【3.11を忘れない】(後編) 津波を生き延びた消防団員の苦悩――福島県相馬市第9分団の4年間

「俺、消防団が大好きだったんです。でも、心が折れてしまった。仲間は大勢死んだし、死んだ人も沢山見た。自分もああなっていたかも知れないと思うと、怖くて、怖くて……」。福島県相馬市の消防団員・遠藤一美さん(36)は項垂れた。遠藤さんは19歳で消防団に入ったべテランだ。この4月には班長になる。だが、本音では「辞めてしまいたい」と思っている。仲間に「団員数が確保できない」と引き止められ、仕方無く在籍しているのが実情だ。同市の消防団には10の分団がある。その内、遠藤さんが所属する第9分団は『磯部』地区を受け持っている。市役所から8kmほど離れた太平洋岸の街だ。2011年3月11日、磯部は津波に呑まれて251人が犠牲になった。同市の死者・行方不明者は458人だったので、半数以上が磯部の住民だったことになる。消防団員は市内で10人が殉職し、その内9人が第9分団だった。因みに、同市の殉職者数は同県で最も多い。遠藤さんは亡くなった9人と一緒に住民の避難誘導をしていて、九死に一生を得た。同じエリアで助かった団員は、遠藤さんと同じ車に乗っていたもう1人だけだ。津波来襲のぎりぎりまで避難誘導し、命辛々逃げる途中にも多くの人を救った。ところが、「生き残ったことへの罪悪感に苛まれているのではないか」と同僚団員は心配する。なぜなのか。理由を探っていくと、津波を生き延びた団員に共通する苦悩が見えてくる。東日本大震災からこの3月で4年が過ぎた。だが、生き残った団員達の心の傷は深い。それは誰に癒されるでもなく、彼らの中で膨らみ、ひいては街の復興にまで影響を与えている。

あの日、漁協職員だった遠藤さんは、磯部の漁港に面した支所にいた。「戸棚は倒れるわ、引き出しから物が飛び出すわで、凄い揺れでした。外では地面が沈下して、液状化していました。倒れた電柱もありました」。テレビは停電で見られなかった。職員の1人が機転を利かせて、携帯電話でテレビを見た。すると、「大津波警報が出た」というニュースが流れていた。「大津波警報って何だろう」。遠藤さんは耳にしたことが無かった。ただ、「津波は来ない」と思った。これには2つの理由があった。気象庁はその前日と前々日、2日続けて福島県に津波注意報を出した。消防団員が海岸の警戒に当たったのだが、「水位の変化は殆ど無かった」と遠藤さんは言う。そしてこの日、同庁は同県の津波を“3m”と予報した。磯部の防潮堤は海面から6.1mの高さがある。だから「堤防を越える筈がない。もし越えても少しだろう」と思った。同県の津波予報はその後、“6m”“10m以上”と2段階で引き上げられるのだが、遠藤さんは知らなかった。遠藤さんは磯部の中心部にあった自宅に戻り、法被に着替えた。そして家族5人を高台の小学校に向かわせ、消防団詰所に駆け付けた。1人で軽トラックの消防車を出して、マイクで避難を呼び掛けて回る。当時12人いた班員は、市の中心部に働きに行っている人が多かった。避難の呼び掛けは、誰に指示された訳でもなかった。ニュースで知った警報ではあったが、ベテラン消防団員の体は自然に動いた。




磯部は、1954年の昭和合併まで『磯部村』だった地区だ。小学校のある高台を境に、南北に分けられる。人家は北部に集中していて、海岸沿いに2kmほど住宅街が続いていた。その北端に松川浦という潟湖があり、漁港はここに面していた。第9分団はほぼ集落単位の5班で構成され、其々消防車が配備されていた。磯部北部を担当するのは3つの班で、3集落から3台が出動した。その内の1台が遠藤さんだった。他の2台には漁師の団員らが乗っていた。装備は脆弱だった。分団長が乗る車以外に無線は無く、市役所に置かれた災害対策本部からの情報も、分団長の指揮も伝えられなかった。消防車に乗り切れなかった団員は、自家用車で後をついて回り、窓を開けて肉声で避難を呼び掛けた。遠藤さんは巡回の途中で分団長の車と擦れ違った。副分団長と20代の団員1人の計3人が乗っていた。分団長は「1人だと危ないから」と20代の団員を遠藤さんの車に移してくれた。その時、副分団長が目で微笑んだ。「ご苦労さん。今日も頑張ろう」と言っているように見えた。それが分団長、副分団長との最後になった。遠藤さんは何度か海岸を通った。最初は見たこともないほど潮が引いていた。次に見た時には、防潮堤の天端すれすれにまで潮が満ちていた。だが、海は穏やかに見えた。不安は過ったが、 車を住宅街に戻すと直ぐに忘れた。車のラジオはつけていなかった。避難を呼び掛けるマイクに別の音が入ると聞き取りにくくなるからだ。市の防災無線の拡声器は、何かを一度放送したきり沈黙していた。北端の漁港に着いた時だった。少し離れた場所に、他の2班の消防車と団員の車が止まっていた。と、その3台が急発進し、街中に走り去った。「何だろう。津波が少し堤防を越えたのかな」と遠藤さんは思った。消防車をUターンさせた。海岸の松林がちらりと見え、海水が流れ込んで来ているように見えた。そこでちょうど知り合いに会ったので、少し話をした。

再び車を走らせた時である。バキバキという音が迫って来た。「津波だ!」。遠藤さんはアクセルを踏み込んで、細い砂利道を飛ばした。広い道に出ると、運転手が道路の真ん中にトラックを捨てて走って逃げていた。トラックの横をすり抜けた際に、海のほうから10m以上の津波が押し寄せて来るのが見えた。その頂上に民家の屋根が乗っていた。遠藤さんはサイレンを鳴らして、内陸部へ突っ走った。分団長らが向かった磯部の街中と別方向だったのは偶然だ。車が向いていたからだった。そのような時にも、まだ内陸部から磯部へ向かう対向車が10台も20台もあった。遠藤さんは猛スピードで走りながらクラクションを鳴らし、「戻れ、戻れ」と手を振って叫んだ。その形相に驚いた車は次々とUターンした。1.5kmほど逃げたところで車を止め、避難誘導をした。ふと海側を見ると、津波が30mほど先まで迫っていた。慌てて消防車に飛び乗り、アクセルを踏む。更に1.2kmほど先の集落まで逃げた。そこは他の分団の管轄だったが、構わず避難を叫んで回った。津波はその集落を避けるようにして、内陸部へ進んで行った。一息ついた遠藤さんは、家族や磯部の住民が避難している小学校へ戻ろうと考えた。内陸部を迂回すると、山の尾根の先端から磯部の“街”が見えた。家も何もなかった。滝のように水が流れる音しか聞こえなかった。水際まで下りると、「助けて下さい」という弱々しい声が聞こえた。遠藤さんの隣家の小学1年生の男の子だった。一度は流されたが、ガードレールに引っ掛かったらしい。抱き上げるとガタガタ震えていた。もう30分そのままにしていたら命は無かっただろう。後にわかるのだが、母親が家族4人を車に乗せて避難していた時に津波に呑まれたのだった。一家は車外に投げ出され、母親と弟は別の場所で助け上げられたが、祖母と生後1週間の妹は遺体で見つかった。小学校までの道は水が引き切っておらず、歩けなかった。そこで、人の集まっていた高台の家に男の子を預け、別の山道などを辿った。20代の団員と2人で小学校に辿り着いた時には、もう薄暗くなっていた。

そこで遠藤さんは、標然とすることを聞かされた。「消防車が呑まれたのに、なぜ生きているのか」と言われたのだ。「先に逃げた」と思い込んでいた9人の姿は無かった。街中の道路は海岸と並行に走っていたから、逃げ切れなかったのだ。遠藤さんは、生き残ったのを責められているような気がした。これ以降、「なぜ生き残れたのか」と尋ねられる度に苦しむ。小学校には、9人の団員の家族もいた。遠藤さんは目を合わせられなかった。あれほど誇らしかった法被も、着ているのが苦痛だった。第9分団は、市の消防団でも飛び抜けて団結力が強かった。市の中心から離れた“漁村”。小学校と中学校が1校ずつしかなく、誰もが子供の時からの知り合いだ。人の付き合いの濃い磯部の核のような存在が消防団だった。特に北部地区では、神社の神楽を舞うメンバーがそのまま消防団員になっていて、神楽の師匠が分団長だった。その集団が津波の後、少しずつ壊れていく。それは、磯部という地区がバラバラになる過程でもあった。 まず、人々は生と死で分かれた。しかし、それは「たまたまだった」と団員達は声を揃える。遠藤さんだけではない。遠藤さんと同じ班の市職員・荒武範さん(37)は車を飛ばして家に戻り、法被に着替えていたら街が海に消えていた。前年、家を高台の小学校の隣に移していなければ呑まれていた。帰宅の途中で、津波に襲われる直前の詰所にも立ち寄っていたのだが、「若し市役所で職場を離れる許可が出るのが1分遅れていたら、もし信号にあと1つ多く引っ掛かっていたら、命は無かった」と話す。荒さんの同級生の会社員・鈴木正一さん(37)は磯部南部の班だが、やはり市の中心部から車で帰って来て、津波に呑まれる寸前の街を走り抜けた。津波来襲後も、海岸が目と鼻の先のような場所に逃げ遅れた人の救助に向かったり、半分捥ぎ取られた家に取り残された人を助けたりしたのだが、「その時に次の津波が来たら命は無かった」と思い出すだに身震いする。

第9分団の津波との格闘は、その日だけでは済まなかった。遺体の捜索では、心も体も傷ついていった。 その頃はまだ十分な食事も無く、車に寝泊まりしながら浜へ通った。瓦礫の釘を踏み抜く団員もいた。遺体は見つかる度に、磯部の団員が身元確認をさせられた。「一様に苦しんだ顔でした」と鈴木さんは語る。時間が経つと黒く変色し、瓦磯を取り除く重機で損壊した遺体もあった。 遠藤さんは、亡くなった9人の団員の火葬全てに立ち合った。苦しそうな表情を見ていると、「俺もこうなっていたのか」という思いが込み上げてきて、涙が止まらなくなった。約40km離れた原発が爆発した時には、他県から応援に来た消防士の姿が消えた。「装備の万全な正規の消防士が離脱して、ボランティアの俺らが残されるのか」と遠藤さんはやり切れなかった。消防士に抱いていた憧れは幻滅に変わった。消防団員は法律上、非常勤特別職の地方公務員とされている。しかし、報酬は年に数万円程度、出動時の費用弁償も数千円しかない。その僅かな手当を個人に支給せず、積み立てて活動費に充てている消防団もある。実質的にはボランティアに等しい。団員達は次第にストレスを溜めていった。あれほど仲が良かった分団内で口論が起きた。捜索に参加する団員は徐々に減った。原発への不安もあった。職場の事情もあった。働いて家族を養わなければならない人もいた。家族を失った団員はそれどころではなかった。当初の混乱が収まってくると、団員の間に新たな溝が生まれた。家を失ったかどうかで埋められない意識の差が出てきたのである。内陸部に家を建てて出て行く人も増えた。遠藤さんもその1人だった。「あれほど磯部が好きだったのに、海の見えるところでは暮らしていけない」と思った。震災以降、仲間を奪った太平洋の水には触れなくなり、家族の海水浴は態々日本海に出掛けるようになっていた。別の内陸移転した団員は、「うちは両親が亡くなりました。妻があの惨状をどうしても忘れられず、被災から3年で区切りを付け、新しい生活をスタートさせました」と語る。

第9分団は現在、条例で定める定数7人に対し、46人しか在籍していない。その内、磯部の在住者はたった19人だ。高台に住家の移転先が完成しても、「数人戻ってくればいいほうだろう」と多くの団員が言う。出て行った団員からは、「俺らにはもう守るべき土地が無い」という声が漏れる。津波に襲われた地区は危険区域に指定され、5班のうち2班の集落は全域で居住が禁止された。それでも班だけは存在していて、何かあれば集まる。但し、誰も住んでいないので新たな団員の加入は期待できない。転出した人が団員として留まることで、組織を維持しているに過ぎない。第9分団は、今の形での存続が限界に近づいている。消防団員ら若者を中心にした流出で、磯部の人口は減った。震災前の約200人が半減した。「このままでは高齢者ばかりになって、地域の存続が難しくなる」。多くの住民が不安を口にする。鈴木さんは悔しい。「9人の団員が命を落としてまで守ろうとした磯部なのに、無くしてしまっていいのか。あの日を境に何かが変わった。磯部に残った若い人も、地域に対する思いが薄れたように見える」と話す。荒さんは、そうした流れに抗おうともがいている。PTA役員を務める小学校では、児童数が震災前の117人から49人に減ったが、「IT教育に力を入れて、少数でも何かを成し遂げられると示したい」と意気込む。生徒数が68人から31人に減った中学校は、男子バレーボール部が県内指折りの実力を維持していて、2013年は全国大会に出場した。だが、これ以上子供の数が減っては厳しくなるだろう。相馬市の防災倉庫には、亡くなった消防団員の慰霊碑が建てられている。その一方で津波を生き延び、傷つき、バラ バラになった消防団員へのケアやフォローは乏しかった。何が生死を分けたのか、何が足りなかったのか、生き残った団員に聞き取り、検証し、再び死者を出さない為の対策構築もまだなされていない。遠藤さんは、「息子は消防団に入れない」と言う。「ボランティアに命までかけさせるのか」という疑問に答えが出ないからだ。

東日本大震災をきっかけに、『消防団を中核とした地域防災力の充実強化に関する法律』が制定され、消防団は以前にも増して最前線での活動を求められるようになった。それが命を差し出し、また心を深く傷つけられる現場になり得ると、どれくらいの人が知っているだろう。震災から4年が経過し、冷静に振り返ることができる今だからこそ、生き残った団員の声に耳を澄ませるべきではないか。あの日、被災地では254人の消防団員が殉職した。生き残った団員の苦悩は、亡くなった団員の苦悩でもある。忘れてはならない。


葉上太郎(はがみ・たろう) 地方自治ジャーナリスト。全国紙記者を経てフリーに。地方自治をテーマに取材・執筆活動を行う。


キャプチャ  2015年4月号掲載


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