【国鉄スト権スト・40年目の真実】(上) 労使一体のストライキが招いた予想外の労働運動の退潮

40年前の1975年11月26日から8日間、国鉄(現在のJR)の全線をストップさせた『スト権スト』が起きた。ストは整然と実行され、国鉄労働者の凄味のある結束と闘争力を示したが、要求は一切跳ね返された。労働側の敗北は国鉄の分割民営化を呼ぶきっかけになっただけでなく、革新勢力を衰退化させ労使協調のスト無き社会へ向かう分水嶺になった。スト権ストで鉄道労働者の総指揮者だった国鉄労働組合の元書記長である富塚三夫氏が、初めてその“思い”と“本音”を語った。 (聞き手/フリーライター・元毎日新聞論説委員 大橋弘)

――ストに踏み切る決断をしたのは……。
「スト中の8日間、全国の鉄道現場で目立ったトラブルは起きなかった。当局が手を出さなかったのが大きな理由です。それどころか、僕が最終的にスト突入を決断したのは、『トミさん、腹を括れ』と川野(政史、職員局労働課長)に背中を押された時だ」

――当局とは話がついていた。
「その時は、ある所で川野と朝日新聞の論説委員と僕で話をしていた。朝日は早くからスト権回復に強い支持を寄せていた。川野は東京大学法学部卒で、腹の据わった国鉄官僚。鹿児島出身で、仲人は同郷の二階堂(進)官房長官。彼は、将来の国鉄を背負う逸材と見られていた」

当局とは事実上の共闘関係だった点を、当時の富塚書記長の下で企画部長を務めた盟友・武藤久(富塚の後継国労書記長)も筆者の質問に、「全国の列車を全部ストップさせる。それが当局の協力無しにできると思いますか?」と応じた。

「川野は、『“スト-処分-スト”の繰り返しは、国鉄を荒廃させるだけ。根本的解決には、条件付きでスト権を付与したほうが良い』と考えていた(私鉄は中央労働委員会の裁定には従う条件付きスト権を保持)」

――ストライキによってスト権を回復する。成算はあったんですか?
「勿論あった。無期限ストの建前だが、実際のストライキは最初3日間の全面スト、続いて国電等は走らせる一部戦術をダウンさせた4日間のスト、最後の3日間は再び全面ストという戦術計画だった。当初の3日間で収拾できるのが最も望ましかったが、そうはいかなかった。『ああ、自民党田中派への接近・説得工作、つまり根回しが不足していたのか』と今は思います。『あの時、三木(武夫首相=当時、故人)政権ではなく田中(角栄元首相、故人)政権だったらなあ』、そう思う時がある。(金脈が追及された末期ではなく)落ち目になる前の田中政権ならスト権を付与すると決意すれば実行できただろう。三木さんは個人的にスト権付与を考えていたと言われたが、何も手を打たない。党内基盤が弱かった。福田(赳夫副総理=当時、後に首相、故人)派は概ねスト権容認でまとまっていた。自民党の労政は長く福田派が握っていた。同派の倉石忠雄氏は、あの時は公共企業体法等労働関係調整法(公労法)問題調査会小委員長だった。長谷川峻労働大臣(当時)も福田派。彼は国会で、私鉄並みの条件付きでスト権を認める答弁をした」

1975年6月の衆議院社会労働委員会で長谷川労相は、「(今後は)ストと処分の悪循環を断ちたい」と答弁をした。これを公労協は、実質的にスト権の容認答弁と解釈した。その後の推移から見て、この解釈は当たっていた。

「スト権については、前年の1974年春闘後に政労会談が開かれていた。田中内閣の時代です。当時の大木(正吾)総評事務局長と二階堂官房長官との会談で1年半後、即ち1975年秋にはスト権付与について(付与するかしないかを含めて)目途をつけると合意していた。それが約束の秋を迎えたのに、政府側から何の音沙汰も無い。僕らは公労協各組合のうち国労・全逓・全電通の書記長が代表幹事に就き、他の組合の書記長は戦術委員会に所属して統一態勢を取っていた。公労協共闘委員会です」

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――いつ、スト権はストライキで回復させる方針が固まったのですか?
「それはマル生(国鉄内の反合理化)闘争に完勝した翌1972年頃から始まり、全逓の保坂(尚郎、故人)書記長が『スト権は射程距離に入った』と名文句を発した。長谷川労相の答弁は、自民党内で福田派のゴー信号を意味した。技術者出身の藤井(松太郎)総裁は国会に呼ばれてスト権付与を肯定する答弁をしたし、マスコミ論調も概ね我々の主張を理解してくれているようだった。情勢はスト権回復へ向かっていたのだ。実力者だった田中角栄も、事前の細井宗一の電話に『何とかしような』と答えていた。ところが、スト直前になるともう電話に出なくなった。細井は国労の一企画部員だったが、国労内3分の1の勢力である共産党系を束ねる存在だった。軍隊時代の部下に田中角栄がいた。細井は将校で新潟の隊に所属していたが、髭を生やして入営してきた田中を見てその理由を質した。すると田中は、『ハイ、目立つ存在になりたいからであります』と答えたという。そんな関係があるから、田中自身と田中派の説得工作は細井に任せていた。それに、僕も田中派の実務を取り仕切る会長の西村英一の元へ出向かなかった。人望があったと聞いているが、スト権付与に強く反対していた。その主張が派内に広がり、党内を包んでいったと理解している。元々、自民党の多くはスト権なんて与えたくないんだから。細井は、嘗て国労を除名になりかかった。それは1964年の4.17ゼネストを前に、共産党系の労組員が同党の指令で撤退した問題だ。ゼネスト自体は、総評議長だった太田薫と池田勇人首相の政労トップ会談で突入前に収拾したんだが、現場の組合員は共産党のやり方に怒った。僕は東京地方本部の書記長だったんだが、除名が提案された大会で細井擁護の大演説をぶち、除名案は否決された。以来、僕を『命の恩人』と言って徹底的に協力してくれた」




西村はこの年9月の田中派研修会で、スト権付与反対を表明した。三木内閣は、前任の田中内閣が設けた『三公社五現業のスト権問題を検討する関係閣僚協議会専門委員懇談会』の意見書が提出されるのを待っていた。この協議会設置は、二階堂-大木会談の政労間合意を実行に移したものだ。審議会の答申に当たる懇談会意見書はスト初日の1975年11月26日、閣僚協議会座長の井出一太郎官房長官に提出されたが、公共企業体のスト権を否定していた。意見書執筆に当たった専門委員懇談会の起草委員であった加藤寛(慶應義塾大学教授。その後、千葉商科大学学長。故人)は、三木首相が「『この懇談会を審議不能にしてくれ。潰してくれ』と電話してきた」と後に書いた。三木首相のブレーンの1人と自他共に認めていた加藤は、スト権付与を否定した理由を次のように記す。「私が与していた民主社会主義の立場からは、スト権を認めるべきだったにしても考えねばならない条件は他にもある。金脈問題で田中首相が辞任し、政治不信が高じていた政治状況を踏まえると、あそこで官公庁や公社の強大な労組にストライキ権を与えていたら社会主義的勢力を勢いづかせ、その後の社会情勢に波風を立てる大きな要因になったのではないか。後年の三公社民営化等、到底実現していない」。また、三木首相が懇談会潰しを依頼してきた理由を、「条件付きスト権付与論者の首相は、『田中前首相が設けたこの懇談会を無力化しないと、自分の考えを実現できない』と判断して、旧知の私に依頼したのだろう」と推測している(何れの引用も『日本経済新聞』2005年5月14日付文化面掲載『私の履歴書』)。

――結局、ストは公労協側からは収拾のきっかけを掴めなかった。
「政府・自民党が殻に閉じ籠ってしまった。そして、閣僚協専門委員懇談会の意見書を受けて、12月1日に三木首相が『法秩序の維持が大事』と実質的に『スト権付与無し』を意味する声明(『三公社五現業等の労働基本権問題等に関する政府の基本方針について』)を発表。続く記者会見で、スト権付与をはっきり否定した。首相が現に行われているストを前に『スト権は付与しない』と国民に述べた以上、三木内閣でスト権問題解決を期することはできない。退き時。収拾を決意した。松崎(明、動労東京地本委員長。後に動労委員長。故人)も同意した」

山岸章(連合初代会長。当時は全電通書記長で公労協代表幹事)は自著『我かく闘えり』(1995年・朝日新聞社刊)で次のように書いている。「私も『そろそろ考えなくてはならんな』という気になっていた。そこで【中略】2日(12月)朝8時、田辺(誠)氏を交えて話し合いが始まった。田辺氏は全逓出身で、その時は社会党のスト権対策委員長を務めていた。全逓書記長の保坂氏が『もうこのあたりで、収拾すべきではないか』と言い、私は『国労はどうだ?』と尋ねた。すると富塚氏が、『実は私のところもこのへんで……』と言う。こうして、スト収拾の方向へ向かうことになった」

――代表幹事が輪番制の共闘委議長にはスト当時、山岸が就いていた。
「田辺(後に社会党委員長)から、『ストを続行しても国会解散になり、社会党は壊滅的打撃を受ける』と脅されたのが頭に残っている。続行か収束か、迷ったのも事実。また、田辺からスト中止の呼び掛けがあったのも事実です」

――スト権拒否で強い影響力を発揮したとされる自民党の椎名悦三郎副総裁や中曽根康弘幹事長(後に首相)への働きかけは?
「そこまではしなかった。三木首相に意見書を引っ繰り返す決断を期待したが、無理だった。収拾を決意した時には一種の虚脱状態にもなった。一方で、『この大ストライキをやりきった』と満足感も大きかった」

武藤はここのあたりの事情を、次のように述べている。「トミさんは、『自分が動くと公労協の中で問題になるから、細井に“田中のところへ行ってくれ”と伝えろ』と私に伝言してきた。『中曽根に何とかスト権付与に前向きの発言をさせるよう、田中に頼め』という訳です。スト5日か6日目です。駆け付けると、状況が動かないからトミさんは半分やけっぱちのようにも見えた。細井にトミさんの意向を伝えたが、『オレは行かん』。数年後、私が田中に会った際、『あの時、細井は来なかったなあ』と言われましたよ」

――1964年の赤字転落以来、積み重なった債務は膨大な額に上り、国鉄の分割民営化論の最大根拠になった。それは、1987年の分割民営化時には37兆円に達した。スト権ストの敗北は、分割民営化へ向かう最初のレールを敷いたとも言える。
「それはそう思いますよ。但し、『僕が総評に残っておれば、民営化はしても分割は阻止できた』という自負は今でもある」

労働問題に詳しい国士舘大学経営学部・同大学院教授の仁田道夫は、「富塚氏や国労が使用者側の強力な一部と一体になって、政策を動かそうとした。『国鉄内闘争のロジックで政府に迫った』という風にも言える。それは甘い期待に終わった」と総括した。分割民営化についても、「巨額の債務で身動きできない限界まで来ていた。結局、『自民党の右翼バネが働き、国鉄のリストラ・再生の為に左翼運動がダシにされた』という見方もできる。『国鉄のJR化が、戦後社会の流れを方向付ける大きな要素になったか』と問われれば、『なった』と言えるでしょう」と話している。 《敬称略》


キャプチャ  2015年4月7日号掲載
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