いま、福島で求められていること――この4年間で“復興”の名の下にお金や物が次々に投入されてきた…だが、それは住民1人ひとりが考えて行動する力を奪ってきたのではないか?

会議場の扉を開けると、いつもながら「またか」という気持ちを覚える。大きな四角い部屋には正面にスクリーンがあり、部屋の前半分はコの字型に机が並べられ、20名ほどの専門家が座れるようになっている。後ろ半分は、通常通り正面を向いた机が縦数列・横数列といった形で整列し、市町村職員やマスコミがバラバラと自らの座席を確保している。環境省と福島県が主催している『放射線の健康被害に関する専門家意見交換会』である。年に数回のペースで行われ、県内各市町村の放射線に関するアドバイザーが集められ、情報共有することになっている。私も二本松市のアドバイザーとして、出来る限り参加している。しかし、“意見交換”の時間は非常に限られている。それどころか、4時間ある会議時間の半分以上が外部講師に因る講演に費やされ、漸く意見交換の時間が来ても何も発言しない人もいる。恐らく、進んで現場に足を踏み入れることの無い人たちの重い空気の中に、自分が分け入っていくような違和感をいつも覚えるのである。そして、議論から何を導き、いま困難の中にある県民の為にできることを考えようという気配も無い。今年1月12日の講演は、『“よろず健康相談”から見た福島の現況』と『笑いを生かした地域における予防活動』の2題。被災者の健康や精神状態が悪化している現状が報告された後、「鬱々としている被災者の生活を、笑いや健康教室で元気づけよう」と事例が紹介された。しかし、本当に必要なのはそういうことだろうか? 4年が経とうとしている今、福島県だけで約12万人の人たちが元の場所で暮らせない異常事態の中で、笑いで吹き飛ばせるようなものはほんの一部だ。問題の本質を、“心の不調”と摩り替えてはならない。恰も終わったことかのように矮小化される流れの中で、私が福島県民として言いたいことは、「原発事故・避難・賠償といった渦によって人々が負った痛みは、これからも続く」ということである。

本格的な寒さが到来した2014年末、私が住む福島県郡山市の国道沿いにある仮設住宅を訪れた。避難指示が大方解除された川内村と、全域が避難指示区域となっている富岡町の仮設住宅が軒を連ねる。訪れたのは、川内村のほうの集会所だった。知人の紹介で、以前からお互いを知っていたAさんと会う為だった。冷気を遮る為の座布団を出しながら、Aさんはぶっきら棒に言った。「要するに、汚染された地域をどう元に戻していくかっていう問題なんだよね」。それから、止め処無く3時間ほど語り続けた。Aさんは仮設住宅の自治会長を務める。しかし、原発事故から2年目、皆の生活に異変が起き始めた。賠償が打ち切られたのである。その結果、生活に困窮する人たちが出てきた。「正確に言うとさ、打ち切りではないんだよね。書面には、『新たな事象が発生すれば支払う』と書いてあるから。でも、事実上は止まったんです」。川内村は、双葉郡8町村の中で比較的放射線量が低く、逸早く帰還を目指して動き始めた。2011年9月、村の半分以上の面積を占めていた『緊急時避難準備区域』が解除されることが発表された。更に2012年4月1日、原発から半径20km圏を示す警戒区域が解除され、代わりに放射線量の観点から引き続き避難を求める『居住制限区域(年間積算線量が20mSvを超える恐れがある地域)』と『避難指示解除準備区域(年間積算線量が20mSv以下であることが確実とされる地域)』に見直された。




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村民には毎月10万円の“精神的賠償”とされる賠償金が東京電力から支払われていた。しかし、『緊急時避難準備区域』の解除から1年が経過した2012年9月、Aさんには何の知らせも無く賠償金は振り込まれなかった。10月・11月も振り込まれず、村民の間には「どうなったんだろう」というざわつきが生まれた。そこで、役場や東京電力に電話をして確認すると、「もう終了しました」という話だった。 「皆も、『ええーっ!』てなった訳ですよ。んで、9月以降の分、政治が巻き返しを図った訳だ。村や県を始め、『これで止まったんじゃ困る』ということで。その妥協の産物が、“生活費の増加分”として2013年3月までの7ヵ月分で20万円。高校生以下の子供は加えて月当たり5万円。それで支払いが止まったと」。要するに、「避難指示が解除されたから、もう賠償の必要は無いだろう」という論理である。しかし、避難指示が解除されても自宅や農地の除染は終わっておらず、直ぐに帰還できる訳ではない。森林については、除染の計画すら無い。Aさんのいる仮設住宅は高齢者ばかりだが、殆どが仮設での生活を継続した。その頃から、隣接する富岡町の仮設住宅の人々との暮らしぶりに差が出始めた。全域が避難指示区域の富岡町には、賠償が続いている。元々、月35万円程度の年金と、森や田畑の恵みに因って生活していた川内村のお年寄りたちは、賠償頼みの生活設計が狂い、富岡町の人にお金を借りに行く人が現れるようになった。ここにきて、東日本大震災の被災地全体では終わりかけていた食糧や物資の援助が再度必要になった。「今更、物を貰うなんて恥ずかしい」「自立しましょう」。そうやって正論を振り翳す人もいた。「俺だって、人から物を貰うのは好きじゃねえって。況して、配るのは辛いんですよ。でもね、200世帯の内の40世帯が80歳以上の独り暮らしなんですよ! そりゃあんたね、80・90になって人から物を貰うっていう、こんな恥ずかしいことないだろうって、言われるまでもねえよ、誰だって!」

賠償を巡る問題は、人の心を揺さ振り続けている。それは大人だけの問題ではない。今年2月、新潟県柏崎市である少女と話した時のことだ。彼女は小学校の卒業式を間近に控えた6年生の時に震災・原発事故を経験し、家族と共に新潟県に避難してきた。「福島から来た」と自己紹介すると、同世代の友達は気にせずありのままを受け入れてくれた。しかしある日、友達の家に行った時に友達の親から聞かれた。「賠償金とか補償とか貰っているのでしょう?」と。「『大人はやっぱりそこが気になるんだ。避難者だということを意識しているんだ』って、心にグサッときたんです」。彼女自身は、避難者だということを気にせずに生活していた。でも、友達の親たちにお金のことを聞かれる度に、そのことを意識せざるを得なくなったという。彼女は他に、親にも言えない悩みがあった。本当はここから出たいのである。同じく新潟県に避難した中学校時代の友達は、避難して数ヵ月で福島に帰っていった。しかし、自分は思い出の一杯詰まった自分の家を見る事さえ出来ずにいる。高校に進学すると吹奏楽部に入ったが、「いつ福島に帰るかわからないから、重要なパートは任せられない」と言われ、大人数で務めるパートにしか入れてもらえなかった。「以前の友達に会いたい。福島に帰りたい。大人だったら自由に行き来できるかもしれないけど、私たちは親の都合に左右されてしまう。会えなくても近くに住んでいれば、気持ちが繋がるかもしれないのに」。彼女の頬を涙が伝った。いま思うことは何か、彼女に訊ねた。「大人たちには情報が入るけど、自分を含む子供たちには情報が伝わらない。私たちにも解るように教えてほしい」

報道による断片的な情報を元に、避難者に対して心無いことを言う人もいるが、一方で、今はそれを上回る数で福島の人々の気持ちを理解し支えている人たちもいる。先の少女と出会ったのは、こうした根深い問題に本当の意味で立ち向かう、柏崎市の『共に育ち合い(愛)サロンむげん』であった。このサロンを運営しているのは、増田昌子さんという女性1人である。増田さんは深川芸者であった祖母に似て、小股の切れ上がった女である……ということにしておく。曲がったことが大嫌い、涙脆くておっちょこちょい。寅さんを女性にしたと表現すれば判ってもらえるかもしれない。いつしか、付いた渾名が“姐さん”であった。彼女は2004年の新潟県中越地震・2007年の新潟県中越沖地震を経験し、多くの方々に支援をしてもらったことから、東日本大震災が起きた3日後から行動を開始した。新潟県は、一時1万人を超える人が福島県から避難し、現在も約4000人が暮らす、県外避難者の多い県である。しかし、柏崎市はその当時、福島から大挙して避難者が押し寄せてくるとは考えていなかったようだ。 同じ東京電力の柏崎刈羽原発がある為、関連する企業があったり知人がいたりした人が多く、結果的に避難者が集中した。ある意味、同じ境遇を背負う者同士で安心できるということもあったのかもしれない。当時、市の体育館に避難してきた人々は、自分たちの住んでいた地域が戻れない場所になるとは考えていなかった。2~3日もすれば帰れると思い、悲愴感は漂っていなかったという。姐さんが物資などの支援に訪れても、「自分たちは直ぐに帰るから支援は必要無いよ」という雰囲気だった。しかし、3日目を過ぎた辺りから状況は一変した。テレビや新聞で伝えられる限り、原発事故は深刻で、帰還できる見通しが無くなってきた。着の身着の儘で避難してきた人たちは着替えも常備薬も無く、パニック状態となった。

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姐さんは行動する。陣頭指揮を執りながら、そこにいる人々に並んでもらい、リーダー役を決め、食料・衣料等を子供・お年寄りの順に行き渡るように手配した。また、薬が必要な人は医療機関に連れて行った。ここまでは、多くの支援者も行ってきたことであるが、彼女が違ったのはその後の対応である。他の災害と異なり、今回の原発事故は放射能に対する未知の恐怖が母親たちを中心に広がっていた。子供たちへの健康影響・食品の安全性・先行きの見えない避難生活等、様々なストレスが避難者を襲った。この問題を逸早く肌で感じ取り、必要以上の支援は行わず、避難してきた人たち自身ができることを企画し、元いた地域にあったような温もりのある場を築き上げた。納得が行くまで話し合える専門家も人伝に呼んだ。気負わない場所だからこそ、一筋縄ではいかない問題を抱えた人もやってくるようになった。避難してきた先で、謂れの無い理由から苛めにあって拒食症になった女の子。「放射能が降る」と苦情を言ってくる階下の住人に心を悩ます母子避難者。24時間、携帯電話をONにして話を聞き、対応した。当初多かった放射能に関する問題等は、私も何度も相談を受けた。誰かが「柏崎で農業を始めたい」と言えば、中山間地域の空き家を借り、お金をかけずに皆で改装して農村宿泊所を作った。“実現”に向けた行動力には誰もが舌を巻く。そのパワーに巻き込まれながら活動に参加し、いつしか自分が主役となって生き甲斐を見つけられた人も多い。姐さんは言う。「あたしってさ、NPOみたいにちゃんとした団体じゃないから、助成金が貰えないんだよね。同じ市内の団体でも、助成金を貰ってから『何をしたらいいですか?』って電話かけてくるところもある。でも絶対、うちはどこよりも有効にお金を使えると思うの。無い時は無いで、皆で考えて、『どうする?』って知恵出して。それで結局、すんごくいいものができたりするんだよね」

今の福島に不足しているものは、姐さんが逸早く気付いた通り、住民自身が考え行動する力だ。本来、“支援”というものは、その人が目指すべき方向への細やかな後押しである筈だ。しかし、福島第一原発事故の発生後、そうした機会は格段に減った。生活再建の為に必要な、今後の見通し等の情報は示されない。戻るか戻らないかの判断に重要な、原発の事故処理作業の状況も中々伝わってこない。そして、生活の礎を奪われた人々への埋め合わせの手段としては、“お金”という形しか提示されていないのが現状だ。情報がない分、次の一歩を踏み出す前に隣の懐具合を探り、「あの人はこうするようだ」「いくら貰ったらしい」という推測に基づく違いばかりを気にするようになる。その差を埋めることにエネルギーが注がれ、自分がどうあるべきなのかを見失ってしまった人も少なくないのではなかろうか。それは住民だけでなく、被災市町村の立場もある意味同じかもしれない。日本政府は、確かに多額の復興予算を用意した。ある川内村民は言う。「そりゃあ職員60数名の、特別会計も含めて30何億円の村がですね、90億円くらいの予算がついて、それを単年度で執行しなければならないとなれば、どうしても村民は置き去りになりますよね」「村を守っていく立場からすれば、企業誘致や工業団地の整備という形で進めるというのは悪くないと思いますよ。ただ、生活実態が追いつかないんじゃないかと」「結局みんな、物事を決めるのは東京の人なの」。そう言って、その人は諦めたような表情を浮かべた。

前述の『放射線の健康影響に関する専門家意見交換会』も似たようなところがある。出席している専門家でさえ発言の機会は制限され、誰かに因って筋書きが用意されている。こうした会議は何度も経験した。自分は関係者ではなかったが、地域の将来を話し合おうという会議に、肝心の住民が指定されたプレゼンター以外に1人しか来なかったという事例もある。「質問をさせてほしい」「証拠を出してほしい」。そういった声が届かないことを見越して、最初から参加しないのだという。「避難生活は心の健康に悪いから、元の家に帰ったほうがいいですよ」。そんなメッセージが込められているように感じることもある。こうして、帰還推進の流れはじわりと広がっていくのである。勿論、その背景には“お金”の問題も絡んでいると言わざるを得ない。2015年1月26日現在で、東京電力から原子力損害賠償として支払われた金額は4兆6000億円を超えている。財政を圧迫し続けている状況に鑑みると、「何とか除染を進めて住民に帰還してほしい」というのが国としての本音ではなかろうか。その証拠に、原発事故に伴い生じた営業損害について、国と東京電力は、事故から5年となる2016年2月で賠償を打ち切るとする素案を纏め、福島県の商工業者に示した(後に、地元の反発に因り撤回された)。しかし、生活再建はそれだけでは済まない。寧ろ、除染を終えてからも困難が続く。但し、そのことを声高に訴えるだけでは何も進まないので、私は住民たちと3年間に亘る実証実験を進めてきた。

川内村に隣接する、いわき市の北端の川前町大字下桶売志田名。深い山に囲まれた標高差の大きい集落には、約140 人が暮らしている。ここで2014年11月の日曜日に有志14人が集まり、地区内の700にも及ぶ地点の放射線量の測定を一斉に行った。志田名での測定は3回目だった。毎年一度こうして集まり、測定値を元に汚染地図を作成して集落内で共有しているのである。志田名は福島第1原発から約28km。集落内の標高の高い場所には、原発から連なる電線を支える巨大な鉄塔がある。事故前は原発から関東へと電気が送られていたが、「今は復旧作業の為に原発へ電気を送ってるらしいんだよね」と聞いた。この地区は、普段から携帯電話の電波が殆ど入らない。震災発生後数日間は停電していた為、原発事故のことも情報が伝わらなかったという。いわき市は志田名周辺を除く殆どが原発から30km圏外の為、早期に全域で『屋内退避地区』の指定が解除された。そして2011年4月22日には、市全体の安全宣言が出された。風評被害を懸念した為であろう。結果的にこの地区の住民は、震災から1ヵ月少しという段階で、居住しながら放射能との闘いを自ら行わなければならなくなったのである。翌5月の時点で、志田名の空間線量率は10μSv/時を超えていた。だが、山を頼りに生活してきた住民たちの選択は、ここに残って住むことだった。そこで先ず、住民自身で汚染の実態を知ることから始めようと、私の指導の下で地図作りが始まった。出来上がった地図を元に、住民・牧野組合・除染業者等が互いに話し合い、時に激しい議論を経て監視し合いながら、行き届いた除染が始まった。子供たちには、安全の為に避難することを皆で求めた。

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3回目の汚染地図作りでは、効果が検証された。初回の測定日から数えて1163日での空間放射線量(地上1m)の減衰率は84%。その内、放射性物質の半減期に因るものや、地表面にあった放射性物質が地中に浸透することに因って遮蔽され線量が下がる効果を合わせた“自然減衰”が59%。残りが除染による減衰であると推定された。しかし、除染を行っても思うように線量が下がらない場所もある。その原因は、周囲を取り囲むような森林にある。山全体の除染は難しい。同時に、毎年測定し続けている山で採れた山菜や茸の放射能は、食品の基準値100Bq/kgを大きく上回る。「あー、やっぱり食っちゃあなんねぇんだ」「寂しいもんだ。あれだけたくさん山菜が生えてても食えねぇんだからよ」。でも、その顔には不思議と見通しの無い不安や陰りは無い。自分たちで測定し、話し合ってきたからこそ、自分なりの理解が頭の中にあり、次のステップを考え始めているのである。自然と共に暮らす山の民だからこそ、数値を見る目は人一倍厳しい。出荷は自粛しているが、どの作物をどんな場所に植えればどのくらいの数値になるのか――といった実験も行っている。1年物の野菜等は、基準値を下回るものが増えてきた。一方で、農家にとって農地除染は、先祖代々耕して作り上げた肥沃な表土を一気に奪い去る行為だ。重機で表層5cmほどを、草の根が伸びている場合は更に数cmを浚っていく。「除染が終わっても、終わりじゃないよ。これからが、本当の始まりだからね」。住民の1人、大越利男さんは言う。前途多難かもしれない。でも、高齢者ばかりの志田名で、農業の再生に向けた知見が蓄積されているのは確かである。




福島県内が未だ多くの問題に立ち向かっている間にも、全く別のところで原発再稼働に向けた動きが加速している。原子力規制委員会は2014年9月、九州電力川内原発1・2号機(鹿児島県)の再稼働審査で事実上“合格証”を交付した。次いで2015年2月には、関西電力高浜原発3・4号機(福井県)が許可審査に合格。どちらが先か、という話題が上るようになってきた。両原発共に、国と電力会社は「地元同意は立地自治体と県だけ」という見解を示している。しかし、議論で抜け落ちているのは、福島のような事故が若し別の原発でも発生した時、周辺の市町村はどう対応するかという視点である。福島第1原発の立地自治体である大熊町・双葉町に隣接する浪江町に住んでいたトラック運転手のBさんは、こう証言する。

原発爆発前の2011年3月12日未明、沿岸部で被災して動けなくなった同僚を助けに、原発の南約18kmにある楢葉町に向かった。道中、道の両側が崩壊した場所に差掛かり、大型自動車は通行できないほどになっていた。しかし、東京電力の電源車は必死で乗り越え、反対の原発方面へと向かった。異常事態と感じた。午前、同僚と顔見知りのトラック運転手数人を救出して折り返し、北上して大熊町や双葉町を通る際に、避難する為と思われる大型バスが数十台止まっていた。しかし、漸く浪江町の自宅に辿り着くと、浪江町にはバスは用意されていなかった――。

最終的に、情報が伝えられ守られるのは、立地自治体のみかもしれない。これは、日頃からどういう体制を構築していくかに因るが、だからこそ、福島で何が起きたかについて今一度検証する必要がある。福島第1原発事故を受け、原子力防災の指針も見直されている。2011年までは、原発から半径10km圏内が防災対策重点地域(EPZ)と設定されていたが、新たに30km圏内を緊急時防護措置準備区域(UPZ)、50km圏内を屋内退避・沃素服用対策準備区域(PPZ)とし、該当する全国の市町村では、防護策について検討するよう呼びかけが行われている。一方、現時点で市町村からは具体的な防護策や、住民自身がどう行動すべきかの示唆は出されていない。しかし実際は、立地自治体から30kmも50kmも離れた地域でも、風向きに因って汚染が起こり、避難指示区域となったり、農業を始めとする産業に大きな打撃を与えたりしたのである。

福島県二本松市では、原発事故でどのような被害が起きたのか、若し同じことがあったらどうしたらいいのかについて考えようという授業が、既に小中学校で始まっている。それは市の教育委員会が中心となり、この教訓を未来に残すという一貫した姿勢から生まれた。二本松市は原発から37~60kmに位置する。結果的に避難指示区域とはならなかったが、放射性物質の広がりが伝えられるに連れ、自主避難や農業の自粛が相次いだ。市内に住む人々が「自分の被曝量を知ることができるようにしたい」という市の強い希望を受け、2011年5月から私は二本松市の健康アドバイザーとして、ホールボディカウンター(内部被曝測定器)に因る内部被曝調査に携わることになった。ほぼ同時に、二本松市の放射能汚染地図の作成が開始された。正確なデータを取り、分析し、そこから得られた情報を迅速に市民に伝えることが私の仕事となった。2013年夏頃、市の教育委員会から相談があった。「学校給食で出すトマトと胡瓜を市内産に戻したいのですが、不安を持つ人もいると思います。どうしたらいいでしょうか?」。私は答えた。「抑々、放射能がどういうもので、どんな検査体制があり、どれくらいの数値かということを、保護者だけでなく、子供たち自身にも解るようにしなければなりませんね」。教育委員会は直ぐに動いた。先ず、全小中学校の教員を集め、放射線の学習会を開いた。そして、理科・養護等の教員や校長・教頭等で構成する『二本松市放射線教育推進委員会』を立ち上げ、この地域で暮らすに辺り考え得るリスクとその伝え方について深く議論した。

良かったのは、“不安払拭”等という一方向のコミュニケーションではなく、「測って、知って、話し合う」という基本理念が共有できたことだった。其々の選択について、お互いが理解する。線量の高い地域からここに避難してくる子たちも、ここから避難していく子たちも、残る子たちも、其々の家庭の考え方があっていい。但し、基礎的な知識があることが前提だ。そして、若し同じようなことが起きたら何に気をつけたらいいか。正確な情報をどうやって手に入れるか。退避や避難の方法。放射性物質を吸い込んだり口に入れたり、別の場所に持ち込んだりしないようにする方法。市内で現在進行形の被曝調査や食品検査・甲状腺検査の詳細も、子供たちにわかるようなイラストや写真で教材に組み込まれることになった。最初の半年で、学年に応じて教えるべき内容が吟味された。2014年度の1年間は、授業で使用するワークブックの制作に取り組んだ。どの先生も責任感が強く、熱心だった。中には、避難指示区域から転勤してきた先生もいた。「甲状腺癌等、まだ結論の出ていない問題がある。だからこそ、検査を受けたり測定したりして、証拠となる数値を残していこう。そうすれば、自分たちだけでなく、他の人たちを守ることに繋がるかもしれない」。そうした空気が生まれた。1年半をかけた議論の結果、2015年3月中にワークブックが子供たちに配布されることになっている。福島から発進する原子力災害の教訓として、最初の一歩になってほしい。

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災害における復興とは、政治家も行政も一致団結して市民と協働し、元の生活を取り戻すことである。でも、原発事故の場合、“復興”という名の下でハコモノ事業の推進に政治家の思惑が交錯している。避難者には、国や東電からの賠償金への依存体質が蔓延る。先は長い。10年・20年先を見据えた地域の在り方を考える為、昨年11月に福島県内のグループや個人、そして福島・新潟・群馬・栃木・茨城の5県の被災者支援組織が集う会を新潟で行った。ちょうど、新潟県は中越地震から10年の節目を迎えており、10年間の復興の歩みを支えてきた『中越防災安全推進機構』の人々の手助けもあって、全村避難から復興に漕ぎ着けた旧山古志村(現在の長岡市山古志地域)を皆で視察した。崩壊した棚田の再建・復興公営住宅等を見学する中、案内役の山古志出身者である畔上純一郎さんは、開催中の産直市場に連れて行ってくれた。市場では地場野菜『かぐら南蛮』等の販売や、自慢の米を使った餅つき・汁物の振る舞い等で、あちこちに湯気が立つほど賑わっていた。山古志では、中越地震に因って約2000人の村民が避難した。元々、市街地から離れた山間部の過疎地である。高齢者ばかりの人口構成に加えて屈指の豪雪地帯でもあり、震災に因って地域の存続の是非をかけた議論が交わされた。「もう戻れない、戻らない」といった声も当然多く聞かれた。しかし、3年半の仮設住宅での生活の間、住民は絶え間無く村の将来について話し合った。結果、約半数の1100人余りが村に戻った。戻った人も戻らなかった人も、その顔は明るかったという。自分で決めた選択。だからこそ、お互いを責めること無く、離れても助け合おうという雰囲気が自然と生まれたのだ。

いわき市志田名地区から会に参加した大越利男さんが、ぽつりと言った。「でも、ここは震災だけだ。福島は放射能があっから、復興は容易でねぇなぁ」。嘗ては山古志と同じように、山の恵みを糧として助け合って暮らしていた。しかし、目に見えない放射線という“もう1つの壁”を越えるのは、文字通り容易ではない。況して、農畜産業に人生を捧げてきた大越さんの言葉は重かった。福島第1原発事故は、災害というより公害である。人々が失ったものに対する相応の賠償は当然であり、国や東京電力は長期に亘り責任を全うしなければならない。しかし同時に、1人ひとりが人生の再構築に向かっていくことが重要だ。福島県では、“我慢すること”“耐えること”が美徳とされる文化があるが、本質に蓋をするような世の中の流れに受け身になっていてはいけない。志田名や二本松の人々のように、自らが参加し実態を直視しなければ何が大切なのかは見えてこないのだ。物やお金に代えられないものを、誰かが取り戻してくれることは現状では期待できない。だからこそ、立ち上がることがいま必要なのである。


木村真三(きむら・しんぞう) 獨協医科大学准教授。1967年、愛媛県生まれ。北海道大学大学院博士課程修了。放射線医学総合研究所・労働安全衛生総合研究所を経て、獨協医科大学国際疫学研究室福島分室を設立。福島で独自に放射線測定を続けている。


キャプチャ  2015年4月号掲載


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