ご成婚55年、そして今月80歳に…“日本の慈母”の強さと美しさを識者4人と共に考える――もっとも美しい日本人、『美智子皇后』という生き方

「11月13日 去る8月下旬、正田美智子を皇太子妃として迎え入れたい旨を正田家へ内々に申し入れしたところ、同家では事の意外に驚き、これを固辞する。しかし、その後の話し合いの結果、この日ようやく正田家より内諾を得る」。9月に公開された昭和天皇の活動記録『昭和天皇実録』の、昭和33年の記述である。民間から初めて皇室へ入ることの重大さを、誰より深く感じていたのが美智子皇后だ。国民の熱狂と皇室内の批判をくぐり抜け、今月80歳を迎えられる美智子皇后。その“慈愛”に満ちたお姿を見つめつづけてきた4氏に、その思いを聞いた――。

■美智子皇后こそ究極のアイドルだ  アイドル評論家・作家 中森明夫
皇后陛下が80歳を迎えられる。昭和34年、24歳で皇太子妃となってから半世紀余り、平成の世に皇后陛下として四半世紀を生き、輝いてきた。天皇陛下を支え、二男一女を産み育て、国民に慕われ、愛され続けてきた。さて、その存在の輝きは何だろう? さまざまな論はあると思う。私はアイドル評論家としてひとつの仮説を唱えてみたい。そう、《美智子皇后こそ究極のアイドルである!》と。高貴な皇族を、よりによって軽薄なアイドルなんぞになぞらえるとは不敬な!とお怒りになられる方もいらっしゃるかもしれない。いや、しかし、待っていただきたい。






アイドル(idle)とは、そもそもラテン語のイドラ(idola)を語源として、偶像・理想・崇拝の対象を意味した。転じて、人気者の意味合いで使用されるようになる。国民の崇拝の対象である皇族が、語の真の意味で、イドラ/アイドルであってなんらおかしくはない。いや、まったく逆に私は、芸能人としてのアイドルが、なぜこの国で誕生して、これほど隆盛したのか?を考えていた。

アイドルとは何か? そう、その答えは、日本国憲法に書いてあるのではないか、と。《第1章・第1条――。天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く》。この象徴をアイドルと読み換える。《天皇は、日本国のアイドルである》。つまり、我が国は、天皇をアイドルとする芸能国家なのだ。その際、日本国民は“ファン”である。アイドルとはファンの統合の象徴であって、その地位は、ファンの創意に基づく。そう、主権はあくまでファン(=国民)の側に存在する。これは戦前の大日本帝国憲法下における天皇と対照的だ。《第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》。主権は天皇の側に存在した。さらには《第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス》――つまり“神様”だったのだ。これはアイドルに対する、スターのような存在といえるかもしれない。映画スターから、テレビのアイドルへ、といったメディアの変化に対応してもいる。神聖なスターから、身近なアイドルへ――そんな変化をもっとも“象徴的に”体現していた方こそ、正田美智子という存在だったのではないか?

日清製粉グループの創業者・正田英三郎氏の長女、聖心女子大学卒のお嬢様。皇太子と出逢い、軽井沢でのテニスの恋――。明仁親王と婚約が発表されると、空前の『ミッチー・ブーム』が訪れる。時に昭和33年秋。創刊されたばかりの週刊誌や女性週刊誌が、新プリンセス誕生物語を喧伝した。翌34年春、ご成婚・パレードの中継を観るためテレビ受信世帯が100万から200万へと倍増したという。アイドルがメディアの発達とともに進化したように、美智子妃の誕生は週刊誌やテレビメディアという新しい舞台を発展させた。戦後、初めての民間からの皇族入り。生まれながらのスター(=皇族)ではない。ある日、王子様に見初められてプリンセスに――そんな女の子の“お姫様”願望の夢物語を、美智子妃は体現した。少女アイドルが身につけるひらひら・ふわふわした純白のドレス、きらきらと輝くティアラ――それこそは、プリンセス・ミチコがご成婚で身にまとった輝かしい衣装ではないか? 美智子妃こそ元祖アイドルだった!

インターネットメディア隆盛の今日、いわゆる“佳子さま萌え”と呼ばれる現象が勃発しているという。佳子内親王がネット上でアイドル視されているらしい。やはり新メディアが新たな皇族(=アイドル)の人気を生む。他方、ネット上には匿名の誹謗中傷や罵言が渦巻く――アイドルはバッシングにさらされる。平成5年秋、美智子皇后は心ない批判報道に接して、ご失声された。雅子妃もまた適応障害であると発表されている。アイドル=偶像であること。民間人から皇族となって、常に国民の目にさらされること――それは、なんと多大なご心労であったことだろう。しかし、美智子皇后はその任に耐え、半世紀以上も毅然と美しく輝いておられる。そう、皇后陛下こそはこの国の究極の現役アイドルなのだ!!

■さわやかで“すごみ”がある美智子皇后の文体  作家・法政大学国際文化学部教授 島田雅彦
平成になってからすでに四半世紀の歳月を皇后としてお過ごしになり、平成の御代をしっかりと歴史に刻まれたと思います。戦争と占領、そして高度成長というほとんど時代を3つに区分できる昭和には、天皇の補佐的な立場上、個性を発揮することはできなかったが、高度経済成長で日本人の生活水準が向上していくなか、ひとつのモデルファミリーを提示するという役割を果たしてこられました。戦後の核家族のありかたを、浩宮・礼宮・紀宮の3人の子育てを『皇室アルバム』はじめテレビなどのメディアで公開、政治学者・松下圭一氏が提唱した「皇室は大衆にとってスターの聖家族となった」という『大衆天皇制』のシンボルにもなってこられたわけです。

皇后になられてからは一貫して、平和主義の日本国憲法を遵守するお立場を守られ、皇室外交を通じ、国際協調のスタンスを保たれてきました。その結果、戦後リベラルの象徴にもなられた。皇后陛下は折々のご心情を巧みに言葉にされています。さわやかで、誰も傷つけないよう、また誤解を招かないよう慎重な配慮を重ねておられます。和歌も詠まれますが、ご心情を伝える手段としてではなく、あくまでも伝統の保持のためでしょう。皇后のおことばには和歌に見られるような曖昧さはありません。ご自分の発言に責任をもっておられるところは二枚舌の政治家も見習うべきでしょう。

「とてもご清潔でご誠実でご立派な方」(ご婚約会見)は当時の流行語になりましたが、“開かれた皇室”への第1歩になりました。もともと言語的な才能・素養を備えられていたとは思いますが、皇后陛下になられてからは、ご自分のスタンスで語られる、ご自分の文体を確立された。しかも、それはきわめて平易でありながら、“すごみ”のあるものです。例えば、「1人1人がその人生を価値あるものとして生きていくことを願う」(悠仁親王誕生のとき)、「2つの静かな魂になって死んでいきたい」「ほこらのような小さなものを陛下のおそばに造ってほしい」(昨年の宮内庁『天皇皇后の葬送の方針』発表の際)といったおことばには人間的な温かみと深み、そして悟りさえを感じさせてくれます。

ご結婚から今日に至るまで、皇室は必ずしも安泰とは言えませんでした。敗戦・占領は天皇制廃止の危機でした。天皇制は維持されたけれども、戦後も諸外国の王室が打倒されるのを目の当たりにしてこられました。「アジア・中近東・ヨーロッパの王室と長い交流の歴史をもち、家族のような絆で結ばれておりますので、その喜びごと、悲しみごとは、常に身近なこととして感じています」(1997年お誕生日の文書ご回答)というおことばがありますが、海外の王室が倒れたときにショックを受け、天皇制も安泰とは言えないとご夫婦で語られたこともあったそうです。また、皇室の内側から、左翼、さらに右翼からも逆風を受けながら、もっとも説得力のある立場を模索してこられた。だからこそ、おことばにはとても強さがあるのだと思います。

もともと、皇后陛下をはじめ皇室の方々ほど歴史、あるいは歴史的文脈を大事にされる方はいないでしょう。歴史の歩み・過去の過ちに対して確固たる認識をお持ちになっているからこそ、日本の皇室はこんなに続いてきたわけですからね。両陛下は祭祀など伝統的な儀式を非常に大切にされていますが、それも歴史的な意味を深く理解されているからだと思います。『鎮魂(たましずめ)』という考え方があります。太宰府天満宮は、左遷されて、朝廷に恨みを抱きつつ死んだ菅原道真の怨霊を鎮めるために造られましたが、『鎮魂』は伝統的に天皇家の仕事になっています。ただ、必ずしも死者に向けてのものではなく、皇后陛下が東日本大震災の被災地で「よく生きてくださいました」と語りかけていたのも、『鎮魂』のひとつです。戦後70年の来年、第2次世界大戦の激戦地、西太平洋のパラオを訪問されることが決まりました。でも、それは日本人の戦没者の慰霊だけが目的ではありません。鎮魂は決して日本中心主義ではなく、人類一般が対象になっています。また、両陛下は諸外国との関係についてでも、歴史的な経緯を踏まえていますから、パラオでも現地での犠牲者・被害者の魂を鎮めるご訪問になるはずです。そして、おことばも、現地で響くと思います。

皇后陛下のお望みどおりに世の中は進んでいないかもしれません。安倍政権の露骨な戦前回帰志向とは本質的に相容れません。平和主義と護憲・国際協調を一貫して守ってこられた天皇皇后両陛下のお気持ちを踏みにじるかのように、自分たちが加害者であることを忘れるような極右的風潮も強まっているからです。

■私が憧れつづけた“元祖セレブ”としての美智子皇后  漫画家・コラムニスト 辛酸なめ子
この10年以上、新年の一般参賀の日には欠かさず皇居へ伺っております。きっかけは、ご結婚されて黒田清子さんになられました紀宮さまの、現代女性にはない高潔さにあやかりたいと思ったことです。そして大変に畏れ多いことなのですが、私が中学生のころに紀宮さまに似ていると言われたことも、一方的に親近感を抱く理由でした。清子さんは、美智子さまのおつらいときにお近くで支えておられて、天皇陛下ご一家の家族関係のよさがうかがい知れました。初めて伺った一般参賀でお目にかかった美智子さまは、お洋服のシワさえも高貴に見えました。原色のお洋服をお召しになっていて「一般人には着こなせないお召物だなあ」と感動しました。

ご成婚当時の美智子さまは、英国のキャサリン妃のようなセレブなファッションリーダーでした。テニスをされるときにお召しになっていた白いVネックはブームになりましたし、ワンピース姿に、サングラスをおかけになった姿はコンサバだけどモード。流行と品格を見事にミックスされていました。ケープやショールを上手にお使いですし、お帽子は美智子さまのアイコンになっている。庶民には被りづらいデザインですが…。また、寒くても極力コートを着用せずにお客様をお迎えになったともお聞きしていますし、外国ご訪問のときは相手国の国旗の色などをお召物に加えるお気遣いがあるそうです。スウェーデンをご訪問されるときには青と黄色の花束をお持ちになり、エストニアでは青と白・黒の装いをされていました。レディー・ガガも訪問する国のバッジや国旗をつけたりしていますが、それをもっと早く洗練された形でされていたのです。

また、美智子さまはメンタルも大変お強い。皇太子さまとの婚約にあたっては、梨本伊都子妃ら旧皇族に意地悪な和歌を詠まれたり、四面楚歌の状況に置かれても、精神を保たれて生きてこられました。婚約のころは女性週刊誌の創刊に重なり、パパラッチに追われたりしたこともあったようですし、雅子さまとの嫁姑問題などスキャンダルがないわけではなかった。しかし、失語症になられたりとか、声高に反論するのではなく無言のうちにアピールされる。いつのまにか「美智子さまをバッシングしてはいけない」という雰囲気ができていました。それも、皇室の伝統に従い、天皇陛下をたてながらも、与えられた条件のなかで自己表現をする素晴らしい生き方をされてきたからだと思います。

皇太子さまのご養育も乳母まかせにせず、お料理もご自身がされたことも意志の強さを感じますし、子育て中も体型を保っていらっしゃって、“女子力”が高い。最近は、お亡くなりになったときのことまで言及されていて、「なんて完璧主義者なのだろう」と敬服いたしました。マスコミなどで報道される写真にも“油断した顔”がないこともさすがですが、その一方で『くまモン』をご存じで、対面したときに「くまモンはおひとりなの?」とお尋ねになって周囲を和ませるなど、大変失礼ではありますが、可愛らしい一面もおありなのです。美智子さまは「皇室は祈り」だと常々おっしゃっています。私が一般参賀に伺うようになったとき、周りは私より背が低いようなお年寄りばかりでしたが、年々参加者が増加し、今年は8万人を超えたそうです。普通に若い人や観光客・外国人の方たちも自然と頭を下げています。美智子さまの祈りのパワーを、若い方々にも実感していただけたら幸いです。

■行啓を重ねた美智子皇后が辿り着いた“神の境地”  明治学院大学国際学部教授 原武史
私は、美智子皇后は、史上最高の“政治家”であると考えています。その理由を、“尋常ではない頻度の『行啓』の多さ”という観点から解き明かしていきたいと思います。美智子皇后は結婚翌年の1960年9月の初訪米以来、ほぼ毎年のように世界中を訪れています。また、1989年に昭和天皇が亡くなり、元号が平成に変わると、美智子皇后はわずか15年のうちに現天皇とともにすべての都道府県を一巡しています。いずれも、歴代の皇后では初めてのことです。昭和天皇の妻・良子、つまり香淳皇后が海外に行啓したのは2度だけでしたし、戦後、昭和天皇が全国を回った巡幸は、ほとんど天皇単独でおこない皇后は同行しませんでした。

では、美智子皇后の“行啓の多さ”をどう考えるべきか? 敗戦で、天皇制は危機的状況に陥ります。戦前の天皇は軍の大元帥という、極めて男性的な存在でした。しかし、GHQによる改革があり、軍事指導者としての天皇像は否定されます。そこでどうしたか。天皇自身が“皇后化”したのです。昭和天皇は軍服を脱ぎ捨てて背広姿になり、軍事施設ではなく、病院を回るようになった。それまで皇后が果たしてきた役割を引き受けたのです。しかし、多くの国民は昭和天皇の過去の男性的なイメージを引きずっている。そんななか誕生した美智子皇太子妃が、すぐさま皇太子とともに全国へ行幸啓を開始する――。こうして天皇制の安定が確保され、次期天皇である皇太子は、あらかじめ“皇后化”した存在としてそのキャリアをスタートさせたのです。

美智子皇后の訪問する場所にも、これまでの皇后には見られない特徴があります。雲仙・神戸・三宅島などの被災地を皇后として訪れたのは歴史上初めてのことです。東日本大震災では、被災地や避難先を訪れ、地面に膝をついて被災者を激励しました。また、沖縄・サイパン・硫黄島などの戦地を訪問しているのも画期的なことです。1978年のA級戦犯合祀以来、現天皇も美智子皇后も靖国神社に参拝していませんが、昭和天皇がやり残した戦争への責任を、果たそうとしているかのようです。

そんな美智子皇后には、ロールモデルというべき皇后がいます。奈良時代に在位した聖武天皇の妻・光明皇后です。貧しい人たちへ施しをするための悲田院・医療施設である施薬院を設置したことで有名で、ハンセン病患者の膿を自ら吸ったという伝説がある皇后です。美智子皇后は、皇太子妃時代、流産による精神的危機を迎えました。そのときに相談相手となった精神科医の神谷美恵子に、光明皇后の存在を教えられたと私は推測しています。その後、美智子皇后は現天皇とともに全国にあるすべてのハンセン病療養所を訪問しています。こうした被災地や福祉施設への行啓は、光明皇后のスタイルを明らかに受け継いでいます。

じつは、美智子皇后ほど、宮中祭祀に熱心な皇后もほかにありません。平成ほど皇后の存在感が大きい時代はないのです。美智子皇后には強いオーラがある。被災地に入った瞬間、現天皇よりも空気を変える力をもっている。もともと、宮中という世界は、女性が天皇の上に立ちやすい構造になっています。古代の天皇制には、民俗学者の折口信夫が『ナカツスメラミコト』と呼ぶ女性がいました。皇室の祖神・天照大神と統治する天皇との中間に立つ存在で、『中天皇』『中皇命』と字を当てます。折口はその例として神功皇后を挙げていますが、美智子皇后もまた、天皇よりも神に近い『ナカツスメラミコト』になっているのかもしれません。

私は冒頭で、美智子皇后は、史上最高の“政治家”である、と述べました。美智子皇后は昨年の誕生日の宮内庁インタビューで、明治時代の五日市憲法草案の民主的条項を評価している。この発言は象徴天皇制・政治的な枠組みを超え、政治的な次元に踏み込んでいます。また、自らが意識しているかどうかはわかりませんが、結果として、天皇の“皇后化”に貢献し、天皇制の強化に大いに貢献した。この点で、美智子皇后は最高のカリスマ的権威を持った政治家でもあると私は思うのです。


なかもり・あきお 1960年生まれ。『おたく』の命名者として知られ、30年近くアイドル評論を続ける。著書に小説『アナーキー・イン・ザ・JP』、アイドル論集『午前32時の能年玲奈』『アイドルにっぽん』ほか多数。

しまだ・まさひこ 1961年生まれ。東京外大在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。皇室を題材にした『無限カノン3部作』(『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』)がある。最新刊に『往生際の悪い奴』。

しんさんなめこ 1974年生まれ。東京都出身。女子学院中学校・高等学校、武蔵野美術大学短期大学部卒業。皇室・セレブからスピリチュアルまで幅広く執筆。

はら・たけし 1962年生まれ。政治学者。近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする。鉄道ファンとしても知られる。著書に『大正天皇』『昭和天皇』ほか多数。来年1月、『皇后考』(講談社)を上梓予定。


キャプチャ  2014年10月21日号掲載
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