【日曜に想う】 ヒトラーを清算した熟慮と自省

案内板1つで、70年前のベルリンに飛ぶのは難しい。ブランデンブルク門の南にある総統防空壕(フューラーブンカー)跡。アドルフ・ヒトラーが最後の100日を過ごした地は、有り触れた駐車場に姿を変えていた。ネオナチの聖地になるとの懸念を説き伏せ、詳しい位置が公表されたのは9年前。「過去と向き合い、伝える責任がある」と。年表に見入る男性(41)は、「特段の思いは無い。これはもう歴史ですから」。辺りでは小鳥が囀り、春の光が揺れるだけだ。東からソ連軍、西から連合軍が迫る1945年春、ヒトラーは56回目の、そして最後の誕生日を迎える。野戦用ジャケットを着たまま側近と夕食を共にした総統は、独り読書に耽ったという。砲撃の音が近かった。4月30日午後、ヒトラーは前日に妻とした33歳のエバ・ブラウンと自決、後継に指名された腹心のゲッベルスも妻子を道連れに後を追った。独裁者らの遺体は、ベルリンを占領したソ連軍の手で葬られた。ところが1970年、ソ連と東独の秘密警察が掘り出し、焼却のうえエルベ川に散骨する。これまた将来、心酔者が墓前に集まらないようにという用心である。

痕跡までが危険視される男を権力の座に押し上げたのは、他ならぬ自由選挙だった。1928年、国会に初挑戦したナチスへの支持は限られたが、翌年にアメリカから大恐慌という神風が吹く。第1次世界大戦の償いを背負うドイツ経済は、アメリカ資本の撤収で沈んだ。工業生産は3年で4割減、労働者の3割、600万人が失業する。苦しむ大衆を捉えたのが、反ベルサイユ(戦後)体制・反ユダヤの宣伝だった。ナチスは1930年の選挙で躍進、1932年には4割近い得票で第1党となり、翌年政権を奪う。ここまでの物語は国民との合作、後は独り舞台である。ヒトラーの流儀は排除弾圧だけではない。娯楽と宣伝目的のラジオ普及・アウトバーン(高速道)建設や軍需による雇用拡大・ベルリン五輪・フォルクスワーゲン(国民車)構想……。硬軟両様の施策で民心を取り込み、盤石の翼賛体制を築き上げた。ここに教訓が横たわる。独裁志向の人物や集団に一度託せば、彼らは言論を封じる一方で甘言を弄し、国を意のままに操るだろう。選び間違えたツケは何れ国民に回る。少なくとも暮らしで、ともすれば命で。




懲りたヨーロッパでは、扇動の弁舌はそれだけで怪しまれる。とりわけヒトラー清算にかけるドイツの決意は絶対だ。このほどドイツ北部で、アウシュビッツ強制収容所元職員の裁判が始まった。簿記係だった被告は93歳。4年前には91歳の元看守に有罪判決が下されている。怖いほどのけじめである。良き隣人に再生すべく、ドイツはヨーロッパ統合に従いリーダーになった。周辺国との関係でも94%が「うまくいっている」と考える(日本は46%)。単純な比較は戒めたいが、弛まぬ自省があってこその到達点だろう。先頃、87歳で亡くなったドイツのノーベル賞作家であるギュンター・グラス氏が、死の直前スペイン紙の取材に語ったという。「我々は同じ間違いを犯す恐れがある。夢遊病者のように世界大戦に突き進むかもしれない」と。同氏の代表作『ブリキの太鼓』は、台頭するナチスの狂気を少年の冷徹な目で描いた。ナチ親衛隊員だった過去を告白したのは晩年である。ドイツのガウク大統領は「彼の作品は人々を動かし、熟慮へと導いた」と悼んだ。熟慮は自省に至る。胸中で書いては消し、読み返して改める教訓の数々。同じ過ちを繰り返さぬよう、例えば政治・教育・メディアはどうあるべきかを自問する精神作業である。我が国もまた、扇動と迎合の果ての地獄を経験した。歳月は非情だが、せめて世代を超えて語り継ぎ、思いを巡らせよう。肌が知らない教訓は、面倒でも頭で迎えに行くしかない。 (特別編集委員 冨永格)


≡朝日新聞 2015年4月26日付掲載≡


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