【安倍晋三・沈黙の仮面】(01) 2つの血脈の狭間に落ちた幼少時代

アメリカ議会で壇上に立った安倍晋三首相の顔には、「歴史に名を残した」という充足感が満ちていた。自民党史上初となる首相再登板を果たしてからの安倍首相は、時に党内からも“独裁者”との批判が上がる。数の論理を背景に集団的自衛権行使容認・憲法改正へと前のめりになるその姿は、60年安保締結を断行し、“昭和の妖怪”の異名をとった祖父の岸信介とも重なる。一方で、前回登板が敵前逃亡に終わったように、“ガラスのシンゾウ”“小心者”との月旦評も少なくない。40年超の政治記者人生を安倍家取材に費やしてきた政治ジャーナリストの野上忠興氏が、膨大な取材資料を元に人間・安倍晋三を形成したルーツに迫る。

ゴールデンウィーク初日の4月29日、首相・安倍晋三はアメリカ議会での演説をこう切り出した。「1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父・岸信介は、次のように述べて演説を始めました。『日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります』」。安倍はこの演説で、集団的自衛権の行使を認める新安全保障法制を「夏までに成就させます」と約束し、「この法整備に因って、自衛隊とアメリカ軍の協力関係は強化され、日米同盟はより一層堅固になります。それは地域の平和の為、確かな抑止力を齎すでしょう」と、日米同盟の強化を高らかに謳った。その姿は、半世紀前、東西冷戦の真っ只中で訪米した岸がアメリカ議会で“国際的共産主義”の台頭に警鐘を鳴らし、「日本は、自由世界の忠実な一員として、特に自由世界が国際共産主義の挑戦を受けているアジアにおいて、建設的な役割を果たし得るものであると私は堅く信じております」と語った姿と重なる。安倍の岸への思想的傾斜を最も象徴するのが、憲法改正への強い意思だ。筆者には、憲法改正への“前のめり”は岸からの“政治的遺托”とする受け止めに起因しているのでは――と映る。岸の言葉が例証になろうか。「私が復帰したのは、日本の立て直しにおいて憲法改正が如何に必要かということを痛感しておったからなんです。今の憲法は(アメリカが占領政策を行う為のナニであった。その辺の事情を国民に十分理解せしむるという役割は、総理が担わないといけない」(『岸信介証言録』原彬久・著)。この“祖父の悲願”は、幼い頃から岸に可愛がられて育った孫の安倍の心に深く刻まれていったようだ。

中学・高校・大学時代の同級生らは、異口同音に安倍を「目立たない存在だった」と証言する。が、「こと憲法絡みの話になると、人が変わったように激し、能弁になった」と話す。学友の1人は、憲法論を交わした時の安倍の激して捲し立てる言葉をはっきり覚えている。「今の憲法は、戦勝国が敗戦国に『戦勝国を見習え』って一方的に押しつけたものなんだ。そうは思わないか? 違うか? その象徴が憲法9条なんだよ。9条の言わんとすることは、『日本は全く軍備丸裸でいろ』ということじゃないか。近隣諸国の善意だけを頼りにして、この国を守れるのか? そんな夢みたいな話ってあるか?」。学友はその言葉に、「おじいちゃんへの思い入れを強く感じた」と話した。政治家になってからの安倍は“岸たらん”と欲し、今回のアメリカ議会演説も岸の演説内容を念頭に練り上げたと伝えられる。だが、20年の政治記者生活を含め延べ40年超、永田町をウォッチ・フォローしてきた筆者の目から見ると、 安倍と岸とは政治・外交的思想や、その手法で大きな違いがあるように思えてならない。例えば、政治手法だ。岸は“両岸”と呼ばれ、政治的に対立する勢力に太い人脈を作りながらバランスとコンセンサスを重視する老練な政治家であった。外交面でも、日米安保条約を改定して日米同盟を強固にする一方で、外交3原則に“アジア重視”を掲げ、首相として初めて東南アジア諸国やオセアニアを歴訪し、インドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結して国交回復を達成している。首相退陣後も岸は訪韓して、次の池田内閣の日韓国交正常化交渉を根回しした。憲法改正にしても、岸は改正の必要性を“国民に十分理解せしむる”ことが総理の役割だと強調している。対して、安倍は外交では中国・韓国とコトを構え、内政では「この道しかない」と一直線に推し進めようとする、数をバックとしたカジ取りが目立つ。岸とは好対照だ。

老練だった祖父と違い、“頑なさ”と“危うさ”が同居する安倍晋三。その安倍の政治家としての形成過程を俎上に乗せ、人間学的に解剖するには、特異な“血脈”と“生い立ち”を辿る必要がある。筆者は政治部記者時代、安倍の父・晋太郎の番記者を長く務めた。安倍の評伝を書くに当たっては、岸・安倍両家の親族や関係者・安倍の子供時代の友人・恩師・会社員時代の同僚や上司、そして古参秘書や後援者らに取材した。晋太郎番当時の取材メモを始め、膨大な証言録や資料を基に、「極右と呼ぶなら呼べばいい」と公言して憚らないタカ派政治家・安倍晋三の思想と行動のルーツを明らかにしていく。




Nobusuke Kishi 01
1960年。東京都渋谷区南平台にあった岸の邸宅には連日、日米安保条約改定に反対するデモ隊が押し寄せた。所謂『60年安保闘争』だ。その岸邸の中では、まだ5歳と幼かった安倍晋三と兄の寛信(当時7歳)がデモ隊の口真似をして、「アンポハンターイ! アンポハンターイ!」と繰り返すのを岸がニコニコしながら見ていた――安倍が政治の“原体験”としてよく語るエピソードである。だが、その背景に、甘えたい盛りの時期に両親が不在がちだったという家庭の事情があったこと、幼心に感じていた孤独が隠されていたことは殆ど語られていない。安倍は、毎日新聞政治部記者だった父・晋太郎と岸の長女・洋子の次男として、1954年9月に生まれた。2つ上の兄・寛信(現在は三菱商事パッケージング社長)が、父方の祖父・安倍寛と母方の祖父・岸信介から1字ずつ受け継いだのに対し、安倍は父の“晋”の字を貰ったものの、次男なのに晋“三”と名付けられた。母の洋子に「なぜ晋“三”なのか?」と聞いたことがある。「主人も私も女の子を欲しかったが、2人目も男の子だった。父(岸)は喜んでいましたが。名前の由来はよく聞かれますが、晋二より晋三のほうが字画が良いとか。主人も『字の据わりが良いから』と、始めから『晋三だ』と言いました」。安倍の誕生は、まさに岸が権力への階段を駆け上がっていった時期に重なる。開戦時の東条内閣の商工大臣を務めた岸は敗戦後、 A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された。不起訴となり公職追放が解除されると、1953年の総選挙で国政に復帰。晋三誕生の翌年(1955年)の保守合同による自由民主党結成で初代幹事長に。1956年に石橋内閣の外相、1957年には首相へと、瞬く間に頂上へ上り詰めた。安倍が2歳の頃だ。

岸のスピード出世に伴い、晋太郎は政治記者から総理秘書官に転身。そして1958年の総選挙に出馬するや、安倍家の状況は一変した。「普通の家庭の団欒は無かった。父親は全然家にいなかったから。父親がいたりすると、家の中がギクシャクしたほどだった」。安倍は筆者のインタビューにそう振り返ったことがある。総理秘書官の父は連日のように深夜に帰宅し、休日も仕事。母の洋子は夫の選挙の為に地元の下関に張り付き、東京の家には幼い安倍兄弟がポツンと残された。「友人宅で一家団欒の光景を見たりすると、『ああ、いいな』と思ったりした」と“普通の家庭”への憧れを語った安倍の言葉が改めて思い出される。両親に代わって安倍兄弟が成人するまで世話をしたのが、晋三の乳母兼養育係だった久保ウメ。岸・安倍両家に40年仕え、生涯独身を通したウメは、筆者の取材の中でこんな“安倍家の日常”を明かした。「安保の頃は晋ちゃんがまだ5歳、ママは地元だし、パパは仕事だから、昼間も私やお手伝いさんしかいない。『子供には危険だから』と安倍家は岸邸と別のところに住んでいて、晩御飯だけは南平台(岸邸)で食べると決まっていた。私が左手で代筆した夏休みの日記は、必ず『今日も、おじいちゃんの所でタ食を食べました』が書き出しだった」。ウメに因ると、安倍は幼稚園に通っていた頃、おんぶをよく強請る子だったという。「朝、お兄ちゃんの仕度ばかりやっていると、晋ちゃんが拗ねちゃって。拗ねるとテコでも動かない。幼稚園のカバンをかけてやって、バス停までおんぶしていった。あんなにおんぶが好きだったのは、やっぱり両親が不在がちだったからでしょう」。甘えたい盛りの安倍にとって、岸邸での祖父母との夕食や、時には庭で遊んでくれた祖父との触れ合いは、貴重な団欒だった。

であれば、安倍が“A級戦犯”“妖怪”呼ばわりされた岸を「おじいちゃんは絶対正しい」と信じ込んだとしても、「安保反対!」を叫ぶデモ隊が“祖父の敵”として幼心に刻まれたとしても、解せなくはない。安倍は当時の岸との会話をこう回想している。「『アンポってなあに?』と聞くと、『日本をアメリカに守ってもらう為の条約だよ。何で皆反対するのかわからない』――そんなやり取りをしたことを微かに覚えている」。両親不在は名門政治一族の宿命と言えばそれまでだが、その後も安倍の“両親への思慕”が満たされることは無かった。幼稚園長の経験があるウメは、安倍兄弟の宿題も見た。成蹊小学校に上がると、日記が宿題として義務付けられた。夏休みの最終日、兄弟の行動は対照的だった。兄は『宿題が終わっていない』と涙顔になった。だが、晋三は違った。『宿題みんな済んだね?』と聞くと、晋ちゃんは『うん、済んだ』と言う。寝た後に確かめると、ノートは真っ白。それでも、次の日は『行ってきまーす』と元気よく家を出ます。それが安倍晋三でした。大した度胸だった。でも、学校からは『あと1週間でノートを全部埋めてきなさい』と罰が出る。ノート1冊を理めるのは大変。私が代わりに左手で書いて、疲れるとママに代わった」。小学校高学年になると、安倍は大勢の友人を家に連れてくるようになる。特に“映画監督ごっこ”が好きだった。「座敷を1つ占領して、晋ちゃんが監督さん。手に本を持ってね、『そこで笑うんだよ。もっと大きな声で笑えよ』とか指図していた」。一方で夜になると、“温もりの無い家庭”に育った反動なのか、甘えっ子の晋三が顔を出した。「夜、晋ちゃんを起こしておしっこさせるでしょ。そして自分の部屋に寝かせる。私が用足しして戻ってくると、『こっちのほうが温かいや』って私の部屋の布団に潜り込んでくるの。それが中学生になっても続いた。『あんた、もう中学生でしょう?』って言ったものだった」

Nobusuke Kishi 03
求めながらも満たされぬ愛情は、父・晋太郎との関係に微妙な影を落とすようになっていく。安倍の岸への思想的傾斜を読み解く上で見落とせないのは、父との関係だ。安倍には、岸とは政治的系譜が真逆の父方の祖父・安倍寛がいる。岸が東条内閣で商工大臣を務めて、戦中から権力の中枢を歩いたのに対し、東条英機の戦争方針に反対し、戦時中の総選挙では“大政翼賛会非推薦”で当選した反骨の政治家として知られる。岸と寛には、もう1つ大きな違いがあった。岸が有名な『濾過器の哲学』(満州国に派遣されていた当時から岸が側近に教えていた「カネは濾過して使え」という教えから、数々の政治資金疑惑でその名を取り沙汰されながらも立件されなかった、岸の巧妙な資金調達術を指す)で数々の政治資金疑惑を乗り切ったのに対し、寛は“昭和の吉田松陰”と呼ばれるほど“潔癖な政治家”だった。「俺のオヤジは」と、嘗て晋太郎からこんな話を聞いた。「非推薦で当選した後、中央(大政翼賛会)から当時としては大金の3000円の電報為替が送られてきた。カネは全く無かったが、父は『非推薦なのに受け取れん。返してこい』と受け取らなかった」。安倍にとって筋を曲げない清廉な政治家だった祖父・寛は、岸に負けない誇るべき政治的血脈である筈だ。だが、その足跡や業績について殆ど語ることが無い。安倍家を長く支えた地元後援者の1人はこう語った。「確かに、晋三さんは岸さんの血を継いどるが、安倍家のおじいちゃんは寛さんで、戦時中に東条英機に反対して非推薦を貫いた偉い人じゃった。それを言いたいが、晋三さんと話をしても『岸、岸』と言うんでね」

寛は、安倍が生まれる以前に世を去っている。岸に対するような親近感を抱けない存在だったのだろう。とはいえ、血縁は無くとも郷土の英雄であれば高杉晋作の墓参りのパフォーマンスさえしてみせる安倍が、父方の祖父については敢えて語ろうとしないのは“偶々”ではあるまい。筆者は、安倍が父・晋太郎への反発から、“反軍部”だった父方の祖父・寛の足跡に目を瞑りながら、岸への傾斜を深めていった――と思えてならない。息子とは正反対に、晋太郎は岸の後ろ楯で政界での地歩を築きながらも、「岸総理の娘婿」と呼ばれることを極度に嫌った。「“アベカンの息子”と言われるほうが嬉しい」と語っていたほどだ。晋太郎は「外交はタカ、内政はハト」と語り、安全保障ではリベラルの立場を採った。安倍に欠けると指摘される懐の深さとバランス感覚があった。政治家に不可欠な資質とされる晋太郎の特性は、海軍滋賀航空隊予備学生時代に特攻隊に志願し、出撃前に終戦を迎えた経験に根差していた。「終戦が少しでもずれていたら、そのまま特攻出撃で命を落としていた。平和は尊いんだ。大切にしなくてはな」。晋太郎本人から聞いた、耳に残る言葉である。晋太郎は生まれて直ぐ両親の離婚で母と離別、終戦直後の22歳の時に父を亡くし、晋三と同様に“家庭の味”を知らなかった。その為か、子供たちへの愛情表現が苦手だった。

ウメが「パパが晋ちゃんを抱っこするのを殆ど見たことがない」と振り返れば、古参秘書も「晋太郎さんが子供たちの授業参観に出たという記憶が無い」と話している。安倍自身こう語った。「父は『滅多に怒らない温厚な人だった』と言われるが、実際は厳しさと激しさを持った“剛”の人だったと思う。家族への愛情表現も極端に不器用だった」。それでも、幼い安倍は、どの子供もそうであるように、何とか父を喜ばせようとした。ウメの回想だ。「幼稚園くらいの頃、晋ちゃんが飴玉を銜えながら、『ボク、パパのあとやるよ』って、政治家を継ぐって言い出した。『三つ子の魂百まで』と言いますが、幼心に『パパが一生懸命やっている。自分もいつかは…』と思ったんでしょう」。安倍が9歳の時、晋太郎が3期目の選挙で落選した。返り咲くまでの3年半、父は選挙区に張り付き、母も月の大半は家を空けた。両親の愛情が欲しい小学生の時期だった。バス遠足の歌合戦でマイクが回ってきた時、安倍は突然、同級生を驚かせる行動に出た。「ボク、安倍晋太郎の息子です。安倍晋太郎を宜しくお願いします」。しかし、父が子供たちと顔を合わせる機会は殆ど失せ、次第に父子の気持ちは擦れ違うようになる。「偶に晋太郎さんが家にいると、晋ちゃんたちは炬燵でびっくりして『わあ、今日はパパがいるよ』って。お化けじゃないけど、何かとてつもないものを見たような顔をしていた」と述懐するウメの言葉に、当時の安倍の心象風景を垣間見ることができよう。安倍兄弟に、父と対照的な愛情の注ぎ方をしたのが岸だった。「政治家を継ぐ」という安倍の言葉に目を細め、小学校の運動会もお忍びで応援に出向いている。「岸さんは、大きな運動場の一番遠い隅っこのほうでわからないように座って見ていた。それでも子供たちは、岸総理が来てると直ぐ伝わった」(小学校時代の恩師)

Nobusuke Kishi 02
安倍家に長く仕えた関係者に因ると、安倍の思いが父に通じていなかった訳ではない。「晋太郎さんは愛情表現は下手でしたが、長男の寛信君より晋三君のことが可愛かったのではないか。晋三君が『政治家を継ぐ』と言っていただけに、敢えて厳しく当たっていた」。洋子は「夫は子供たちの成績がどうとか、『通信簿を見せなさい』とか一切言わなかった」と話したが、それでも安倍が高校生になると、晋太郎は勉強を強いるようになった。「あまり勉強は好きではなかった」と言う安倍に対して、この頃に晋太郎が「東大に行け、東大に行け」と頭を分厚い漢和辞典で叩く光景を、関係者は目撃している。しかし、政治家への思いと名門家系の誇りに胸を膨らませ、一方では思うようにならぬ勉学に羞恥とルサンチマンを募らせていた多感な高校生にとって、東大卒で反骨の政治家と称えられた父を持つ晋太郎の“愛のムチ”は、素直に受け入れられる筈もなかった。古参秘書は、「2人の溝は益々広く深くなっていった」と話す。筆者は番記者時代、晋太郎が会合をハシゴして深夜帰宅する日々を見ている。「選挙に備え地元入りすることが多かった洋子夫人との夫婦関係も、問題を抱えていた時期があった」(関係者)との証言もあり、子供たちにもそうした空気は伝わっていた。当時、安倍家の関係者からこんな証言を聞いた。「反抗期というのか、晋三君が荒れていてね。成績も下がって、晋太郎さんも洋子夫人も酷く心配している」。成蹊大学政治学科に進んだ安倍は、真っ赤なアルファロメオで通学し、雀荘に入り浸るようになる。そしてついに、「政治家にはならない」と父に激しく反発したのである――。 《敬称略》


野上忠興(のがみ・ただおき) 政治ジャーナリスト。1940年、東京都生まれ。1964年に早稲田大学政治経済学部卒。共同通信社会部・横浜支局を経て、政治部。首相官邸・自民党福田派&安倍派を中心に取材し、自民党キャップ・政治部次長等を歴任。2000年に退社した後は政治ジャーナリストとして活躍。著書に『ドキュメント安倍晋三』(講談社)等。


キャプチャ  2015年5月22日号掲載


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テーマ : 安倍晋三
ジャンル : 政治・経済

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