【ベネッセの実像】(下) ベネッセ、“2つの顔”の源流

JR岡山駅から北東に1kmの街道沿いに、地上14階地下3階のベネッセホールディングス本社ビルがそびえている。現代アートが屋内外に設置された近代ビルは、年商4663億円に成長した地元企業としての威厳を示している。だが、ここからわずか200mの場所に創業の地があることは、あまり知られていない。今も古い工場のような建物が残り、入り口のガラス戸には創業一族である福武家の資産管理会社の社名が書かれている。その旧本社のわずか数mを隔てた隣に、長泉寺の事務所が建っている。名誉住職の宮本光研は、終戦から10年を経た1955(昭和30)年の創業直後から、この寺で福武書店(現ベネッセ)の急成長を目の当たりにしてきた。「異常でしたよ。なんで、あんなにもうかるのか。私は“戦後”が福武を伸ばしたと思うんです。当時の日本人は、学歴がないと子供が戦場に出されるという恐怖におびえていた。受験勉強なんて、戦争に比べたら何てことない。その心理をうまくついた」。創業期、福武哲彦は妻とともに休みなく働き、午後9時前に仕事を終えたことはなかったという。そこまで事業に猛進したのは、二度と倒産したくないという執念だった。福武書店(現ベネッセ)創業の前年、経営する冨士出版が不渡りを出して破綻、地元の岡山で取引先を失った。哲彦は“千三つ(1000回に3回しか当たらない)”といわれる出版業を批判し、「予実(予定と実績)が絶対に合わなくてはいけない」と語っていた。その“確実に当てる”方法が、倒産直後に編み出した、工場の寮に住む女子工員に宛てたダイレクトメール(DM)だった。その手法を教材にも適用して、教育熱と受験戦争が広まる中で、「今なら間に合う」「締め切り間近」と入会を迫り、通信教育の会員を増やしていく。

欲望をかきたてるような商売の本質を、宮本は見抜いていた。ところが、もう一つのベネッセに話が及ぶと、その評価は一変する。産業廃棄物の不法投棄で知られる瀬戸内海の豊島で、宮本は小さな寺の住職を兼ねている。そこに、福武財団とベネッセグループが進出して豊島美術館を建設し、島の復興が動き始めた。「総一郎さんが、瀬戸内の自然と生活を守る、と言っている。1つの平和思想だと思います」。宮本が2つのベネッセを間近に見て、愛憎が大きく揺れ動く。それは、名簿事件で多くの人々が抱いている心象風景を如実に物語っている。瀬戸内海での文化事業をはじめ、文部科学省が実施する全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の採点・集計を請け負うなど、公益性を帯びた事業に進出している。また、幼児向け教材のキャラクター『しまじろう』は、誕生から30年近くにわたって親しまれている。名簿流出事件に憤る人に話を聞いていても、どこかで「しかし」という感情に突き当たる。幼児に『こどもちゃれんじ』を受けさせている母親は、「これから子供の情報が、どのように使われるか分からない」と不安を口にする一方で、「進研ゼミがなくなると困る」という。「私も小さい時にやっていたし、子供も楽しみにしている」。高校の英語教師は、模試のデータ流出を心配する保護者から問い合わせを受けて、答えに窮した。「でも、ベネッセの模試がなければ、他校の生徒と比較が難しくなる。あのデータは教育現場には必須」と擁護する。大衆心理を巧みに突く営業戦略と、学問や文化を支える公益性…。2つのまったく違う顔が、ベネッセという企業体を複雑で分かりにくくしている。




だが、2つの特徴を掘り下げていくと、1つの源流に突き当たる。創業前に強烈な利益を生み出した『DM』という収益マシン。これが“学歴”を渇望する人々に向けて放たれた時、ベネッセの自己増殖ともいえる膨張が始まることになる。その莫大な利益が、公益的な事業を回す資金となって、企業イメージを国民の間に広く深く浸透させていく。「どこの古本屋かわからない福武書店という名前でやってやろう。どうせ私の顔は知られている。『ああ、あいつがつぶれた福武』、むしろこうした看板を背負って歩いてやろう」。1983年の講演で、哲彦は創業期についてそう語った。地元岡山の取引先から総スカンを食って、“夜逃げ”という言葉が頭をかすめた。だが、そうすれば、二度と故郷の地を踏めない。そこで開き直って『福武』の看板を掲げて、悪名が広まった岡山で再起に乗り出していく。その哲彦が目をつけていたのが、継続的な受注が見込める模試と通信教育だった。模試は当時、旺文社が全国を席巻していた。その牙城に1962年、哲彦は参入することになる。勝算はあった。旺文社は全国の高校生を対象にするため、模試のレベルを平均的な生徒に合わせていた。そこで、福武書店は県内有数の進学校を集めてレベルの高い模試を作り、結果データを交換して進学指導に利用するという計画を打ち上げた。そのため、社内に『関西進学研究会』という任意団体を立ち上げる。「何か半官半民のようにも見える」(前出の講演)からだという。これが全国に広まり、旺文社を駆逐する『進研模試』に成長していく。

だが、模試の成功は、収益にはあまり結びつかなかった。多くの学校に利用してもらう“公益性”ゆえ、高い利幅をとれないからだ。そこで、哲彦はもう1つの柱と考えていた通信教育に“高収益”を求めた。だが、創業2年目から通信教育事業に参入したものの失敗を繰り返し、1968年から5回目の挑戦に乗り出したが不振が続いていた。1972年にスタートした中学講座は500人しか会員が集まらなかった。苦境の中で、哲彦はDMを徹底的に磨き上げる戦略に出る。ダイレクトマーケティングの第一人者を講師に招き、“心に響くDM”を追い求めていった。それが、思いがけない結果を生み出す。1973年、撤退を覚悟していた中学講座で、「勉強が好きになる本が無料で送られます」というコピーを打つと、いきなり資料請求はがきが3000枚も舞い込んだ。ここから加速度的な成長が始まり、1975年に23億円だった売上高は、1980年239億円・1985年519億円と急カーブを描いて上昇していく。この成長の過程で、福武書店は大きな転機を迎える。1986年4月、創業者の哲彦が会議の直後に倒れ、そのまま息を引き取る。東京駐在だった長男の総一郎が岡山本社に戻って社長に就任することになるが、この時、多くの古参幹部たちは、社長急逝が“成長の終わり”を告げるものだと受け止めていた。そうした社内の空気を、新社長も痛切に感じ取っていたに違いない。「総一郎さんは父を超えたい、という思いが強かった。進研ゼミにはあまり興味がなくて、新しいことをやりたい、と」(60代元幹部)

総一郎は1987年12月、社員に向けた“賞与レター”で、22の新規事業が動き始めたことを報告している。「1件30億円の売上貢献をするとして約600億円!」と記し、当時の売上高(593億円)とほぼ同じ規模になることを期待していた。だが、結果的には新規事業が育たないまま、進研ゼミだけが爆発的な勢いで伸びていく。“1000億円企業”という目標は1年前倒しで1989年度に達成される。それは1987年度から進研ゼミの会員が110万人・144万人・198万人と毎年急増していった結果だった。DMが猛威をふるい、ついに教材の印刷が追いつかない事態まで起きていた。総一郎はDMという“自己増殖装置”の威力を思い知らされることになる。1989年には「膨張から成長へ」というキャッチフレーズを掲げ、DMを一時ストップする決断を下している。「だが、長くは続かなかった。結局、DMを打たなければ、進研ゼミは会員を増やせない」(60代元幹部)。新規事業が育ってこない中で、総一郎の関心は文化事業と株式上場に向かっていく。どちらも哲彦の時代に始まった構想だったが、創業者の思いとは違った形で実現することになる。

「株式上場は哲彦さんの悲願で、1980年代前半には準備も整っていた。だが、常務だった総ちゃん(総一郎)が反対して進まない。当時、彼はあまり株を持っていなかったから、会社を乗っ取られると思ったのではないか」。上場準備に関わった元幹部はそう述懐する。逆に、哲彦は功績をあげた社員に、次々と株式を持たせていった。そこには経営の転換という狙いが込められていた。上場準備に動き出した頃、哲彦はこう記している。「百億企業ともなればこの(トップダウン)方式は不健全である。今後は全社員の声が直接経営に反映する方式、つまりボトムアップによる全員参加の経営方式を大幅に導入すべきであると思う」(『ふくたけ』1979年7月号)。哲彦は、トップダウン方式の限界を吐露している。その理由を、企業規模の拡大としているが、次世代の経営者のこともおもんばかったのではなかろうか。しかし、総一郎が上場に躊躇する中、1986年に哲彦が亡くなる。創業者の死によって、上場計画は当初の狙いを軌道修正しながら、10年という長い時間を経た後に実現することになる。哲彦の死から数年後、岡山市北区の善修寺にある福武家の墓の前に、幹部社員が並べられた。参列した一人は、その光景をこう述懐した。「あれは総一郎さんからのメッセージだったのだろう。福武家の根を絶やしてはならない。福武家のまま上場せよ、と」

1995年、大阪証券取引所2部と広島証券取引所に上場する。その時、総一郎をはじめとした福武家の持ち株比率は37.78%に達していた。オーナー的な立場を維持したことで、“トップダウン型”の経営スタイルはその後も続くことになる。「ベネッセの幹部は福武(総一郎)さんへの忠誠心が強く、宗教に近い雰囲気がある」(40代元幹部)、「真面目な学級委員タイプの社員が多い。それを束ねる総一郎さんは、校長先生のような存在だった」(30代元社員)。総一郎は、トップとして絶対的な地位を築きあげることになる。その過程には、『福武書店』の解体と再生があった。1995年、哲彦が執念を込めて付けた『福武書店』という看板を下ろし、『ベネッセコーポレーション』に社名を変更した。その新しい社名は、文化事業と相まって華やかな企業イメージを作り上げていくことになる。直島で始まった美術館構想も、創業者の思いとは違ったものになっていった。1992年に完成した美術館併設の宿泊施設は『ベネッセハウス』と名付けられた。開館プロジェクトに関わった幹部は、こう振り返っていた。「前社長(哲彦)は教育普及的な視線が割と強かった。(中略)現社長(総一郎)の時代に入ると、先代の意思を尊重しながらも、そういった美術館はすでにある。プライベートで運営する意味をもっと見直して、企業姿勢なり、考え方なり個性を全面に出していく時代であると考えてきました」

一連のイメージ戦略は、好業績との相乗効果を生み出していく。1995年の上場時、市場は大きな期待を示していた。ベネッセ株は初値が1万8100円となり、50円額面の上場株式で史上最高値をつけた。業績の裏付けもあった。バブル経済が崩壊しても、ベネッセの売上高は1989年度の1070億円から、1994年度に1614億円へと成長を続けていた。だが、それもDMを成長エンジンとした進研ゼミの膨張が作り出した数字だった。進研ゼミの会員数は1989年度の198万人から、1994年度には300万人へと増加していた。だが、急成長のゆがみは、上場後に見え始めてくる。1996年、出版部門の看板だった文芸誌『海燕』が休刊となり、15年の歴史を閉じる。その年に鳴り物入りで創刊したアウトドア誌『Goody』も、2度のリニューアルでテコ入れしたが1998年に休刊した。1998年、ベネッセは“総合出版”の旗を降ろす。そして“超出版”というコンセプトを打ち出し、「個人を対象とした継続ビジネスの会社になりきる」とうたった。それは、全社をあげて個人データを活用することを意味していた。同年には『マーケティング&サプライ基盤セクター』が発足。その役割は、部門を超えて、顧客とベネッセの接点の情報を蓄積して、個々に適した商品サービスを提案していくことだった。だがその後、個人情報の宝庫である進研ゼミの成長が止まることになる。2000年度、それまで快進撃を続けてきた進研ゼミの会員数が420万人で横ばいになる。そして、翌2001年度には410万人と20年ぶりの減少に転じ、2002年度387万人・2003年度370万人と急落していく。

原因は、ベネッセの教材が会員のニーズに対応できなかったことにある。2002年4月、『ゆとり教育』がスタートした。その方針が打ち出された1998年から、成績上位の学生や親が、“学力低下”を懸念し始めていた。そして、ゆとり教育の実施前に、進研ゼミから上位層が抜けていくことになる。ライバルとの戦略の違いも、進研ゼミ離れを加速させた。「Z会(増進会出版社)はゆとり教育が始まっても、教材のレベルを落とさなかった。だが、ベネッセは教科書準拠を続けたため、できる生徒から敬遠されてしまった」。大学通信常務の安田賢治は、ベネッセの敗因をそう解説する。この危機の中、総一郎は自身の限界を認め、2003年6月、ソニー元執行役員専務の森本昌義を社長に据えた。ソニー子会社、アイワの国内工場を全て閉鎖する大リストラを断行したことで知られる森本は、就任直後から進研ゼミの旧態依然とした教材作りにメスを入れた。教科書準拠の教材を、学力レベル別に3つに分けて作成し、2004年には『難関私立中高一貫講座』も開始した。ここから進研ゼミは再び回復基調を取り戻していく。森本は、DM中心の営業がもたらす危機も見抜いていた。2005年の個人情報保護法全面施行と、翌2006年の住民基本台帳法改正によって、個人データの取得が難しくなると予想されていた。そこで、イベントなどの顧客接点を増やす戦略を進め、進研ゼミを学ぶ場として学習教室もスタートさせる。また、お茶の水ゼミナールや東京個別指導学院を買収し、学習塾化を進めていった。だが、こうした戦略を完遂することなく、2007年2月、森本は週刊誌に不倫スキャンダルを報じられて辞任することになる。この事件によって、経営トップへの再登板を余儀なくされた総一郎だったが、それから2ヵ月後にプロパーの福島保を社長に据え、2009年には代表権も返上する。一方で、瀬戸内での文化事業を福武家によって永続させるため、租税回避地として知られるニュージーランドに居住地を移す。

“よく生きる(ベネッセ)”――。総一郎の生き方は、企業コンセプトそのものといえる。充実した福利厚生や“残業ゼロ”といった方針もあって、女子学生を中心に高い人気を誇り、各社の就職人気ランキングで常に上位に位置するようになった。だが、イメージと現実のギャップは、次第に広まっていく。「出版社に分類されるため、編集職場を夢見て入社する女子学生が多い。でも、多くの編集業務はプロダクションに外注していた」。1990年代に入社した社員は、そう打ち明ける。その現実を知って会社を去る社員が後を絶たない。「残るのは、言われたことを忠実にこなす優等生タイプ。どうしても創造力や突破力に欠ける」。各事業は、真面目に作り込まれているため、ベネッセの商品サービスに愛着を持つ消費者は少なくない。だが、そこで集められた顧客の属性データや購買履歴は、知らぬ間に統合されていく。そして家族単位で管理され、あらゆる機会をとらえてDMを打っていく。そんなベネッセビジネスの中心にある個人データだが、社内では重要視されず、子会社から外部業者へと業務が移されていくことになる。「住民基本台帳は、かつては誰でも閲覧できる公表データだった。だから、機密ではなく、管理の必要もないと考えられていた」。都内の名簿業者は、そう振り返る。ベネッセの個人データの認識も、そうした時代から変わりきれなかった。それどころか、高学歴な社員が集まったことで、個人データの取り扱いという地味な業務は組織の片隅に追いやられていった。だが、各部署から集まる“顧客データ”は積み上がり、いつしか強大なマーケティング情報と化していた。そんな“怪物”の管理を、目の届かない所まで遠ざけて、監視すら怠るようになった歴史と企業文化こそが、事件を引き起こした構図だった。

デジタル時代に、漏洩先すら把握できないデータが、拡散していくことを止める手段は見あたらない。今後、どのような2次被害をもたらすのか、予測不能と言ってもいい。ベネッセは“強さの源泉”をなおざりにしてきた代償を、これからも払い続けることになる。 《敬称略》 (編集委員 金田信一郎)


≡日本経済新聞 2015年2月10日付掲載≡


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