北朝鮮に集団拉致された韓国“軍事境界線の村”――日本海を隔てて800km、韓国東海岸にも日本と同じ悲劇を背負って生きる人々がいる

パク・エヨン(90)の1日は、丘の上の家で海を眺めることから始まる。本当は海なんか見たくはない。目の前の青い海には怒りと憎悪しかないけれど、朧気な期待が半世紀を経た今も微かに残っているからだ。しかし、この朝も愛する息子は姿を現さなかった。こんなに海は凪いでいるのに。甲板で仁王立ちになり、満面に笑みを浮かべた息子の帰港する夢を何度見ただろう。なぜ、こんなに苦しまなければならぬのか。夫も苦悩を重ね、心の病で先立った。自分だって気が狂いそうになるけれど、倒れる訳にはいかない。

緯度の上では、新潟の対岸にあたる。朝鮮半島の東海岸、北緯38度の軍事境界線付近に人口2000人の大津(デジン)という漁村がある。40km南には、海水浴で賑う東海岸随一のリゾート地・束草(ソクチョ、人口8万人)がある。北緯38度12分17度・東経128度28分29度。実は、軍事境界線一帯の漁村が韓国集団拉致の現場である。韓国拉致被害者家族協議会などの調べでは、韓国では1953年から2000年までに486人が拉致されたという。ただ、南北融和や統一を抱える韓国では微妙な問題だけに、実態はあまり明らかにされていない。私はこの10年間に4度大津を訪ねた。そこには、日本と同じ悲しみが流れている。愛娘のめぐみさん(50)を拉致された横田滋さん(82)と早紀江さん(78)ご夫妻らが長年煩悶の人生を送られたように、息子を奪われた母が、夫を失った妻が寄り添うように苦悶して暮らしている。同じ悲劇の運命を背負って海を隔てて向き合って生きる悲史を前に、日本海は無情の波を逆立てているように映る。束草の市外バスターミナルから乗り合いバスに乗車した。市街地を抜けると海岸線に出る。青い海原の向こうは日本列島。日本の対岸にこんな高層ビルの都市が存在するなど想像もつかない。海岸線を走ってゆくと異様な光景にぶつかる。海岸沿いに鉄条網が延々と張り巡らされているのだ。浜辺は“軍事戦地域”。国軍が24時間警備を実施している。名札大の赤いカードが数m置きに吊るされていた。警備兵はカードを裏返しながら回る。裏側は白色で、パトロールしたことがわかる仕組みだ。金網に吊るされた警告板には「(哨戒兵の)夜間勤務の際、支障や刺激を与える下記の行為をしないで下さい」とあり、ビキニの水着など刺激を与える姿・飲酒・歌・踊りなどは禁ずるとある。海岸に人影は少ない。大津は商店や食堂が並ぶ日本の田舎町と同じ町並み。後背地の丘が迫り、斜面に民家が連なる。魚市場で20kg超の大タコが水揚げされていた。埠頭脇で漁網を繕う女性たちに訊ねると、エヨンさんの事件を皆気の毒がっていた。




1968年10月の朝のことという。エヨンさんの長男・オスンさん(当時27歳)は、乗組員9人と共に午前6時前に出港した。オスンさんは若くして船長であり、家族の大黒柱だ。いつも昼前に帰港、母手作りの昼食を食べるのが常である。しかしこの日、夕方になっても帰らなかった。数日後には結婚式を控えていた。フィアンセが心配してやって来た。大恋愛の末、結納も済ませて式を楽しみにしていた。「もしや」という不安はあった。「北朝鮮によって原因不明の拉致がある」との噂が流れていたからだ。しかし、遭難なのか拉致なのかわからぬまま数ヵ月が過ぎた。ある朝、オスンさんの船が帰港した。乗組員9人は戻ったが、オスンさんだけは拉致されたままである。乗組員は「操業中、(北の)船が近づいて軍人が乗り込んできた。銃を突きつけ、船ごと持っていかれた」と口数少なく語った。なぜオスンさんだけ拘留されたのか見当がつかないまま、歳月が流れた。一家にとって悲劇だったのは、南北対立が激しく、「オスンさんは望んで北に渡った」と疑惑を持たれたことだ。一家は一日中、警察などの厳しい監視下に置かれた。近所から白い目で見られ、謂わば“村八分”に近い状態にもなった。オスンさんほど自由を求めた若者はいなかった。一家は貧しく、慶尚北道の浦項(ポハン)から移住してきた。苦労して中型船を購入。自由に出港できる喜びの尊さを誰よりも重く受け止めていた。しかし、北に関与したとみられる人物が出た家は、出世は疎か軍への入隊も拒否され、職も失うと言われていた。

息子がいなくなった後、引退していた父親が船長に復帰し漁を続けた。その頃には、大津や花津浦(ファジンポ)・巨津(コジン)など近隣一帯の漁船が北朝鮮に拉致される事件が日常茶飯事と化した。軍事境界線付近の海は、スケトウダラやヒラメなど高級魚が獲れる漁業資源が豊富な海である。生きるために漁場を見捨てる訳にはいかない。地元の漁民たちによると、最初は設備が良い新造船が標的にされた。船出の際に厳重警備したが、武装兵の銃には敵わない。次第に、“北”の狙いは“人”にあることがわかり始めた。技術力に優る船員は漁も上手で漁獲量が上がり、新造船も手にできる。初歩的な漁業力しかない“北”は、そんな人材を欲していた。相次ぐ拉致がそれを正直に裏付けた。帰還させられる人物と拉致被害者の輪郭が浮かんだ。技術的に未熟な者は若くても戻された。ベテラン漁船員も、高齢や動作が鈍いと帰された。特殊な漁業技術を有したり、操舵術に優れた者・知識豊富で指導性に優れた人材は、古船の船員であっても帰されない。頭が切れ、大津を背負うと期待されたオスンさんは一目で俊英と解る。ところが、あろうことか今度は父親が拉致された。が、老いた父はすぐ戻された。役立つと見做されなかったのだ。ただ、衝撃の事実を漏らした。「抑留施設のトイレで、オスンと偶然に会ったんだ。すると、オスンはこう囁いた。『父さん、“眼鏡を買い替えてあげる”“丈夫な歯を入れてやろう”などと持ち掛けられても、絶対乗ってはダメだ。それに乗ると帰れなくなるよ』」。父親は、息子を抱き締めて一晩中でも語り尽くしたかったろう。帰ってきた父は、「自分が身代わりになるべきだった」と自責の念に囚われた。間もなく鬱の症状に悩まされ寝込みがちになり、数年後死亡したのだった。エヨンさんの苦しみは如何ばかりか。息子だけでなく、夫も拉致が原因で生きる望みを失い、早逝したのだから。皆拉致や死亡について、その歳月をはっきり記憶していない。それも仕方ないことだ。懸命に、忘却の彼方に葬ろうと長い日々を送ってきたのだ。

オスンさんの実弟・ジュンテさん夫妻もその苦悩は尋常ではない。ジュンテさんは12歳年上の兄が拉致された時、中学生だった。オスンさんからは「優秀な高校に進ませてあげる」と言われていたが、この悲劇のために進学できず、自分も海へ出て働くことになった。奥さんのチェウンさんは、事件から14年を経た1982年にジュンテさんと見合い結婚したが、事件のことを知らされなかったという。結婚後、周囲の視線に奇異を感じ、拉致被害者家族と知らされた。目の前が真っ暗になった。希望を失い、離婚を考えて葛藤したが、お腹の中には長男がいた。それに、夫は優しく黙々と働いてくれる。いつ拉致されるかわからない恐怖の中で、漁を続けて家族を養ってくれる。「こんな夫を捨てたら罪ではないか」。彼女の苦しみもまた歳月に頼って消す以外に無かった。一家4人はそうした苦しみを経た上で、幸せに暮らしている。ジュンテさんは、兄の話になると寡黙になりがちだ。「拉致の被害者なのに、誤解され続けて周囲から白い目で見られたのが一番辛かった。でも、兄はもっと辛い目に遭ったと思うと……」。そう漏らして涙ぐんでしまった。「その後、韓国政府の政策が変わり、次第に誤解が解け、近所の人からも同情されるようになり、精神的な苦痛を免れるようになった」とチェウンさんは言う。これらの事実は、過去3度の大津取材の集積である。私は2014年夏にも再び大津を訪ねた。90歳になるエヨンさんの近況を知ることが目的だったが、丘の上の小さな長屋で元気そうだった。エヨンさんは以前、町の占い師に通い詰めたこともある。「オスンさんは既に死亡した」と宣告されたり、「“北”のどこかで生存している」と占われたが、あのトイレの一件以来、消息は途絶えたきりである。オスンさんは曲がったことが大嫌いで、筋を通さねば何事も頑なに拒む性格だったのが何よりの心配という。教化しようとした“北”に反発して、処分されることだってあるからだ。でも、諦め切れない。ここを離れる訳にはいかない。息子のために毎日ご飯を炊いて奉り、朝日に夕日に祈りを欠かさぬ日々が続く。

大津の海岸線沿いに走る国道7号を軍事境界線まで7~8km、地元の人に案内してもらってドライブしたことがある。鉄条網だけでなく、“北”の侵入を防ぐ戦車除けブロックがある。直径2mの正方形のコンクリート塊には爆破装置が装備され、いざという時に小爆破させ戦車の侵入を阻止するのだ。まさに国際緊張の前線である。束草や江陵(カンヌン)を含む江原道全体が韓国の前線基地に当たり、攻撃に備えて常時5分から30分で戦闘に入れるよう警戒態勢が取られている。陸軍も最強部隊が集結しているという。2014年夏、この先にある高城統一展望台に行ってみた。数km手前の出入申告所で入場料3000ウォンを払い、パスポートを提示して申告書に記入。乗用車かバスツアー客しか入場は許されない。観光バスが何代も押し掛ける一大観光地である。ただ、ソウル近郊の軍事境界線を見渡す臨津閣(イムジンガク)と同じように、離れ離れになった肉親を慕って訪れる人も多く、ただのツーリズムとは趣を異にする。展望台から“北”の海岸線が一望できた。大津は北朝鮮の名所『金剛山』ツアーの出発地でもある。大津の漁民に「南北が統一されたらどこに行きたいか?」と訊ねたことがあった。皆、「金剛山と白頭山」という回答だ。「自由に交流出来たら、何をおいても金剛山山頂に行く」と何人もの漁師が口を揃えた。大津や束草の高齢者にとって、それは故郷の山。かつて遠足で登り、景色の素晴らしさを胸に焼きつけているのだ。




もう一度、村に戻った。エヨンさんの家から数百m離れた丘に、海が良く見える一軒家がある。最初に訪ねた時、ミオさん(82)は近所の友達と花札遊びに興じていた。「貴女の御主人が拉致された話を聞かせてほしい」と申し出たが、彼女は「触れたくない。怖い。北も南も怖い。だから何も話したくない」と避けた。傍らの友人が「ミオさんは怖がっているんだ」と言い添えた。通訳氏は「日本にも拉北(拉致)があり、同じように苦しんでいる人たちがいる」と告げると、びっくりして目を丸くした。友人が「時代が変わった。もう証言しても大丈夫」と援護してくれ、次第に表情が和らぎ、重たい口を開いてくれたのだった。「うちの主人もその朝6時頃、乗組員9人と元気に船に乗ったんです。でも夜中になっても戻らず、近所の人たちが集まって大騒ぎになった。この家に1人でいると本当に怖いんです」。怖さは本当のように思えた。ミオさんの頭の中では、南北が対立したまま時計が止まったきりなのだろう。「部外者への証言は初めて」と言った。「私たちには7人の子がいました。乗組員9人にも皆家族がいて途方に暮れていたのですが、1年後、5人だけは帰還した。残る4人は拘留されたまま。戻ってきた漁師から向こうの状況を聞くこともできなかった」。ミオさんの家からも青い海が見える。しかし、ミオさんもまた海が怖いという。隣に住む年配の漁師が近づいてきた。「どの辺の海域なら拉致されずに済むのか、いつも考えながらの漁だった。港から僅か数百m沖合であっても危なかった。いつも大津の灯台を目印に、直ぐに逃げ出せるよう落ち着かぬ気持ちで漁をしたものだ」。韓国軍が近辺海域を警備して漁船保護に乗り出してから、安心して漁に励むことができるようになったという。

ミオさんが水平線の彼方を見遣った。「毎日、『夫に会いたい』と思わない日は無い。本当に優しい夫だった。慶尚南道の生まれだったが、朝鮮戦争前に一度“北”に移住したことがあるのです。しかし朝鮮戦争の時に逃げて、私は江陵で知り合って結婚しました」。ということは、北朝鮮側の兵士だったのに南に下ったということだろうか。セピア色の写真を取り出した。サングラスを掛け、細身の俊敏な感じの男性である。「海が好きな人で……漁が無い時もいつも網を繕っていました」。横田めぐみさんの話を聞いたことがあるか訊ねてみた。「初耳です。日本に上陸してまで(北は)拉致したのか」と、その場にいた4~5人が一様に驚いた。「日本海側でも日本人が沢山拉致された」と話すと、件の漁師が言った。「日本のイカ釣り漁船が拿捕されたとかは聞いたことはあるが、上陸してまで攫っていくなんて信じられない」。ミオさんは、この話を聞いて本当に怖くなったんだろうか。微笑んでいた目元が急に険しくなった。ミオさん宅のすぐ近くにも、27歳の息子を拉致されショックで寝たきりの老人がいると聞いた。この息子はその後、北朝鮮当局から死亡したことが公式に伝えられたが、その知らせに「命を縮めると良くないから」と家族は老人に伝えなかったという。

一体、この小さな村でどれだけの拉致事件があったのだろう。誰も調査したことが無いからわからない。それに触れるのはタブー。魚市場界隈で聞いた話では、「兎も角、日常茶飯事だった。被害に遭うか免れるか、それは運だけ。銃で撃たれた負傷事件もあった」「少なくとも、大津で30人は行方不明になった。帰還者も含めると、一度でも被害に遭った者は数百人規模だ」「『大津よりも巨津のほうが拉致被害は多い』というのが昔から専らの噂だ。大津だけが狙われる理由は無いので、この東北部沿岸だけでどれだけの被害があったか……生易しい数字ではない」。ジュンテさんらも「私の家の近所だけで5人が拉致された」と証言しており、被害者が相当数に上ることは確かだ。「大津一帯のこの集団拉致は、北朝鮮による“拉致”の草分けではないか」という見方が濃厚という。年代的に1960年代後半に被害が増加、1970年代に激化したことに加え、地域的にも南北軍事境界線に近く、南北対立の緊張下でこうした事件を誘発しやすい豊漁ゾーンにあること。反対側の西海岸地域でも拉致被害はあったが、ここより遅れて発生していること――などが理由だ。「朝鮮戦争後、国土が疲弊し、経済的・社会的に不安定な中、国の発展のためには優秀な人材の育成が欠かせない。ただ、その体制作りの余裕は無かった。そのために隣国の人材に手を伸ばしたのではないか」との推測が有力である。「南北融和を重視し、大声で反発しなかった韓国側の態度に図に乗って次第に拡大、遂には日本海沖合に進出し、日本列島へ魔手を伸ばしたという流れではないか」とも見られている。横田めぐみさんら日本人の一連の拉致(1977年9月~)の目的は明確ではないが、投げ網を垂らして引っ掛かった人物を攫った感じの大津一帯でのやり方とは違っているようだ。日本での拉致は、目的意識が高度化・先鋭化したように思える。拉致が一層組織的になり、目的も日本語教育係など高度の知的資質に恵まれた人材確保に狙いが移ったようにも見えるのだ。日本での拉致が増えると共に、韓国東海岸の集団拉致が次第に減少したことは年次的に示されているという。

現地で取材中、これとは別に悲しい運命を負った人々が隣り合って暮らしている現実に巡り合った。それは、“アバイ村”の存在だ。アバイとは、父という意のアボジの“北”の方言である。愛する人を拉致された人にとって、“北”を邪悪な国のように感じるのは当然としても、そこに隣り合って“北”を故郷と慕い、何れの日か帰郷したいと思う人々がいるというのもまた現実である。今、アバイは若者に人気の観光スポットである。ウォンビンとソン・ヘギョ出演のドラマ『秋の童話』の大ヒットで、年中観光客が絶えない。アバイ村は束草港に近い一角にある。正式な町名は青湖洞。市街地から北に突き出ており、渡し船『ケッペ』が出ている。朝鮮戦争で家族と離れ離れになった離散家族の人たちが住む所としても知られる。最初に訪ねた時、村は雨だった。通り掛かりの老女に声をかけたら、「私も実の弟と別れたままです」と歩きながら話してくれた。「3人きょうだいでした。朝鮮戦争の時には北朝鮮に住んでいた。弟は軍に駆り出されて、家族と一緒に南へ逃げようとしたが、行方知れずになってしまった。もう家族のだれも残ってはいない。私だけアバイ村に居ついているんだ。弟の顔は忘れない。生きている間に一度会いたい。それが唯一の望みなのです」。その先に食堂があった。食堂の小母さんが「自分の親戚のこと」と語ってくれた話は、離散家族の衝撃の事実だった。「朝鮮戦争終結直後、北朝鮮で教師をしていた一家3人は南に移住しようとした。北の港から船で出港する際、夫は愛する妻と娘の身が安全なように、性能のいいほうの船に乗せ、自分はおんぼろ船に乗った。ところが、優良船は航行中、北朝鮮の軍人に奪われ北に戻ってしまった。夫の優しさが仇となったんです」。それ以来、家族は離れ離れになった。妻と娘の消息は不明。夫は南で公務員を務め、定年退職後、妻と娘の消息を知りたくて退職金の全てを中国筋のヤミ情報屋に注ぎ込んだ。2人がどうやら生きているらしいことはわかったが、それ以上の情報は入手できなかった。食道の小母さんは語った。「拉致被害者や南北離散家族の人たちは、北への思いや立場は違うが、北と憎しみ合ったり対立したりすることは無い。運命だと割り切っているのではないか。私も、南北が早く打ち解けて本当の笑顔が戻る日を待っています」

韓国拉致被害者家族協議会を設立した崔祐英さんにも話を聞いたことがある。知的な笑顔を浮かべ端正な感じの女性で、日本語も上手だ。彼女の呼び掛けで50家族が集まって協議会はできた。漁労長だった父は1987年1月、西海岸の白翎島付近で拉致された。その後、収容所で生きていることだけは確かめたという。韓国では、被害を受けたにもかかわらずスパイ視されたことなどで拉致の実態が明らかになるのが遅れた。日本の拉致被害者の家族は、数十年間声を大にして訴えたのに無視され続けた。韓国では、被害者は長い年月を寡黙に過ごしてきた。両者が熱い思いを胸に共通して見つめていたもの……それは日本海である。今、日韓両国の家族会は手を携えて解決に向けて歩んでいるが、領土問題や歴史問題などの課題があって、スムーズな進展が難しい状況。日韓の被害者家族は何れも高齢で、焦燥感は一層深まっている。これ以上苦しまれることがないよう、政治の努力と日韓両国の相互理解が進むことをただ祈るのみである。 《韓国関係者は、崔祐英さんを除いて仮名にしました。》


森哲志(もり・てつし) ジャーナリスト・作家。長崎市生まれ。朝日新聞記者を経てフリーに。日本エッセイストクラブ会員。『こんなはずじゃなかったミャンマー』『あの人にあの歌を 三陸大津波物語』『我らかく生き、その時を迎えり 6人の定年物語』など著書多数。


キャプチャ  2015年3月号掲載


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