【国鉄スト権スト・40年目の真実】(下) 無理と踏んでいた分割民営化

スト権スト後の労働界は、『連合』に向かう戦線統一が加速した。一方で、政治は第2臨調路線を進んだが、労働側は最早抵抗する力を失っていた。 (聞き手/フリーライター・元毎日新聞論説委員 大橋弘)

――スト権ストでは労働省(当時)の動きが鈍かった?
「それまで、自民党内で労働問題の処理や政策は概ね福田(赳夫元首相)派が牛耳ってきた。福田派(の政治家たち)を中心にして自民党は回る筈だったのに、回らなかった。結局、田中(角栄元首相)派が反対に回ったことがスト権拒否に繋がった。福田派には出る幕が無くなってきたんじゃないかな。労働省は、“橘高(弘昌職員局長)-川野(政史労働課長)ライン”の方針を高く評価していた。しかし、本当なら潤滑油的役割を果たすべき労働省は、傍観者同様になってしまった。当時の労政局長・道正(邦彦)は後年事務次官に就いたが、労組幹部と春闘前にゴルフをしたことで田中に嫌われた。彼は私に数回電話をかけてきた。『私はクビになる。トミさん、あんた頑張れよ』って。クビにはならず、道正は次の福田内閣で(各省事務次官を束ねる)事務方の内閣官房副長官に就いた。その時、私は総評事務局長だったが、密かにプッシュした。だから道正に電話して、『福田に会わせろよ』『ああいいよ』となった」

――富塚さんは1976年に総評事務局長に就いて、1983年に衆議院議員へ出馬するまで3期務めた。1981年、第2次臨時行政調査会(第2臨調)がスタートし、徐々に国鉄問題を取り上げる第4部会(加藤寛部会長)が焦点になりました。総評としても国労としても、何か対抗策・対応策を打ち出したんですか?
「『どうせ結論は出せまい』と甘く見ていたのは事実。当時、力のある国鉄官僚や労働省官僚は概ねそのような見方でした。勿論、自民党の実力者たちがどう考えて動くのかが最大の注意点でしたが。赤字解消は企業内合理化を進めるにしても、運賃値上げ中心で進と考えていた。ローカル線廃止に反対する与野党議員の動きを見ていると、『そう簡単に結論は出せないだろう』と分析していました」

――スト権スト後の政治の流れは、第2臨調路線とでも言える潮流になりました。これに対抗する方策は出ず仕舞いでした。
「スト権スト後に、官公労の力量で臨調路線を覆すことなどできませんでした。官公労=社会党の路線も後退。選挙では、集票で自民党に大きな影響力を持っていた国鉄官僚がバラバラにされ、力を失った。成す術も見つけられなかった」

――富塚さんは、「自分が総評事務局長だったら、国鉄が民営化しても分割はさせなかった」と話すことがある。具体的な方策はあったんですか?
「当時は、交通労協や総評を中心に有識者の呼び掛けで“国鉄を守る共闘会議”が生まれ、全国的に活動した。ローカル線問題は保革を問わず、地方にとって大事な問題。国鉄官僚も『民営止む無し』で一致したが、分割は先送りか、できれば見送りにしたかった。民営化だけなら受け入れて、一段と積極的な経営も可能だ。国鉄時代の数多い規制の呪縛が解かれれば、駅という最高の集客施設があるのだから様々な事業が可能になる。現に、それが実行されている。しかし本州3社、特に東海と東日本の儲けは大きいが、儲かった分の一部でも経営基盤の弱い北海道や四国に回せない。分割されていなければそれができた。昨年(2014年)に北海道で続発した不祥事も、元を糺せば経営に余裕が無いから起きた」

               ◇

スト権ストは、高揚の時代の最後の花火だった。ほんの一部の地方で列車は僅かに動いただけで、全線ストップと形容できる壮大な鉄道ストは空前絶後だった。しかし、スト権ストは国鉄の分割民営化に道を開き、単に国鉄・JRの問題を超え、“スト無き労使協調社会”を現出させた。権力に対峙し、時に抵抗する“闘う労働者・労働組合”という概念をほぼ喪失させた。この年の春、労働運動のもう1つのエポックメイキングな出来事である“賃上げ半減”が民間労組側から提起された。前年春闘で33%賃上げを獲得していたものの、「これでは日本経済が壊れる」と民間労働運動側が“賃上げ自粛論”を提起。財界指導部が経営者一般に示す“賃上げ15%”のガイドラインとなって結実。最終的には13.1%賃上げで終わり、以後2ケタ賃上げは一度も無く、徐々に日本経済は“安定成長”という名の欧米型低成長に向かった。スト権ストを総指揮した富塚は、労働界内部の雑誌(例えば労働レーダー誌)や資料用の聞き取りを除き、殆どインタビューに応じていない。スト権ストが労使一体だったのを具体的に本人が述べたのを始め、今回のインタビューで初めて明らかになったことも多い。 《敬称略》




■テレビ討論で富塚氏と対峙、首相への道を開いた瞬間  海部俊樹元首相インタビュー
スト権ストの時代に最も印象深いのは、海部俊樹内閣官房副長官(政務担当、当時)と富塚三夫公労協代表幹事の間で、スト2日目から終結まで毎朝行われたNHKのテレビ討論だろう。官邸とスト権スト闘争本部の全逓会館を結んだ生討論は、お茶の間に連日緊張感を届けた。後に首相を務め、現在83歳の海部氏にスト権ストにどう対峙したか訊いた。 (聞き手/フリーライター・元毎日新聞論説委員 大橋弘)

――海部vs富塚。あのテレビ論戦を記憶している人は多い。
「初日はNHKから要望があって井出(一太郎官房長官、故人)さんが出演したんだが、帰ってくるなり呼ばれて『私はああいう手合いとは肌が合わんから、明日から君が出てくれ』と指示された。井出長官は文人肌の人でおっとりしたところもあって。1対1だし、やり合うのが嫌だったんでしょう。翌日から私が出た」

――三木首相(当時)は、世間からスト権付与論者と見られていましたね。
「それは誤解じゃないか。三木さんのところに出入りする学者・評論家・自民党の一部政治家が流していたんだと思う。初めから全然ぶれていませんからね。私には最初から一貫して、『スト権拒否の方針を崩すな』と言っていました」

――論戦をどう進めようと?
「ストを打ってスト権を得ようとする連中に負けられない。だから正面で論戦する。政府側では長谷川峻労相が『もっと柔軟になれ』と言うから、『先輩、政府が負けろと言うのですか』と論争した」

――“秘蔵っ子”と言われた海部さんに、三木首相はぶれたところを全く見せなかった?
「オレには見せなかったな。その他大勢の1人と見ていたんだろうから、テレビで私が原則論を喋るのを見ていて『よしよし』と思っていたんでしょうよ。三木さんとしては、示した方針を忠実に訴え続ける私を信頼するという構図だったんでしょう」

――論戦ではどんな準備をしたんですか?
「相手の主張にはその場で反論するよう心掛けた。その場で強く打ち返す。早稲田の雄弁会で身に付けた」

――水玉のネクタイが評判になった。
「私が最初に登場した時に着けていた水玉のネクタイが、数え切れないほど送られてきた。大切に保管しています」

――論戦で何を強く感じましたか?
「富塚という人も手強い人で、討論の他に『三木が一言、わかったと言えば片が付く問題だ』と言ってくる」

――自民党が退潮になった時、当時のキングメーカー・金丸信氏(田中派・経世会の実力者、故人)が、公労協と対決した海部さんを思い起こし首相にした……とご自身の著書『政治とカネ』に記されています。してみると、このテレビ対決が海部氏を首相にしたとも言える。
「そうでしょう。僕はあれで世に出た。あれが無ければ、僕が世に知られるチャンスは少なかったと思っています」


キャプチャ  2015年4月21日号掲載


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