【『21世紀の資本』を私はこう読んだ】(中編) この古典的な“資本主義の病”

現在、格差と貧困が資本主義の病として再認識されている。格差に対して寛容だと言われてきたアメリカにおいても、国民が1%のスーパーリッチとその他99%に分断されていることが話題となっている。格差を巡る論議に一石を投じ、世界的なブームを引き起こしたのが『21世紀の資本』である。戦後、1970年代の石油危機を迎えるまでは、先進諸国は高成長と比較的小さな格差を両立させていた。けれどもピケティは、これが資本主義の歴史の上では寧ろ例外であったことを教えている。19世紀から20世紀初めの資本主義において、富と所得のかなりの部分がスーパーリッチに集中していた。ところが20世紀に入ると、2つの世界大戦・ハイパーインフレーション・世界大恐慌によって、スーパーリッチの富と所得が破壊された。その後の戦後資本主義でも順調に富と所得の平等化が進んだ。1980年代以降、新自由主義が登場した。しかしこの“新しい資本主義”は、格差という側面では古い資本主義への復帰であることをピケティは教えている。大量のデータによる分析によって、アメリカと西欧の幾つかの国についてこうした歴史的事実を明らかにしたことが、本書の最大の意義と言えよう。尤も、統計データの正確さが問題となるのは常のことである。そして、一般的には過去に遡るほど統計データの正確性は低下するだろう。それでも、全体的な傾向としてはピケティの主張は正しいと言えるであろう。

さて、公正さに関する倫理学や効率性に関する経済学の見地から見ると、格差がなぜ良くないのかを理論的に説明することは必ずしも容易ではない。才能と努力によって多大な成果を上げた人は、高い報酬によって報われることが公正であり効率性を高めるという格差擁護論は、よく聞かれる話である。しかし、ピケティが描くところでは、19世紀のヨーロッパ経済はこのような“明るい”格差社会とは異なる。そこでは、スーパーリッチの所得の大部分は富の支配によって生じる不労所得によってもたらされていた。そして、その富の大部分は相続財産によるものであった。700ページにもなる『21世紀の資本』(日本語版)は、図表が豊富である。しかし、数字を使った経済モデルは殆ど存在しない。しかし、彼が資本主義の基本法則と呼ぶ2つの方程式は極めて重要である。




初めに、第2基本法則から説明しよう。国民所得の一部は貯蓄され、この貯蓄が資本を蓄積させる。従って、“資本成長率=国民所得×貯蓄率/資本”となる。長期的には資本成長率は所得成長率と等しくなるので、“資本・所得比率=貯蓄率/所得成長率”が成立する。これが彼の言う第2基本法則である。他方、資本分配率は“資本分配率=資本からの収益/国民所得=収益率×資本・所得比率”となる。これが第1基本法則である。この2つの単純な方程式にも彼の資本主義像が現れている。ある人が幸運にもスーパーリッチの富を世襲することができれば、毎年莫大な不労所得を得ることができよう。この不労所得が貯蓄されると、富を複利法則によって拡大させるのである。他方、1980年代以降のアメリカ社会では、スーパー経営者が莫大な富と所得を蓄えるようになった。所得階層の頂点が労働所得によって占められるようになったことは、新しい変化である。けれども、「スーパー経営者と世襲的な不労所得が共存することは可能である」とピケティは付け加える。スーパー経営者は、引退してからも現役時代に蓄えた富を元手に不労所得を稼ぐことができるし、実際にもそうしている。更に、ピケティはスーパー経営者の子供が不労所得生活者になることもできることも指摘している。こうして、スーパー経営者の富もまた世襲的な富へと転化していくのである。2つの基本方程式は重要であるが、スーパーリッチの所得と富の蓄積を2つの方程式だけで解明できると考えることは単純過ぎよう。以下では基本方程式を補足しながら、21世紀の資本主義における格差の問題を論じたい。

初めに、全ての富が収益を生む訳ではない。例えば、立派な家を所有していても、自宅として使っている場合には収益を生まない(尤も、国民所得の統計上は持ち家の帰属家賃は所得に勘定されるが、税務統計では勘定されない)。他方、それを他人に貸した場合には家賃を得ることができる。実際には、他人に家を貸している人はお金持ちが多いであろう。他方、借家に住んでいる人は相対的に貧しい人が多いであろう。つまり、富の分配の格差は極めて大きいが、それ以上に所得を生む富の分布の格差は大きいのである。またピケティは、19世紀のヨーロッパ諸国では国富は国民所得の7倍程度だったことを示している。20世紀に入ると、2つの世界大戦と経済的な混乱の中で3倍程度まで低下した。しかしその後、値は上昇している。値は異なるが、全体的な傾向はアメリカも同じである。ここで言う“富”とは、実物資産と金融資産から金融負債を引いたもの(『純金融資産』と言う)から成り立つ。金融負債はマイナスの富だから、その分を引かなければならないのである。しかし、貸し手がお金を貸すことができるのは借りる人がいるからである。借り手の殆ど全ては国内の人々であるから、一国内で貸し借りを相殺すると消えてしまう。現在の日本の場合、純金融資産はGDPの1割を占めるに過ぎない。すると、金融資産の存在はそれほど大きなものではないように見える。しかし、実際にはスーパーリッチ層は金融資産の保有も大きい。野村総合研究所の試算では、2013年には日本において0.1%の家計が5億円を超える純金融資産を所有し、2%の家計が1億円を超える純金融資産を所有している。常識的に考えても、スーパーリッチは資金を貸す側であるのは当たり前とも言える。

super rich 01

アメリカでは、日本よりも遥かに純金融資産の分布がスーパーリッチに偏っている。富(純金融資産ではない)の上位1割の家計の純金融資産は、平均して2億円(1ドル=120円で計算)近い。他方、下位4分の3の家計の純金融資産はマイナスである。アメリカの場合には、下位4分の3の家計は上位1割の家計から資金を借りて生活をしているということになる。彼らは借りた資金の利子を返済しなければならない。それによって、所得がスーパーリッチへと再分配されることになる。また、現在の資本主義は金融主導型であり、金融部門が実物経済よりも急速に発展している。金融業は借りた資金を貸し出して利鞘を稼ぐのが仕事であるから、実物経済よりも急速に金融資産と負債が並行して増加している。しかし、金融業が支払う利子(と配当)は受け取る利子よりも小さい(そうでないと金融業は成り立たない)。そして、株の保有はスーパーリッチに偏っているから、金融業の発展もまたスーパーリッチへの所得と富の集中を助けることになる。所得についても、キャピタルゲインを含めるかどうかで話は変わってくる。資産の価値が上昇すれば、その資産の所有者は利益を得る。これを『キャピタルゲイン』と言う(資産の価値の値下がりによる損失は『キャピタルロス』と言う)。実際、スーパーリッチの富と所得にはキャピタルゲイン・キャピタルロスも大きな役割を果たしていることも、ピケティが示す通りである。例えば、2000年代前半のアメリカの住宅バブル期には、人々は借金をして住宅を購入した。それが住宅価格を更に押し上げた。住宅価格が上昇しているのを見た金融機関は、将来価格が上昇した住宅を売却すればローンが返済できると考えて、普通であれば借金が返せない人にも住宅ローンを貸し出した。こうして、金融の拡大とバブルは並行して進んだ。この中で、金融機関とスーパーリッチは富と所得を急増させていた。他方、2008年の金融危機によって、一時的に金融機関とスーパーリッチの富と所得は急減した。

先述したように、経済学には格差擁護論も存在する。けれども、現在では格差が与える社会的な悪影響について秘録研究が進められている。以下では、格差が経済成長を促進するかどうかに限定して論じよう。現在のアメリカでは、スーパー経営者が莫大な報酬を得ている。しかし、このスーパー経営者の社会が“超能力主義”社会かどうかについて、ピケティは懐疑的であるし、筆者もそうである。抑々、巨大企業の仕事は巨大組織の仕事であるから、能力のある1人或いは数人によって業績が決まるものではないことは、アメリカ経営学によっても指摘されている。またアメリカの経営者は、企業の業績が良い時には成果主義の原則に従って莫大な報酬を得ている。しかし、企業の業績が悪化して解任される場合でも莫大な退職金を貰っている。その背景には、アメリカの経営者の報酬決定の仕方にあることもよく指摘される。経営者の報酬は報酬委員会が決める。そして、その委員会のメンバーを実質的に決めているのが経営者なのである。その意味で、スーパー経営者の社会とは超縁故社会とも言える。そのわかりやすい例が、2008年の金融危機である。この時、アメリカ政府の救済が無ければ、ウォール街の金融機関は壊滅していたであろう。しかし、救済された金融機関の元経営者は、数十億円にも上る退職金を受け取った。本来の成果主義を貫くのであれば、金融機関を破綻させた元経営者はその損失の一部を補填すべきであろう。また、19世紀の古典的資本主義の社会では、スーパーリッチの世襲的な富も正当化されていた。経済が成長するためには、設備の拡大の為の投資が必要である。スーパーリッチは貯蓄を通じてこの資金を供給している。だから、それに対する不労所得も社会の富の蓄積の対価なのである。成長の為の貯蓄が必要だったということは、19世紀の古典的な資本主義や、高度経済成長期の日本では正しかったかもしれない。しかし、現在の先進国では設備投資の為の資金はそれほど必要とはしない。他方で、巨大企業は巨大な内部留保を蓄えている。彼らは有り余る資金の使い道に困っているのである。こうした経済では、投資を賄う為の貯蓄の拡大は必要とはしないであろう。成熟経済では、成長の為には寧ろ消費を刺激することが必要とされている。




ところが、莫大な格差は消費を停滞させる。実際、アメリカの莫大な格差が2008年の金融危機の遠因だということは、リベラル派の経済学者(彼らは基本的にケインズ派か、ケインズに親近的である)が指摘することである。スーパーリッチの消費は金額としては莫大であっても、彼らの所得との比率で見れば小さい。他方、ワーキングプアは消費意欲は大きくても、所得が低いので消費は制限される。こうして、莫大な格差のある経済では消費が抑圧され需要不足に陥る。近年のアメリカの場合、この消費抑圧の問題を解決したのが住宅バブルであった。ウォール街がアメリカ経済を支えてきたとするならば、それはバブルを引き起こすことによってであり、消費と住宅投資の刺激によってである(住宅投資は投資であるが、設備投資と違い生産能力を拡充しない)。2000年代前半の住宅バブル期には、“略奪的貸し付け”と言われる住宅ローンも拡大した。本来はローンを返せない人でも、バブルの中で価格が上昇した住宅を売却すると返済ができるようになる。その為、金融機関はこうした人々にも極めて不利な条件で住宅ローンを貸し出したのである。アメリカでは、ホームエクイティローンも発達している。住宅の市場価格から住宅ローンの残高を差し引いたものは、その住宅の純資産である。これを担保にして、人々は借金をして消費に使ったのである。このような方法で金融は住宅バブルを支え、経済を刺激した。しかし、バブルが破綻すると共に住宅ローンは不良債権となり、世界経済も歴史的な危機に陥った。経営者と金融が長期的には経済成長を促進せず、危機の源泉であるとするならば、彼らに多額な報酬を支払う理由は無いであろう。

さて、第2基本原則に従えば、経済成長率が低下すると資本・所得比率が上昇する。すると、第1法則から資本分配率が上昇する。こうして、経済成長率の低下はスーパーリッチへの所得集中をもたらすことになる。実際にも、ピケティはそのように論じている。そして、「20世紀後半の高成長は資本主義の歴史上例外的な事態であって、21世紀の資本主義は低成長経済となる」とピケティは言う。そこから何もしなければ、21世紀の社会は超世襲の不労所得生活者社会になることが予測されるし、ピケティもそうなることを示唆している。そして、この未来に最も近づいている国の1つが日本である。日本は急速な勢いで人口が減少し、2050年には1億人を割ることが予測されている。しかも、現役世代の人口は年率で1%を超える勢いで減少することになる。労働人口が減少ということは、その分生産能力が縮小するということである。現在既に、日本の潜在成長率(供給能力の成長率)は0.5%程度と言われている。既に日本はゼロ成長社会に入っているとさえ言えるかもしれない。ゼロ成長社会では貯蓄率がプラスであり、貯蓄の一部が収益性のある資産に投じられる限り、資本・所得比率は無限大に大きくなっていく。そして、資本分配率も無限に大きくなる。

さて、ピケティは日本の国民所得に対する民間資本の比率も図にしている(『21世紀の資本』180ページ)。そこでは、1980年代のバブル期までは比率は上昇していたが、1990年代以降は安定していることが示されている。高成長時代に上昇していた比率が、低成長時代になると安定化したことは意外なように思える。なぜこうしたことが生じたのであろうか。初めに、実物資産の蓄積について考えよう。実物資本には減価償却がある。貯蓄から減価償却を引いたものを純貯蓄と言う。資本が大きくなるに連れて減価償却も増加するので、あるところまで資本蓄積が進めば減価償却と貯蓄が等しくなり、純貯蓄はゼロとなる。その結果、資本・所得比率の上昇が止まる。特に、設備投資は生産能力を拡張させる為に行うものであるから、ゼロ成長経済において企業が設備投資を大量に行うことはあり得ない。実際、現在の日本では固定資本投資よりも減価償却のほうが寧ろ大きくなっている。更に、人口減少が進む日本では土地の価値が低下している。また、低成長の中で株式の価値も低下している(但し、2012年と2013年には株式の価値は増加した)。こうしたキャピタルロスも、富の破壊を促進していると言える。ピケティは20世紀の初頭、2つの世界大戦とハイパーインフレーション・世界大恐慌の中で、19世紀の世襲的な富が破壊されたことを指摘している。考えてみれば、戦争は物理的な破壊である。大恐慌は富を価値によって破壊し、ハイパーインフレーションは富の実質的な価値を破壊する。こうした激しい破壊に対して、現在の日本では富が緩やかに破壊されていると言える。

表では純金融資産しか扱われていない点で不十分ながら、2000年代の日本の家計では、家計の平均的な純金融資産はそれほど増加していない。しかし、超富裕層の金融資産は2倍以上に増加している。少なくとも純金融資産に関しては、富の集中が全体として進んできたようである。なぜこうしたことが生じるのであろうか。その理由として、次の2つが考えられるであろう。1つは、勤労所得の段階でも格差が拡大していることである。もう1つが、高所得者ほど貯蓄性向(可処分所得に対する貯蓄の比率)が高いことである。現在の日本では、ワーキングプアや高齢者も増加している。貯蓄性向が低い層が増加する為に、経済全体の貯蓄性向は押し下げられる。しかし、『家計調査』が示すように、勤労者家計の貯蓄性向は必ずしも低下していない。更に、数は少なくてもスーパー経営者も存在する。所得の高い彼らの貯蓄性向は高く、この貯蓄のかなりの部分が金融資産として投資されるであろう。これが複利で増加する結果、スーパーリッチの金融資産は累積的に増加することになる。すると、経済全体の富の増加が止まったとしても、複利法則の作用によってスーパーリッチは金融資産を無限に蓄積させることが可能であるように思える。実際にも、近年の日本経済においてそれが起きているように見える。しかし、実質でゼロ金利(或いはマイナス金利)の経済では、複利法則は作用しない。そして、近年の先進国はそうした状況に近づいているようにも見える。そうなると、ケインズが論じた金利生活者の安楽死や、新しい金融資本主義の安楽死が実現することになろう。こうした世界も、近未来の1つの可能性かもしれない。けれども、20年に亘ってほぼゼロ金利が続く日本においても金融業は生き残っている。ゼロ金利と言っても、実際にゼロとなっているのは預金等の金利であって、リスクの高い消費者金融などの金利は依然として高いことがその一因であろう。こうした金利格差によって、新しい金融資本主義は生き残れるかもしれない。

ところで、スーパーリッチが金融資産を蓄積する為には、他の誰かが負債を拡大させなければならない。もし金融負債を拡大させる者が無い場合、その経済は需要不足によって失業に苦しむことになる。ケインズ『一般理論』のテーマはこの問題だった。そしてケインズは、「政府には、この問題を解決する為に負債を拡大させるという役割があり得る」と論じていた。現在の日本における累積する国債は、それが現実化したものだとも言える。スーパーリッチの貯蓄過剰の問題は、一般国民の負債拡大によっても解決可能であるし、2000年代のアメリカでは実際にもこうした形で解決していた。しかし、所得が停滞する中で無限に負債だけを拡大させることはできない。それを事実によって証明したのが、アメリカの2008年の危機だったとも言えよう。この負債の持続可能性の問題は、晩年のミンスキーが問題にした新しい金融資本主義(彼は『マネーマネージャー資本主義』と呼んだ)の持続可能性の問題とも関わる。彼は、「新しい金融資本主義は自立的なシステムではない」と論じたのだった。失業や金融恐慌もまた、格差と貧困と並んで古典的な資本主義の病だと考えられていた。21世紀に生きる我々は、この古典的な資本主義の病と向き合わなければならないのである。


服部茂幸(はっとり・しげゆき) 福井県立大学教授。1964年、大阪府生まれ。1988年、京都大学経済学部経済学科卒業。1996年、京都大学博士(経済学)。専攻は理論経済学(マクロ経済学・金融政策)。著書に『アベノミクスの終焉』(岩波新書)など多数。


キャプチャ  2015年3月号掲載


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