必要なのは“瞬発力”、改善で“おもてなし”取り戻す――中小企業の現場を次々再生、元ソニー社員の改善魂

ソニーはかつて、国内各地の生産拠点で活発な改善活動を実施していた。その活動を支えていた“元ソニー”社員たちが今、異業種の現場再建に乗り出している。彼ら、彼女らはどのような方法でムダを見抜き、会社を立て直すのか。 (池松由香)

北陸新幹線の開通を2015年3月に控える金沢市。ここから車で数十分の山中温泉(加賀市)に、大胆な改革で、赤字転落からわずか3年で業績を回復させた旅館がある。開業1958年、春には門前に咲き誇る桜が売りの『お花見久兵衛』だ。伝統を重んじる老舗旅館が大胆な改革に成功したのは、元ソニーの改善ウーマンで経営コンサルタントの村木睦(48歳)のおかげだ。村木はソニー在籍時から現場改善で数々の実績を収め、キヤノンの工場に講師として招かれるなど、社内外で知られていた人物だ。「村木さんと出会っていなかったら、うちは今も赤字で苦しんでいただろう」。お花見久兵衛を経営する吉花の4代目社長・吉本龍平(34歳)は振り返る。老舗旅館だけではない。介護の現場に食品工場、はたまた農場から物流倉庫まで──。実は今、村木のようにソニーの工場を去った後、古巣で学んだ改善力を生かし、異業種の現場の再建に取り組む人が続々と登場している。かつての輝きを失い、断続的なリストラを余儀なくされてきたソニー。本格的な業績回復はまだ見えていないが、“元ソニー”たちは活躍の場を広げ、日本各地で産業復興を支援している。

お花見久兵衛が改革に乗り出したのは2012年12月のことだ。同年12月期は、4億6000万円の売上高に対して経常損益が1600万円の赤字。この年は月次で幾度も赤字を計上していたため、これに危機感を抱いての決断だった。2010年までは、吉本が推進したインターネット販売戦略が功を奏して収益を順調に伸ばしていた。が、2011年秋口に状況が変わる。客足が遠のき、2011年12月期の売上高は前年から7000万円の減少。その翌年はさらに5000万円減った。「何が起きたんだ?」。調べると、原因はすぐに判明した。顧客増に対応しきれず、旅館にとっての生命線である“おもてなし”を提供できなくなっていたのだ。チェックインでは顧客を待たせる。調理場も混乱を来し、料理や取り皿を探すのにも一苦労。仲居やレストラン担当者は、接客にいそしむどころかバックヤードであたふたしていた。「従業員の作業を効率化しなければお客様にきちんとしたサービスを提供できない」。吉本が地元の金融機関に相談すると、石川県能美市にあったソニー根上(2002年4月にソニーケミカルに統合)で6年にわたり改善活動を推進した村木を紹介された。話を聞いた村木は状況をすぐに理解した。必要なのは、コスト削減よりも顧客満足度を上げること。




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山中温泉の老舗旅館『お花見久兵衛』を経営する吉本龍平社長(上写真の男性)は、赤字転落を機に改善を現場に取り入れた。その推進役を担うのが、“元ソニー”の村木睦氏(下写真の右)だ。村木さんは全身からパワーみなぎる元ソニーの改善ウーマン。3人の子供の母であり、長女の子供にとっては“おばあちゃん”でもある。

まず実施したのが、改善対象として削減する作業と、対象とせずにむしろ時間を増やすべき作業の見極めだった。前者に相当するのが、必要な物を探したり運んだりといった、直接には付加価値を生まない作業。後者に当たるのが、お客様をもてなす接客業務である。最初に価値を生む作業とそうでない作業を明確にしておくことが、改善を成功に導く秘訣になる。手当たり次第に効率化しようとしてしまいがちだが、そうすると接客というサービス業本来の価値まで下げかねない。「バックヤードのムダを徹底的に削減して、余った時間を接客業務に充てれば、同じ人数でより多くの仕事をこなせるでしょう? お客様満足度も上がって一石二鳥」と村木は笑顔で話す。

そんな“村木流改善”の成功事例を1つ紹介しよう。顧客が食事をした後の皿を回収し、洗って食器棚に片付けるまでの作業だ。従来のやり方はこうだった。まず、客室から仲居が皿を台車で回収し、各フロアの一時保管場所で種類ごとに仕分ける。そしてエレベーターで5階の洗い場まで運ぶ。受け取った洗い場の担当者は、自身が洗いやすいようにさらに仕分けし、軽く洗い流す。それからシンク横の食器洗浄機に投入。また別の片付け担当者が洗い上がった皿をから拭きして片付ける。洗い場の作業に充てていた担当者は7人。村木はここにメスを入れた。最初に目を付けたのが、仲居が皿を持ってくるまでの間、洗い場担当者は何もせずに暇そうにしている点だった。「ならば」と、食器が到着するのを待つのではなく、洗い場担当者が自ら一時保管場所まで取りに行く方式に変えた。さらに、仕分け作業は洗い場担当者に集約し、仲居はただ客室から皿を回収するだけにした。調べてみると、それまで仲居がやっていた仕分けにはほとんど意味がないことが分かったからだ。改善の結果、これまで7人を要していた洗い場の作業を4人で実施できるようになった。さらに仲居の業務が減り、その分を接客に充てられるようにもなった。“顧客満足度向上”という当初の目的に合った結果を出せたわけだ。

これだけではない。洗い場で余らせた3人を生かし、それまで外注していた布団敷きや風呂掃除の仕事を社内で実施することにした。経費に換算して月15万円の削減だ。こうした活動を2年間続けた結果、お花見久兵衛の売上高は年を追うごとに増加し、2015年度は黒字になる見通し。同年2月には顧客評価の高さなどが認められ、『楽天トラベルアワード2014』を受賞した。もちろん、最初からこうした成果を出せたわけではない。「『改善して作業が少なくなれば仕事を奪われるのでは』と、当初は活動に反発する人も少なくなかった」と村木は明かす。それを変えられたのは、現場で改善に理解を示す従業員を味方に引き入れたことだった。洗い場のリーダーを務める60代の増渕和江。毎月、改善指導に訪れる村木の話に耳を傾けながら、「いつか職場を変えたい」と願っていた。しかし、改善の着手は従来のやり方を否定することでもある。「リーダーとして部下の気持ちを逆なでしていいものか…」。悩みながらも、ある日、覚悟を決めた。夕方に開くミーティングで部下を前に、こうきっぱりと言い切ったのだ。「今日から皆さんは、昨日とは全く別の職場に来たと思ってください。別の職場なんだから、これまでと仕事のやり方が違って当然です。お客様満足度を上げるため全員で頑張りましょう」。こうして旅館での改善を軌道に乗せた村木の源流は、1997年から勤務したソニー根上にある。1998年に正社員になると、2000年には工場内の改善を推進する部署に配属。プリント基板の生産ラインで改善を手掛けたほか、社内研修の教育係も担当した。

一般に改善と聞いて思い浮かぶのは、トヨタ自動車のトヨタ生産方式だろう。ソニーの改善もこれを基礎としているが、1991年から独自の発想を取り入れるようになった。例えば、1994年にソニーの現場から生まれた『セル生産方式』は、電子機器のラインだからこそ生まれた。作業者の多能工化を図り、1つのラインに入る作業者数を数人にまで減らす生産方式で、工程数の多い自動車ラインとは異なる発想を必要とする。さらに電子機器の製品ライフサイクルは自動車に比べて極端に短い。生産ラインが「3ヵ月ごと」(村木)に変わるので、新ラインの問題点を瞬時に見破り、改善する“瞬発力”が求められた。村木がどんな現場に行っても素早くムダを見抜けるのはこのためだ。ソニー流で鍛えられた村木だったが、経営が苦しくなるに伴い、尊敬していた上司が次々と会社を去った。このままでは自分の目指す改善ができなくなると感じた村木は、2006年にソニーを辞め、翌年に経営コンサルタントとして起業した。2011年からは、高齢者向けデイサービスの運営と、介護士を育成するスクール経営も手掛ける。これらの仕事のどれを取っても、武器はやはりソニー流の改善だ。

介護士育成スクールでは、資格取得とは関係のない『効率アップ研修』なる授業を盛り込んでいる。受講生たちは、介護施設を掃除する時の効率的な作業手順を考案したり、おむつやウエットティッシュなどの道具を簡単に取り出せる道具箱を作製したりする。「新米の介護士は経験がないから最初は介護の仕事は半人前。でも、施設の掃除や先輩の作業を効率化して手助けすることならできる」と村木は説明する。様々な業種に手を広げるにつれ、どんな業種でも適用できる改善のコツが見えてきた。すなわち、(1)モノやサービスの質を高める作業を見極める、(2)それ以外の作業から改善する、(3)現場に味方を作る、(4)期日入りの数値目標を設定する、(5)達成したら賞を与えるなどして褒める──という5ステップだ。「新分野にどんどんチャレンジしていく。その精神こそが、私にとってのソニーの改善魂だ」(村木)。

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村木氏が経営する介護士育成スクールには、介護の仕事を効率化するための授業がある。掃除メニュー(上)や、介護に必要なグッズを整理する道具箱(左)を受講生が作る。




2009年に愛央技研(愛知県尾張旭市)を立ち上げた山内智彦(50歳)。彼もまた、改善のノウハウを盛り込んだ“製造設備”を顧客企業に提供することで改善を広める“元ソニー”だ。ソニーの国内主力工場の1つであるソニー美濃加茂に在籍していた時は、生産ラインで使う製造装置を開発。その性能があまりに高かったことから浜松ホトニクスが買い求めたほどだ。ブルーシートなどを縫製加工する弘和(名古屋市)社長の白井裕人は2012年、そんな山内に製造装置の開発を依頼した。ブルーシートの加工業務は既に人件費の安い海外に奪われている。次の事業の柱を模索した白井が目を付けたのが、医薬品や移植用の内臓などを運ぶ際に使うクーラーボックスだった。硬いプラスチック製のアウトドア用品がすぐに思い浮かぶが、白井が参入を狙ったのは、樹脂製シートと断熱材でできた、表面が軟らかくて軽いタイプのもの。これなら自社の縫製技術が生きると考えたからだ。ところが、いざ作ろうと思ってもそのための設備がない。いくつかの製造装置メーカーを回ったものの、白井が求めるコストと品質条件を満たしてくれるメーカーはなかった。そんな中、たどり着いたのが山内の愛央技研だった。「どこも実現できずに困っている」という白井の話は、山内の闘志に火をつけた。約2年の試行錯誤の末、ようやくゴールが見え始めた。「具体的な内容は明かせない」(白井)とするが、他社とは全く異なる製造方法を実現する装置が完成間近だという。

その山内は、根っからのメカ好き。1983年に工業高校の機械科を卒業後、ソニー美濃加茂に入社。プリント基板を製造する装置の保守などを担当した。自由闊達な風土を持つソニーは、自称へそ曲がりの山内にとって最高の職場だった。機械を保守しながら、「オレだったらここはこういう設計にするな」などと妄想する毎日。それを知った上司からある日、「装置を改良してみないか?」と声を掛けられた。次第に改良だけでは飽き足らなくなり、「どこにも売っていない」(山内)製造装置を開発するようになった。「上司も『面白いと思うことはオレに言わずにやれ』と言っていた。当時のソニーには技術者の勝手を許す余裕があった」と山内は振り返る。ソニー退職を決めたのは、2009年のことだ。装置開発による貢献が認められ、部長に昇進したが、それが逆に退職のきっかけとなった。ずっと一技術者として装置を開発したいと願っていた山内の意に反していたからだ。「これからは電機以外の業界にも役立つ装置を開発して、日本の産業をもり立てていきたい」。そう思い描いて同年6月、愛央技研を設立した。元ソニーの改善魂は、形を変えながら、今も異業種で生きている。

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自称“へそ曲がり”のメカオタク。小学3年生の時に芝刈り機のエンジンと手押し車で“自動車”を作製した。ソニーの採用面接には頼まれてもいないのに工作物を2つ持参したという。

異業種の現場に乗り込み、腕一つで現場を立て直す人材を輩出してきたソニー。その母体となったのは、1993年からソニーグループの改善活動を取り仕切ってきた『生産革新推進センター』という組織だ。ソニーの生産革新活動は1991年から2005年ごろまで続いた。その間、国内各地の生産拠点で浮かせた人員は累計5000人超、余らせたスペースは1万5000平方メートルを超える。こうして確保した人員とスペースを有効活用し、低賃金を武器に台頭するアジアと戦ってきた。その後、活動の先細りと軌を一にして国内工場の閉鎖が続くことになる。生産革新活動の栄枯盛衰は、ソニーのモノ作りの栄枯盛衰にも重なる。浮き沈みを左右してきた要因の1つは、他でもない、経営陣の方針だ。立ち上がりから生産革新活動が衰退する時期まで、活動の中核として携わってきた“生き字引”がいる。2006年にソニーを辞め、現在は中小企業診断士として活躍する石出利男だ。ここでは、その石出の体験を中心に、ソニーの生産革新の道のりをたどっていく。その歴史は4つに大別できる。1991~1995年までの最盛期、1995~2000年の低迷期、2000~2005年の復活期、2005年以降の衰退期だ。いずれも経営陣の改善に対する姿勢が投影されている。立ち上がりから1995年までの最盛期。この期間、リード役となったのは、当時専務(1993年から副社長)だった森尾稔だ。1982~1995年の長きにわたり社長を務めた大賀典雄の次のトップ候補と目されていた人物で、生産革新に着手する重要な役割を担った。森尾が推進役となるきっかけを作った出来事にも石出は深く関わっている。

1991年8月のこと。森尾に同行し、石出は山形県にある2つの工場を訪問した。1つは、ソニーの生産拠点に納入が決まっていたベルトコンベヤーの製造工場。もう1つが、電子部品の調達先だったミツミ電機の工場だ。一行がミツミを訪れた時だった。担当者は工場を案内しながらこう説明した。「目下、改善活動を推進しています。最近はベルトコンベヤーを撤去し、生産効率を上げることに成功しました」。その瞬間、森尾の顔色が変わったことが分かった。「何? いったいどういうことだ」。ソニーはまさにコンベヤーを購入しようとしているのに、ミツミはそれを撤去したばかり。しかも、その方が生産効率が上がるというのだ。コンベヤーを撤去させたのは、ムダとりコンサルタントの山田日登志。森尾は「山田さんにウチの工場も見てもらいたい」と言い出した。その意向を受け石出が動き、岐阜県のソニー美濃加茂に招いた。「これではダメだ」。工場を一回りした後、山田は容赦なく切って捨てた。これがソニーの生産革新活動の始まりだった。森尾から強力に生産革新活動を推進するよう指示が下ったのである。美濃加茂からスタートし、その後、愛知県のソニー幸田やソニー一宮など、多くの工場に広がっていった。後にソニーの生産革新の代名詞となった『セル生産方式』の原型が生まれたのもこの時期。1994年ごろだ。石出自身は1995年、国内工場の人材を“改善マン”に育てる目的で始めた『生産革新ソニートレーナー養成講座』の教育係になった。

風向きが変わったのはその直後、大賀に代わって出井伸之が社長に就任してからだ。生産革新を通したモノ作りの足固めよりも、ヒット商品の開発やマーケティングを重視する雰囲気が社内に生まれた。生産革新にとっては低迷期の到来だ。むろん生産革新の重要性を表立って否定する経営者はいない。だが、石出らメンバーは変化を感じ取っていた。生産革新センターは名称を変えながら、所属部門を転々とするようになる。時には、どの部門に所属するのかなかなか決まらないことすらあった。そのたびに石出の直属の上司だった金辰吉が所属先を見つけるために奔走。何とか命脈を保った。低迷期を脱したのは2000年。生産革新部に在籍していた経験を持つ安藤国威が社長に就任し、活動を支援する姿勢を鮮明にしたのである。それによって社内の見方は変わり、生産革新活動は息を吹き返した。石出にはそれを実感する出来事があった。自身が担当していたトレーナー養成講座では、全国のソニーの工場から研修生が集まり泊まり込みで工場を改善していく。その最終日の“卒業式”に、安藤が駆け付けてくれたのだ。その時の光景は今も目に焼き付いている。この安藤の次に社長を継いだのが、「生産革新活動で成果を出して昇進した」とも言われる中鉢良治だ。1992年に記録メディア事業本部ビデオテープ事業部長を務めていた時、仙台工場の業績を大幅に改善する立役者となった。「これで活動も安泰か」と思いきや、その期待は裏切られる。中鉢の考えよりも、CEO(最高経営責任者)として君臨するハワード・ストリンガーの影響力が絶大だったからだ。ここから活動は衰退の一途をたどる。

ストリンガーは、西洋的な経営スタイルに基づいて徹底した成果主義をソニーに持ち込んだ。衝撃的だったのは、自己申告の評価シートの目標欄にあった「後進をどう育成したいか」という項目がなくなったことだった。「会社が人材育成を軽視しているように感じた」と石出は言う。さらにこの時期、本社が工場長として送り出す人材も変わった。それまで、生産現場の経験のあるベテラン人材が送り込まれていたが、経験の浅い若手ばかりになったのだ。「かつてのような活発な生産革新はもう期待できない」。石出は2006年、ソニーを退職。頼みの綱だった上司の金も会社を去った。活動を支えてきた人たちがどんどんいなくなったのだ。その後、ソニーの工場閉鎖が相次いだのは周知の通りだ。時の経営陣の方針に翻弄されてきたソニーの生産革新活動。こんな栄枯盛衰を経てきたが、その間、着実に優れた人材を輩出してきたのは間違いない。今回、紹介したほかにも各地で改善指導に奔走している“元ソニー”は大勢いる。有名食品会社に再就職し現場を改善している者、自動車部品メーカーで変革を任されている者、外資系企業で物流効率化を託されている者…。ソニーにとっては優秀な人材を失ったことになるが、日本の産業全体から見ればプラスに寄与しているのかもしれない。 《敬称略》


キャプチャ  2015年2月23日号掲載


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