安倍官邸を操縦する男の知られざる66年――最強の官房長官・菅義偉の虚像と実像

「菅さんには休みという概念がないんです。毎日、朝6時半に自宅にお迎えに上がり、家に帰るのは早くて夜10時すぎ。趣味や娯楽の時間などまったくなく、有馬記念など競馬の大きなレースがあるときにチラッとスポーツ新聞を見るだけでした。車内でもNHKのニュース以外、ラジオも音楽も一切かけない。唯一の楽しみと言えば、たまにお台場の“ホテル日航東京”に行くことぐらい。『1時間ぐらい時間を潰してこい』とだけ言われるんです。おそらくスパにでも入っているんだと思いますが、息抜きはそれぐらいです」(菅氏の元運転手)

総選挙に目論見通り大勝し、2020年までの長期政権すら見据える安倍晋三内閣で、余人をもって代え難い“要石”と言われる菅義偉官房長官(66)。「歴代官房長官の中でも5本の指に入る」(自民党神奈川県連の梅沢健治元会長)という最大級の評価さえ出始めたが、菅はあくまで首相の影に徹し、表舞台で脚光を浴びることを忌避しているように見える。その本心を覗かせることはほとんどないが、菅は安倍に付き従う“忠犬”に徹するのか、人知れず野心を胸に秘めているのか。菅義偉の66年の半生を辿っていこう。




菅といえば“秋田の農家の息子”で、「集団就職で上京した叩き上げの苦労人」と言われる。本人も自己紹介でそんなフレーズを使うことが多いが、その生い立ちを取材すると事実はやや異なるようだ。秋田県南部の豪雪地帯・雄勝郡秋ノ宮村(現・湯沢市)。1948年、義偉はこの地で農家の長男として生まれた。姉が2人、弟が1人。父の和三郎は南満州鉄道の社員で、朝鮮国境付近の通化という地で終戦を迎えた。臨月の妻と幼い娘を連れて南満州から引き揚げ、命からがら辿り着いた故郷の秋ノ宮村で農業を始めた。引き揚げから2年、一家に生まれた待望の男子が義偉だった。幼い頃は渓流釣りに夢中だったという義偉少年。中学校では野球部に入り、“3番サード”の強打者として鳴らした。生家が近く、小・中・高校と同級生だった伊藤英二が話す。「義偉は口数が多い方ではありませんでしたが、常にリーダーシップを発揮していました。いじめっ子といじめられっ子の間に入って、よく仲裁していました。運動神経は良かったですが、彼が勉強しているところはほとんど見たことがない。それでも成績は、150人中上位10番以内にいつも入っていましたね。私達の中学は文化祭で演劇をやるんですが、成績が優秀な生徒しか出られなかったんです。“レ・ミゼラブル”を上演したときは、義偉は主人公のジャン・バルジャンを追うジャベール警部という役をやっていました」

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中学時代は野球部に所属。好きな選手は長嶋茂雄だったという。

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ジャベールを演じる中学時代の菅(中央)。生徒や保護者からは上々の評判で、なかなかの“名優”だったようだ。

秋田県立湯沢高校に進学。もっとも実家から近いという理由で選んだが、それでも通学には2時間近くかかり、冬場は雪でバスが通らなくなるため下宿した。2年生の時には野球部を続けることを断念している。姉と同じ北海道教育大学を受験するも失敗。父は実家の農業を継ぐことを前提に、息子に農業大学への進学を勧めた。だが義偉はそれを拒み、家出同然で上京する。「冬が嫌いなんだよ。ずっとどんよりした雲があって、雪が降るとどこにも行けなくなる」。後に菅は上京した理由を問われて、周囲にそう答えたという。では、“集団就職で上京”とはなんだったのか。前出・伊藤が話す。「義偉が国政に出馬したとき、新聞で『集団就職で上京してきた叩き上げ候補』と書かれたんです。『あれ?』と思って、初当選した時の祝賀会の帰りのタクシーの中で『なんで集団就職って書かれてるのを否定しないんだ?』と聞きました。すると義偉は、『横浜には全国から集団就職で上京して来た人が多く住んでいる。オレの選挙は、その人たちに勝たせてもらったようなものだ。だから、あえて否定する必要もないだろ』と言っていました」

菅の強みのひとつと言われるのが、独特の人心掌握術だ。政界だけでなく財界や官界にも広く協力者を持つが、様々な社会経験を重ねたことが対人関係を築くベースにあるようだ。上京後、板橋区の段ボール工場で住み込みで働いたり、築地市場で台車運びの仕事をした。昼夜を問わずに働き、合間に受験勉強という生活を2年間続けた。「私立で一番学費が安かったから」という理由で法政大学法学部の夜間部に入学。ここでもアルバイトをしながら大学に通った。実家からの援助はなかった。大学卒業後の1975年、電気設備会社で働いていた26歳の菅は、一念発起して政界入りを志す。「『政治家になるにはどうしたらいいですか』と法政大学の就職課に聞きに行ったそうです。就職課も初めての質問でずいぶん困ったそうですよ」(知人)。就職課からめぐりめぐって、自民党の故・小此木彦三郎元建設相を紹介され、以降11年にわたって小此木の秘書として仕えるようになる。政治家としてのイロハを叩き込んだのは、前出の元自民党神奈川県連会長・梅沢健治だ。「小此木から『今度、菅という奴がウチに来たんだが、右も左もわからないから色々と教えてやってくれ』と預けられた。昔から寡黙で真面目な青年だったよ。『自民党支援者以外の家も回る』『とにかく早食いになる』など、すぐに体得していった。昔から、選挙になると血が騒ぐようだったよ。特に教えたのが、『自分の選挙を頑張るのは当たり前。他人の選挙をどれだけ一生懸命できるかだ』ということ。他人の選挙で汗をかける奴は、簡単に風に飛ばされないんですよ」(梅沢)

後年、菅はインタビューで秘書時代を振り返り、「探し求めていたのはこれだと思った」と語っている。漫然と東京に出てきた菅は政治の世界で水を得た魚のように働いた。1987年、結婚して3児の父となっていた菅は、横浜市議選への出馬を決意する。早朝6時に家を出て街頭演説をし、1日数百軒の戸別訪問をしていた。歩き回りすぎて、選挙中だけで何足ものクツを履きつぶしたという。市議当選を果たすと、菅は梅沢の教え通り、他人の選挙で汗をかいて信頼を獲得していった。菅の選挙にかける意気込みは相当なものだったという。元秘書で、現在は横浜市議の遊佐大輔が振り返る。「昔、駅頭活動をしているときに、菅さんから『のぼりの立て方が違う』と叱られたことがありました。『1cm右だ』とか『5cmこっちだ』というレベルなんです。後々になって気づいたんですが、のぼりには裏表があって、その日の風向きなどにあわせて位置や向きを調整しないといけないんです。ほとんど違いはわからないんですが、菅さんにはそれだけこだわりがあるんです」。小此木の持っていた政界・官界のネットワークも引き継いだことで、菅は“影の横浜市長”と呼ばれるまでの影響力を持つようになった。1990年の横浜市長選で菅の協力を得て当選した高秀秀信は、菅に全幅の信頼を置き幹部人事などを頻繁に相談した。1996年の衆院選で神奈川2区から出馬した菅は、当選を果たす。

菅は衆院議員になってからは雌伏の時が続いた。1998年の自民党総裁選では所属していた小渕派を離脱して、元自民党幹事長の梶山静六を推して反発を買った。2000年には“加藤の乱”に同調して冷遇を受けた。派閥を転々としていた2002年、北朝鮮の貨客船『万景峰号』問題を機に安倍と出会う。安倍は菅の人脈の広さと情報収集力に舌を巻いた。第1次安倍内閣発足の際には、すでに菅を官房長官に抜擢しようとしていたほどだ。一方の菅は、なぜ安倍を支え続けるのか――。永田町関係者の誰もが一度は抱く疑問である。岸信介首相の孫・安倍晋太郎外相の息子というサラブレッドと、秋田の農家出身で市議あがりの叩き上げ。生活ぶりもまるで違う。「菅さんは食事に頓着がないんです。選挙区内を回るときは、上永谷駅だと駅前のマクドナルド、蒔田駅だとジョナサンと店は決まっていますが、何が食べたいというのはまったくない。国会中はずっと参議院本館地下でにしんそばでした」(前出・元運転手)という証言もある。肉好きのグルメで知られる安倍首相とは好対照だ。自宅も横浜の高層マンションの一室で、交通の便を考えての選択という。「菅さんに、『なぜ安倍さんを支えるのか』と聞いたことがあったんです。すると、しみじみと『自分は市議上がりで地方政策には強いが、国家観が課題なんだよなあ』と話していた。安倍さんは世襲議員の特徴で、外交や安全保障など大きな話をしようとする。菅さんにはないものを安倍さんが持っていた」(政治ジャーナリスト・鈴木哲夫氏)

世襲議員に対するコンプレックスを菅は隠そうとしない。自民党関係者が話す。「菅さんが自分にない魅力を安倍さんに感じているのは確かですが、同時に安倍さんを担げば自分の地位も上がっていくということもずっと考えていた。安倍さんが体調不良で退陣したとき、菅さんは『必ず5年後に安倍さんをもう一度総理にしてみせる』と息巻いていたが、そこには“計算”もあったはずです」。以前、安倍は側近議員との会食で「私でも彼のことを怖いと思うときがあるよ」と漏らしたという。菅は安倍という“看板”を利用して、政治力を振るう。2012年、菅は渋る安倍を説得し総裁選に出馬させ、第2次安倍政権誕生の立て役者となった。そして、「一度やってみたいと思っていた」という官房長官についに就任。だが、その手法には「強引さが出てきた」という批判の声もある。「菅さんは2009年の麻生内閣時代、解散を先延ばししたことで、結局、自民党下野の流れを作った“戦犯”です。いまだに『当時のみそぎがすんでいない』と党内からは批判の声がある。昨年の解散総選挙も、このときの失敗から『解散の機を逃したくない』という思いで、強引に突っ走ったのではないか」(前出・自民党関係者)。第1次安倍改造内閣時代に官房長官を務めた与謝野馨氏はこう指摘する。「去年の解散総選挙の際に、消費増税延期に反対の声を上げた野田毅税制調査会長について、官邸サイドが『公認を出すな』とゆさぶりをかけました。昔の自民党は、政策について総理に刃向かっても“公認を外す”なんていう幼稚なマネはしなかった。官房長官は謙虚さを失ってはいけないんです」

菅は1月11日、NHKの討論番組で来年の衆参ダブル選挙の可能性について問われると、「常識的にあり得ない」と一蹴。首相の解散権に口を出した形になった。昨年12月の総選挙の際の会見でも、「(解散は)早い時期から考えていた」と笑みを浮かべながら答えた。政権を運営して2年。菅は強烈な自信を隠そうとしなくなってきた。“最強の官房長官”を貫くのか、それとも“その先”を目指すのか。選挙戦で真っ黒に日焼けした菅の双眸だけが、ギラリと白く光り始めた。 《文中敬称略》


キャプチャ  2015年1月30日号掲載


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