。イギリスの『ヨーロッパ連合(EU)』離脱を巡る国民投票の時にはっきり現れたが、離脱派の主張する現状(※例えばEUとの貿易損額や率を示す数字等)が根拠の無い嘘だったというのである。しかし、その後も嘘は糾弾されることなく、しかも離脱賛成派と反対派の溝は埋まらないまま燻っているかに見える。アメリカの大統領選挙でも、ドナルド・トランプ候補は積極的にツイッターやSNS等を使ったという。素より、両陣営とも選挙用と割り切った熾烈な闘いを繰り広げた訳だが、そこにどれほどの嘘が混じっていたことだろう。ヒラリー・クリントン候補等、インターネット上では幾つもの病気を背負わされていた。しかし、これも選挙が終わってから“嘘”として糾弾される気配がない。嘘が常態化しているのがインターネット社会で、それが偶々ショッキングな表れ方をしたのが政治の世界だったのだろう。“正直”を賞讃した初代ワシントン大統領の“桜の枝のエピソード”は今何処である。

その後、この大統領選挙に絡み、「ロシアからのサイバー攻撃があった」とバラク・オバマ大統領が批判したが、それが果たしてロシアであったかどうかは兎も角、インターネット社会には奇妙な人々が生息している。例えばロシアの場合、失業中の若者等が雇われるらしいが、ビルの一角の事務所に毎日、朝から晩までPCに向かって働く人々がいるという。何をしているのかというと、インターネット上に嘘の情報を流すのである。専用のブログを立ち上げ、美女の写真を載せて、その女性になりすまし、政治に意見を言ったり、或いは無数の各ホームページに嘘の書き込みを入れていく等、定期的に政治の授業も受けながら、実しやかな嘘を書き続けるというのである。この作業で自己嫌悪に陥り、カミングアウトした人の話だから間違いないが、この種の仕事はアメリカや中国には勿論以前からあり、今や他の国々にも広がり出しているらしい。このようなインターネット社会だから、ヒーローやヒロインは勿論、アイドルでさえも存続することは不可能なのである。面と向かっては言えない嘘を、インターネットでならこそこそいくらでも書ける。そんな世の中に生きていることを、我々はよくよく心し、情報そのものの鑑識眼を養う必要がある。いや、「インターネット上の情報鑑識など無理だ」と割り切り、「その情報をあてにしない」というのも今や賢明な生き方なのかもしれない。そういう訳で、嘘だらけの情報社会を今後はどう生きていったらいいのか、暗澹とする年の瀬なのである。扨て、お寺の工事だが、12月6日に起工式が行われた。上げ家さんが庫裏を2mほど持ち上げ、その状態で基礎を始める為に儀式をしたのだが、この日のことは忘れがたい。テーブルに正絹の打敷を被せ、そこに五具足を具え、中央に“堅牢地神”の位牌、更には境内を守護する8柱の神を書いた位牌も祀り、最初に小生が一句を唱え、鍬入れ、読経につれてご焼香という短い儀式だったのだが、兎に角、この日は高齢の総代役員さんも胴震いするほどの猛寒風。寒さも並ではなかった。椅子席を覆うテントが浮き上がった為、瞬時に若手の職人たちがその柱を押さえてくれたが、今度は私の前の打敷が翻り、香炉の灰が飛び、更には水と花の入った金属製の花瓶が飛んだ。私の身に付けた袈裟など、雪村筆『列子図』の如くであったに違いない。それでも一句を唱え、鍬入れ動作をする等、少しは動いていた私は未だいい。じっと坐っているしかなかったご老体は如何ほど辛かったことだろう。まぁしかし、“雨降って地固まる、風吹いて清浄ならん”と思うしかない。1つ後悔したのは、鍬入れの仕方である。リボンを結ばれた真新しいスコップを砂山に突き刺し、返すだけなのだが、最近、私は神主さんの行う儀式を見たばかりで、その様子を真似、無言で行ったのである。




すると、次の設計士さんも大工の棟梁も、その瞬間に「えい、えい、えぇ~い!」と声を張り上げるではないか。最初に言われていれば私も大声を出したのに、「もう、何で言ってくれなかったのだろう?」等と愚痴っても詮無いことである。ともあれ、こうして厳寒の起工式は終了した訳だが、その後、既に2週間が経ったというのに動きが無い。基礎工事を行う業者が来ないのだ。まぁ、これは余裕といえばそうかもしれないが、少し勿体ない気がするのも確かである。「見えない所で何か準備をしている」と思っておこう。今年の年末は、父である先住職が2月に遷化した為、どうしようかと迷ったのだが、一応、世間の慣例に従い、“喪中につき”という扱いにした。つまり、年始受けの行事も無く、年頭回礼も省略である。本来、喪中忌中は明治6年の太政官からの発令。つまり、この国が神道の国であった時、死を穢れとして忌む神道の考え方で決められたものである。それによれば、“忌中50日、喪中13ヵ月”なのだ。そして、この決まりはその後、廃止や変更になった形跡がない。何故“13ヵ月”なのかというと、どうやら12月に亡くなった場合、“欠礼”の挨拶が間に合わない為、その際はお正月2つが喪中になるらしい。そうしたことも含め、檀家さんにはこれまで(※特に12月の葬儀では)説明してきたし、その際、「仏教はちょっと違う考え方だ」ということも話してきた。つまり、「ご不幸があろうと無かろうと、正月とは1年の歪みを“修正”する月だし、慶事と弔事は混じらない」と。だから、「芽出たいことはいつでも芽出たいのだが、世間の慣例だから一応は“欠礼”しておくのが無難だろう」と、そう申し上げてきたのである。そういう経緯があるから私は迷ったのだが、思えば遷化の後には“山門不幸”の大きな看板を掲げていた。「ここで普通に正月をするには相当念入りな文書が必要だろう」、そう思っていたら、葬儀が連続で起こった。私は雪崩に押し流されるように、世間並みにすることにしたのである。葬儀といえば、12月には関東で3人の檀家さんが亡くなった。何れも私がお邪魔できなかった為、位牌等を宅配便で送り、知り合いの和尚にお願いしたのだが、1件については直接和尚に頼んだのではなく、葬儀屋さんに同じ宗派の和尚を捜してもらい、その結果、偶々知り合いの和尚に行き当たったのである。今回のことで痛感したのは、都市部の葬儀の多様化・簡略化である。何を今更と言われるかもしれないが、1件の葬儀は家族と打ち合わせの末に、“一日葬”ということになったらしい。

そんなやり方は、こちらの作法には無いのだが、葬儀屋のメニューにはあるのだ。しかも、葬儀時間は20分だというからべラボーである。私は葬儀屋に電話し、何とか40分に延ばしてもらったが、“一日葬”というのは変えようがなかった。知り合いの和尚にその点を詫び、「何とかやり方を検討してほしい」と頼んだが、実際、自分だったら「そんなやり方はできない」と答えるかもしれないし、忸怩たる、いや暗澹と言ってもいいような気分に陥ったのである。都市部では“直葬”の他、それよりマシそうな“火葬儀”・“一日葬”等の言葉が使われ出している。葬儀屋が作り出すこうした新語は、色んなものを壊しながら新たな事態を産み出していくから恐ろしい。こういうのもありなんだと、言葉が思わせてしまうのである。偶々、著者の水月昭道氏から送られてきた『お寺さん崩壊』(新潮新書)を、 私は水沢への往復で読んだ。この著者には『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)の著書もあり、元々人間環境学の博士でもあるのだが、今回の本では実に赤裸々に“坊主丸儲け”どころじゃない地方寺院の実情を吐露している。著者自身が、実家である浄土真宗寺院を嗣いだのである。都市部の葬儀がおかしくなっている背景には、実は地方寺院の苦しい台所事情がある。今年は『Amazon.com』が“お坊さん便”を本格的始めた年でもあるが、そういう所に登録したり、葬儀屋に所属する形で働く僧侶には、兎に角、お寺だけでは食べられない事情も横たわっている。また、昔のように教師や役場職員、或いはJA等の職員と兼職できない今の宗教者の辛さも描かれる。私など教師と兼職する父に育てられたのだが、今は神職や僧侶が学校で教鞭を執ることは皆無。これは日本の損失と言っても過言ではないと思うのだが、どうにかならないのだろうか。昔は校長権限も強く、「葬儀ができたのでA先生の時間と交代してもらいました」で済んだそうだが、今はそれが「何故あの人ばかり…」と批判に曝されると聞いた。何とも世知辛い世の中である。この本では、浄土真宗の他力の教えについても後半、結構紙幅を割いている。また最後は、お寺さんは「まだまだ崩壊しないぞ!」と意地を見せて終わるのだが、現状打開は相当大変だろうと思う。今回は、素直に「スヴァーハ!」を唱える相手が見当たらないのだが、ここはこの本の読者も含め、志ある若い僧侶たちにエールを送っておきたい。水月師の仰るように、「僧侶とは生活でも経済でもなく、生き方なのだ」と思うしかない。そう思って雌伏しつつ、志を保っている僧侶たちよ、スヴァーハ!


玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう) 作家・臨済宗妙心寺派福聚寺住職。1956年、福島県生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒業後は職を転々とし、1983年に天龍寺専門僧堂に入門。2001年に『中陰の花』(文藝春秋)で芥川賞、2007年に柳澤桂子との往復書簡『般若心経 いのちの対話』(『文藝春秋』2006年12月号)で文藝春秋読者賞、2014年に『光の山』(新潮社)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。『アブラクサスの祭』『アミターバ 無量光明』(共に新潮社)・『御開帳綺譚』『龍の棲む家』(共に文藝春秋)・『無功徳』(海竜社)・『福島に生きる』(双葉社)等著書多数。近著に『やがて死ぬけしき』(サンガ新書)。


キャプチャ  2017年2月号掲載




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