現代日本の“世代間闘争”はなぜ激化したのか――曽野綾子・特別インタビュー…「老人と若者の“不幸比べ”に思うこと」

世代間の相剋はいつの時代にもあった。経験に勝る年配者に対して、若者は「いつか認めさせてやる」と意気込み、体力に勝る若者に、年配者は「まだまだ負けん」と立ちはだかった。その関係は、国家や企業・社会の活力になった。が、現代日本の“世代間闘争”は異質だ。互いに相手を「あいつらは恵まれている」と批判し、「自分たちは不幸だ」と嘆く。それがエスカレートすると、「自分たちの幸福を相手に奪われている」と攻撃性を帯びる。83歳の作家・曽野綾子氏に、“不幸な世代間闘争”を乗り越える知恵を訊いた。

空腹や病苦ではない理由で不平を言う暇がある老人は、生活が成り立っているということなのでしょうね。若し今晩食べるものが無いとしたら、若者の態度なんて全く気にならないでしょう。それより、食料を手に入れることを優先しますから。若者に不満を抱えている年寄りは、先ず自分が“不満を持てるほど”の恵まれた環境にいることに感謝したほうがいいと思いますね。確かに、昔は愚痴や不満ではなく、若者を論す為にお小言を言った老人がいたものです。でも、最近はそういう人は少なくなったらしいですね。その理由は、若者がオッカナイからだと思いますよ。うっかり気に食わないことを言うと、刺し殺されてしまうと思っている年寄りもいるほどですから。最近は“年寄りを尊敬しない社会”に怒る老人もいるみたいですが、年を取っているから敬われるなんて理由は何一つありません。私も83歳の年寄りですが、年寄りの中に「高齢は資格だ」と本気で思っている人がいるのは不思議です。年寄りは年を重ねてきたので、経験も豊富なら、量もあり、寛容の徳も知り、自分を犠牲にできる。だから、“年寄りを敬う”という慣習が社会でごく一般的に受け入れられてきたのだと思います。

年寄りが自分から「敬え」等と要求するのではなく、若者の目から見て尊敬できるから年寄りが敬われていたんです。それなのに、「習慣として年長者を敬え」と言ったって無理ですね。最近流行りの、直ぐ相手の弱点を数え上げて「謝れ」と要求する人や、その謝罪の場面を眺める趣味の人にそっくりです。謝罪を声高に要求する人は、“誰かを謝らせた”ことに満足するんでしょうけど、“謝れと言われたからそうする人”に謝ってもらって何が楽しいのでしょうか? でも、そういう愚かな人は常にどこの国にもいますからね。同じように、「敬え」と求めて無理矢理若者に敬わせたって、何が楽しいんでしょう? 理由が無くとも敬わせれば気が済むのでしょうか? だとすれば、何とも子供っぽい年寄りです。これは年寄りに限ったことではありませんが、誰もが自分の経験からしかものは言えません。「昔は自分が年寄りを敬ったのだから、今度は自分が敬われる番だ」と思ってしまうのは自然なのかもしれません。ですが、「自分の経験が誰にとっても受け入れられる」と考えてしまうのも傲慢なように思うんです。だから、読書や映画や演劇といった“異なった人生”を見せてくれる方途が世の中にある訳です。私はそうしたもので自分の経験を補うことで、「ああ、世の中にはこんなにも自分と違う人がいるのか」という思いを深くしたものです。しかし、現在は政府も社会も教育も、人を甘やかしますからね。「貴方の経験や思いは大切だから、それは守られねばならない」なんて言う訳です。だから、「自分の経験こそが正義で、それと相容れないものは“謝らせる”」なんてことになってしまうのでしょう。




よく、落語家さんが修業時代の話をされますが、師匠から今までの自分の考え方を真っ向からぶっ壊されるようなことを言われたりするそうですね。それに因って、独りよがりな芸を窘められるのでしょうが、そうした教えこそ時には大切です。人権なんてものはぶっ潰すようなやり方ね。でも、“愛”というか深い好意があれば、そういう表現もできるものです。でも今は、自分の体験や自信を全面的に否定されるような体験をしないで済む世の中です。外国に行く時だって、添乗員付きの至れり尽くせりの旅行が多いでしょう。年寄りでさえ自分の経験を真っ向から否定されるような体験をしなくなったから、何かを言われる と直ぐ怒りたくなるのかもしれません。

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この頃は身勝手な老人も増えてきたと感じます。我が儘は高齢者に限ったことではないですが、とりわけ戦争を知るような年齢の高齢者の身勝手の特徴は、“受け取ること”が当たり前の生活に馴れ切ってしまっていることかもしれません。何度か本誌のエッセイでも書いてきたことですが、災害があって避難したとか、災害を想定した避難訓練が行われたといったニュースを観ると、決まって高齢者が避難所の片隅で毛布やお弁当や水が配られるのをじっと待っているだけなんですね。そんな映像ばかりをテレビが流しているからなのかもしれませんが。私がその立場でしたら、他のことが心配になってしまいますよ。備蓄された食料が人数分あるかどうかわからないし、運よく配られたとしてもいつまで続くかわからない。地震でも大雪でも或いは原発の事故でも、毎日決まった時間に救援物資が届く保証なんてどこにもないんですから。そんな時に自分の身を守るのは、結局自分しかいない訳です。天気予報があるんですから、避難勧告が出るような大型の台風が迫って来たら、先ずご飯を炊いて、(日持ちし易いと言われる)梅干し入りの大きなおにぎりを持って避難するのが当たり前です。今でも私はアフリカの発展途上国に取材で出掛けますが、自分が必要とする最低限の食べ物だけは鞄の中に忍ばせているんです。私はお腹が減り過ぎると直ぐ頭が働かなくなるものですから(笑)。戦争時代や、戦後のモノが手に入らない時代を経験した年寄りなら、多くの人がそういう習慣を持っています。

もう1つ、年寄りの醜さが発揮されているのが、自分が払った社会保険や健康保険を「使い倒して死ぬ」等と仰ることですね。社会問題を扱う学者や評論家の方々まで、そんなことを言われる。「とことん使い切らないと損」と言っている訳ですが、差し上げる側に回るほうがいいという感覚は、もう薄れてしまっているのでしょうか? 老人と若者の間に対立が生まれる原因は、そうしたところにあるのでしょう。若者からしてみれば、いくら自分が税金や保険料を納めても、それがどんどん老人の為に使われていく。弱者の老人の為に使われるのは当然だとしても、大した病状でもないのにお医者通いばかりして、山のような薬を貰っても平気な老人の為に使われているのであれば納得がいかず、老人に嫌悪感を抱くのも自然な感情でしょう。ところが、そういう態度を示すと、今度は老人が「敬え」「大切にしろ」と怒り出す。その連鎖が、世代間闘争を増幅させているのかもしれません。尤も、若者のほうにも美学があってもいいとは思います。惚けて、何の取り柄も無い年寄りであっても、敬って大切にしてあげれば、少なくとも相手は幸福な気持ちを味わえるでしょう。それほど簡単な幸福を相手に贈るくらいの度量が、若者にもあっていいと思うんですね。

私は10年ほど前に足の骨を折って、暫く入院生活を送りました。家族も「今後は長旅は難しいだろう」と思っていたようですが、それでもちょっと歩けるようになったら、怪我の前から予定していたカンボジアの地雷撤去の見学に出掛けました。地雷が設置されたままの土地ですから、真面な道なんて無い所を歩き回る。不思議なものですね。そうして少し無理して自分の足で歩いて帰国すると、運動能力が不思議と上がっているんです。そんな話をすると、夫(作家の三浦朱門氏)は「それなら、大学病院のリハビリセンターの前に地雷原を作ればいい」なんて言うんですけど(笑)、年寄りは歩ける所を自分で歩けば強くなれるんです。そうは言っても、この年齢での骨折ですから、私は長い階段を降りたり、泥濘んだ道を横断する時には、見知らぬ人であっても周囲の若い方にお願いして腕に掴まらせていただくこともあります。そこで転べば、誰かが救急車を呼ばなくてはならなくなったり、道路を走る車に迷惑をかけてしまったりしますからね。でも、助けてもらうのは階段を降りる間や、滑りそうな部分だけ。助けを必要とする時間や距離は、自分や相手が決めるのではなく、構造物や大地が教えてくれる。“助けてもらう権利”や“助ける義務”とかのルールや制度・法律ではないんです。それを若者が手助けするのは、若者にとっても楽しいことじゃないかと思います。こんなバァさんの手を取って喜ぶ人はいないでしょうけれど(笑)、ちょっとした手助けを受けながら老人が無理をして歩き回れば、それだけ老人の足腰が強くなる。自分で買い物に行けるようになる訳ですし、其々の能力や体力に応じて働いて稼いだり、社会の役に立ったりすることもできるでしょう。少なくとも、寝たきりを防ぐ要因にはなる。そうすれば、老人にかかる社会保障費だって減ります。

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老人の気分を良くすれば“若者への不満”は軽減され、そして若者は“何かしてあげている”という人間的な優越感・満足感を味わえると思います。根拠のある優越感を持てれば、相手に攻撃的にはならないものです。誰かに何かを与えることのできる人は尊敬され、受け取る人は謙虚になる。それが人間的でしょう。現代の日本でそれが逆になって、受け取る人が「敬え」と言い、一方で与える人に不満が溜まっているのだとすれば、もったいないことですね。今の世代間のいがみ合いは、どうもお互いが「自分のほうが不幸だ」と感じているから起きているのではないでしょうか? 私は「統計は人間を幸せにしない」という考えですが、老人も若者も貧困や社会保障やらの統計を見て、「自分が不幸なのは社会が悪くて、相手が幸せを奪っているから」という思考になり、“不幸の度合い”を相対的な規準で見ている訳です。でも、国家や社会という ものは全員の生活と心を救える訳ではない。そんな国や組織が今まで存在した例しはありません。「理想を抱くことがいけない」と言うつもりはありませんが、「1人残らず救え」とか「皆に平等な質と量の福祉を与えるべきだ」という考えは、制度としては正しいんですけど現実にはできない。これが私が政治家にならなかった理由です。それを知るのが人間の分別というものです。それに、「誰々よりも自分が不幸だから改善しろ」という不満の表明は、不満の矛先を間違えることになりかねません。「若者が年寄りより恵まれている」とか「年寄りが若者より恵まれている」というのは、別に相手が悪い訳ではない。不幸感とは相対的なものではなく、絶対的・個人的な感情ですから、それを生み出しているのが何か――つまり、自分の不幸や不満の原因から目を逸らしてはならないと思いますね。「分断して統治せよ」という言葉がありますが、老人と若者とか、金持ちと貧乏人とか、男と女とか、そうして集団の中でいがみ合うことに因って、誰かがほくそ笑んでいるということも歴史の真実ですから。

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それでも誰かのせいにして自分の不幸を主張できるのは、幸せな証拠なのでしょう。アフリカでは、誰かのせいにして自分の不幸を語ることはできません。停電で電力会社に文句を言ったところで何もしてくれません。予備の電源、更にその予備の電源を自分で準備したほうがいいんです。ダブルブッキングで航空機の座席が無いからといって、航空会社は別の席を用意してくれません。誰かが同じ座席の切符を持っていたとしても、先に自分が座っていていたら絶対に席を立ってはいけない(笑)。次に飛行機が飛ぶのは1週間後かもしれないのですから。そうした体験をしなくて済むことは喜ばしいことですが、そうした体験があるからこそ人は成長するという一面も忘れてはならないでしょう。だから不幸もまた、幸福と同様に“人生の財産”なのです。その不幸を誰かのせいにしている限り、財産にはなりません。勿論、昔から世代間の諍いというのはあったと思います。それでも昔は、年寄りが叱ると若者は口答えをして、或いは若者が偉そうなことを言うと年寄りがしかめっ面をして、互いに腹を立てる程度で終わりでした。今は「わからない奴は放っておけ」という大人気無い年寄りと、「ウゼェ!」ことに耐えられない若者のコンビネーションになったのでしょうか? ある意味、それも今の日本を象徴する“割と良い組み合わせ”かもしれませんよ。


キャプチャ  2015年5月22日号掲載


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