【日日是薩婆訶】(20) 「起こるまでは考えない」をモットーに年に一度の小さな夫婦旅行にて

毎年大抵2月に、年に一度の休みを頂く。私は講演等の為、年中彼方此方出歩いているが、女房は留守居が多い。その慰労も兼ねて、一緒に1週間ほどお寺から外に出掛けるのである。外国に出た時期もあるが、最近は国内の離島が多かった。丁度、講演依頼があったりして、沖縄本島・奄美大島・石垣島等にもお邪魔できた。次回はどうするか、いつも年末辺りから話したりするのだが、今回はどうにも行きたい場所が一致しない。或いは「特別行きたい場所が無い」という言い方もできるかもしれない。理由を議論したことはないが、テロ関連で危険な場所が増えていることも無関係ではないだろう。カンボジア、或いはニュージーランド等も候補に挙がったが、どうも必然性がない。中々決まらないまま月日は流れ、結局、国内で気になっていた場所を3ヵ所、2泊ずつで廻ることにした。移動手段も、迷った末に自家用車で、行き先は佐渡、白骨温泉、そして伊勢である。佐渡には以前、私は行ったことがある。意外に知られていないが、佐渡は日本一、人口比でのお寺の数が多いところだ。減り続けた人口は現在5万7000人余り。そこにお寺が280ヵ寺もあるのだから驚く。福井県の小浜市は人口約3万2000人、対するお寺が150ヵ寺だから、これまた佐渡並みである。一番大きな要因は、親鸞聖人や日蓮聖人が佐渡に鳥流しにされたことだろう。また、世阿弥もこの島に流されたから、能舞台も多く、明治時代には200余りもあったらしい。現在でも30余りの舞台が残っており、8棟が現役の能舞台として使われているという。要は、お寺の場合も幾つが現役かということが問題なのだが、鵜飼秀徳氏の『寺院消滅』(日経BP社)等を読んでしまうと、ちょっと具体的な数字を知るのが怖ろしくなる。素より、我々は仕事を離れて佐渡へ来たのだし、「ここでは佐渡のお寺事情は目を瞑ろう」ということで、暢気に『トキ保護センター』へ出向いていったのである。雪の降る日だったが、トキの繁殖期は真冬の2月から始まるらしい。屋根付きの大きな施設で、トキの自然な活動が観察できるのだが、所謂“小枝渡し”と呼ばれる動きや、親子でドジョウを捕まえて食べる様子等も、特殊なガラス越しに見ることができた。驚いたのは、成鳥のトキの項の黒い羽根が自然な発色ではなく、自分で皮膚の脱落物を擦り付けるせいという話だった。“皮膚の脱落物”とは、人間でいえばフケのようなもの。それが、あのような美しい後ろ毛の元だったのである。

一時は絶滅しかけたトキも、今は順調に増え始めた。しかし、昔のようにトキの飛ぶ郷を取り戻すには、田圃や小川の清らかさを取り戻さなくてはならない。餌になるドジョウ、サワガニ、タニシがいなければ話にならないし、昆虫も沢山いてほしい。佐渡では農薬を使わない水田等が復活しているが、結果としてそれが旨い米の生産にも繋がっている。兵庫県豊岡市のコウノトリの場合もそうだが、彼らが棲み易い環境を作ることこそ、人間にも優しい環境づくりになる筈である。佐渡では結局、只の観光客になり、他には北前船の寄港地として栄えた小木や宿根木に行ってみた。気仙大工さんに手伝ってもらって復元した船を眺め、栄えた時代に建てられた建物を経巡った。普請中の我々としては、とても面白い体験になったのである。無論、佐渡に来たからには金山も欠かせない。寿命を磨り減らす過酷な労働は、展示を見ていても辛いが、鉱脈を発見した時に行われる儀式が人形で再現されており、これが殊の外面白かった。何よりその異様な装束が忘れられない。今はインターネットでも見られるようだし、興味のある方は覗いてみてほしい。佐渡に到着した2日後、フェリーで新潟港に戻った我々は、今度は一路、長野県を目指した。一度は行ってみたかった白骨温泉である。道路の雪が心配されたが、除雪は完璧に行われ、しかも天気が良かった。夕方までに宿に辿り着き、明るいうちに風呂に入りたかったのだが、その願いはほぼ叶ったと言っていいだろう。初めて入る白骨のお湯は実に気持ち良く、星の光り出した群青の空は穏やかそのものだった。その宿に限らず、ここでは温泉のお湯で煮込んだ鍋物が供される。雪に閉ざされた谷間に建つ中規模の宿だったが、ここで2泊、何度もお湯に入り、凍み豆腐等食べながら、すっかり世間の埃を流し去ったのである。そういえば、何十年かぶりに卓球も楽しんだ。全く何事もする予定のない、空白の白骨温泉だったのである。年によっては、こうして出かけてきても檀家さんの葬儀が出来てしまったりする。沖縄に行った年だったか、出かけた初日から連続で3人亡くなり、戻るもならず宿で戒名を付けた。留守居に頼んでいる和尚に枕経に行ってもらい、場合によっては葬儀をしてもらったこともある。去年は旅の途中で役員さんの奥さんが亡くなり、「戻るまで待つ」と仰るので予定を早めて戻った記憶がある。実を言えば、温泉に浸かっていてもそれが気になって仕方ないのだが、「起こるまでは考えない」をモットーに湯浴みを続け、卓球を楽しんだのである。この宿の変わったところは、入り口の坂が結構急な為、スタッドレスタイヤを装着し、4WDの車で来た客からは、1泊で2000円ほど割り引く。滑って動けなくなり、手伝う手間を考えれば、割り引いてもそうしてほしいということだろう。




入り口の下り坂は当然のことに、帰りは上り坂になる。しかも、積もった雪の下には氷が彼方此方張っている。我々が乗っていった車も4WDだったし、スタッドレスタイヤなので、「まぁ大丈夫だろう」と動き出したが、坂道の2つ目のカーブで動けなくなってしまった。後でわかったのだが、どうやら後輪に駆動を伝える部分が壊れており、前輪しか動いていなかったらしい。ご主人が出てきて運転を代わって下さり、バックで坂道を上ってくれて難無きを得たのだが、2日分の割引分4000円を返せとは言わないでくれた。いや、私も申し訳なくなり、「返さなくちゃいけませんね」と申し上げたのだが、「故障じゃ仕方ない」とご海容下さったのである。あまりに現金な話だが、一応、ここは「スヴァーハ!」と讃えておこう。扨て、今回の旅で唯一、事前に約束を取り結んで出掛けたのが、最後の伊勢である。伊勢には、庫裡の設計を請け負って下さった前田伸治先生の事務所がある。また、伊勢といえば当然ながら『伊勢神宮』がある。今回は何とかタ方までに伊勢に着き、「翌朝、伊勢神宮にお参りし、それから前田先生に午後から会おう」と計画した。しかし、事前に伊勢神宮の方とやり取りするうちに、参拝は少々大事になってしまった。装束部の宮本さんと電話で話したり、メールで応答し合ったのだが、特別のご案内の後でお神楽も拝見し、その後で『神宮の社』に案内して下さるという。当日は宿まで宮本さんが迎えに来て下さり、先ずは権禰宜職の吉川さんと一緒に境内を案内して下さった。印象に残ったのは、遷宮に伴い、建物の地盤になる土も50㎝ほど入れ替えるという話。20年毎に遷宮し、神宮は再生されるのだが、それは上物だけでなく、土から丸ごとなのだった。また、大きな台風等で境内の木が倒れたりした場合、通常我々仏教徒なら「これもご縁」と諦めるように思う。況して、儀式を邪魔したりする位置にあった木であれば当然、「こうなる運命だった」と見做し、そのまま何もない地面にしてしまうのではないか。しかし、吉川さんによれば、伊勢神宮ではそうはしないのだという。何より、そこに生えてきたご縁こそを絶対視するということか、驚いたことに裏山から姿形のよく似た木を捜しだし、“何事もなかったかのように”同じ場所に植えるらしい。つまり、遷宮は一種の“再生の為の回帰”だとして、どこまで戻るかが神宮独特と云えるだろう。

アメリカなど原点に還る発想が強いように思えるが、要するに独立宣言まで戻ってしまう。ところが、我々の伊勢神宮は、嵐が来る直前の状態にそっと戻すだけなのである。よく解釈しきれない不思議な話だっが、私にはとても日本らしい面白いエピソードだと思えた。我々はそれから拝殿でお神楽を拝観し、意外にもそこに中国や朝鮮半島の古い風俗が残されていることに驚いた。そして今度は作務着に着替え、軽トラックに乗り、営林部の中川さんに神宮の杜に案内して頂いたのである。伊勢神宮には凡そ400人ほどの職員が働いている。その内の100人が神職とい う巨大な宗教法人だが、他にも先程の装束部や営林部等、幾つもの部署がある。神様へのお供えである神饌を国内で生産する為、あらゆる産業に関わっていると云っても過言ではない。そして、二十数名からなる営林部は、「遷宮に必要になる材木を何とか昔のように自給できないか?」と、日夜、杜づくりに励んでいるのだ。現在は、遷宮に要する檜の約8割は木曾から運ばれてくる。しかし、総面積5400haにも及ぶ神宮の杜を育てることで、150年後には村木全てを自給できる体制が整うという。150年後を見据えての仕事とは、実に遠大である。杜の中を歩くと、何とも云えない佳い香りがする。それは、落ちた葉が土中のバクテリアに分解され、発酵しているような甘みを感じさせる土の香りだった。不思議なことに、その杜に生えた椿は怖ろしいほど背が高い。しかも、杜全体に光が差し、風が通り、その清々しさは格別である。完全に天然のままの杜が約半分、残り平分には檜が植えられ、枝打ちされ、その周開の下刈り等もされているようだが、不思議なことに一定期間が過ぎてくると、困るような下草も次第に生えなくなるという。そこは、自然と人工の絶妙なバランスが試される壮大な実験場なのだった。これまでは“不成績造林地”と呼ばれた広葉樹も入り混じった檜の林が、遠大な計画で目指されているのである。その遠大さ・壮大さに、今回は最大の「スヴァーハ!」を捧げたい。杜を出た我々は、内宮前の鳥居近くで前田先生に会い、先生が相当深く関与している『おかげ横町』を散策した。伊勢志摩サミットの影響が多少はあるにしても、その人出は驚くほど多く、聖と俗の理想的融合を見た思いがした。美味しい夕食を頂き、飲み、それから歌い、更けゆく夜の記憶はあまり明確ではない。しかし翌朝、宿を出発し、戻り足が中部地区にかかった頃に、檀家さんが亡くなったとの電話。そのこの上なくありがたいタイミングに、思わず天照大神へ「スヴァーハ!」し奉ったのである。


玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう) 作家・臨済宗妙心寺派福聚寺住職。1956年、福島県生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒業後は職を転々とし、1983年に天龍寺専門僧堂に入門。2001年に『中陰の花』(文藝春秋)で芥川賞、2007年に柳澤桂子との往復書簡『般若心経 いのちの対話』(『文藝春秋』2006年12月号)で文藝春秋読者賞、2014年に『光の山』(新潮社)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。『アブラクサスの祭』『アミターバ 無量光明』(共に新潮社)・『御開帳綺譚』『龍の棲む家』(共に文藝春秋)・『無功徳』(海竜社)・『福島に生きる』(双葉社)等著書多数。近著に『やがて死ぬけしき』(サンガ新書)。


キャプチャ  2017年4月号掲載




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