【本当に必要な医療のために】(後編) 認知症、「ボケたらお仕舞い」は真っ赤なウソ

認知症になったらどうなる? 「何もわからなくなる」。ボケたらお仕舞い。多くの人がこう思っている筈だ。実は私もそうだった。「認知症になったら、何れ家族の顔もわからないまま寝たきりになる」と。それが、認知症のことを知らない人が作り上げた真っ赤な嘘だと知ったのは、10年近く認知症を患っていた兄が2年前に亡くなってからである。

クリスティーン・ボーデンさんは『私は誰になっていくの? アルツハイマー病者から見た世界』(クリエイツかもがわ)で、認知症になっても豊かな感情を持っていることを綴っているが、それはあくまでも知識にすぎなかった。それを実感したのは、島根県出雲市にある重度認知症患者のためのデイケア『小山のおうち』(エスポアール出雲クリニックの高橋幸男院長が運営)を訪ねた時である。ここには男女合わせて14~15名の重度認知症高齢者がいる。ここで興味深かったのは、訪問者が若い女性だと男性陣の目が一斉に輝き、男性だと女性陣から熱い視線が集まることで、これは認知症になっても変わらないようだ。ここで私は、64歳になる女性のMさんから2日間にわたって話を聞いた。徘徊も酷く、1分ほどしか記憶を維持できない重度認知症の人である。Mさんは私を男性と思ってくれたのか、「ねえ、私を外に連れてって」。ちょっとドキッとするようなことを言う。それをきっかけに、私たちは何度も話すことになった。同じことを繰り返すのだから、情報としては片手で掬えるほどだったが、私にとっては驚きの連続だった。




彼女はよく徘徊したそうだ。それまで何もわからずに歩き廻っているのが徘徊と思っていた私は、徘徊には理由があることを初めて彼女から教えられた。彼女は家にいると家族に怒られてばかりだそうである。認知症になると、例えば「また忘れている」「もっとしっかりしてよ」。家族からこんなことをよく言われるが、認知症の人には記憶が無いから何でそんなことを言われるのか理解できない。Mさんもそうだったらしく、くしゃくしゃした気分をすっきりさせるために“家出”をした。もっとも本人は“家出”のつもりでも、認知症の人の家出は世間で“徘徊”と呼ぶ。その時のことを、彼女はこんな手記に綴っている。

おばあちゃんはもの忘れマンです。仕事場のお客様の名前を忘れてしまいました。それで退職しました。忘れるようになってどうしようと思いまして退職しました。今は今日が何曜日かわからなくなりました。家ではダンナや息子が時々怒ることがある。「何で怒るか」と私も怒る。怒られると家出することがある。「私はいないほうがいいと思われる」と思うから家出するけど、外歩きをすると気分は良くなる。 (平成26年4月)

翌日、私は彼女に“家出”について尋ねた。彼女は徘徊のことを「旅をする」と言うのだが、もちろん彼女には徘徊の日時や場所の記憶はない。ところが、歩いた時の風の感触や心地良さは覚えているのである。「歩くと風が気持ちいいの」。笑顔で言う。皮膚感覚で受け取った情報は、記憶の場所が違うのだろうか。

彼女は『小山のおうち』が好きだと言う。そう語る言葉の断片を、私なりに想像力で翻訳するとこういうことだ。認知症になると言葉が上手く出てこない。物忘れもする。家族がいるのに独りぼっち。不安が一杯で落ち着かない。でも、『小山のおうち』にいると安心できる――。そこでは忘れても怒られず、むしろ「物忘れが上手になりました」と皆で笑い合う場だから安心できるのだろう。「早く死にたいです。それほど物忘れは辛いです」と書いた人もいる。認知症になっても、忘れることはとても辛いことなのだ。だから、忘れたことを誤魔化そうとして家族と口喧嘩にもなるのである。認知症になると、まず言葉が出にくくなる。理解できない言語の国へいきなり放り出されるようなものだ。不安になるのも当然である。その上、悪いことをした自覚が無いのに責められ叱られたら、逃げ出したくなるのは当たり前だ。認知症の人は症状の進行に悩み、そして苦しんでいるのに、コミュニケーションが取れないから常に孤独なのだ。ところが残念なことに、彼らの気持ちを“翻訳”できる人がいない。だから、私たちは「認知症の人は何もわからない」と思い込み、認知症の人も笑われない為に黙り込んでしまうのである。

私たちにできることは、認知症の人は記憶障害があるだけで、喜怒哀楽などの情動や古い記憶は私たちと同じであることを理解することだろう。その上で、彼らが安心できる空間にする。それには、まずこちらから優しく話し掛け、彼らを否定しないことである。それだけで穏やかになり、認知症の人も介護する人も楽になる筈だ。アルツハイマーでは脳の中にアミロイドβが蓄積しているが、アルツハイマーのモデルマウスを悪い環境で育てるとアミロイドβが増え、快適な環境で育てると消えていくという。人間にも同じことが起こっていると考えても不思議ではない。6人に1人しか効かない認知症の薬に頼るよりも、環境やケアに配慮したほうが確実に症状を遅らせることができるのである。


奥野修司(おくの・しゅうじ) ノンフィクション作家。1948年生まれ。立命館大学卒。1978年より南米で日系移民調査に従事。2006年『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で大宅壮一ノンフィクション賞、2005年講談社ノンフィクション賞を受賞。『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の17年』(ともに文春文庫)など著書多数。


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